・ 徳川慶喜(けいき)注)の大政奉還により,幕臣であった医家・洋学者たちも,それぞれの行き先を決めることになります。
・ 柳川春三(やながわ・しゅんさん)(1832-1870),川本幸民(かわもと・こうみん(1810-1871),箕作麟祥(みつくり・りんしょう)(1846-1897)は,新政府に移り,福沢諭吉(1835-1901)は,自ら芝新銭座に英学塾(慶應義塾のはじまり)を開き,杉田玄端(1813-1895),林洞どう海かい(1813-1895)は,駿河に移住することを決めます。(『宇野朗覚書 』(以下,『覚書』)
『覚書』
番書取調所に出仕の洋學者及洋医家の諸氏柳川春三,川本幸民,箕作鱗祥等は朝廷の召に應じ福澤諭吉は徳川氏に致仕し朝廷の召を辞し芝新銭座に英學塾を開き子弟の薫陶に従事せり(之を慶應義塾の濫觴とす)
又杉田,林(洞海後楳仙)其他に医家は大概駿河に移住の事となりたり 是に於て杉田家は住宅及倉庫を分解して駿州沼津に向け海路運搬せしめて土地は棄賣同様に賣却し明治元年十月二十一日両國山伏井戸の住地を引佛い二十三日三島を経て沼津に着し本町旅舎□屋に宿せり。塾中随行せしは神戸文哉と予とす。予は即日別辞して三島駅傳馬坊父上の許に帰たり。又杉田先生は一旦静岡政廰に出頭し居住地の指揮を仰ぎ沼津に住居することに決しより先に積送せる家屋材料を以て八幡町柳下知之所有地に再築し竣工の報に接したれば十一月十五日訪問し再塾を謝して辞去す。予は英書自習の傍初学の人に素読を授け又日々神戸氏と沼津病院に出頭し医書化学書等の聴講,患者の診療補助或は外科的手術の傍観等をなしたり。當時医師にて重要の地位にありしは,杉田玄端,林梅仙(洞海),篠原直路,三浦文卿等の諸氏又化学担任は桂川甫策氏とす。篠原氏は後大阪医学校の招聘に応じ沼津病院を退き神戸氏も同氏に随行して杉田家を去れり。
山伏井戸を出立:明治元年(1868)10月21日
『日本橋北内神田両國濱町明細絵圖』(部分)
・ 杉田玄端は,明治元年(1868)10月21日,早朝,山伏井戸を家族とともに出立,三島を経由して沼津に向かうことになります。塾生中,随行したのは,宇野朗らと神戸文哉の二人でした。
・ この杉田家の山伏井戸からの旅立ちの様子は,杉田玄端の五男・盛さかりが著した『杉田盛氏六十年回想記』(以下,『回想記』)にも,記されています。
(この『回想記』は,樋口雄彦氏(前・沼津市明治史料館,現・国立歴史民俗博物館準教授)が、私が執筆中の「江戸東京医史学散歩」をご覧になり、直接、宇野彰男氏に連絡されて翻刻1)されたものです。)
・ 『想記』によると,盛は,沼津へ父母,そして,兄の武[次男],雄いさお[四男]の家族と向かっています。このとき,杉田分家,廉卿(成卿の養子)は,江戸に残って,小濵藩酒井家の家臣としての勤めをはたすことになりました。分家、二代目の成卿は,箕作阮甫とともに天文方附蘭書翻譯御用手傳出役と蕃書取調出役教授となった人物2)で,榊綽ゆたかの師でもありました。
・ 塾生中,随行したのは『覚書』では,宇野朗と神戸文哉の二人としていますが,『回想記』には,宇野朗と神戸文哉のほかに小山内建が同行したとあります。
・ 神戸文哉(かんべ・ぶんさい)(1848-1899)3)4)5)は,信濃小諸藩の家臣(長野縣士族)で,のち京都療病院・仮癲狂院てんきょういん6)の医員となり,明治9年(1876)に,「精神病約説」(上中下 三巻 癲狂院蔵版)(翻訳本),明治11年(1878)に,「養生訓蒙」(京都療病院蔵版)を著しています。また,「西醫雑報」(京都療病院)(明治9年[1876]),「療病院雑誌」(京都療病院)(明治13[1880]年3月発行月刊)を編輯したのも,神戸文哉でした。
