99.『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)(1)

🌲『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)を入手しましたので、デジタル化して紹介します。(2回にわけて掲載します)

場 所:東京市渋谷區宮代町一番地(現・東京都渋谷区広尾4丁目)

略 歴

🌲明治19年(1886)11月麹町區飯田町に当院の前身の博愛社病院創立、翌明治20年(1887)5月、日本赤十字社病院と改称。

🌲昭和16年(1941) 日本赤十字社中央病院と改称

🌲昭和47年(1972) 日本赤十字社産院を統合して、日本赤十字社医療センターとなる

参考:日本赤十字看護大学校歌・貞明皇后御歌「四方のくに」

(次回へ続く)

(令和2年(2020)8月5日 記す)

98. 三上参次:我が住へる番地の歴史

千駄木林町:「東叡山御林」

場所:現在の団子坂上から動坂上に繋がる道(保健所通り)と駒込大観音通りに挟まれた本郷台地上の区域。谷をこえて田端、道灌山、不忍池、遠くには品川湊がみえたような自然豊かな、空気清らかな土地。周囲には、寺院も多く、畑ではお茶なども作られたことがあったようです。

間江戸大絵図(明和9年(1772))(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

(1)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲今は亡き父君に従ひて、我が居を駒込千駄木林町の片ほとりにトせしより、早や二十年を過ぎたり。

🌲一夢茫々、隙行く駒の足のいと疾きを覚ゆれども、顧みれば、二十年は二タ昔の事なれば、その間の林町の変化は、実に驚かるるなり。

🌲我がはじめてここに住ひし頃は、げに林町と名に負へるに背かず、樹木生ひ茂り、空気清く、桃紅李白の眺めもまた、ここかしこにありて、閑静なる境なりき。

🌲日毎に我が大学に通ふに、門を出でて二町ばかり、途すがらに太田の原といふがあり。

🌲千駄木町の五十番地といへるにてもとは懸川の城主太田氏の下邸なりき。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
分間江戸大絵図(明和9年(1772))

(注)千駄木町50番地:現在の光源寺(駒込大観音)前の駒込学園前交差点を日本医科大学病院方面に向かって、「日医大つつじ通り」に抜ける道の両側一帯

駒込大観音


(注)太田氏:太田摂津守

 周辺地図:(旧千駄木50番地附近)

🌲さすがに江戸の開祖たる人の後とて、邸地いと広く、十年許りの前までは、雑木茂り、青草の氈を敷き詰めたる如き原にて、朝夕の往来にここにさしかかれば、自から、心舒び気爽かなるを覚ゆるばかりなりき。


(注)舒(じょ):舒暢(じょちょう):こころがのびのびする。楽しくなる。

🌲されば、過ぐる日清戦役の折には、この原に、幾棟の厩舎建て連ねられて、馬匹の徴発せられたるもの幾百頭、ここに繋がれて、之を扱ふ兵士の操練なども、行はれたるほどなりき。

🌲さるに、いつしか人家稠密の巷となりて、今は殆んど立錐の余地だになく、土地人の、尚、太田の原と呼ぶのみぞ、可笑しきながら、尚、昔忍ばるる心地す。
(注)稠密(ちゅうみつ):多く集まる。こみ合う。

🌲芝、麻布、青山さては本所、深川などの場末と同じように、この窮北の地も次第に開かれて、都会は何処まで膨張するにやと打ち驚かれ、滄桑の変といふもかくやと思はるる事多し。
(注)滄桑の変(そうそうのへん):滄海(あおうなばら)が変じて桑畑(くわばたけ)となる意。世の中の移り変わりの激しいこと。

🌲都市のみかく急速に発達するは、如何なる現象ぞや、国民思想は健全なりや、否やとまでも疑うはるるなり。

🌲我が茅屋も、昨年は、火災保険の契約を締ぶべき必要に迫られぬ。

🌲あはれ、四十五年の大博覧会の敷地ともならば、何地にか移り行かんなど、一時は心苦しう思ひたり。

🌲それは幸に青山の方へ逸(そ)れたれど、今にして、この林町の過去をたづね、また今を記して、将来の変遷を占はばやと思ひ立ちぬ。

(次回に続く)

(平成15年1月29日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

🌲🌲

🌲江戸太郎重長、太田道灌持資などの頃には、我が林町は如何なる状態にかありけん。

🌲猫額大のところの事なれは詳かならず。

🌲菅原孝標朝臣の女の更科日記、道興准后の迴國雑記、さては堯恵法印の北國紀行などにも、この林らしきところは見えず。

🌲小田原北條の分限帳に、駒込卅六貫文、屋中卅九貫文、新堀四十五貫文、合せて百廿貫文の地、遠山孫九郎の所領たる旨記されたれは、千駄木林町も、その卅六貫文のうちなるべけれど、尚、その名は見えず。

🐎さて、駒込は、駒の飼はれたりし区域なるべしとの説、信ずべきが如くなれば、その一小部分なる林町も、雑木生ひ立ち、萱草など茂り合ひて、武蔵野の片端なる面影をとどめ、勇める駒の四つ三つ二つ、ここかしこに遊牧せるさまなりけんかし。

🌲明治七年の東京地図にも、ここは市区の外として、全く記載せられざるほどなれは、「権現様御入国」の時代には、もとより、人の注意にも上らざるところなりしと見ゆ。

(次回に続く)

(平成15年1月30日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

🌲🌲🌲

(3)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲千駄木とは、何時如何なる縁由ありての唱へなるにや、定かならず、或は、その昔太田道灌が植ゑ附けたりし林にて、栴檀の木特に多かりしが故になどともいひ、或は、東叡山へ千駄の護摩の木を納めしによるなどとも、口碑には傳へたれども、信用しがたし。

(注)栴檀(せんだん):庭に植える落葉高木。夏の初め、薄紫の花を開く。皮・実は薬用。「栴檀(センダン)は双葉(ふたば)より芳し(かんばし)[大きくなってから立派になる人は、小さい時分からすぐれた所が有るものだ]」 このセンダンは、正確にはビャクダン(白檀)を指すようです。

🌲青山近くの千駄が谷も、もとは千駄萱と書き、萱の多く出でしよりの名なるべければ、ここの林も、薪材を伐出ししよりの唱へにて、千駄とはただ数の多きをいへるなるべし。

🌲新編武蔵風土記の編者も、この説に従へり。

🌲寛永年間となり、上野に東照宮の建立せられ、ついで三代将軍の靈屋の建てらるるに及んで、その宮靈屋の薪材として、この地を附属せられし事と見えて、元禄、享保頃の江戸図には、明かに「日光御門跡御やしき」としるせり。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))

🌲延享三年に至りて、林は開発せられて、段高の場所となり、そのうち、六町八反は上野の寒松院の、四町八段は同じく東漸院の預ることとなりにき。

🌲されど、尚、天保の地図などを見れば、上野などと同じに、木立多かりし様に書けり。

🌲嘉永五年の江戸図にも、尚、御林とあれども、団子坂筋の表通りのみは、駒込御林跡地としるし、但し町家なりと注せり。

(注)「東都駒込邊絵図」(安政4年<1857>)で確認してみると、現在の大観音通り沿いの駒込学園横から稲荷社(御林稲荷社)の前に駒込御林跡地との記載があります。また、その奥の都立駒込病院の方向に、上野東漸院御林、上野寒松院御林と記載されています。

