128.遊女・美幾と志士・雲井龍雄の解剖:東京大学医学部解剖のはじまり

美幾の解剖(明治2年[1869]8月14日解剖)(特志解剖)

🌸美幾女之墓
念速寺(ねんそくじ):

場 所:東京都文京区白山2-9-12

🌲本郷駒込追分は、日本橋から川口、岩槻(いわつき)、幸手(さって)、栗橋、古河(こが)、小山、石橋、宇都宮、日光に至る日光御成道(岩槻街道)が、中山道に分岐する地点です。現在の東京大学農学部正門前の交差点がその場所です。

🌲本郷駒込追分というと、宝暦年間に創業したという高崎屋(酒屋)と一里塚のことを思い出しますが、この地に、販夫彦四郎を父とした美幾(みき)という名の娘が住んでいました。美幾は、遊女となり、のち黴毒院に入院して、不幸な人生を終えます。

🌲この美幾の生前の請願により、明治2年(1869)8月14日、和泉橋旧医学所跡(藤堂家)に設けられた仮小屋で、腑分けが行われました。この解剖が、特志解剖(献体)の第一号となり、東京大学医学部の解剖学教室の沿革の中にも記録されています。

「明治6,7年当時 和泉橋医学所・東京医学校(旧藤堂家屋敷跡)」出典:「東京帝国大学法医学教室五十三年史」(東京帝国大学医学部法医学教室 昭和18年)
📕『東京大学医学部百年史 各教室の沿革(基礎の部)』:「解剖学教室」 pp.1-19.

 

🌲美幾の解剖を素材として、渡辺淳一氏と吉村昭氏が、それぞれ小説を書いています。『白き旅立ち』(渡辺淳一著 新潮社 1975)、『梅の刺青』(吉村昭著)と題され、『梅の刺青』は、『島抜け』(新潮社 2000)のなかに収録されています。

🌲美幾の解剖を、『白き旅立ち』では、馴染み客の宇都宮鉱之進(三郎)と小石川養生所の医師である滝川長安への恋心の結果として捉えていますが、『梅の刺青』では、医者からの情理を尽くした説得によって行われた事実として捉えています。

🌲『白き旅立ち』は、渡辺淳一氏が、美幾のお墓を探しに、念速寺を訪ねる場面から始まり、最終章で、3月3日の雛祭の日に、再び、念速寺を訪ねて、住職の近藤秀賢氏と会話する場面で終わっています。

🌲小説のなかでは、美幾の病気を労咳(肺結核)として、小石川養生所に入院することにしていますが、墓碑銘に「患黴症属不治」とあるように、実際は、黴毒(梅毒)で、入院先も醫学校併設の黴毒院でした。

🌲美幾のことを、筆者の渡辺淳一氏は、順天堂大学の小川鼎三氏から「日本に於ける志願解剖の第一例が、吉原の遊女であった」と聞いたと書いています。

🌲また吉村昭氏も、順天堂大学で、小川鼎三教授のあと教授となった「酒井シヅ教授の教示を受けた」と、あとがきで述べておられます。

🌲小川鼎三(おがわ・ていぞう)(1901-1984)は、当時、順天堂大学の医史学教授であり、東京帝国大学医学部(のちの東京大学医学部)の解剖学教授(在任期間:昭和19年10月~昭和37年3月31日)も務めた方です。

🌲最終章での住職との会話のなかに、帝國大學醫科大學(のちの東京帝國大學医学部)の解剖学教授であった小金井良精(こがねい・よしきよ)(1859-1944)(在任期間:明治19年3月~大正10年12月27日)の名前もでてきます。

「東大の解剖学教室には、いまでもその願い書は残っていますが、その終りに張り紙があって、“宇都宮鉱之進トハ即チ宇都宮三郎ニシテ爾後工芸化学者トシテ斬道に功アリ、家富ミ栄エテ明治二十七頃死去サラル、而シテ本件ハ実行サラレザリシト云フ、大正七年四月五日、小金井良精記」

🌲小金井良精は、解剖学第二講座の初代の教授で、解剖学第一講座の初代教授は、染井霊園にお墓のある田口和美(たぐち・かずよし)(1839-1904)でした。解剖学第一・第二講座とも、明治26年(1893)9月7日付で開設されましたが、田口和美は、明治9年(1876)6月26日に東京医学校の五等教授に任じられており、美幾の解剖のときは学生の立場で、解剖の現場に立ち会い、実際に解剖もしていました。

♪『明治医事往来』(立川昭二著 新潮社 1986)の「解剖女人譜」のなかに、田口和美の回想として、次のように書かれています。

「・・・・・同月十四日和泉橋通旧医学所跡に設けたる仮小屋に於て、入院患者娼妓みき女の屍体を生前の請願に依りて、内臓より四肢の筋肉に至るまでを剖観しました。当代に於ける実地解剖の濫觴であります。けれども、此挙たるや所謂解臓と云ふべきもので、未だ次序逐節を追ひ、系統的に屍体を解剖したるものではありませんでした。」

