92. <余滴>『名勝繪入改正仙臺市内全圖』

明治36年5月1日印刷 5月10日発行

編輯発行兼印刷人 仙台市国分町二丁目五十四番地 盛光堂 峰屋十馬

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(1)昭忠碑(旧本丸天主台にあり)

瑞鳳殿(伊達政宗公御灵屋なり)(灵は霊の異字)

(2)青葉神社(北山にあり)

(3)第二師団司令部(川内旧青葉城)

(4)大橋(廣瀬川にかけたる鉄橋なり)

(5)東照宮(市内の東北宮町に在り)

(6)仙臺警察署(國分町二丁目にあり)

(7)縣會議事堂(表小路にあり)

(8)宮城縣廰(白當臺通りにあり)

(9)地方裁判所(東二番丁にあり)

(10)憲兵本部(東二番丁にあり)

(11)宮城監獄(宮城郡小泉村にあり)

(12)改良劇場仙臺座(東四番丁にあり)

(13)芭蕉辻(仙台の中央なり市内第一なり此所に管内厘程原標あり)

(14)林子平之碑(北八番丁龍雲院にあり)

(15)政岡之墓(八ツ塚光勝寺にあり)[光勝寺:考勝寺]

参考 政岡之墓参拝記念絵葉書

政岡之墓門前(仙臺名所)
高尾之墓(佛眼寺ニ有)(仙臺名所)
徳川氏振子之墓(仙臺名所)
三澤氏初子之墓(烈婦政岡)(仙臺名所)

三澤氏初子之墓

(16)躑躅岡(つつじがおか)(又榴ケ岡云櫻樹数百あり仙台一の遊園也)

(17)宮城紡績器械場(宮城郡荒巻村三居沢)

(18)第二高等学校(片平丁にあり)

(19)控訴院(片平丁あり)

(20)宮城師範学校(北壱番丁にあり)

(21)愛岩神社(向山にあり眺望第一勝地 全市内を一目にし松島金花山を眼にす)

(22)木之下薬師(木之下町にあり)

(2020.2.23 堀江幸司 記す)

91. 宮城病院の東三番丁(元貞坂)から北四番丁への移転と外科手術室の移築

🍂🍂今回は、東北大学病院(仙台市青葉区星陵町1番1号)の前身である宮城病院の場所の変遷について、収集した絵葉書や古地図を通して見てみました。

東北大学医学部附属病院(1989.12.5 堀江幸司撮影)

東北大学病院沿革

🍂宮城病院(東三番丁・元貞坂)跡:[現・新NHK仙台放送局(陸奥ホテル・ホテル仙台プラザ跡)]

宮城病院(元貞坂)
名称絵入改正仙台市内全図(明治36年)

名称絵入改正仙台市内全図(明治36年)
宮城病院(元貞坂)の場所周辺地図(明治36年)(陸軍病院[仙台陸軍衛戍病院]のあたりが、現在、勾当台公園となっています)

🍂新宮城病院(北四番丁)[現・東北大学星陵キャンパス]

宮城病院(北四番丁)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 仙台市全図001-1024x650.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 仙台市全図番地入り大正4年-1024x665.jpg です
仙臺市全圖 番地入. 大正4年度最新版(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

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宮城病院の沿革

東北大学医学部沿革

東北大学病院沿革

明治5年(1872) 仙台共立病院(仙台市南町)(中目齋、石田眞等)

明治12年(1879)5月 仙台共立病院を仙台県立病院と改称して、国分町に移転。7月 仙台県立病院を宮城病院と改称。

明治17年(1884)10月 宮城病院を元貞坂に竣功、移転。宮城医学校の附属として、「宮城医学校附属医院」と改称。

明治21年(1888) 第二高等学校内に医学部が設置され、宮城医学校が廃止。「宮城医学校附属病院」の名称も廃止され、「宮城病院」の名称にもどることとなる。

片平丁にあった第二高等学校医学部が仙台医学専門学校として分離されたのが、明治34(1901)年4月のことで、附属病院として東三番丁(元貞坂)にあった宮城病院(県立)が使われました。