🌲ついで間もなく、米艦渡来の頃よりして、林もおひおひに開かれて、畠地となり、宅地と変りしこと、古老も語るところなり。

(注)米艦渡来:アメリカ使節ペリーが浦賀に来航したのは嘉永6年(1853)。

🌲表通りより林への入口には、二カ所に黒木の総門ありて、無用の者入るべからずとの、厳かなる榜示は、御一新の頃まで掲げられたりしと云ふ。

(注)門の位置:「東都駒込邊絵図」と現在の地図を並べてみると、門は大観音通りから千駄木5丁目を突っ切って文京区立千駄木幼稚園に通じる道の入口付近にあったようです。この道の途中に、千駄木児童遊園があります。番地でいうと文京区千駄木5丁目4番地と5番地をわける道の大観音通り沿いに御林に入る門があり、4番地側(15番地・16番地・17番地・26番地、28番地、29番地あたり)が上野寒松院の御林で、5番地側(11番地・12番地・13番地・14番地・30番地あたり)が上野東漸院の御林であったようです。現在、かつての門のあたりは、まちづくりのための用地(文京区役所都市計画部・地域整備課)となっています。

🌲是れまた、古の荘園の一種、守護不入の禁の遺例にて、我はその地の民なりと、思はるるも可笑し。

(次回に続く)

(平成15年2月2日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

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(4)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲さて、お林地といふは、東西二町強、南北は四町余りもありぬべし。北の方、下駒込村に接するところ、則ち今の動坂、駒込病院の方面には、御林なりし頃の境界の堤、百五十間の長きにも亘りたりけるが、文政の頃には、はやわづかに三十間ばかりとなり、今となりては、全くその痕跡をも見るべからず。

(注)御林境界の堤:『分間江戸大絵図』(文政11年<1828>)および『御江戸大絵図』(天保14年<1843>)と現代の地図を比較してみると、「千駄木御林」を囲む堤は、大保福寺(現在の駒込学園の地)と養源寺大保福寺に沿って、北へ御鷹部屋(現在の都立駒込病院の地)方向に、現在の文京区立千駄木小学校あたりまで延びていました。そこから堤は、南へ円を描くように現在の本郷保健所通りあたりに沿って、団子坂方向に築かれていたようです。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))
分間江戸大絵図(明和9年(1772))


♪『分間江戸大絵図』(須原屋茂兵衛蔵版)によると、明和9年(1772)頃の御林は「東叡山御林」と呼ばれていました。明和といえば、杉田玄白が解体新書を出版したころです。この東叡山(とうえいざん)とは、京都の比叡山に擬してつけられた上野寛永寺の号です。

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♪今回、御林の場所を確認するために、参考文献のなかに収録されている何種類かの本郷界隈の『江戸切絵図』をみました。色彩が美しく、まるで「花のお江戸」が目に浮んでくるようでした。


♪人文社の「古地図目録」によると、各地の絵図の復刻版がでているようです。古地図や絵図は、ほとんどジュンク堂書店2階の地図の売場(http://www.junkudo.co.jp)に揃っています。また、神田神保町界隈にも古地図を扱っている古書店があるようです。文献収集の範囲が広がって「江戸東京」の楽しみがますます増えそうです。

(注)養源寺(ようげんじ)(文京区千駄木5-38-3)には、安井息軒(やすい・そっけん)の墓があります。安井息軒(1799-1876)は日向国(宮崎県)の出身で、幕末・維新期に儒学者となり、昌平黌(しょうへいこう)の儒官を務めました。養源寺の隣は、連光寺です。連光寺には、最上徳内、青山景通(東大内科教授青山胤通の兄)の墓があります。

 

連光寺
最上徳内之墓
青山景通之墓

周辺地図(養源寺・連光寺周辺)

🌲林の中には、人家稀疎にして、東漸院預りの方には纔かに十五軒、寒松院の方には廿五軒ばかりもありしにや。

(注)駒込林町の町会は、江戸時代の上野寛永寺の東漸院持と寒松院持によって、東林会西林会とにわかれていました。

🌲いづれも、百姓、植木屋、黒鍬の者、さては商家の隠宅などにて、杉、桐、椚の類或は竹薮などの間に、茅葺、梯葺の平家を構へ、畠には大根、葱などの野菜を栽培したりき。

(注)黒鍬の者:江戸時代、江戸城内の警備や掃除、荷物の運搬などに従った者。黒鍬組丁:『小石川谷中本郷繪圖』(萬延2年<1861>)によると、現在の本郷通りの向丘二丁目交差点を大観音通りに入った角の左側の三井住友銀行の周辺一帯は黒鍬組丁と呼ばれていました。江戸時代にこのあたりに住んだ黒鍬者は、御城(江戸城)になにかことがあると、中山道を御城に向かって駆け付けたのかもしれません。

🌲幕府の末頃にていへば、この林に住へる人は、年貢として、一反毎に金二分を、名主の許に持ち行き、名主は之を取纏めて、上野なる東漸院、又は寒松院へ納むるの習ひなりき。

🌲若し上野に非常の事あれば、林の民は皆駆けつくべき掟にて、その為めに、平生より、御靈屋御用と、いかめしく銘打つたる提灯を渡され居たりとぞ。

🌲我が始めに住ひたりし百七十番地も、今住へる百六十九番地も、ともに東漸院預りの方なるが、維新前には、その組合十五軒より、毎年正月の五日といふに、手作りの菜五十把を、東漸院へ納むる例なりき。

(注)三上参次が、はじめに住んだ駒込千駄木林町170番地は、現在の文京区千駄木5丁目13番地、次に住んだ169番地は、文京区千駄木5丁目12番地あたりと思われます。なお、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(参考文献4)では、三上参次の住んだ住所を林町167番地としています。

🌲之を齎し行くものは、この時のみは、たとひ百姓の身分なりとも、靈屋の参拝を許されて、面目を施したりしは、また、非常のとき、駆けつくる習ひのありしに基いてなりとぞ。

(注)齎(もたらす):持って行くこと

(次回に続く)

(参考文献)
1. 『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』人文社、2002.
2. 『江戸東京名士の墓碑めぐり』人文社、2002.
3. 『嘉永・慶応 江戸切絵図で見る幕末人物・事件散歩』 第3版. 人文社、2002. 
4. 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(季刊)其の二十八. 谷根千工房、1991.(みんなでつくる林町事典 p.4-23.)