🌲石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)(1845-1941)も、この解剖に立ち会ったときの記憶を📕『石黒忠悳懐舊九十年』(1936)の「刑屍の解剖材料(雲井龍雄)、新醫學の普及」(pp.142-143)のなかで、美幾のことを、一人の婦人として、次のように紹介しています。

「・・・・・私は再々司法の當局に懇談し、遂に刑死者の屍體を醫學校へ廻して解剖學の材料にする事に決定しました。之は私の發意で、解剖学の教授田口和美君との共同の努力で出来た事です。かくて最初に學校へ六つの屍體が迎えへられたが、其の一つは彼の有名な米澤藩の雲井龍雄の刑屍體でありました。何にせよ、明治初年には人體解剖といふ事は材料が乏しく困難をしました。勿論當節の様に生前から死後の解剖など遺言する人は絶無で、死者があっても親族が解剖などは諾きません。明治三年の春一人の婦人の希望者が現れました。是は病院の施療患者の婦人で自分の死後には、必ず解剖してくださいと遺言しましたが、其後一週間ばかりで死亡したから、之を解剖に付しました。其婦人の腕には、梅の折枝に短冊と、其の短冊に情人の名のある刺靑がありました。娼妓あがりだといふにも似ず、死後の公益にもといふ心掛けが殊勝であるから、私共も感じて特に法事をした事がありました。」

🌲この文中、明治三年とあるのは、明治二年の誤植と思われます。美幾の解剖は、明治2年(1869)8月14日から15日にわたって綿密に行われました。

🌲『白き旅立ち』には、美幾の右肩に彫られた刺青を、宇都宮鉱之進が、硝酸で灼き、情人の名前を消す場面がでてきます。『梅の刺青』のタイトルは、この腕に彫られた「梅の折枝に短冊の刺青」からとっています。

🌲宇都宮鉱之進(三郎、1834-1902、尾張藩出身)は、幕末から明治にかけて化学の基礎作り、化学研究の権威者として貢献した人物です。

📕小川鼎三:東京大学にて特志解剖のはじまりと宇都宮鉱之進のこと(「医事公論」第1658号 pp.52-55, 1957.)

♪『梅の刺青』は、この宇都宮鉱之進が、明治元年(1868)11月に医学所(大病院)に自身の献体の願い書を提出するところから、書き起こしています。最後は、東京大学医学部で解剖された人たちを慰霊する目的で、明治14年(1881)に建立された谷中墓地の千人塚で終わっています。

 

🌲宇都宮鉱之進(三郎)は、一度は献体を覚悟するのですが、その後、健康を回復して、化学技術者として活躍し、明治35年(1902)に67歳で死去、幸福寺(愛知県豊田市)に葬られています。

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谷中霊園掃苔録(Goole My Map)(堀江幸司作成)千人塚

📕千人塚:3基の墓石が並んで建っています。真ん中にある墓石が一番古い「千人塚」で明治3年(1870)から明治13年(1880)にかけて東京大学医学部解剖学教室で解剖された屍体を供養するために明治14年(1881)に建てられました。墓石の左側に当時解剖を担当した田口和美教授の碑文があります。

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(2)雲井龍雄の解剖(明治3年[1870]12月28日)(刑屍体)

🌲〔解剖体数歴年統計〕によると明治2年(1869)に美幾の入院患者病屍解剖からはじまった解剖は、明治15年(1882)で、1456体。そのうち入院患者病屍によるものが126体、梟首及斬罪屍によるものは427体。森鴎外が学生だった明治13年(1880)当時は、総解剖数137体で無籍人及囚徒病者による解剖が115体と多くを占めていました。

 

 

 

東京大学解剖体数歴年統計(明治2年ー明治15年)🌲

🌲刑屍体の解剖については、石黒直悳のほか長谷川泰も熱心に尽力して政府に建議(明治2年9月20日)、これが雲井龍雄の解剖につながることになります。

🌲明治2年(1869)10月より12月の間に刑屍体49体が解剖されたといいます。(東京医学会雑誌 「医学博士田口和美先生を慶弔する」18(4):p.1-6)

 

🌲『梅の刺青』では、東京大学医学部の初代解剖学教授となる田口和美による美幾と雲井龍雄(旧米澤藩士)の解剖の様子が丁寧に書かれています。当日の天候や、解剖台のつくり、そして、雲井龍雄の体格までもが描写されています。