元貞坂(玄定坂)は、宮城病院の敷地と東三番丁通りを結ぶ坂でした。

現在、宮城病院跡には、新NHK仙台放送局が建っていますが、かつて、この地は、仙台停車場に近く、日本鉄道が陸奥ホテルがありました。

仙台停車場前 陸奥ホテル
仙台停車場前 陸奥ホテル

明治44年(1911)4月  宮城病院が、木町通の西側、北四番丁の現在地に移転される。当時の病院長は、内田守一(兼小児科長)、山形仲藝は外科長でした。

大正2年(1913) 東北帝国大学医学専門部の附属医院となる。(県立宮城病院の移管)

大正5年(1915) 東北帝国大学医科大学が開設され医学専門部附属医院は医科大学附属医院となる。

大正8年(1919) 東北帝国大学医学部附属医院と改称

昭和22年(1947) 東北大学医学部附属医院と改称

平成15年(2003) 歯学部附属病院と統合して東北大学病院となる。

宮城病院長(内田博士)
内田医学博士 在職貳拾年記念
山形仲藝博士  在職貳拾年記念  

参考文献

宮城病院の沿革

宮城病院一覧

宮城病院の沿革 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

仙台医学専門学校一覧(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

仙台医学専門学校一覧 明治34年ー明治36年

仙台医学専門学校一覧 明治36年ー明治38年

仙台医学専門学校一覧 明治38年ー明治40年

仙台医学専門学校一覧 明治41年ー明治42年

仙台医学専門学校一覧 明治42年ー明治43年

仙台医学専門学校一覧 明治43年ー明治45年

東北帝国大学一覧. 自大正8至9年

『東北大学医学部開設百周年記念写真集』(東北大学医学部開設百周年記念委員会編 2019年12月27日発行)

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仙台医学専門学校(第二高等学校敷地内)建物図(片平丁) (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

🍂宮城病院全図(明治37年)(仙台市東三番丁六十三番地)

宮城病院内外科室(東三番丁六十三番地)

宮城病院構内外科大手術室

外科手術室は、明治33年(1900)10月着手、明治36年(1903)9月竣功。元貞坂にあった宮城病院の敷地内に新設されました。「宮城病院新設大手術室概要」(山形仲藝、佐藤熊之助供述)によると、建築の大体は、「ハイデルブルヒ」医科大学ならびに東京大学病院の手術室を参考にして、図案は文部省技師の久留正道の手によるとのことです。

宮城病院新築大手術室概要(出典:「東北医学会会報」第三十一号 明治三十七年二月二十日発行)
宮城病院新築大手術室概要(出典:「東北医学会会報」第三十一号 明治三十七年二月二十日発行)

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宮城病院の移転に伴う外科手術室の移築

明治44年3月に宮城病院が北四番丁(現在地・東北大学星陵キャンパス)(のちの東北大学医学部附属病院)に移転した際に、外科手術室は移築されることます。

宮城病院一覧
新宮城病院正門
キャプションに婦人科手術室とあるのは外科手術室の誤り
東北帝国大学医学部平面図(大正8年ー大正9年)

(2020年2月13日 記す)

90. 太田正雄(木下杢太郎)の日記と剖検記録

太田正雄の没年の昭和20年(1945)の日記を見てみると、空襲のなか、大学本郷構内に留まり、講義、回診を続け、当直を務める様子が書かれています。その合間には、懐徳館の庭園、薬学科の薬草園、農学部構内などをまわって花々を写生しています。

♪「日記」には、「江戸東京」に登場する緒方富雄、遠山郁三、高橋明、川喜田(伝研)など、各先生のほか、徳川義親の名前も出てきます。

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♪昭和20年(1945)6月から7月にかけて日記に次ぎのように書いています。

晩年の太田正雄(昭和18年10月19日・20日 東京大学医学部本館前)

昭和20年(1945)6月5日:

曩日(のうじつ)の胆石痛の如し。午前中家居就褥。午后中野氏との約束ゆえ病院にゆく。探しものの為め也。労る。柿沼[昊作](かきぬま・こうさく)教授の室にて診を受く。