(平成15年2月8日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

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(5)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲百六十九番地の方は、亡き父君が、淺川某といふ挿花の師匠より、買ひ受けられしものなるが、淺川の前には、もと舊幕の御坊主たりし吉田某その前には、御家人たりし大羽某、またその前には、御普請方なりし某、尚その以前には、或る紀州の人地主たりしにて、その人は、この地に小屋掛けして、「ドンドル」の製造を試みたりしといふ恐ろしき話もあり。

🌲これ恰も、御一新直ぐ後の事なるが、それより以前の持主の事は未だ分らず。


(注)恰(あたかも):ちょうど
(注)御一新:慶応4年(1868)4月、江戸城が無血開城。徳川慶喜(よしのぶ)(15代将軍)は水戸に退去して、9月に明治と改元されました。

🌲さて百七十番地の方は、これもまた亡き父君が、小島某なる人より購はれしなり。

🌲小島氏は、或る名家の後なるが、慶應の初年に、この地三百廿坪強を、金二十五両にて、或る神田の質商より求めしなりといふ。

🌲この老人、今は古稀を過ぐること、はや四五歳なるべきが、語りていふ、老人幼年の頃には、この邊りの土地は、殆ど價なかりしときけりと。

🌲地主は、僅かばかりなりとも、年貢を上野へ納めずばならず、非常の節に駆つけの義務はあり、組合の交際はあり、かたかた煩はしきがために、或は一樽の醤油、或は一升の酒などを引出物として、土地を遺り取りしたる時ありといふは、この頃なるべし。

🌲老人また曰ふ、その後嘉永の頃とか、今の或る大地主は、九百坪の地を金廿両にて購ひ得て、やがて今の身代の基をなしたり。

🌲下つて上野戦争の前には、繁華なる巷の人の、かかる邊鄙の地を望めるもありて、一時は俄に、二倍にも三倍にも、地価の騰貴せし事ありしが、やがてかの瓦解となりて、大名、旗本、家人の邸地の、多く廃虚となり、原と化したる時には、また暴落して、千坪拾五両ならば、可なりの土地を手にし得たりけりと。


(注)瓦解(がかい):江戸時代の終わり。明治維新。

🌲物価如何に低廉にして、天保通寶の一枚だにあれば、銭湯に積もる垢を去りて、六枚を佛ひ、床店に髪を結ひ髯を剃りて、廿六文を遣はし、次に卅二文にて二八蕎麦のをかはりを命じ、三十文を酒一合に投じ、尚、六文の残余ありしと云へる時代の事とは云へ、九百坪廿両といひ、千坪拾五両といふは、その格別に廉なりしに驚かるるなり。


(注)天保通寶(てんぽうつうほう):天保6年(1835)に江戸幕府がはじめて作った銅銭で、楕円の形をしており、四角穴がある。

🌲その頃、このあたりの畠地一反を、金五六両にて購へるものは、之に栽培せる大根の一両年の収穫、若しくはその葱を、四五回も青物市場に運び出だせば、やがて、畠地の原価を回収し得たりしとぞ。

🌲能く時変を観て富を成せる、昔の白圭の如き人、孰れの世にも乏しからず、かかる機に乗じて、江戸の一時の空閑地を買占めて、巨富を致ししもの頗る多しと云ふ。


(注)孰れ:いずれ。頗る:すこぶる。

🌲明治五六年の頃よりは、さる土地に、茶を植うる事しきりに行はれたりといへるが、我がここにト居せし頃も、かしこここに、雑木の老幹の亭々たる外は、家を環りて皆茶にして、その小さく、白く、清楚愛すべき花の盛り、又は茶摘み時の歌の調子など、いと興ある事に思ひたりしなり。

🌲その茶も、今は殆んど残りなく抜き棄てられて、人の住居とかはりぬ。

🌲昔はかかる鄙にても、住めば都と思ひたりしに、今はまことの都となりぬ。


(注)鄙(ひな):田舎。郊外。城外の田野の地。「辺鄙」

🌲我が庭の片隅には、尚、木立多く、むかしの名残見えて、わざとならぬ鶯の春の初聲を、人よりも早く聞くは嬉しけれども、四十五年の大博覧会は逸れたるものの、ここもまた、何時までかこのままにてあるべき。

🌲谷一つ隔てたる田端の高臺も、今は家屋多くなりぬ。

🌲この谷も、幾年ならずして、家もて埋もるるに至るべし。

🌲大なる日本。大なる東京。

🌲林町の名のみ優に聞かる時は來ぬべし。

(明治四十年十二月)

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(平成15年2月10日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

97. 駒込林町:三上参次邸宅跡(2):御林稲荷社:「忠魂碑」

♪宇野彰男さんから三上参次が関係した石碑が文京区千駄木5丁目(旧駒込林町)の近くの公園(御林稲荷社)(駒込天祖神社の飛地境内)にあるとお聞きしたので、確認に行ってみることにしました。

場所:御林稲荷社(文京区千駄木5-6-13)

♪ナップザックにデジカメ、メモ帳、水筒などの取材道具を入れ、自転車で向かうことにしました。冬の風が、少し冷たく感じられましたが、よく晴れ渡って絶好のサイクリング日和となりました。

♪本郷通りの富士神社入口交差点を都立駒込病院の方向へ進むと、動坂上交差点にでます。交差点を渡ると一方通行の出口があります。この道が本郷保健所通りです。文京区立千駄木小学校、文京区立千駄木幼稚園、文京区立文林中学校、文京保健所本郷保健サービスセンター、文京区立特別養護老人ホーム千駄木の郷・千駄木高齢者在宅サービスセンター・千駄木在宅介護支援センターと続きます。

♪保健所の手前に高村光太郎旧居跡(文京区千駄木5-22-8)があり、説明版が建てられていました。光太郎・智恵子については、後日、調べることとして、そのまま道なりに進みました。

♪団子坂上交差点にでました。この交差点を渡って、まっすぐに続く道が、森鴎外の薮下通り(薮下道)です。観潮楼址(文京区立鴎外記念本郷図書館)(注1)は、この薮下の道の入口にあります。薮下の道は日本医科大学・根津神社裏門方面に繋がっています。

注1)本郷図書館の移転に伴い併設されていた「鷗外記念室」は「森鴎外記念館」として独立することとなり駒込大観音通り側に移転しています。(2012.11.1開館)

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文京区立本郷図書館の並びに島薗邸(登録有形文化財)(矢部又吉設計)があります。昭和7年(1932)、島薗順次郎(東京帝国大学医学部内科教授)の長男・島薗順雄(新潟大学医学部教授・東京大学医学部教授・東京医科大学教授)(生化学)の結婚にあたって建てられた和洋折衷の住宅です。設計は、矢部又吉により、ドイツ風の意匠が施されました。島薗順次郎の家は、この島薗順雄の家から、徒歩10分のところにあったとのことです。島薗順雄の妻は、三宅秀の長男・三宅鑛一(東京府立松澤病院長)の三女・昭子です。(注2)

♪西岡 暁先生(吉祥寺病院)によると、島薗邸は、「戦後の一時期「林町内科医院」となって駒込林町21番地に住んでいた宮本百合子が患者として来院」していたそうです。

三宅家家系図(出典:「桔梗 -三宅秀とその周辺ー」福田雅代編纂 昭和60年)

注2)島薗順雄・昭子の没後、島薗邸は、たてもの応援団によって維持・管理されてきましたが、その一部を売却することになったとのことです。

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♪団子坂を下って不忍通りにでると谷中霊園へ通じる三崎坂(さんさきざか)になりますが、今回は、坂を下らずに不忍通りを背にして、大観音通りの商店街を本郷通りの向丘二丁目交差点方面に向かって進みました。

♪三上参次によると、幕末から明治のはじめまで、この辺り(駒込御林跡地)の表通りから林への入口には黒木の総門があって、「無用の者入るべからず」との榜示があったといいます。

三上参次が住んだ旧駒込林町(現・文京区千駄木5丁目13番地)

♪ちょうど、前回紹介したコースと逆方向から、駒込学園横の鉤の手になった路地の突き当たりにある御林稲荷社に着きました。

♪宇野彰男さんからのメールに、平成11年(1999)に宇野さんご自身が撮影された石碑の写真が添付されていましたので、石碑はすぐわかりました。境内に入って右手に建てられていました。