美幾の解剖の場面

「医学校は、旧藤堂家の江戸屋敷地に設けられていたので、学校出入りの大工に命じてその敷地の一部に急いで仮小屋を建てさせた。・・・小屋の中に据える解剖台も作らせた。台には血液、臓液を滴り落す孔が数個うがたれ、遺体の首の部分に木枕に相応するものを設けた。・・・翌日は、夜明け前から細かい雨が降り、旧藤堂家屋敷の敷地に生い繁る樹木は緑の色が濃かった。涼しい朝であった。・・・執刀者は医学校生徒の田口和美で、メスを手にすると解剖台の左側に身を寄せた。・・・田口の顔に汗が浮び、かれはメスで鳩尾から臍の上一寸ばかりの箇所まで慎重に切り開き、胃、腸、肝臓、脾臓を観せた。」

雲井龍雄の解剖の場面

「解剖台にのせられた雲井の体がきわめて小柄であることに、見学者たちの顔に驚きの表情が浮んだ。・・・体は華奢で肌は白く、あたかも女体のようであった。解剖後、雲井の遺体は、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられた。」

 

🌲🌲病者および刑死者に対する解剖を許す公文書

(1)美幾の解剖(明治2年8月14日)

「病者ノ情願アレハ死後解剖ヲ許ス(明治二年八月)」

「病者ノ情願アレハ死後解剖ヲ許ス(明治二年八月)」

 

(2)雲井龍雄の解剖(明治3年[1870]12月28日)

「死刑者或いは獄中病死遺骸引受人なき者は解剖を許す(三年九月廿日)」

死刑者或いは獄中病死遺骸引受人なき者は解剖を許す(三年九月廿日)
死刑者或いは獄中病死遺骸引受人なき者は解剖を許す(三年九月廿日)

 

🌲雲井龍雄墓と墓碑(明治3年12月28日解剖)

雲井龍雄肖像

東 京:

明治3年[1870]12月28日 小塚原刑場隣の回向院に埋葬(雲井龍雄遺墳)

明治14年[1881]5月 谷中天王寺墓地に改葬し石碑を建てる(谷中霊園 甲2号4側)

この雲井龍雄の石碑(龍雄雲井君之墓表)が建てられた明治14年[1881]は、同じく谷中霊園に東京大学によって千人塚が建てられた年にあたります。このときの東京大学綜理は、池田謙斎でした。

米沢市:昭和5年(1930)常安寺に改葬

📕「奇傑雲井龍雄」
「龍雄雲井君之墓表」(隷額 鴻雪瓜(おおとり・せっそう)[東京] 撰文 人見寧(ひとみ・やすし)[静岡])

 

谷中霊園園内マップ

🌲幕末から明治維新の動乱のなか、病で命を落とす美幾、政治犯として梟首とされた雲井龍雄、死後、どちらも東京大学の解剖台に上がります。東京大学の解剖は、遊女の献体と志士の刑死体の解剖からはじまり、その後の系統解剖、病理解剖への道が開けることとなります。

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美幾女法要
令和7年(2025)8月12日 美幾女忌の法要が念速寺で執り行われています。

雲井龍雄銅像建立
令和5年(2023)には、雲井龍雄を顕彰する銅像(彫刻家・福島大学の新井浩教授)が常安寺境内に建てられています。

(平成19年10月9日 記)(令和8年1月4日 追記)

128.「相良知安先生記念碑」の碑文

「相良知安先生記念碑」の碑文

🌲この石碑は、昭和10年(1935)3月、東京大学医学部へのドイツ医学導入に功績のあった相良知安先生の功績を記念して、構内の不忍の池が見渡せる高台の一角に建てられたものです。

昭和63年(1988)に構内を取材した際にこの立派な石碑をみつけたのですが、当時は、石碑に接するように看護婦寮が建てられており、周辺は、あまり手入れがされていないようでした。

現在は、無縁坂に面する復元された鉄門を入って右手の広場の一角(入院棟前)に移築されています。

📗「日本の古本屋」で「故相良知安先生記念絵葉書」を見つけました。3枚構成で、相良知安先生の肖像、石碑の拓本、遺墨の3枚です。

 

相良知安先生記念碑碑文(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
相良知安先生肖像(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
相良知安先生遺墨(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

 

🌲拓本は、一枚の絵葉書となっているだけですので、原文が読みにくいのでテキスト化にしました。原文がカタカナのところは、ひらがなとして、漢字は新字体を用いたところもあります。旧字体のところは、ルビをつけたところもあります。

 

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「相良知安先生記念碑 」

枢密顧問官正二位勲ー等功三級子爵石黒忠悪題額

明治維新初政府に和蘭医学に代ふるに英吉利医学を以てし医学教育の面目を一新せんとす時に世上頻(しきり)に独逸医学の学内に傑出せるを説くものあり。

又来朝中の一外人も亦頗(すこぶ)る之を賛するあり。

茲(ここ)に於て廟議(びょうぎ)断然独逸医学を採用することに決し普魯西公使に嘱し医学教師を聘せんとす適普仏戦争起るに会し其事行はれす、明治四年に及ひて始めてドクトルミュルレル来朝するあり。