柿沼昊作教授

外科病棟のとりこぼちつつある傍にふふみし泰山木の花一枝を折って帰る。

 泰山木(タイサンボク)の花言葉:前途洋洋

昭和20年(1945)6月6日:

胃腸のコリックなほつづく、午後家居。泰山木の花瓶に十分開く、写す。午后登院。回診をすまし、薬学科の薬苑に請うて、ひなげし、かきつばたの茎を得て帰り、帰来之を写生す。病臥

昭和20年(1945)6月7日:

雨。十一時登院。一時十分から二時半講義。三時四十分から五時徳川義親候邸。・・小痛あり。早く臥す。

昭和20年(1945)6月10日:
目ざめて胃部に疼痛あり、之をさぐるに鴿卵大の結節を觸る。之をおすと痛む。之を摩すると段々と小さくなりつひに消失する。然しまたむくむくと腫れ出す。状、局所性の筋の強直の如くである。之が消えてのち、なお固定せる腫瘍ありや否やを指尖を以て確めんとしたが、判然と決定することが出来なかった。唯然しこの時から、其事も亦可能であるといふことを思ふやうになった。少し注意と覚悟とを要するぞと。

(注)鴿:はと

昭和20年(1945)6月11日:
気分あしく、午前九時半登院、十一時より外来を見る。午後伝研にゆかず、教授室に静養、午後一時ごろ大槻をたづね、腹部のパルパチオン[触診]を頼む。

昭和20年(1945)6月12日:
柿沼教授によりバリウムによる腹部レントゲン撮影。

昭和20年(1945)6月19日:
柿沼教授の勧めにより今日より一週間ばかり伊東に休養することにする。

昭和20年(1945)6月25日:
新個の硬結一両個を模索し得たり。沖縄失陷の由。

昭和20年(1945)7月3日:
十時小使荷をとりに来、まづ病院に送る。二時入院、四時好仁会評議委員会。天ぷらを食ひ、ビイルをのみ、スパスムス起る。

昭和20年(1945)7月4日:

八時過より血球計算、胃液検査等をなす。一時過と三時前とに警報。三輪、柿沼教授。

注)この三輪という人物は、当時、医学図書室の事務を担当していた三輪福松のことかと思われます。

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前列の右端が西成輔教授(解剖)、その後ろの三列目の右端が三輪福松。太田正雄教授は、前列の右から3人目(昭和18年 東京大学医学部本館前)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は image-1.png です

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♪8月1日、教職員とともに還暦の小宴を好仁会の二階で行ったあとの8月30日に柿沼内科に再入院することになります。このとき主治医となったが井上貞吉で、柿沼教授(内科)と大槻教授(外科)の相談の結果、手術はせずにリンゲル液による水と栄養の補給が行われることになりました。

東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」)
東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」
東京大学本郷キャンパス(昭和16年(1941)当時)(出典:「東京帝国大学一覧」

♪治療の効なく、10月15日の未明(午前4時25分)に死亡しました。当時、三田村篤志郎教授(病理)が病欠だったため、剖検は松本武四郎諏訪紀夫両助手によって午後1時から行われました。

♪剖検は、病理解剖室の水道が故障のため使えなかったので、皮泌科の手術室で行われました。解剖に立ち会った柿沼教授は、「太田君ぐらい煙草を吸っても、こんなに肺がきれいかね」といったそうです。また、大動脈の動脈硬化もなかったといいます。太田正雄は愛煙家で知られていました。

♪太田正雄は、沖縄陥落や終戦の玉音放送をどんな思いで聴いたのでしょうか。東大構内に残って戦争とたたかった太田正雄教授の人生は、敗戦とともに終わりましたが、その心は、「🍂百花譜🍂」のなかに遺されているのではないでしょうか。

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[剖検記録]