・ 明治12年(1879)4月16日(京都療病院医学校創立日)に京都療病院内(上京區第十二組梶井町四六五番地)に医学予科校および医学校が設置されたときの職員表によると,神戸文哉(編輯係),木下凞ひろむ(当直医),山田文友(通訳兼当直医)の名前があります。ここで,神戸文哉と木下凞ひろむが繋がりました。
神戸文哉(1848-1899)4)
・ 杉田家の同行者のなかには,出入りの大工や棟梁もいました。この人たちも,道中は両刀をさして侍に仮装し,警護の任にあたりました。沼津に到着後は,本来の棟梁や大工にもどって,先に海路(船廻し)で運搬しておいた山伏井戸の家屋材料を,組み立て杉田家の建物を沼津で再築することになります。家屋の部材まで運ぶなど,沼津に定住することを覚悟しての旅支度でした。
・ 杉田玄端の一行は,東海道を宇野朗の生家のある三島を経由して沼津へと向かいますが,官軍の一行とぶつかり,箱根越えを前に,小田原宿での滞在(3日間)を余儀無くされます。そのことを,『回想記』に,盛は,次のように書いています。
『回想記』
途中,小田原宿では,官軍の行軍にあい,箱根越えができず3日間滞在,箱根は,駕篭が不足して,「母も女中も歩行し,余[盛]は小兄雄と父[玄端]の駕篭に同乗して有名の関所の手形あらためも睡眠して知らずに三島駅に着た。其夜の十時頃父母達はやっと旅宿に着き途中峠では既に雪がふり道路がすべって非常に苦労した
三島街道:芦の湖の景観(戦前の絵葉書)箱根旧街道十二丁(石畳)
🌲三島街道・旧箱根街道・十二丁(石畳)
三島から箱根山を登って小田原へと出る。箱根八里の山道(石畳)
Google earth(箱根十二丁)
🌲🌲
・ 『覚書』による宇野朗が,三島に到着したのは,23日となっています。山伏井戸を発って3日後のことです。宇野朗や神戸文哉など随行した塾生は,旅の宰領さいりょうとして,杉田家一行より一歩早く,次の宿に先着して,宿の手配や馬の準備などを取り締まっていましたので,三島にも,23日には到着していたものと思われます。
山伏井戸(両國・濱町)――>小田原宿―――>箱根宿(箱根峠)―――>三島宿―――>沼津(八幡町)
・ 杉田家は,沼津の八幡町(八幡前)の柳下知之(三島・医師)の土地に家を再築しました。杉田家の江戸での建物が沼津に移築されたことになります。
沼津千本濱の富士(戦前の絵葉書)
・ 八幡町での生活を盛は『回想記』のなかで,次のように回想しています。
『回想記』
沼津の家は八幡町に在た。隣地は八幡神社の境内で大木が繁茂して居た。周圍は皆農家であった。随て余の遊び仲間否いたづら仲間は多くは農家の子弟であった。為に日常の遊戯も野人の夫れであった。虫採,蝉狩,筍子掘り,木のぼり,などで今日考へると随分野蛮のものであった。蛇などは平気で手づかまえにし蜂の子を捕て食ひ,榎木の実,山いちご,桑の実,桜ぼうなどは常食であった。小兄の雄は遂に赤痢に罹ったが母の心づくしの看病で幸に全治した。余の少年時代は頗る無病健康のいたずら子で,養母にも実母にも毎度警告された事と記憶して居る。
・ 宇野朗は,父・陶民(とうみん)の許しをうけ,沼津の杉田塾に再塾をはたします。沼津病院での新らたな修業生活がはじまりました。沼津病院には,杉田玄端のほかに,林梅仙(洞海)7),篠原直路,三浦文卿,桂川甫策(化学担当)などがいて,医学書の講読を受け,診療補助・外科手術の見学なども行いました。しかし,沼津で勉強すればするほど,朗は,東京で英学の勉学の機会を持ちたい,との思いをつのらせることになります。