遂に其提案に拠り本邦医学教育方針の確立を見るに至れるか其
の制度は一に独逸に則(の)りたるものなり。

此間にありて斡旋尽力幾多の反対論を説服して政府の規画を達成せしめたるものを相良先生と為す。

先生は実に独逸医学を輸入したる恩人なり。先生名は知安弘庵と号す佐賀藩医なり。

明治二年一月召されて医学校御用掛を命せられ,医政に鞍掌(おうしょう)す尋(つい)て大学少丞に任せらる。

五年+月第一大学区医学校学長に遷(うつ)り翌年文部省築造局長に任し医務局長を兼,又先生の医務局長たるや建議して上野一帯の地に医学校及大学病院を新築し長橋を不忍池に架し,以て交通に便ならしめんとせり。

而かも一部の反対に遇うて果す能はす。先生乃ち政府に逼(せま)り其代償として本郷の旧加賀藩邸を得て以て医学建築地に充てんことを請ひ之を許さる。

九年に至り医学校及病院の新営始めて成る。是れ今日の帝国大学所在の地たり。

先生の文部に官する部下の累する所となりて奇禍を蒙れることあり。寃雪(えんせつ)かれて出仕すること両度に及へるも,皆久しからすして之を罷め遂に韜晦(とうかい)して復た出てす。

三十三年政府其前功を録し勲五等に叙し双光旭日章を賜ふ。

三十九年六月十四日病して歿す。享年七十ー特旨を以て正五位に叙せらる。

先生人と為り剛毅(ごうき)果敢甚た才幹あり。而かも狷介(けんかい)狐哨(こしょう)極めて自信に篤し,是を以て世と相容れす轗軻(かんか)其身を終ふ深く惜むへきなり。

先生の歿を距る萩に二十有余年後進の徒,先生の本邦医学制度創設の際に於ける功績の湮滅(いんめつ)に帰せんこと慮(おもんばり)相謀り,貲(し)を醸し石を帝国大学の庭中に樹を表彰せんとし文を予に徴す。

予不文敢て当らすと雖(いえど)も爰(ここ)に先生の事歴を略叙して以て後昆(こうこん)に諗くと爾か云ふ。

昭和十年三月 東京帝国大学名営教授正三位勲一等醫學博士
入澤達吉撰
野村保泉刻
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注)
廟議(びょうぎ):朝廷の評議
韜晦(とうかい):自分の才能・地位などを隠し、くらますこと。
剛毅(ごうき):意思が強固なこと
狷介(けんかい):自分の意志を固く守り、妥協を許さず、人と相いれないこと
狐哨(こしょう):言動が軽薄でずる賢いこと
湮滅(いんめつ):跡形もなく消えたり、消したりすること
後昆(こうこん):のちの人

 

(令和7年11月4日 記す)

 

126.「廃兵院」跡:豊島区立巣鴨公園

傷兵院(廃兵院)跡石碑

「傷兵院舊址」

護れ傷兵 忘るな武勲
陸軍大将男爵本庄繁書

場 所:豊島区北大塚1-12-10(東京都豊島区立巣鴨公園内)
周辺地図

北豊島郡巣鴨町・巣鴨村全図(明治44年)

🌲巣鴨地蔵通商店街入口にある真性寺(江戸六地蔵)横の道は、JR大塚駅方面への抜け道になっています。池袋に出るにも、この道が便利ですが、狭い道の対面交通ですので、車の運転には気をつけなければなりません。「巣鴨図書館入口」の交差点を過ぎると、次ぎの交差点が「巣鴨公園前」で、ここから大塚駅前の大通りまでが下りの坂道になります。

巣鴨公園前交差点

 

🌲巣鴨公園の辺りに、「廃兵院」がありました。公園の中に記念碑が建っています。

 

廃兵院記念碑(巣鴨公園内)

 

🌲「廃兵院」は、日露戦争(明治37-38年)の傷病者(廃兵)の救護のためにつくられた施設で、明治40年(1907)廃兵院法(明治39年4月法律第29号)に基づき東京予備病院渋谷分院の一画に設置され、明治41年(1908)巣鴨の宍戸子爵邸跡(松平播磨守・下屋敷跡 )に移されました。

 

「二百人収容のところ開設時の入院者は十二人。廃兵院の設立が知れ渡っていなかったこと、また地方の役人が入院者を出すのは不名誉であると隠したからだともいわれています。」