♪松本武四郎(後年、慈恵医大の図書館長も務めた)によって記録された剖検記録を採録しておきます。

[剖検番号]16594 執刀者:松本、諏訪 記録者:松本
[柿沼内科より剖検依頼、剖検時刻 13時(死後88.5時間)]
[臨床的診断]上腹部腫瘍
[病理解剖学的診断]
 1) 体部胃道上に発し、小彎より胃後壁全般に亙り板状に浸潤せる硬癌。原腫瘍部及胃後壁粘膜上の浅き不規則形潰瘍。
胃周囲及膵周囲淋巴腺への転移。肝下面と胃小彎右下部、前者と横行結腸右方寄りの部、胃大弯と横行結腸、廻腸終部と盲腸並に上行結腸始部、横行結腸左部と上方に迂弯せる下行並にS字状結腸等間に於ける腫瘍性胼胝性癒着、転移性播種を伴へる癌性腹膜炎。腸間膜淋巴腺の特別なる腫大を伴はざる腸間膜全体の胼胝性肥厚。

(注記)
 胼胝:べんち(callus)「結合組織の著しい増殖を伴った肉芽組織の瘢痕形成に膠原繊維の硝子変性が加わって硬くなった状態をいう」(南山堂医学大辞典)

 2) 肝の門部に限局せる初期膵道癌並に該部に於ける胼胝様結締織増殖。此の部に於けるDuctus hepaticus並に門脈の狭窄。肝内胆道の拡張。肝の強き黄疸及全身の中程度黄疸。Ductus choledochusの中程度拡張。小腸上部に於ける胆汁色、下行結腸-直腸に於ける灰白色の腸内容。
 3) 上記腹膜炎及門脈狭窄による腹水症(6000cc)。
 4) 初期気管支肺炎、軽度肺水腫、肺後部に於ける血液沈下。
 5) 左肺下等後面-側面及横隔膜面の繊維性癒着。
 6) 冠動脈の硬化及蛇行、房室弁の軽度繊維性肥厚。
 7) 胃壁肥厚圧迫による膵の軽度扁平状萎縮。
 8) 膵の萎縮。
 9) 中葉形成を伴へる胡桃大の所謂「摂護腺肥大」、肉柱膀胱。

(注記)摂護腺:前立腺

10)副腎の脂肪減量。
11)軽度の内膜脂肪化のみにて著明なる硬化症なき大動脈。
12)仙骨部の浅き褥瘡。
13)下腹部の手術創痕、虫様突起の欠如。
14)全身の衰弱。

♪終戦間際の警戒警報(サイレン)が鳴り響くなかでの入院生活は、本人は勿論のこと家族などの看護するものにとっても大変なことであったに違いありません。

♪7月初旬に柿沼内科にはじめて入院したときの様子を「読書療病」のなかで、次のように書いています。

「7月2日に柿沼内科に入院し、同18日(水)退院帰臥した。其間に胃腸のレントゲン診断、胃液検査、血液の諸反応等の事を行った。 ・・・ 悪性腫瘍の如きものではあるまいと云ふことがほぼ明にせられ、入院の目的は達せられた。食欲、消化は尋常であり、悩む所は微にして長く続く腸痛と身体の羸痩とのみであった。」

(注記)羸痩:るいそう:やせおとろえること。

♪亡くなったときの体重は、38kg、脳重量は1400gであったそうです。

(参考文献)

1)『木下杢太郎日記 第五巻』(太田正雄著 岩波書店 1980)

2)『太田正雄先生(木下杢太郎)生誕百年記念会文集』(日本医事新報社 1986)

3)『目でみる木下杢太郎の生涯』(木下杢太郎記念館編 緑星社 第2版 1983)

(平成15年9月3日記)(2010年1月22日 追記)

89. 太田正雄(木下杢太郎)と「医科大學附属図書館協議会」


♪東京都文京区千駄木5丁目(旧駒込林町)に高村光太郎旧居跡を訪ねたあたりから、木下杢太郎を「江戸東京」で取り上げたいと思っていました。

♪神田神保町の古本屋(誠心堂書店)に、『ニ本榎保存碑』(三上参次撰)の拓本を見つけて、買いに行った折り、偶然「すかんぽ」の拓本に出会ったのにも、木下杢太郎に導かれている感じがしていました。

誠心堂書店

「ふるき仲間も遠く去れば、また日頃
 顏合せねば、知らぬ昔と かはりなき は
 かなさよ。春になれば草の雨。三月、櫻。
 四月、すかんぽの花のくれなゐ。また五月にはかきつばた。花とりどり、人ちりぢりの
 眺め。窓の外の入日雲。」 
               木下杢太郎

