113.岡田和一郎(1864-1938)の略歴、病理解剖所見・葬儀

岡田和一郎肖像(1864-1938)

♪岡田和一郎は、幼名を市松といい、元治元年(1864)1月3日に岡田喜惣太、つね子の長男として、伊豫國西條藩(現・愛媛県西条市)の城下町である新居郡西條本町一丁目に生まれました。

♪岡田和一郎が生まれた元治元年(1864)は、緒方洪庵、箕作阮甫(みつくり・げんぽ)が逝去した翌年にあたり、佐久間象山が暗殺された年でもあります。

♪明治11年(1878)松山に赴き、渡邊悌二郎(渡邊洪基の弟)(松山病院長)方に寄宿し、明治12年(1879)上京。本郷臺町の獨逸語学校に入っています。

♪明治17年(1884)東京大学医学部に入学し、翌18年(1885)月謝の値上げが森有札(文相)によって唱えられたとき、総代に選ばれて、濱尾新と会見交渉し、値上げを中止させたといいます。

 (参考:東京大学の歴代総長一覧。濱尾新は明治26年(1893)3月より総長に就任。 濱尾新の墓所も、染井霊園にあります。)

 

岡田先生遺徳碑(染井霊園内)(現在は撤去されています)

♪明治19年(1886)本科2年のとき本郷追分町に刀圭社を設け、済生学舎に対抗して医学生を集め講義を始めました。東京医学会を設立したのも、この年のことでした。

 ♪明治22年(1889)本科4年を卒業し、佐藤三吉教授(外科学・第二醫院)のもとに勤務しています。当時、外科学教授には、佐藤三吉のほかに、宇野朗(うの・ほがら)(第一醫院)がいました。

(平成14年7月31日記)

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♪明治23年(1890)12月28日、榊俶の妹徳子と結婚し、新居を呉秀三夫人の父(三浦千春)が所有していた家屋(旧本郷区森川町)を借り受けて構えました。また、森鴎外の後任として、『東京醫事新誌』の主筆となったのも、この年のことでした。

♪岡田和一郎の妻・徳子の長兄が精神科医の榊俶、次兄が産婦人科医の榊順次郎で、長女の小梅は緒方正規に嫁いでいます。末の弟が、九大の精神科教授となった榊保三郎です。

 ♪明治28年(1895)12月7日、帝国大学医科大学(東京大学医学部)の外科助教授に任じられています。この頃、文部省は、帝国大学に耳鼻咽喉科講座を設けることを決め、小金井良精によって、岡田和一郎が推薦されました。

 ♪明治29年(1896)3月、ドイツへ留学。明治32年(1899)12月19日、郵船土佐丸にて帰朝、耳鼻咽喉科助教授に任じられ、明治35年(1902)3月になって正教授となりました。この年の4月には、大日本耳鼻咽喉科会頭にもなっています。

 ♪また、岡田和一郎は、本務のほかに、顧問となって根岸養生院を経営しています。場所は、旧下谷区中根岸36番地で、もと根岸岡埜菓子舗の所有した所だそうです。

 [岡埜(おかの)の名前は、いまも「竹隆庵岡埜」に残っています。今度、散歩の折にでも、立ち寄ってみたいと思います。]

(平成14年8月2日記)

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♪明治42年(1909)3月21日に「汎(ひろ)く貧困なる病者の為め施療を為すを目的」として東京帝国大学第二醫院跡(旧神田區和泉町1番地)に開院された「三井慈善病院」(現在の三井記念病院)の設立にも協力しました。(註4)この三井(泉橋)慈善病院には、東京帝國大學醫科大學から役員として、岡田和一郎のほかに、青山胤通(醫科大學々長)、佐藤三吉、土肥慶蔵、入澤達吉が参加しています。

♪明治44年(1911)11月21日、長女和子に横田清三郎を迎えて養嗣子としています。媒酌は青山胤通(あおやま・たねみち)(註1、2)が行いました。

♪11月23日に上野精養軒で催された結婚披露宴には、各界から名士が多数参会し、その数は八百数十人に達したといいます。森鴎外も夫妻で出席しました。その日のことを鴎外は日記の中で、次のように記しています。

 「23日(木)妻と上野精養軒の園遊會にゆく。岡田和子が横田清三郎を壻に迎へたる披露宴なり。」

♪大正3年(1914)、聖路加国際病院の設立に参画し、さらに昭和3年(1928)には、昭和医学専門学校(現在の昭和大学)(註3)を設立して、その理事長・校長になっています。