「図書室、温室、運動場、大弓場などがあり、希望に応じて学術、刺繍、裁縫、彫刻、焼き物などが習得できたそうです。」

🌲「廃兵院」の場所を調べるために、淳久堂書店に行って、明治44年(1911)に逓信協會が発行した『東京府北豊嶋郡巣鴨町巣鴨村』の地図を入手してきました。それによると、「廃兵院」の番地は巣鴨町大字巣鴨1267-1286, 1290となっていました。現在の巣鴨公園の辺り一帯からJR山手線の際(巣鴨警察署辺り)までが「廃兵院」の敷地となっており、相当の広さだったことがわかりました。

🌲「廃兵院」の園内には、芝山や池のほか楓などの大木があり鬱蒼としていて、春には桜が咲き乱れ、秋の紅葉は燃えるようであったといいます。いまの大塚駅付近の雑然とした繁華街からは想像もつかない風景が広がっていたようです。

廃兵院(松乃平)(絵葉書・堀江幸司所蔵)

 

🌲「廃兵院」は昭和9年(1934)「傷兵院」と改称され、11年(1936)神奈川県足柄下郡大窪村大字風祭(現在の小田原市風祭)に移転し、傷痍軍人国立箱根療養所となり、現在は、国立病院機構箱根病院となっています。

国立病院機構箱根病院:
〔平成16年(2004)、国立療養所箱根病院は、組織変更し、国立病院機構箱根病院となった。〕

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名称の変遷

明治40年(1907) 東京予備病院渋谷分院の一角に廃兵院設置(陸軍省)

明治41年(1908) 巣鴨に移転

大正12年(1923) 陸軍省から内務省に移管

昭和9年(1934) 廃兵院を傷兵院に改称

昭和11年(1936) 神奈川県足柄下郡大窪村大字風祭(現・小田原市風祭)に移転

昭和20年(1945) 国立箱根療養所と改称

昭和50年(1975) 国立療養所箱根病院と改称

平成16年(2004) 独立行政法人国立病院機構箱根病院の組織変更

 

(文 献)
1)『北豊島郡巣鴨町・巣鴨村全図(復刻東京市十五区・近傍34町村 27)』(人文社)

2)『としま区いちにっさんぽ(豊島区郷土すごろくガイド)』(豊島区親子読書連絡会 2002)

3)「巣鴨乃むかし」(第1集)(巣鴨の歴史を語り合う会編 平成元年5月発行)

(平成14年9月11日 記)(令和5年4月16日 追記)

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125.第1回官立医科大学附属図書館協議会;新潟医科大学:昭和2年11月10日

昭和のはじめ、官立医科大学には、新潟医科大学、岡山医科大学、千葉医科大学、金沢医科大学、長崎医科大学の5大学がありましたが、例年行われる官立医科大学の「事務協議会」では、図書館関係の議題は、後回しにされ、附属図書館から参加していた書記(司書)たちは歯がゆい思いをしていました。

そこで、この事務協議会とは別の「図書館事務打合会」を組織することが岡山医科大学の松田金十郎から提案され、新潟医科大学の清川陸男(きよかわ・むつお)*を中心とした「官立医科大学附属図書館協議会」が、それぞれの附属図書館長の協力を得て創立されることになります。現在の「日本医学図書館協会」の誕生です。

今年(2022年)は、「日本医学図書館協会」の創立95年にあたります。

*清川陸男(きよかわ・むつお)

清川陸男(新潟医科大学書記)(渡邊正亥先生提供)

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第1回官立医科大学附属図書館協議会は、昭和2年(1927)11月10日~11日の日程で新潟医科大学附属図書館で開催されることになります。医学雑誌の共同雑誌目録編纂や相互図書貸借などについて協議されています。

参加した司書(書記)には、当番館の新潟から清川陸男(きよかわ・むつお)渡邊正亥(わたなべ・まさい)の2名、岡山から松田金十郎、千葉から北村清、金沢から山本弥三吉、長崎から山口林一がいました。

館長には、新潟医科大学・宮路重嗣(衛生学)、岡山医科大学・生沼漕六(生理学)、千葉医科大学・福田得志(薬理学)、金沢医科大学・古畑種基(法医学)、長崎医科大学・緒方大象(生理学)の諸教授がいました。

会場:新潟医科大学

新潟医科大学本館(絵葉書)
出典:「日本医学図書館協会六十年略史」(「官立医科大学附属図書館協議会」の創立経緯)(堀江幸司)

 

新潟医科大学附属図書館(渡邊正亥先生提供)
新潟医科大学前庭より教室を望む(絵葉書)

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協議終了後、宮路重嗣館長の招宴が当時日本海側随一と言われたイタリア軒で開催され、その後、実務者ばかりの2次会が清川陸男を中心に料亭金子楼で開催されています。金子楼は、文藝春秋の菊池寛も遊びにきていた場所でした。