・ 明治元年(1868),宇野朗(1850-1928)18歳,杉田武(1852-1920)16 歳,神戸文哉(1848-1899)20 歳,榊俶(1857-1897) 11歳,榊順次郎(1859-1939)9歳。沼津病院,沼津兵学校附属小学校での,それぞれの出会いとなりました。
・ このとき,木下凞(ひろむ)8)9)(1844-1914)は24歳,藩命により長崎で修業していた時期にあたります。木下凞(ひろむ)が横濱に出て山田文友とともにシモンズに学んだのが明治4年(1971),早矢仕有的10)11)の塾(靜々舎診療所)で杉田武と共に学ぶことになるのは,明治5年(1972)になってのことです。
宇野 朗ほがら 沼津病院→ 大學東校・南校・東校 → (帝國大學醫科大學第一醫院・外科学,繃帯学・皮膚病及黴毒學担当)(皮膚病黴毒科講座初代教授)→樂山堂病院長
杉田 武 沼津→ 横濱(靜々舎診療所) → 大學東校・ニューヨーク大學留学 →慶應義塾医学所教授
榊 俶(はじめ) 沼津兵学校附属小学校→ 大學東校 → 帝國大學醫科大學教授(精神病学講座初代教授)
榊順次郎 沼津兵学校附属小学校 → 大學東校 → 榊病院長(産婦人科)
神戸文哉 沼津病院→ 大阪醫学校→東校へ転学→京都療病院→大阪府立醫學校副長兼教授
木下凞(ひろむ) → 横濱 (靜々舎診療所)→ 京都療病院→京都駆黴院初代院長
◇
・ 宇野朗は,慶應3年(1867)9月から翌慶應4年(1868)10月までの約1年間,高砂町(小林塾)と山伏井戸(杉田塾)の日本橋・濱町界隈で過ごしました。濱町川に架かっていた小川橋や高砂橋を渡って,勉学に励んでいたのでしょうか。その頃の江戸の風景を想像してみます。濱町界隈には,江戸湾からの風が磯の香りを運び,大川の川面には,光が溢れ,土手には花々が咲き,蝶が舞う。そんな自然豊かな姿が想像されます。
注) 慶喜の呼び方と読み方:『徳川慶喜家の子ども部屋』(榊原喜佐子著 草思社 1997)によると,徳川邸内では,「ケイキ様」と呼んでいたそうです。また,『開橋記念 日本橋志』(東京印刷編輯・発行)の巻頭・目次にある「徳川慶喜公書日本橋」のルビには「とくがは けいき こうしょ にほんばし」とあります。
参 考 文 献
1) 樋口雄彦:杉田盛の六十年回想記.「静岡県近代史研究 」第31号,pp.108-122, 2006.
2) 『箕作阮甫』 呉秀三著.思文閣,1971.(復刻版)
3) 「京都府立醫科大學八十年史」(京都府立醫科大學 昭和30年)pp.173-174.
4) 平沢 一:我が国最初の西洋精神医学書「精神病約説」とその訳者神戸文哉.「精神医学」6(7) : 548-555, 1964.
5) [雑報記事]故神戸文哉君略歴.「大阪興医雑誌」107号, 78-80, 1899.
6) 小野尚香:京都府立「癲狂院」の設立とその経緯.日本医史学雑誌,39(4) : 477-499, 1993.
7) 樋口雄彦:静岡藩の医療と医学教育 林洞海「慶応戊辰駿行日記」の紹介を兼ねて.「国立歴史民俗博物館研究報告」第153号, pp.445-489,2009.
8) 木下凞(ひろむ):木下凞翁懐舊談.「京都醫事衛生誌」,第163号,pp.27-30, 1907.
9) 木下凞(ひろむ):木下凞翁懐舊談(承前).「京都醫事衛生誌」,第164号,pp.32-35, 1907.
10) 丸善社史資料 15(早矢仕有的年譜 (7)):「學鐙」100(7) : 36-37, 2003.
11) 丸善社史資料 16(早矢仕有的年譜 (8)):「學鐙」100(8) : 34-35, 2003.
(平成23年2月23日 記す)(令和4年4月2日 追記)