♪実は、前回、この辺りを訪ねた時も、この御林稲荷社の境内に入ったのですが、その時は三上参次が書いた碑文ばかりを探していて、この石碑の発起人には気がつかないでいました。

♪石碑の表に「忠魂碑」とあります。裏にまわってみました。石碑は塀の際に建てられているので、身体を塀と石碑に挟むようにして、台座に近い部分に刻まれていた発起人の名前を確認しました。

♪この石碑は、昭和7年(1932)7月29日「故陸軍砲兵大尉土井浩君之霊・故海軍三等兵曹奥田吉丸君之霊」のために、当時の林町町会が中心となって建立されたもののようです。発起人の最後に三上参次(林町町会顧問)の名前をみつけることができました。

♪御林稲荷社の入口に文京区が建てた旧町名案内(旧駒込林町)の案内版が建てられていました。千駄木山に位置した駒込林町の縁由などが、簡潔に書かれています。

♪三上参次も駒込千駄木林町の歴史について、雑誌『歴史地理』のなかで林町に邸宅を構えたいきさつなどとともに詳しく記しています。貴重な記録だと思いますので、次回以降に全文を紹介しておきます。

(平成15年1月26日 記)(令和2年[2020]6月7日 追記)

96. 駒込林町:三上参次邸宅跡(1)

場 所:文京区千駄木5丁目13番地
交 通:営団地下鉄・南北線 本郷三丁目駅下車

周辺地図:

♪駒込には、駒込林町のほかにも旧町名として、駒込淺嘉町、駒込逢來町、駒込千駄木町、駒込坂下町、駒込動坂町、駒込片町、駒込曙町、駒込吉祥寺町、駒込富士前町、駒込上富士前町、駒込神明町などのよい名前がありました。戦後の都市開発などによって、これらの長く馴染んだ趣のある町名が、思い出のなかに消えています。

♪三上参次の住んだ駒込林町は、現在の住居表示では文京区千駄木5丁目となりました。邸宅は駒込林町169番地(現在の文京区千駄木5丁目13番地)にありました。

♪本郷通りの向丘二丁目交差点を不忍通りに繋がる団子坂方面に向かいます。駒込学園交差点の左に駒込大観音(こまごめおおがんのん)・光源寺があります。

♪駒込大観音は縁起によると大和国(奈良県)長谷寺(はせでら)本尊の十一面観音を模して元禄10年(1697)に建立されました。昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲で消失しまたが、西山如雲によって製作され、平成5年(1993)5月18日に再興されています。戦前には、この境内に、樹齢300年を越すような梅の大木があったそうです。春になると梅の木に、鴬が飛び交い啼いていたことでしょう。長年、駒込に住んでいますが、今回、はじめて駒込大観音にお参りできました。これも「江戸東京」の散歩のお陰と感謝しています。(この駒込大観音の仏頭に関してはすげ替え事件も起こっています。)

東京新聞記事(仏頭すげ替え 著作権訴訟)(2010.3.26 朝刊)

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♪駒込学園(駒込中学校・駒込高等学校)を過ぎると、その並びに文明堂書店があります。その隣のリンデン六番館(マンション)の横の路地を入ると、突き当たりが御林稲荷社です。鉤の手になっている路地を道なりに行くと右手が三上参次の邸宅があった文京区千駄木5丁目13番地(旧駒込林町167番地)になります。

♪宇野彰男さん(三上参次曾孫)によると、三上参次は、この地に長男・勝が生れた翌年の明治20年(1887)(23歳)から75歳で亡くなる昭和14年(1939)6月7日まで50年余り住んだとのことです。敷地は600坪ほどもあったそうです。

♪邸宅の前には、明治時代から大正時代にかけて牧田牧場があって牛が放し飼いにされていました。いまでは、この界隈は庭などないような小さな家々が密集していて、邸宅があった面影は、感じられませんでした。

♪三上参次は、播磨国神東郡御立村みたちむら)(現・兵庫県姫路市船津町御立)の出身で、昭和9年(1934)9月9日に、郷里の御立村に「三上参次先生誕生之処」の碑が竣工しています。(参考文献2:)

♪また、神戸新聞によると、2019年11月23年、姫路市船津公園内に「三上参次顕彰碑」が建てられ、その除幕式が挙行されたとのことです。機会があったら訪ねてみたいと思います。

(参考文献)
 1)『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(三上参次著 吉川弘文館 1991)

2) 「三上参次先生のことども 没後80年」(三上参次顕彰会)(船津町社会教育協議会 平成31年1月)

兵庫県姫路市船津町周辺地図:

姫路文学館:(北館1階・文人展示室:三上参次)

(平成15年1月3日 記)(2020年6月2日 追記す)

95. 高村光太郎と三上参次が住んだ町:駒込林町:『本郷駒込林町地圖』

 
高村光太郎旧居跡:駒込林町25番地(現在の文京区千駄木5丁目22番地)


三上 参次邸宅跡:駒込林町169番地(現在の文京区千駄木5丁目13番地)

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♪神田神保町の秦川堂書店で入手してあった『本郷駒込林町地圖』(東京市聯合青年團林町分團)をPDF化しました。

♪『本郷駒込林町地圖』には,戦前の番地が入っています。個々の地所の境界を知ることができます。駒込林町の町内全体の地番がわかります。「駒込中学校(236番地)」,「林イナリ神社」,「杏林舎印刷工場(172番地)),「鶴ノ湯(227番地)」の具体的な場所が記されています。


♪三上参次の邸宅は,169番地にありました。「林イナリ神社」の前の路地を進んだ右側が169番地です。さらに進むと「鶴ノ湯」の銭湯があります。

♪地図でみると近くですが,当時の屋敷は,それぞれの敷地が広く,千駄木界隈は,木々も鬱葱としていたでしょうから,「鶴ノ湯」も,いまとは大分違う風景のなかにあったのでしょう。

♪駒込林町の地図に載った「鶴ノ湯」は,いまでも,「鶴の湯」の看板を挙げて営業しています。(2014年1月2日廃業)「鶴の湯」の横の小路には,数日前に振った初雪が,まだ,残っていました。両脇から軒先が迫っています。路地を抜けると,しばらくして,見慣れた都立駒込病院前のバス通りにでました。本郷通りと不忍通りを繋ぐ道です。ほっとして,一息つきました。

♪動坂上の交差点から富士神社の前を通って本郷通りへ戻りました。「高村光太郎旧居跡」「三上参次邸宅跡」「富士神社」「鶴の湯」の場所を,Googleマイマップ「本郷界隈:医史跡案内」に追加しました。

(平成25年1月19日 追加)

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二つの林町(駒込林町・小石川林町)

1.千駄木5丁目(旧駒込林町)周辺地図:

2.千石2丁目(旧小石川林町)周辺地図:

♪文京区内には、旧町名で林町が二カ所ありました。駒込林町(現在の千駄木5丁目と3丁目の一部)と小石川林町(現在の千石2丁目)です。駒込林町は、明治2年(1869)から明治44年(1911)までの間は、駒込千駄木林町といいました。(参考文献1、2)

♪この駒込林町に高村光太郎と三上参次の住まいがありました。二人のお墓が、染井霊園にあることは、「江戸東京」のなかで触れましたが、住居は駒込林町でした。同じ町に住んだ二人が、同じ霊園に眠っていることになります。