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懇親会:イタリア軒

参考:イタリア軒物語

イタリア軒(2代目)(大正期)(出典:「新潟のまち 明治・大正・昭和」(新潟日報事業社 1972))

創立当時のイタリア軒

https://goo.gl/maps/9AVzhBNpNYu5aQeU9

2次会:金子楼(料亭)

出典)新潟市地図羽越線全通記念博覧会)(越後佐渡デジタルライブラリー)

このときの懇親会のお座敷での写真は、わたしが習志野のお自宅を訪ねて渡邊正亥先生からお借りしたものですが、写真について渡邊先生は、次のように書かれています。

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習志野に渡邊正亥先生のご自宅を訪ねたときのスナップ写真

 

(令和4年[2022]11月10日 日本医学図書館協会創立95年)

124.長崎行き:史跡「長崎醫科大学・正門門柱」(絵葉書)と「「医学伝習所趾」の石碑」

(1) 「長崎醫科大学・正門門柱」

場所:長崎県長崎市坂本1丁目10-20


♪今年(2007)の第24回医学情報サービス研究大会は、8月25日(土)~26日(日)の2日間、長崎市の活水女子大学4号館で開催されるそうです。その案内をいただき、「長崎医学史巡り」が、研究会の合間にオプションとして企画されることを知りました。

♪案内役は、唐通事東海氏の子孫である東海安興氏とありました。東海さんとは、昭和62年(1987)6月6日(土)~7日(日)の2日間にわたって岡山県倉敷(川崎医科大学現代医学教育博物館)で開催された第4回の研究大会を抜け出して、長崎に行った折に、長崎大学附属図書館医学分館でお会いしたことがありました。懐かしくなりました。

♪古いアルバムを出してみました。長崎大学附属図書館医学分館をお訪ねしたときの写真が残っていました。東海安興さんや末田博さんなどが、快く迎えてくださった記憶が甦ってきます。ちょうど、20年前のことです。

長崎大学附属図書館医学分館(1987年6月8日)
長崎大学附属図書館医学分館(1987年6月8日)

長崎大学附属図書館医学分館の皆さん:右から二番目が東海安興氏(1987年6月8日撮影 堀江幸司)

♪現在、東海さんは、長崎市の「さるく観光 」のガイドをされておられるそうです。

♪このとき長崎に行ったのは、長崎から急行で39分かかる大村市にある長與専齋の生誕地を取材するためでした。長崎市は、通過地点でしたが、やはり、長崎に行ったら、長崎大学附属図書館医学分館、鳴滝塾(シーボルト宅跡)、小島養生所・精得館跡、医学伝習所跡などの医史跡は、可能な限り確認したいと思っていました。

鳴滝塾跡・シーボルト像(1987年6月10日 撮影)

鳴滝塾跡:シーボルト記念館

♪長崎大学医学部に伺ったのは、6月8日(月)のことで、その日は、朝から雨がしとしとと降り、タクシーで向かいました。その途中で、昭和20年(1945)8月9日の原爆投下で、片足になったまま立っているという片足鳥居を見た記憶があります。

♪長崎大学医学部は、もと長崎醫科大学といいましたが、現在の日本医学図書館協会(昭和2年・1927)の創立メンバー(新潟・岡山・金沢・長崎)である官立医科大学のひとつでした。その長崎醫科大学の正門の門柱が、原爆の投下で傾いたまま、残されていたのです。この門柱を見たときの興奮は、いまだに、忘れることができません。

昭和11年当時の長崎医科大学正門(絵葉書)(令和4年10月入手)

♪この長崎醫科大学の門柱の横は、なだらかな階段になっていました。門柱の横には、プレートがはめ込んであり、次のように書かれていました。

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一九四五年昭和二十年八月九日よく晴れし日の午前十一時二分世界第二発目の原子爆弾により一瞬にしてわが師わが友八百五十有餘名が死に果てし長崎医科大学の正門門柱にして被爆当時の儘の状態を生々しく此処に見る。

一九五五年 昭和三十年八月九日
誌 之

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♪今年も、また、尊い医学生らの命を奪った原爆投下の8月9日が、近づいています。

(平成19年7月28日記)(令和4年10月10日 追記)

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「医学伝習所趾」の石碑

場所:長崎市万才町:長崎グランドホテル前

♪今年、平成19年(2007)は、長崎大学医学部の創立150年の節目の年にあたります。安政4年(1857)11月12日にオランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォルト(Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)により長崎奉行所西役所医学伝習所がはじめられ、この日が、現在の長崎大学医学部の創立記念日となっています。創立150周年として、いろいろな、記念行事・事業が企画されているようです。