♪大正13年(1924)には新たな定年制の内規により東大を依願免官となります。岡田和一郎にとっては、納得のできない辞令であったようです。

♪昭和4年(1929)には、東京市総選挙に麹町区から立候補して、当選しました。

(平成14年8月5日記)

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病理解剖所見

♪昭和13年(1938)5月12日、いつもの通りに昭和医専の修身の講義を終えますが、翌13日は気分がすぐれず根岸養生院から帰宅してからは、病臥の状態となります。眞鍋喜一郎(東大内科教授)が主治医となって治療にあたりますが、30日午後6時35分逝去。翌31日に東京大学病理が教室で解剖されることになります。

♪この病理解剖を行ったのが、緒方洪庵の孫にあたる緒方知三郎教授でした。解剖所見には、以下のようにあります。

「・・・尚心筋軟化が相次いで起こった為め心臓の機能不全を招来し全身の循環障碍の為め胸水、腹水、下腿水腫、咽頭水腫、諸臓器の鬱血等が現れ遂に逝去せらるるに至ったものである・・・」

葬 儀

♪昭和13年(1938)6月3日に、青山斎場において告別式が挙行されました。このとき葬儀委員長となったのが、入澤達吉(内科教授)でした。

♪東京大学からは、総長の長與又郎が出席し、弔辞を読んでいます。長與又郎は長與専齋の3男にあたります。

♪午後2時から3時までの一般告別式の参弔者は三千数百人を数え、昭和医専生徒一同685名の焼香のあと、3時半に青山斎場を出発、染井墓地に向かい、午後4時に埋葬されています。

♪この岡田和一郎が亡くなった昭和13年(1938)には、葬儀委員長を務めた入澤達吉、さらに三宅秀と相次いで亡くなっています。明治期の医学教育・診療・研究に情熱を傾けた多くの東京大学医学部教授が亡くなった年となりました。

♪翌一周忌にあたる昭和14年5月30日には、芝増上寺において一周忌の法要が営まれ、午後4時から染井墓地の墓前に献碑式が行われたのでした。同門の菊池循一が総代として「顕碑之辞」を述べ、嗣子岡田清三郎の答辞があって、その後上野精養軒において岡田家の招宴が催されています。

(令和3年8月15日 追記)

112.「岡田先生遺徳碑」東京都立染井霊園内

染井霊園の岡田家の墓域の左手に岡田和一郎(東京帝国大学・初代耳鼻咽喉科教授)を顕彰する「岡田先生遺徳碑」が建っています。題額は、同じく染井霊園に眠る若槻禮次郎によります。

岡田和一郎は、明治医界の中心人物のひとりで、医家の姻戚が多くあり、妻の徳子は、榊俶(さかき・はじめ)(帝国大学医学部精神科教授)の妹にあたります。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Somei-ryakuzu-1.jpg

 昭和14年(1939)5月30日芝増上寺において一周忌の法要が営まれたあと、午後4時から染井霊園の墓前において献碑式が挙行され、上野精養軒で招宴が催されました。

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場所:東京都立染井霊園・岡田家墓域内(現在は、岡田家の墓域であった場所は改修され、他家の墓所となっています。)

○岡田和一郎(1864-1938)(東京帝国大学医学部教授・耳鼻咽喉科学)

 墓石の位置:1種イ4号8側
 正 面:岡田家之墓
 右側面:昭和二十二年三月改造建立 岡田徳子 登

墓 誌:東京帝國大學名譽教授 正三位勲二等醫學博士 天祥院殿名譽昭和鐵山大居士 岡田和一郎 昭和十三年五月三十日薨去 行年七十五才

 墓域内に「岡田先生遺徳碑」があります。(題額は若槻禮次郎)
 

写真: 岡田和一郎墓域(東京都染井霊園)(堀江幸司撮影)
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 岡田和一郎.jpg
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 岡田先生遺徳碑.jpg