♪駒込林町が、どの辺りであったかというと、医学図書館関係の方々には、日本医科大学図書館(千駄木1丁目)の近くといった方がわかりやすいかもしれません。かつて、この辺りは、東京帝國大學の住宅地として、文化人や学者が多く住んだ町でもありました。

♪千駄木5丁目(旧駒込林町)は、JR駒込駅前から東京大学本郷キャンパスに向かう本郷通りの左側に位置しており、高林寺(緒方洪庵墓所)と都立駒込病院の近くで、本郷通り、不忍通り、団子坂に挟まれた区域です。

♪千駄木の地名の由来は、太田道灌が栴壇(せんだん)の木を植えたためとか、一日に千駄(せんだ)の薪を切り出したためとか諸説があるようです。上野寛永寺創建後には、この林地を同寺に属し、徳川霊廟用の薪材をとらせたともいいます。(参考文献2、3)この辺りもバブルの影響で旧家が取り壊され、雑木林など昔の面影は残っていません。

(注)栴檀(せんだん):庭に植える落葉高木。夏の初め、薄紫の花を開く。皮・実は薬用。「栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)より芳し(かんばし)[大きくなってから立派になる人は、小さい時分からすぐれた所が有るものだ]」

駒込吉祥寺境内にある栴檀の木(和田修平撮影)

♪近くの吉祥寺の山門には、「栴檀林」の額が掛けられていますが、ここに、現在の駒澤大学の前身のひとつである学寮(栴檀林)があったことをしめしています。

駒込吉祥寺山門 額「栴檀林」(和田修平撮影)

♪三上参次は、この町から、「お正月など大礼服を着て宮中へ二頭馬車に乗り参内していた」(参考文献1)といいます。また、この町へは、高村光太郎を訪ねて、草野心平や尾崎喜八などの詩人がやってきています。

♪高村光太郎は『智恵子抄』に収載されている「うた六首」のなかで次のように歌っています。


 「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾をいねしめず」
 「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」
 (昭和13年ころの作)。

♪高村光太郎・智恵子や三上参次に思いを馳せながら、駒込林町界隈を散策してみようと思います。

参考文献:

1)地域雑誌『谷中・根津・千駄木』其の二十八(谷根千工房、199

 2)『ぶんきょうの町名由来』(東京都文京区教育委員会社会教育課編、1984)

 3)『大東京の史蹟と名所』(復刻版)(佐藤太平著、博友社、1977)

(平成14年12月18日 記)(2020年5月24日 追記)

94.「二本榎保存之碑」(西ヶ原一里塚): 拓本

所在地:東京都北区西ヶ原2-47

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♪北区西ヶ原の滝野川警察署前の道(本郷通り)の真ん中に、「二本榎保存之碑」(大正5年6月)の記念碑が建っています。

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♪この碑の存在は以前から知っていましたが、今回、三上参次の事跡を調べていて、その撰文が三上参次によることがわかりました。

♪日光御成道(旧岩槻街道)の一里目の一里塚である「本郷追分」(東京大学農学部前・高崎屋酒店角)については、連載第9回で取り上げましたが、その時は、二里目の一里塚にある「二本榎保存之碑」の碑文が、まさか、旧東京医学校本館に関係のある三上参次によるものであるとは思ってもいませんでした。

♪宇野彰男氏(三上参次の曾孫)に、お尋ねしたところ、この記念碑の撰文についてはご存じないとのことでしたので、西ヶ原は自宅からも近いので、自転車で行って撰文を確認してみることにしました。

♪染井通りの中程に本郷学園(高等学校・中学校・幼稚園)がありますが、その斜め前に染井坂に入る道の入口があります。染井坂のはじまりの右手が駒込小学校で、左手が西福寺(さいふくじ)です。西福寺には徳川吉宗にかわいがられ江戸城内の庭師も勤めた伊藤伊兵衛政武(いとう・いへえ・まさたけ)の墓(東京都指定旧跡・昭和35年2月13日)があります。


♪染井坂を下り切り、道なりに行くと、染井銀座商店街通にぶつかります。この商店街は、昭和の初めに暗渠となった谷戸川に沿った道が発展してできました。谷戸川の水源は、染井霊園の裏の東京外国語大学西ヶ原キャンパス(移転して公園・老人ホーム・マンションなどに再開発されている)のグランド付近であったといわれています。(外国語大跡地周辺まちづくりニュース

♪染井銀座商店街通を横切って、上州屋質店前の路地をさらに真っ直ぐに進み、坂を上り詰めると本郷通りの滝野川消防署前にでます。

♪本郷通りを渡って、王子に向かって右側の歩道を進みました。滝野川消防署、東京都北区防災センター、北区立滝野川公園、印刷局東京病院(現・花と森の東京病院)、財務省印刷局滝野川工場(誠心堂書店)で入手しましたので、以下に紹介しておきます。

1.

画像をクリックするとPDFでご覧いただけます。自由にダウンロードしてご利用ください。

2.

3.

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

4.

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

5.

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

6.

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

7.

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

8.

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

9.

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

10.

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

11.

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

12.

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

13.

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん

14.


大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

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「二本榎保存之碑」の碑文

2.

二 本 榎 保 存 之 碑

公 爵 徳 川 家 達 題

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん


大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

(裏 面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり

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♪碑文によると南側の「二本榎保存之碑」がある土地(本郷通り中央の緑地帯)は、飛鳥山公園の附属地となっています。

♪飛鳥山公園の一部としてまで、塚と榎を保存しようとした三上参次や澁澤栄一の史蹟に対する強い思いを感じます。

♪本郷通りの車の往来による排気ガスによって、この辺り一帯も環境が随分と悪化していますが、七社神社の境内の静寂さの中に「二本榎保存之碑」が設置された大正のはじめの頃の薫りを感じ取ることができます。散歩した当日は、ちょうど碑のまわりの緑地帯の草刈りが行われていました。

♪碑文をみていて、この「二本榎保存之碑」の碑文が廣群鶴(こう・ぐんかく)(御碑銘彫刻師)によって刻まれていることに気がつきました。高林寺にある緒方洪庵の墓と岡節斎の記念碑の石碑を鐫刻(せんこく)した谷中の石屋です。

♪石碑を刻んだ廣群鶴によって、緒方洪庵と三上参次が繋がったようにも思えました。

♪廣群鶴については、連載第2回で触れましたが、廣群鶴はほかに、「澁江抽斎之碑」(台東区感應寺)、「佐藤尚中之碑」(台東区谷中霊園)、「戸塚文海墓碑銘」(台東区天王寺)などの石碑を鐫刻しているようです。(文献参照)このうち「戸塚文海墓碑銘」の題額は「二本榎保存之碑」と同じく徳川家達によるといいます。

♪廣群鶴の刻んだ石碑の確認をかねて、これからの「江戸東京」の散歩は、しばらく谷中界隈が中心となりそうです。

(参考文献)
 廣群鶴と谷中の石屋. 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の四十二(谷根千工房 1995年3月30日発行)pp.2-17.
 