♪ポンペは、日本政府が雇った最初の外人教師で、文久元年(1861)年、小島に養生所と医学所(現在の長崎市立佐古小学校構内*)(長崎県長崎市西小島1丁目7番1号)を設立することになり、この養生所は日本で最初の洋式病院で、のち慶應元年(1865)、長崎奉行により精得館と改称されます。

*長崎市立佐古小学校は、平成28年仁田小学校と統合され長崎市立仁田佐古小学校(長崎県長崎市西小島1丁目7番25号)となっています。

長崎小島養生所跡資料館:仁田佐古小学校の新校舎建築に合わせて、体育館横に、令和2年(2020)4月6日に開館されています。

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♪ポンペは、幕府医官の松本良順(佐藤泰然の二男)をはじめ、佐藤尚中(しょうちゅう)(佐藤泰然の養子)、司馬凌海(りょうかい)などに洋式医学を伝習し、その後、長與専齋、緒方惟準(これよし)(緒方洪庵の二男)がポンペの教えを受けることになります。

♪この医学伝習所は、現在の長崎県庁所在地に位置しており、20年前に長崎を訪ねたとき、事前の調査で県庁周辺にあるはずの「医学伝習所趾」の石碑を探しました。

♪長崎は、日本最初のキリシタン大名になった大村純忠(すみただ)(第18代領主)が、元亀2年(1571)に開港し、長崎県の最古の町である外浦町を開きました。外浦町は、昭和38年(1963)の町制変更により、万才町と江戸町となり、農林中央金庫長崎支店前に「旧外浦町由来」の石碑がありました。

♪県庁の裏手が出島です。県庁の前庭に「イエズス会本部・奉行所西役所・海軍伝習所」の石碑はあるのですが、肝心な「医学伝習所趾」の石碑は、いくら探し回っても、見つかりません。それが、長崎大学附属図書館医学分館の貴重図書室(史料室)を案内していただいて、なぜ、県庁付近にないのか。その理由がわかりました。

 

出島神学校跡(出島資料館本館)

 

出島周辺

 

出島資料館

旧出島神学校跡(出島資料館本館

海軍伝習所跡石碑

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♪貴重図書室では、「出島オランダ商館模型 設計石原明 日本医史学会寄贈 1960」、「松本良順・長與専齋遺墨」、「小島養生所(1861.8.6落成 9.6開院) ポンペ滞日五年 下絵」、「Bauduin肖像写真」など貴重な史料を見せていただきました。

♪貴重図書室内を一巡していて、「医学伝習所趾」の石碑が、部屋の片隅に置かれているのに気がつきました。県庁前で探し回った、目当ての石碑でした。まさに、目に飛び込んできたという感じでした。

♪お話によると、「県庁前で石碑が、車にぶつけられて折れたので、それを修繕してここに保存している」とのことでした。さすがに、古いものを大切にする長崎大学だと感心せずには、いられませんでした。

♪今回、調べてみると、貴重図書室の史料は、電子化され「医学は長崎から」(長崎大学電子化コレクション)となっていることが分かりました。シーボルトの『日本植物誌』もデジタル化されています。それも、ただ、デジタル化するのではなく、画面展開が、利用者が見やすいように工夫されています。一部の史料は、FLASHプレイヤーを使って、画面を横スクロールさせて、ページを移動させるようにしてあります。

♪貴重図書室に保管されている石碑に変わって、長崎グランドホテル前に「医学伝習所跡」の新しい石碑が建てられているようです。古いものを大切に扱い、新しいことがわかる長崎を、また、いつか、是非、訪ねたいと思っています。

 

(平成19年7月29日記)(令和4年10月9日 写真追加)

123.染井の書棚:長與衛生文庫(3)

 

(3)専斎の生誕地肥前・大村を訪ねて

VI.『松香私志』の発刊
VII.「長與衛生文庫」の利用と蔵書
VIII.専斎の生誕地―肥前・大村
IX.おわりに

(医学図書館 35(1):41-58,1988.)

 

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120.染井の書棚:長與衛生文庫(1)

 

♪明治30年代、医学生や開業医に勉学の場を与えるための「医学文庫」(書籍館)が発起されています。全国各地にあった衛生会(医師会)が中心となって設立されました。

♪この医学文庫には「日本医学図書館」(東京・明治30年)、「長與衛生文庫」(東京・明治31年)、京都医学図書館(京都・明治31年)、大阪医学図書館(大阪・明治32年)、広島医学図書館(広島・明治33年)などがありました。市井に開かれた医学図書館でした。

 

♪「長與衛生文庫」は、長與専斎(1893‐1902)の還暦にあたり、個人の功績を顕彰するために設立された医学文庫ですが、明治期の医学図書館の発生を知る上でも大切なものです。

長與専斎(1838ー1902)