岡田先生遺徳碑

正三位勲一等男爵若槻禮次郎題額

先生諱和一郎號鐵山又壽山姓岡田氏伊豫西條人考諱喜惣太先生其長子妣小野氏明治二十二年十一月畢帝國大學醫科大學醫學科業二十八年十二月任帝國大學醫科大學助教授明年三月簡派濁墺二國研究耳鼻咽喉科學三十二年十二月帰朝明年一月東京帝國大學創設耳鼻咽喉科命先生開講其學耳鼻咽喉科學自此大開四月授醫學博士學位三十五年四月任東京帝國大學醫科大學教授大正十三年四月辞職授東京帝國大學名譽教授稱號配榊氏擧一女名和子養横田濱五郎貳子清三郎配和子為嗣現為名古屋醫科大學教授先生積労得病昭和十三年五月三十日薨距生元治元年一月三日享年七十五位勲至正三位勲二等加授旭日章先生天資高邁與同志謀創立同仁會昭和醫學専門學校等盡瘁學界誘掖後進四十年斯學之興實頼先生之力矣門人思慕其學徳結岡田門下同窓會建石記恩來徴余文案状録其大節繋之以銘銘曰

五官之屬 皆有専醫 耳鼻咽喉
君實大師 及門如林 人懐厥徳
萬歳千秋 視斯銘刻

昭和十四年五月

帝國學士院會員正三位勲一等文學博士服部宇之吉撰
従三位勲三等菅虎雄書

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岡田清三郎(1885-1946)(千葉医科大学教授・名古屋帝国大学教授・昭和医科大学理事・消化器内科)(岡田和一郎の養嫡子)

 墓石の位置:1種イ5号8側
 正 面:岡田家之墓
 右側面:昭和二十二年三月 改造建立 岡田徳子 登

墓 誌:名古屋帝國大學教授 正三位勲二等醫學博士 眞性院清譽覺月淨光居士 岡田清三郎 昭和二十一年三月十日薨去 行年六十二才

 墓域内(入って右側)には「岡田清三郎先生記念碑」も建っています。(現在は撤去)

(東日本震災後、墓域が整理され、現在、岡田先生遺徳碑は撤去されています。)

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文献:「岡田和一郎先生傳

110.昭和東京の偉観 大十六橋(絵葉書)

♪絵葉書「昭和東京の偉観 大十六橋」(中村興文堂謹製)は,16枚のセット物なのですが,「千住大橋」の一枚が未入手でした。いつか,完全にしたいと思って探していました。外袋も付いた「昭和東京の偉観 大十六橋」を入手することができましたので紹介いたします。

♪太田圓三が関係した永代橋や相生橋など隅田川に架かる橋からはじめた絵葉書の収集ですが,それに繋がる日本橋川,外濠,神田川,築地川などの橋や周辺の土木建築物などにも収集範囲を広げています。・・・明治期に発行された手彩色の絵葉書なども収集して,Googleマイマップに展開できればと思っています。

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1.千住大橋(92.4m 22m 1,037,800円)

2.言問橋[237.7m 22m 2,383,000円]

3.駒形橋 [149.1m 22m 1,900,000円]

4.厩橋[152m 22m 1,138,000円]

5.蔵前橋[173.2m 22m 1,751,000円]

6.両国橋[180m 22m 未記載]

7.新大橋[193.5m 16.5m 860,000円]

8.清洲橋[186.6m 22m 3,213,000円]

9.永代橋[185.2m 22m 2,924,000円]

10.相生橋[192m 22m 1,507,000円]

11.江戸橋[63.4m 44m 852,000円]

12.聖橋[92.5m 22m 778,000円]

13.三吉橋[82.8m 11m 209,000円]

14.芝浦臨港線ハネアゲ橋[30m 重量8萬貫 160,000円]

15.数寄屋橋[39.5m 36m 342,000円]

16.日本橋[50m 27m 550,000円]

(令和3年7月3日 静岡熱海大雨で土石流が発生)

109. 辰野金吾の設計による「東京火災保険株式會社」社屋(一石橋北詰)と旧澁澤栄一邸(日本橋)

   
場 所:旧日本橋區北鞘町一番地(一石橋北詰)(現在の東洋経済ビルの場所)

北鞘町・東京火災保険株式會社本社社屋(辰野金吾設計・岡田時太郎現場監理)(出典:『東京火災保険株式會社五十年誌』7))

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♪東京駅が復元され,観光名所となっているようです。復元のもととなった東京驛(中央停車場)は,大正3年(1914)に辰野金吾によって設計・建築されたものでした1)。

♪辰野金吾2)3)4)は,日本銀行本店・小樽支店(現・金融資料館)・大阪支店・京都支店,盛岡銀行本店(現・岩手銀行中ノ橋支店),奈良ホテル,万世橋駅舎(初代),両国国技館などの設計でも知られています。