(木下杢太郎の歌碑が東北大学医学部構内にあります。)

木下杢太郎文学碑(加藤晃一氏撮影 2020.2.15)
木下杢太郎文学碑(加藤晃一氏撮影 2020.2.15)
木下杢太郎文学碑(堀江幸司撮影 1989.12.5)

参考文献:「県立宮城病院の正門(右)と木下杢太郎の文学碑(左)

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♪木下杢太郎(詩人・劇作家)は、本名を太田正雄(1885-1945)といい東京帝國大學医学部の皮膚科教授であった昭和18年(1943)の10月19日(水)、20日(木)の両日、館長として現在の「日本医学図書館協会(JMLA)」の前身である「医科大學附属図書館協議会」の第15回協議会(会場:東京帝國大學醫學部會議室)を主催しました。ちょうど今から60年前のことになります。

♪この第15回協議会の二日目となる10月20日の午前の議長を太田正雄が、午後の議長を木原玉汝(新潟・薬理学)が務めています。当時、木原玉汝は昭和大学医学部第一薬理学教室から新潟医科大学教授に転じていました。

♪10月20日の日記に太田正雄は「午前9時より医科大學図書館会議。午後講義及び回診。5時半より雨月荘にて図書館会議懇親会」と書いています。

♪戦時下の東京大学に全国から集まった館長には、次の人々がいました。

赤野 六郎(京都府立醫科大學中央図書館)
津崎 孝道(京城帝國大學醫學部図書室)
木原 玉汝(新潟醫科大學附属図書館)
高木 耕三(大阪帝國大學附属図書館)
大谷佐重郎(金澤醫科大學附属図書館)
寺坂 源雄(長崎醫科大學附属図書館)
草間 良男(慶應義塾大學醫學部図書館)
鈴木 重武(千葉醫科大學附属図書館)
三輪  誠(名古屋帝國大學附属図書館)
関  正次(岡山醫科大學附属図書館)
本川 弘一(東北帝國大學附属図書館醫科分館)
太田 正雄(東京帝國大學醫學部図書室)

♪第15回協議会の記念写真には、太田正雄のほか、医学部長代理として出席し開会の挨拶を行った西成甫(東京帝国大学医学部解剖学教授)の顔もみえます。撮影は、本館前の階段を使用して行われたようです。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は image.png です

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撮影された場所

現在の東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館):赤門を入って突き当りの建物。

東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)(1985.11.4 堀江幸司撮影)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)
東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館)

♪このときの協議事項には、次のようなものがありました。

(午前)午前9時開会 議長:太田正雄

1. 近時不定期に到着する雑誌の目次を各加盟館に送附する件(京城)
2. 南方醫學に関する文献目録編纂の件(新潟・東大)
3. 戦争の為未着の外国雑誌バックナンバーを後日補充する場合、対策あらば承りたし(金澤)
4. 共同図書目録編纂の件(慶應)
5. 学校図書館に対する新刊図書の優先配給を速かに実施さらるるよう、関係当局に要請するの件(慶應)
6. 皇漢醫學共同目録編纂の件(千葉)
7. 常任幹事校設置の可否(千葉)

(午後)午後2時再開 議長:木原玉汝
8. インフォーメーション・ビューローに関する件(名古屋)

 南方醫學の協議事項のなかで、太田正雄は議長として次のように述べています。


「要するに南方醫學と云ひましても文献的に見て一つはヨーロッパにて出版したものと他は現地に於て出したものですね、前者に就いては東北が一番多く持って居るのですが之に就いては私の方から出掛まして十種類許りの文献を集めて見ましたが・・・・・・で問題は後者ですね、例へばジャワの「GeneesKundig Tijdschrift voor Nederlandsch lndie」の様な本は現在一冊も無いのですから・・・・」

♪太田正雄は協議会を開催した昭和18年(1943)3月から雑草を写生し『百花譜』の画稿とし、二年後の昭和20年(1945)6月には『すかんぽ』(注)を発表しています。この6月中旬より胃腸疾患のため故郷の伊東に静養しますが、胃癌の疑いで東大柿沼内科に入院し、10月15日未明に逝去しました。