♪また明治期の医学図書館設立の流れには、各地の官立医科大学に設けられた文庫もみておく必要があります。東京大学医学部図書館、成医会文庫(慈恵)、長尾文庫(千葉)などです。

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♪「長與衛生文庫」と題する記事を3回にわたって「医学図書館」誌に発表しました。1986年のことです。松田明子さん(養育院老人学情報センター)、平川裕子さん(千葉県立中央図書館)に取材・調査の協力をえて纏めることができました。3人で長與専斎の孫にあたられる平山次郎先生を四谷の胃腸病院(現・平山胃腸クリニック)(平成28年 四谷より大京町に移転)にお訪ねしたのも思い出深い記憶となっています。

胃腸病院(四谷)の長與稱吉胸像前で(左が平川裕子さん、右が松田明子さん) 長與稱吉は専斎の長男
平山次郎先生(長與専斎の孫)(胃腸病院院長室にて)

♪わたしの医史学散歩としては、もっとも遠地の長崎県大村市に専斎旧宅(松香館)(国立長崎中央病院 [現・長崎医療センター]敷地内)や古田山疱瘡所跡など、資料や史跡をみてまわりました。

 

♪まだ若かったからできたことですが、とくに長崎大学附属図書館医学分館では大変お世話になり、歓待してくださったことに、今更ながら感謝しております。医史学に興味を持っているというので、年配の人がくると思っていたようですが、若輩にもかかわらす、ご案内いただきました。

長崎大学図書館医学分館の方々

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「長與衛生文庫」の連載内容は以下の通りです。3回にわけてアップいたします。

(1)設立主旨の発表から開庫までの経緯

I. はじめに
II. 長與専斎と大日本私立衛生
III. 「長與衛生文庫」設立趣旨の発表
IV. 開庫までの経緯

(医学図書館 33(2):164-176,1986.)

 

(2)開庫とその活動

V.「長與衛生文庫」の開庫
V-1.宗十郎町時代(京橋区宗十郎町6番地)
V-2.大手町時代(麹町區大手町一丁目)

(医学図書館 34(1):46-61,1987.)

 

(3)専斎の生誕地肥前・大村を訪ねて

VI.『松香私志』の発刊
VII.「長與衛生文庫」の利用と蔵書
VIII.専斎の生誕地―肥前・大村
IX.おわりに

(医学図書館 35(1):41-58,1988.)

 

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(以下、次回につづく)

(令和4年7月16日)

119.染井の書棚より:遠野行き(柳田國男と井上通泰)

医学図書館 1993;40(1):118-121.

 

🌲遠野へ行ったのは、平成4年(1992)8月3日のことでした。夏休みを利用して、東北地方の宮古・盛岡へ行く途中、『遠野物語』で有名な遠野で一泊することにしました。遠野は南部藩の宿場町、城下町でした。民話の故郷でもあります。

🌲車で民話の里を目指しました。東北自動車道の北上江釣子インターチェンジをおり、国道107号の山道を三陸海岸に向かって、だだひたすら下りました。途中の山道を抜けると青く澄んだ田瀬湖が見え、遠方には早池峰山、「遠野物語」の世界に導かれ、山神様の風を感じました。

🌲遠野へ行くまでは、気がつかなかったのですが、『遠野物語』を書いた柳田国男の次兄が,眼科医で、歌人・国文学者としても有名な井上通泰(みちやす)であることを知り、このエッセイにまとめました。

長兄:松岡 鼎(1860-1934)(医師)

次兄:井上通泰(1866-1941)(眼科医・歌人)

柳田国男(1875-1962)

次弟:松岡静雄(1878-1937)(軍人)

末弟:松岡映丘(本名輝夫)(1881-1938)(日本画家)(東京美術学校教授)

 

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「遠野物語」で有名な柳田國男(民俗学)の先祖、松岡佐仲は字儀輔、本名勇と言い、京都に苦学し、吉益南涯(1750-1813)(吉益東洞<1702-1773>の長男)に古方医学を学んだ人物です。

柳田國男の次兄は、眼科医で有名な井上通泰(みちやす)(1866-1941)で弟には、画家の松岡映丘(えいきゅう)がいました。

松岡家は代々、医家の家系で、母(たけ)の実家尾柴家も医者を業とした旧家でした。

長兄:松岡 鼎(1860-1934)(医師)

次兄:井上通泰(1866-1941)(眼科医・歌人)

柳田国男(1875-1962)

次弟:松岡静雄(1878-1937)(軍人)

末弟:松岡映丘(本名輝夫)(1881-1938)(日本画家)(東京美術学校教授)

 

 

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遠野市(Google earth )

千葉家曲がり家

とおの物語の館

 

 

千葉家曲がり家

 

 

 

(令和4年6月9日 記す)