(平成14年10月27日 記)(令和2年(2020)5月18日 追記)

93. 御鷹匠屋敷跡:東京都立駒込病院(現・がん・感染症センター都立駒込病院)


周辺地図


東京都立駒込病院(現・がん・感染症センター都立駒込病院):


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♪本郷通りをJR駒込駅前から東京大学方面へ向かい上富士前交差点、富士神社入口交差点を過ぎると、次ぎの交差点が文京九中入口ですが、その交差点の進行方向左側の道端に「駒込総社天祖神社入口(昭和三十四年五月建之)」の標柱が建っています。

♪天祖神社(駒込神明宮)は、駒籠(駒込)の総鎮守産土神(うぶすなかみ)で、その氏子区域は、駒込神明町、淺嘉町、動坂町、千駄木林町、駒込片町、吉祥寺町、富士前町、上富士前町、北豊島郡巣鴨町大字上駒込村字傳中、妙義坂、染井でした。

♪境内は、いまも昔の面影を残し、クスノキ、イチョウの大木があります。明治時代には、その敷地は約一千坪もあり、「老杉蔭暗らき所」で、境内から動坂に抜ける近道がありました。いまでも、境内を通って、動坂方面に通行できるようになっています。

(2019年撮影)(がん・感染症センター都立駒込病院は、この境内を入って奥、右側一帯にある)

♪この天祖神社の裏が「がん・感染症センター都立駒込病院」(旧東京都立駒込病院)(以下、駒込病院)で、この辺りは、将軍が鷹狩りをした際に、その役を担う鷹匠たちの屋敷(御鷹匠屋敷)があった場所です。八代将軍吉宗は、鷹狩りの御膳所(休憩場所)とて、いまも巣鴨地蔵通商店街入口にある真性寺(しんしょうじ)を使ったそうです。真性寺は、森鴎外が『北條霞亭』(大正6年<1917>)を執筆するために訪ねたお寺でもあります。

♪駒込病院は、本郷通りと不忍通りに挟まれた場所に位置しています。病院の名称から、JR駒込駅の近くにあるように思われがちですが、どちらかというと田端よりにあります。ちょっと交通の不便な所で、病院案内ではJR田端駅から都バスを利用した交通案内があります。JR駒込駅からはタクシーで行くのが便利です。本郷通りを富士神社入口交差点で左折すると動坂の坂上にでます。その右側が駒込病院です。

♪正面入口の一角に「動坂遺跡(東京都指定史跡 昭和51年1月16日指定)」の説明版が建っています。それによると、「縄文中期の集落跡と享保3年(1718)に置かれた鷹匠役屋敷跡の複合遺跡」で、昭和49年(1974)8月、東京都立駒込病院の改築の際に、ここから貝塚が発見され、鷹匠役屋敷跡に関連する遺構・遺物も豊富に発掘されたとあります。

♪動坂は不動坂の略で、動坂にあった赤目不動にちなんで、そう呼ばれたといいます。寛永のころ(1624-44)三代将軍家光が鷹狩の途中、赤目不動に立ち寄り、目黒・目白に対して目赤不動(南谷寺)と命名したそうです。

♪駒込病院正面入口の前をさらに進むと駒本(こまもと)小学校前交差点で本郷通りへぶつかりますが、その手前の左側が高林寺(緒方洪庵墓所)です。現在の目赤不動(南谷寺・なんこくじ)は、交差点を右折して左側の本郷通り沿いにあります。

♪東京都立駒込病院の歴史を調べていたら、『新撰東京名所図会(風俗画報臨時増刊)第50編』(明治40年発行)に東京市駒込病院の記載がありました。

東京都立駒込病院の歴史

『新撰東京名所図会(風俗画報臨時増刊)第50編』(明治40年発行)に現在の東京都立駒込病院の前身である東京市駒込病院についての記述がありましたので、紹介しておきます。

 「東京市駒込病院は、駒込動坂町にあり。明治十二年虎列刺病流行の時、設置したる舊避病院の一にして、北豊島郡駒込村即ち今の地に病室二棟を新築したりしもの、その起原たり。後ち一度閉院して東京府に引継ぎ遂に之を毀撤し、其敷地のみ保有したりしが、十九年六月向ヶ岡彌生町の避病院を其跡に移し、廿八年より事務所、病室を増築し自費患者の入院を許し三十年より、東京市に属し、之を常時傳染病院とし、以て現在の病院に擴張せり。其敷地左の如し。自廿六番地至四十一番地 自七十五番地至八十五番地 自八十九番地至九十一番地 九千九百一坪。建坪二千十六坪余。病室八棟、百七室ありて、患者二百五十人を収容するの設備を有す。消毒所、洗濯所、汚物焼却場、患者賄所、浴室、寝室、醫局、薬局事務所、看護婦室、診察所、顕微鏡室、門番所、物置等あり。醫員四名、調薬生三名、機関手一名、其他看護婦以下の諸員あり。卅九年十一月末日の在院患者百七人なり。外来患者を取扱はず、診察料不要。入院料は、特別一日金貳圓五拾銭、一等一日金壹圓五拾銭、二等一日金壹圓、三等一日金五拾銭。但自費患者に限る。電話本局七百五十八番」

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♪明治39年(1906)当時の駒込病院では、4名の医者で100名以上の入院患者をみていたことになります。病院のまわりには、天祖神社、富士神社、吉祥寺などの神社やお寺の境内があり、近くには千駄木の雑木林も多く残っていたことでしょう。隔離された一万坪ほどの敷地内で患者さん達はどのように過ごしていたのでしょうか。

♪動坂上の駒込病院の辺りには、町家のほかに植木屋も多くあったようです。動坂下は、新開地で、田端に連なり、一円に耕地が続いていたそうです。坂上からは、日暮里、尾久の方まで眺望が開けていて、野鳥が飛び交い、空気もいまよりずっと澄み切っていたことでしょう。夜空の星もどんなにか綺麗にみえたことかと思います。

♪縄文時代は、この辺りまで海だったわけで、東京都立駒込病院の前に立ち、この地域の歴史を振り返ると、すごい時代の移り変わりを感じました。

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♪令和2年(2020年)3月から顕著になった新型コロナウィルス感染症の発現により、東京には、緊急事態宣言が発せられ「がん・感染症センター都立駒込病院」をはじめ都内の各病院では、入院患者への面会原則禁止など、院内感染防止対策のため、厳重な警戒態勢がとられています。

♪5月中旬になって、全国的に感染者数は、徐々に減ってきてはいますが、まだ、安心できるような状況にはありません。依然、マスク不足は続いてます。日本手ぬぐい(トンボ柄)でマスクを自作してみました。手ぬぐいを折りたたんで、左右にゴムをかけただけですが、以外に顔にフィットします。

筆者・堀江幸司

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参考文献:『駒込病院 百三十年の史譚』(磯貝 元著 博文館新社 2011)

(平成14年8月18日 記)(平成14年8月19日 記)(令和2年(2020)5月9日 追記)

92. <余滴>『名勝繪入改正仙臺市内全圖』

明治36年5月1日印刷 5月10日発行

編輯発行兼印刷人 仙台市国分町二丁目五十四番地 盛光堂 峰屋十馬

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(1)昭忠碑(旧本丸天主台にあり)

瑞鳳殿(伊達政宗公御灵屋なり)(灵は霊の異字)

(2)青葉神社(北山にあり)

(3)第二師団司令部(川内旧青葉城)

(4)大橋(廣瀬川にかけたる鉄橋なり)

(5)東照宮(市内の東北宮町に在り)

(6)仙臺警察署(國分町二丁目にあり)

(7)縣會議事堂(表小路にあり)

(8)宮城縣廰(白當臺通りにあり)