東京驛(中央停車場)(辰野金吾設計)(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪外濠と日本橋川が繋がる場所に架かる一石橋際(北詰)に東京火災保険株式會社(のちの東京火災海上運送保険會社)が日本橋際(南詰)から移転して新築されたのは明治39年(1906)8月1日のことでした。外濠の日本銀行本店前に架かる常磐橋(第102回)のことを調べている過程で,この東京火災保険株式會社社屋の設計が,辰野金吾によることを知りました。

辰野金吾(1854-1919)2)3)4)は,佐賀県の旧唐津藩の出身(下級武士の家)。嘉永7(1854)年8月22日,肥前國東松浦郡唐津町(現在の佐賀県唐津市)に姫松(ひめまつ)家(姫松倉右衛門)の次男として生まれ,のちに辰野家(辰野宗安(むねやす))の養子となります。佐賀といえば,伊東玄朴相良知安佐野常民の故郷でもあります。

辰野金吾肖像(出典:『工学博士辰野金吾傳』3))

♪明治4年(1871),高橋是清が唐津藩の英語学校(洋学校)の教員となるのですが,その生徒のなかに曽禰達蔵と辰野金吾がいました。

♪明治6年(1873),東京に出て,工部省工学寮(のちの工部大学校・東京大学工学部)に入学します。工学寮の同期生のなかには,高峰謙吉(金沢藩医の長男・化学専攻)もいました。

辰野金吾は,同郷の曽禰達蔵片山東熊(長州藩)(日本赤十字社中央病院病棟の設計者,明治村に移築)と共に造家(ぞうか)(建築)を専攻,ジョサイヤ・コンドルの指導を受けることになります。

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辰野金吾,澁澤榮一に出会う:日本橋川・運河沿いの商業街計画

♪卒業設計は,「自然歴史博物館」,首席で卒業,英国留学をはたします。留学生のなかには,高峰謙吉(化学),三好晋六郎(機械・造船)の顔もありました。帰朝後,工部省に出仕,営繕課に勤務,澁澤榮一(第一国立銀行頭取)の依頼による「銀行集会所」が処女作となります。兜町にあった澁澤榮一邸(洋館)(現・日証館の敷地)も辰野金吾の設計でした。
 

兜町澁澤邸(辰野金吾設計・明治21年[1888]4月)(出典:『明治大正建築寫眞聚覧』5)

♪澁澤榮一には,日本橋川や楓川(紅葉川)にそった「兜町,南茅場町,阪本町の三町を,運河を生かしたペニスのような商業街に変える」4)構想がありました。辰野金吾は,工部省営繕課に入ることによって澁澤榮一と繋がり,のちの建築家としての活動に大きな力を得たことになります。コンドルのあとを継いで,東京大学建築学科の初代教授を務めることになったのは,明治17年(1884)のことでした。

♪外濠に沿って,日本銀行本店,日本銀行附属建物・正金銀行出張所(横濱正金銀行東京支店),東京火災保険株式會社が並んでいます。(絵葉書参照)これら建物は,すべて辰野金吾の設計によります。

左から日本銀行本店・横濱正金銀行東京支店・東京火災保険株式會社

♪横浜にある横濱正金銀行本店(現在の神奈川県立歴史博物館)は,辰野金吾(英国流)のライバルでもあった妻木(つまき)頼黄(よりなか)(1854-1919)(内務省兼大蔵省営繕局建築掛)(ドイツ流)(コーネル大学出身)の設計です。

横濱正金銀行(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
(平成26年5月12日 追加)

♪『明治大正建築寫眞聚覧』5)のなかに,横濱正金銀行東京支店が「日本銀行附属建物(正金銀行出張所)」(竣工:明治31年[1898]11月)と呼ばれた時代の写真をみつけました。その説明に設計が辰野金吾,關野貞とありました。

日本銀行附属建物(正金銀行出張所)(設計:辰野金吾,關野貞)(出典『明治大正建築寫眞聚覧』5))

♪横濱正金銀行の建物は,辰野金吾が出張所を、妻木頼黄が本店を設計したことになります。

♪妻木頼黄は,横濱赤煉瓦倉庫(新港埠頭保税倉庫)の設計でも知られています。赤煉瓦の東京驛(辰野金吾)と横濱赤煉瓦倉庫(妻木頼黄)。日本銀行本店(辰野金吾)と横濱正金銀行本店(妻木頼黄)。建造物は,残ることによって,歴史をつくるとともに,設計者の思いまでも伝わってくるようです。

♪横濱正金銀行東京支店は,大正9年(1920)に建て替えられることになります。外装には花崗岩が使用,加工・施工には,当時の最新の機械設備が使われたといいます。その設計をしたのが,辰野金吾の弟子にあたる長野宇平治(ながの・へいじ)6)でした。

♪一枚の絵葉書や写真のなかから,明治の建築家たちの意思と情熱が伝わってきます。江戸から明治への近代化の有りようを建築という形で示しています。

東京火災保険株式會社が設立されたのは,明治20年(1887)6月10日(発起人:鵜殿長[旧鳥取藩家老],神戸信義,木山市三,柳川清助,柳川繁の五氏)のことでしたが,その創立事務所が設置されたのは,京橋區三十間堀三町目三番地でした。その後,事務所(本店営業所)は,何度か移転されます7)。

 明治20年[1887]6月10日:京橋區三十間堀三町目三番地

 明治21年[1888]9月11日:京橋區銀座二丁目九番地

 明治21年[1888]11月23日:京橋區銀座二丁目十四番地

 明治24年[1891]4月9日:京橋區銀座三丁目二十番地

 明治29年[1896]9月13日:日本橋區西河岸第二十一號地[日本橋南詰](この年,安田善次郎が評議委員監督に就任)

 [新社屋:明治36年[1903]8月起工 明治38年[1905]7月竣工]8)

 明治39年[1906]8月1日:日本橋區北鞘町一番地[一石橋北詰に新築落成移転]

 明治40年[1907]1月4日:商号を「東京火災海上運送保険会社」と改称

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東京火災保険株式會社社屋の画像資料

資料1)『日本之名勝』(史傳編纂所刊 1900)9)

『日本之名勝』に日本橋南詰にあった当時の写真(「近代デジタルライブラリー」「写真の中の明治・大正」)がありました。明治44年に架け替えられる前の日本橋(木橋)が写っています。お正月の風景でしょうか。梯子の上で演技をしている鳶の姿が見えます。

日本橋際に建つ東京火災保険株式會社社屋(出典:『日本之名勝』9))

資料2)『東京火災保険株式會社五十年誌』(志津野眞二編 1938)7)

北鞘町・東京火災保険株式會社本社社屋(辰野金吾設計・岡田時太郎現場監理)(出典:『東京火災保険株式會社五十年誌』7))

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本店営業所移轉

 明治三十九年[1906]八月一日,本店営業所を東京市日本橋區西河岸二十一號地より,同市同區北鞘町一番地に移転した。

 日本橋々畔の本社々屋は,明治二十九年新築,その後未だ幾許も経過しなかったが,當時日本橋架け替えへの議が具體化し,當社の建物も取拂ひを餘儀なくされたので,當社では早速附近に恰好の敷地を捜求し,日本銀行に近接する一石橋際に一劃の土地を獲た。

 是に於て,當時建築界の権威,日本銀行,東京驛等の設計者たる辰野金吾博士,葛西萬司學士に設計を依頼した處,狭長なる三角地面にも拘はらず地形を巧みに利用した極めて斬新且つ模範的な榮業所が清水組の手によって竣工した。

 この新社屋は赤煉瓦二階建,ルネッサンス式の建築で,安田家一般の黒塗土蔵造りの従来の型を破ったものであり,日本銀行始め附近の建築物其他と配合宜しきを得た。又同業會社としても,當社の二階會義室を以て恰好の集會所となし,多くの會合は専ら此處で開かれた。

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♪東京火災保険株式會社が日本橋區西河岸第二十一號地から同區北鞘町一番地に新築移転したのは,明治39年[1906]8月1日のことでした。その時に発行された「東京火災保険株式會社新築落成移轉紀念」と題する絵葉書がありました。

「東京火災保険株式會社新築落成移轉紀念」(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪この絵葉書で注目したいのは,切手が左上隅に貼られていることです。「我社望楼ヨリ遥ニ宮城ヲ拝ス」と書かれています。英語でも「The view seeing the Imperial palace from the tower of the office building」とあります。望楼からは,外濠に架かった常磐橋や日本橋一帯も見えたことと思われます。