(9)地方裁判所(東二番丁にあり)

(10)憲兵本部(東二番丁にあり)

(11)宮城監獄(宮城郡小泉村にあり)

(12)改良劇場仙臺座(東四番丁にあり)

(13)芭蕉辻(仙台の中央なり市内第一なり此所に管内厘程原標あり)

(14)林子平之碑(北八番丁龍雲院にあり)

(15)政岡之墓(八ツ塚光勝寺にあり)[光勝寺:考勝寺]

参考 政岡之墓参拝記念絵葉書

政岡之墓門前(仙臺名所)
高尾之墓(佛眼寺ニ有)(仙臺名所)
徳川氏振子之墓(仙臺名所)
三澤氏初子之墓(烈婦政岡)(仙臺名所)

三澤氏初子之墓

(16)躑躅岡(つつじがおか)(又榴ケ岡云櫻樹数百あり仙台一の遊園也)

(17)宮城紡績器械場(宮城郡荒巻村三居沢)

(18)第二高等学校(片平丁にあり)

(19)控訴院(片平丁あり)

(20)宮城師範学校(北壱番丁にあり)

(21)愛岩神社(向山にあり眺望第一勝地 全市内を一目にし松島金花山を眼にす)

(22)木之下薬師(木之下町にあり)

(2020.2.23 堀江幸司 記す)

91. 宮城病院の東三番丁(元貞坂)から北四番丁への移転と外科手術室の移築

🍂🍂今回は、東北大学病院(仙台市青葉区星陵町1番1号)の前身である宮城病院の場所の変遷について、収集した絵葉書や古地図を通して見てみました。

東北大学医学部附属病院(1989.12.5 堀江幸司撮影)

東北大学病院沿革

🍂宮城病院(東三番丁・元貞坂)跡:[現・新NHK仙台放送局(陸奥ホテル・ホテル仙台プラザ跡)]

宮城病院(元貞坂)
名称絵入改正仙台市内全図(明治36年)

名称絵入改正仙台市内全図(明治36年)
宮城病院(元貞坂)の場所周辺地図(明治36年)(陸軍病院[仙台陸軍衛戍病院]のあたりが、現在、勾当台公園となっています)

🍂新宮城病院(北四番丁)[現・東北大学星陵キャンパス]

宮城病院(北四番丁)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 仙台市全図001-1024x650.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 仙台市全図番地入り大正4年-1024x665.jpg です
仙臺市全圖 番地入. 大正4年度最新版(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

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宮城病院の沿革

東北大学医学部沿革

東北大学病院沿革

明治5年(1872) 仙台共立病院(仙台市南町)(中目齋、石田眞等)

明治12年(1879)5月 仙台共立病院を仙台県立病院と改称して、国分町に移転。7月 仙台県立病院を宮城病院と改称。

明治17年(1884)10月 宮城病院を元貞坂に竣功、移転。宮城医学校の附属として、「宮城医学校附属医院」と改称。

明治21年(1888) 第二高等学校内に医学部が設置され、宮城医学校が廃止。「宮城医学校附属病院」の名称も廃止され、「宮城病院」の名称にもどることとなる。

片平丁にあった第二高等学校医学部が仙台医学専門学校として分離されたのが、明治34(1901)年4月のことで、附属病院として東三番丁(元貞坂)にあった宮城病院(県立)が使われました。

元貞坂(玄定坂)は、宮城病院の敷地と東三番丁通りを結ぶ坂でした。

現在、宮城病院跡には、新NHK仙台放送局が建っていますが、かつて、この地は、仙台停車場に近く、日本鉄道が陸奥ホテルがありました。

仙台停車場前 陸奥ホテル
仙台停車場前 陸奥ホテル

明治44年(1911)4月  宮城病院が、木町通の西側、北四番丁の現在地に移転される。当時の病院長は、内田守一(兼小児科長)、山形仲藝は外科長でした。

大正2年(1913) 東北帝国大学医学専門部の附属医院となる。(県立宮城病院の移管)

大正5年(1915) 東北帝国大学医科大学が開設され医学専門部附属医院は医科大学附属医院となる。

大正8年(1919) 東北帝国大学医学部附属医院と改称

昭和22年(1947) 東北大学医学部附属医院と改称

平成15年(2003) 歯学部附属病院と統合して東北大学病院となる。

宮城病院長(内田博士)
内田医学博士 在職貳拾年記念
山形仲藝博士  在職貳拾年記念  

参考文献

宮城病院の沿革

宮城病院一覧

宮城病院の沿革 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

仙台医学専門学校一覧(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

仙台医学専門学校一覧 明治34年ー明治36年

仙台医学専門学校一覧 明治36年ー明治38年

仙台医学専門学校一覧 明治38年ー明治40年

仙台医学専門学校一覧 明治41年ー明治42年

仙台医学専門学校一覧 明治42年ー明治43年

仙台医学専門学校一覧 明治43年ー明治45年

東北帝国大学一覧. 自大正8至9年

『東北大学医学部開設百周年記念写真集』(東北大学医学部開設百周年記念委員会編 2019年12月27日発行)

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仙台医学専門学校(第二高等学校敷地内)建物図(片平丁) (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

🍂宮城病院全図(明治37年)(仙台市東三番丁六十三番地)

宮城病院内外科室(東三番丁六十三番地)

宮城病院構内外科大手術室

外科手術室は、明治33年(1900)10月着手、明治36年(1903)9月竣功。元貞坂にあった宮城病院の敷地内に新設されました。「宮城病院新設大手術室概要」(山形仲藝、佐藤熊之助供述)によると、建築の大体は、「ハイデルブルヒ」医科大学ならびに東京大学病院の手術室を参考にして、図案は文部省技師の久留正道の手によるとのことです。

宮城病院新築大手術室概要(出典:「東北医学会会報」第三十一号 明治三十七年二月二十日発行)
宮城病院新築大手術室概要(出典:「東北医学会会報」第三十一号 明治三十七年二月二十日発行)

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宮城病院の移転に伴う外科手術室の移築

明治44年3月に宮城病院が北四番丁(現在地・東北大学星陵キャンパス)(のちの東北大学医学部附属病院)に移転した際に、外科手術室は移築されることます。

宮城病院一覧
新宮城病院正門
キャプションに婦人科手術室とあるのは外科手術室の誤り
東北帝国大学医学部平面図(大正8年ー大正9年)

(2020年2月13日 記す)

90. 太田正雄(木下杢太郎)の日記と剖検記録

太田正雄の没年の昭和20年(1945)の日記を見てみると、空襲のなか、大学本郷構内に留まり、講義、回診を続け、当直を務める様子が書かれています。その合間には、懐徳館の庭園、薬学科の薬草園、農学部構内などをまわって花々を写生しています。

♪「日記」には、「江戸東京」に登場する緒方富雄、遠山郁三、高橋明、川喜田(伝研)など、各先生のほか、徳川義親の名前も出てきます。

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♪昭和20年(1945)6月から7月にかけて日記に次ぎのように書いています。

晩年の太田正雄(昭和18年10月19日・20日 東京大学医学部本館前)

昭和20年(1945)6月5日:

曩日(のうじつ)の胆石痛の如し。午前中家居就褥。午后中野氏との約束ゆえ病院にゆく。探しものの為め也。労る。柿沼[昊作](かきぬま・こうさく)教授の室にて診を受く。