♪辰野金吾は,日本銀行本店と東京驛(中央停車場)という歴史的な建築物を残しましたが,東京火災保険株式會社の社屋も記録に残しておきたい建物のひとつです。辰野金吾の建築家としての造形の一端を見ることができます。まわりの自然に溶け合った建築の美しさを感じさせます。心惹かれます。

♪辰野金吾と苦学を共にした曽禰達蔵も歴史に残る建築物を多数設計しました。慶應義塾大学図書館旧館,慶應大学病院予防医学教室は曾禰達蔵の設計によります。小笠原伯爵邸は,大江戸線・若松河田駅の近くにあり,現在は,レストランに改装されています。また昭和9年(1934)7月に音羽に新築された大日本雄辯會社講談社の社屋も,曾禰達蔵が設計しています10)。講談社は木下凞によってまとめられた「木下文書」が保管されていた場所でもあります。

♪西岡 暁氏(吉祥寺病院医師)によると「曽禰達蔵の三女・載子は、三宅秀の孫(四女・松の長男)仁田勇の妻」とのことです。

大日本雄弁会講談社社屋外観(曾禰達蔵設計)(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
大日本雄辯會社講談社社屋側面(曾禰達蔵設計)(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪音羽通りに面して,昔ながらの面影を残している講談社の近くの護國寺に辰野金吾,曾禰達蔵,片山東熊の恩師であったコンドルは,眠っています。コンドル先生にとっては,唐津藩も長州藩も関係なく,教え子達の「赤煉瓦」の建築物が,新しい時代のなかに融合し,役立っていることを喜んでいるのではないでしょうか。

参考文献・図書

1)『赤レンガの東京駅 その保存・復元に向けて』(森まゆみ編 谷根千工房

1988[2012復刊])

2)『日本博士伝』:工学博士辰野金吾君

3)『工学博士辰野金吾傳』(白鳥省吾編 辰野葛西事務所刊 1926)

4)『東京駅の建築家 辰野金吾伝』(東 秀紀著 講談社 2002)

5) 『明治大正建築寫眞聚覧(建築學會創立五十周年記念展覧會出陳)』(建築學會)

6) 横浜正金銀行東京支店建築概要.長野 宇平治著.土木建築工事画報 3(2):22-26, 1927.

7)『東京火災保険株式會社五十年誌』(志津野眞二編 1938)

8) 実例:東京火災保険株式會社建築工事:「家屋建築実例 第1巻」 [辰野金吾ほか 須原屋(明治41年)(近代デジタルライブラリー)]

9)『日本之名勝』(史傳編纂所刊 1900)

10)『講談社の歩んだ五十年』(明治・大正編 昭和編 全2冊)(講談社社史編纂委員会編 1959)

(平成25年6月27日 記す)(令和3年(2021)3月24日 追記)

108.染井の書棚より:協会史編纂部会に参加して

医学図書館 1989;36(2):120-121.

「日本医学図書館協会六十年略史」編纂部会(日本医学図書館協会将来計画委員会・協会史編纂部会)

担当理事:大久保 泰雄(日本大学歯学部)
担当理事:井上  英新(東邦大学医学部)

部会長:大澤 充(慶應義塾大学医学情報センター)

細井 昌文(日本医科大学図書館)
青木  仕(順天堂大学図書館)
今井 義訓(東京医科大学図書館)
堀江 幸司(東京女子医科大学図書館)
竹内 和代(東京慈恵会医科大学医学情報センター)
坂本 智子(東京歯科大学図書館)

協会史編纂部会:左から今井義訓(東京医科大学図書館)堀江幸司(東京女子医科大学図書館)大澤 充(慶應義塾大学医学情報センター)大久保泰雄(日本大学歯学部図書館)坂本智子(東京歯科大学図書館)細井昌文(日本医科大学図書館)(撮影:青木 仕 順天堂大学図書館)(欠席:竹内和代 東京慈恵会医科大学医学情報センター)
左端:青木 仕(順天堂大学図書館)

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(令和3年3月12日 記す)

107. 染井の書棚より:「日本医学図書館協会創始者のひとり 渡邊正亥(わたなべ・まさい)」

医学図書館 31(3):298,1984

♪渡邊正亥先生は、現在の日本医学図書館協会の創始者のひとりで、昭和2年11月に創立された官立医科大学附属図書館協議会の第1回協議会に新潟医科大学附属図書館から開催館のひとりとして参加されています。

♪医科大学時代は、共同雑誌目録の編纂に努め、戦後は、新潟県立図書館長、順天堂大学図書館長などを歴任されました。

新潟医科大学附属図書館

♪このエッセイは、習志野の先生のお宅に、本協会の創立時の写真を拝借に行ったときのものです。先生に、総会の集合写真を見ながら、撮影されている方々のお名前を、一人ひとり、思い出していただき、確認して記録したことが、思い出されます。

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106.染井の書棚より:「第2回協議会・第14回協議会の記念写真を求めて」

医学図書館 32(1):20, 1985

♪日本医学図書館協会(はじめは官立医科大学附属図書館協議会)の歴史に興味を持ち、ちょうど創立60周年(1987)も間近ということもあって、毎年、一度、開催された協議会のたびに撮られた記念写真を集めることに、やっきになっていました。当時は、国立大学の図書館にも、医学図書館畑専門という方々が各地におられて、いろいろ、教えていただきました。

♪新潟で開催された第1回協議会に、開催館の一員として参加された渡邊正亥(わたなべ・まさい)先生が、習志野でご健在のことを知り、渡邊先生から、昭和2年(1927)の第1回協議会(新潟医科)から昭和18年(1943)の第15回協議会(東京帝國大學医学部)までのほとんどの記念写真を拝借できました。

♪しかし、第2回(岡山医科)と第14回(千葉医科)の協議会の記念写真だけは、渡邊先生の手元にもなく、あきらめかけていました。そこで、不思議な力が働いたようです。「医学図書館」誌の編集で、ご縁のあった青木公男(あおき・きみお)さんのお力添えがあり、千葉の故北村清氏宅で、第14回協議会の貴重な写真を発見できたのです。

♪このエッセイは、千葉市内の北村家を、1984年11月17日に、お訪ねしたときのもの。奥様とお嬢様が、丁寧に応対してくださり、写真の掲載を許可してくださったことが、昨日のことのように、思い出されます。

左から取材に協力していただいた青木公男さん(千葉)、半田光子さん(千葉)。北村清氏の奥様、お嬢様
北村清一家家族写真 女学校入学の初夏(昭和14年夏休み)

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(令和3年 2021年2月6日 記す)

105. 染井の書棚より:「津山に箕作阮甫の史跡を訪ねて」    

医学図書館 34(1):82-84, 1987] 

 [平成21年10月13日 個人リポジトリ登録]

♪津山の静かな駅前から、旧出雲街道を進み、古い町並みのなかに、旧宅跡をみつけました。裏手の林田の丘にある箕作家の墓所から眺めた吉井川の景観が、蘇ります。

津山林田の丘からの景観と箕作家墓所

津山洋学資料館:岡山県津山市川崎823番地(平成22年西新町5に新築移転)

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♪今年、平成21年(2009)の5月30日に、、箕作阮甫旧宅跡の隣に建築中であった津山洋学資料館の新館が完成して、その竣工式が行われたようです。前庭には、市内各所に点在していた洋学者のブロンズ像が集められ、来年3月のオープンを目指して準備中とのこと。桜咲く、津山を再訪してみたいものです。

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(令和3年(2021)1月26日 追記)

104. 染井の書棚:医史学散歩 (1)

🌲ソネット(SONY)のサーバーを利用して、「染井の書棚」というホームページを作成して、私が在職中から書いてきたエッセイなどをデジタル化して公開していたのですが、2021年1月28日をもって、ソネットのホームページ作成サービスが中止されることになりました。

🌲私の書いたもののなかには、Wikipediaの参考文献となっているものもありますので、「染井の書棚」で公開していたものを、一部、本「改訂版・江戸東京医史学散歩」に移しておくことにしました。

🌲1)「日本医学図書館」と金杉英五郎

🌲2)「日本医学図書館」―神田駿河台周辺と明治35年以降の「日本医学図書館」

🌲3)拓本『二本榎保存碑』

🌲4)東京医学校本館遺構

🌲5)加賀谷凡秋と第14回医科大学附属図書館協議会

♪加賀谷凡秋(勇之助)は、ホトトギス同人で、千葉医科大学の法医学教授を務めた。昭和15年(1940)5月9日~11日、千葉を会場として開催された第14回医科大学附属図書館協議会を附属図書館長として主宰している。このエッセイは、昭和59年(1984)から昭和61年(1986)にかけて、凡秋先生の足跡を辿り、千葉大学医学部猪鼻構内や、その周辺の猪鼻城址を散策したときのもの。