柿沼昊作教授

外科病棟のとりこぼちつつある傍にふふみし泰山木の花一枝を折って帰る。

 泰山木(タイサンボク)の花言葉:前途洋洋

昭和20年(1945)6月6日:

胃腸のコリックなほつづく、午後家居。泰山木の花瓶に十分開く、写す。午后登院。回診をすまし、薬学科の薬苑に請うて、ひなげし、かきつばたの茎を得て帰り、帰来之を写生す。病臥

昭和20年(1945)6月7日:

雨。十一時登院。一時十分から二時半講義。三時四十分から五時徳川義親候邸。・・小痛あり。早く臥す。

昭和20年(1945)6月10日:
目ざめて胃部に疼痛あり、之をさぐるに鴿卵大の結節を觸る。之をおすと痛む。之を摩すると段々と小さくなりつひに消失する。然しまたむくむくと腫れ出す。状、局所性の筋の強直の如くである。之が消えてのち、なお固定せる腫瘍ありや否やを指尖を以て確めんとしたが、判然と決定することが出来なかった。唯然しこの時から、其事も亦可能であるといふことを思ふやうになった。少し注意と覚悟とを要するぞと。

(注)鴿:はと

昭和20年(1945)6月11日:
気分あしく、午前九時半登院、十一時より外来を見る。午後伝研にゆかず、教授室に静養、午後一時ごろ大槻をたづね、腹部のパルパチオン[触診]を頼む。

昭和20年(1945)6月12日:
柿沼教授によりバリウムによる腹部レントゲン撮影。

昭和20年(1945)6月19日:
柿沼教授の勧めにより今日より一週間ばかり伊東に休養することにする。

昭和20年(1945)6月25日:
新個の硬結一両個を模索し得たり。沖縄失陷の由。

昭和20年(1945)7月3日:
十時小使荷をとりに来、まづ病院に送る。二時入院、四時好仁会評議委員会。天ぷらを食ひ、ビイルをのみ、スパスムス起る。

昭和20年(1945)7月4日:

八時過より血球計算、胃液検査等をなす。一時過と三時前とに警報。三輪、柿沼教授。

注)この三輪という人物は、当時、医学図書室の事務を担当していた三輪福松のことかと思われます。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は image.png です
前列の右端が西成輔教授(解剖)、その後ろの三列目の右端が三輪福松。太田正雄教授は、前列の右から3人目(昭和18年 東京大学医学部本館前)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は image-1.png です

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♪8月1日、教職員とともに還暦の小宴を好仁会の二階で行ったあとの8月30日に柿沼内科に再入院することになります。このとき主治医となったが井上貞吉で、柿沼教授(内科)と大槻教授(外科)の相談の結果、手術はせずにリンゲル液による水と栄養の補給が行われることになりました。

東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」)
東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」
東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」

♪治療の効なく、10月15日の未明(午前4時25分)に死亡しました。当時、三田村篤志郎教授(病理)が病欠だったため、剖検は松本武四郎諏訪紀夫両助手によって午後1時から行われました。

♪剖検は、病理解剖室の水道が故障のため使えなかったので、皮泌科の手術室で行われました。解剖に立ち会った柿沼教授は、「太田君ぐらい煙草を吸っても、こんなに肺がきれいかね」といったそうです。また、大動脈の動脈硬化もなかったといいます。太田正雄は愛煙家で知られていました。

♪太田正雄は、沖縄陥落や終戦の玉音放送をどんな思いで聴いたのでしょうか。東大構内に残って戦争とたたかった太田正雄教授の人生は、敗戦とともに終わりましたが、その心は、「🍂百花譜🍂」のなかに遺されているのではないでしょうか。

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[剖検記録]

♪松本武四郎(後年、慈恵医大の図書館長も務めた)によって記録された剖検記録を採録しておきます。

[剖検番号]16594 執刀者:松本、諏訪 記録者:松本
[柿沼内科より剖検依頼、剖検時刻 13時(死後88.5時間)]
[臨床的診断]上腹部腫瘍
[病理解剖学的診断]
 1) 体部胃道上に発し、小彎より胃後壁全般に亙り板状に浸潤せる硬癌。原腫瘍部及胃後壁粘膜上の浅き不規則形潰瘍。
胃周囲及膵周囲淋巴腺への転移。肝下面と胃小彎右下部、前者と横行結腸右方寄りの部、胃大弯と横行結腸、廻腸終部と盲腸並に上行結腸始部、横行結腸左部と上方に迂弯せる下行並にS字状結腸等間に於ける腫瘍性胼胝性癒着、転移性播種を伴へる癌性腹膜炎。腸間膜淋巴腺の特別なる腫大を伴はざる腸間膜全体の胼胝性肥厚。

(注記)
 胼胝:べんち(callus)「結合組織の著しい増殖を伴った肉芽組織の瘢痕形成に膠原繊維の硝子変性が加わって硬くなった状態をいう」(南山堂医学大辞典)

 2) 肝の門部に限局せる初期膵道癌並に該部に於ける胼胝様結締織増殖。此の部に於けるDuctus hepaticus並に門脈の狭窄。肝内胆道の拡張。肝の強き黄疸及全身の中程度黄疸。Ductus choledochusの中程度拡張。小腸上部に於ける胆汁色、下行結腸-直腸に於ける灰白色の腸内容。
 3) 上記腹膜炎及門脈狭窄による腹水症(6000cc)。
 4) 初期気管支肺炎、軽度肺水腫、肺後部に於ける血液沈下。
 5) 左肺下等後面-側面及横隔膜面の繊維性癒着。
 6) 冠動脈の硬化及蛇行、房室弁の軽度繊維性肥厚。
 7) 胃壁肥厚圧迫による膵の軽度扁平状萎縮。
 8) 膵の萎縮。
 9) 中葉形成を伴へる胡桃大の所謂「摂護腺肥大」、肉柱膀胱。

(注記)摂護腺:前立腺

10)副腎の脂肪減量。
11)軽度の内膜脂肪化のみにて著明なる硬化症なき大動脈。
12)仙骨部の浅き褥瘡。
13)下腹部の手術創痕、虫様突起の欠如。
14)全身の衰弱。

♪終戦間際の警戒警報(サイレン)が鳴り響くなかでの入院生活は、本人は勿論のこと家族などの看護するものにとっても大変なことであったに違いありません。

♪7月初旬に柿沼内科にはじめて入院したときの様子を「読書療病」のなかで、次のように書いています。

「7月2日に柿沼内科に入院し、同18日(水)退院帰臥した。其間に胃腸のレントゲン診断、胃液検査、血液の諸反応等の事を行った。 ・・・ 悪性腫瘍の如きものではあるまいと云ふことがほぼ明にせられ、入院の目的は達せられた。食欲、消化は尋常であり、悩む所は微にして長く続く腸痛と身体の羸痩とのみであった。」

(注記)羸痩:るいそう:やせおとろえること。

♪亡くなったときの体重は、38kg、脳重量は1400gであったそうです。

(参考文献)

1)『木下杢太郎日記 第五巻』(太田正雄著 岩波書店 1980)

2)『太田正雄先生(木下杢太郎)生誕百年記念会文集』(日本医事新報社 1986)

3)『目でみる木下杢太郎の生涯』(木下杢太郎記念館編 緑星社 第2版 1983)

(平成15年9月3日記)(2010年1月22日 追記)