♪太田正雄は土肥慶蔵(東大・初代皮膚科講座教授)を恩師としており、宇野朗(うの・ほがら)とも繋がることになります。また、東京での住まいも、本郷西片町や白山御殿町などの本郷界隈であり、しばらく木下杢太郎の足跡を辿ってみたいと思います。

(注)すかんぽ:伊東では「ととぐさ」という草。木下杢太郎は随筆『すかんぽ』のなかで、晩年、東大農学部の構内の一角にすかんぽを見つけて食べた経緯を書いています。「大學構内の公開の場所には今やどこにもすかんぽは見つからなかった。恐らくは大震災後根が絶えたのであらう。所が農學部の裏門からはひる小径のわきの地面に其聚落の有ることを見付けたのである。」

(平成15年9月1日 記)(令和2年1月21日 追記)

88.『東北帝國大學醫學専門部卒業記念 明治四十五年』写真帳と医学部構内絵葉書(Googleマイマップ 東北帝国大学医学部構内)

♪『東北帝國大學醫學専門部卒業記念 明治四十五年』を入手しましたので、その一部と、これまでに収集していた東北帝国大学医学部関係の絵葉書を紹介します。

『東北帝國大學醫學専門部卒業記念 明治四十五年』(写真帳)
東北帝国大学医学部附属病院玄関(絵葉書)

♪「明治45年卒業記念写真集」からの写真と絵葉書を挿入した「東北帝国大学医学部構内」と題するGoogleマイマップにまとめてみました。

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♪明治45年(1912)当時の皮膚科教授は、のちに、土肥慶三のあとを継いで東京帝国大学医学部の教授となる遠山郁三でした。帝大を退職後の遠山郁三は、戦中、立教大学学長(1937-1943)をも務めることになります。

♪職員のなかには、魯迅(魯迅と東北大学)の恩師として知られる藤野厳九郎(解剖学)や井上達一(眼科)の名も見えます。皮膚科に太田正雄(詩人・木下杢太郎)が教授として赴任するのは、大正15年(1926)のことでした。

東北大学医学部構内にのこる「木下杢太郎文学碑」(1989.12.5 堀江幸司撮影)
東北大学医学部構内にのこる「木下杢太郎文学碑」(2020.2.15 加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館])

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 ・明治20年(1887)第二高等中学校医学部設置

 ・明治34年(1901)仙台医学専門学校設置(片平地区)

第二高等学校(仙台医学専門学校)(絵葉書)

 ・明治45年(1912)東北帝国大学医学専門部(星稜地区)

宮城病院建築平面図1(出典:宮城病院一覧
宮城病院建築平面図2(出典:宮城病院一覧

 ・大正4年(1915)東北帝国大学医科大学開設

東北帝国大学医学専門部・東北帝国大学医科大学正門(絵葉書)

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♪写真帳によると東北帝国大学医学専門部の職員は、以下の通りです。

大学総長(文学士)澤柳政太郎

主事(医学博士)山形仲藝(やまがた・なかき)

教授(医学博士)内田守一

教授(医学士)栗原永之助(産婦人科)

教授(薬学士)佐藤喜代作

教授(医学得業士)敷波重治郎(しきなみ・じゅうじろう)

 (得業士とは:医学専門学校の卒業生に与えられた称号 Diplom)

教授(医学士)柿澤信義(かきざわ・のぶよし)

教授(医学士)東 自助

教授 小高 玄

教授(医学士)小塚文治

教授(医学士)遠山郁三(とおやま・いくぞう)(皮膚科)

教授(文学士)古川義天

教授(医学士)小玉龍蔵

教授     藤野厳九郎(ふじの・げんくろう)(解剖学)

教授(医学士)加藤豊治郎(かとう・とよじろう)(内科)

教授(薬学士)細井美水

教授(薬学士)井川寛一郎

教授(医学士)和田徳治郎

教授(医学得業士)玉造弥七郎

教授(医学士)井上達一

助教授(薬学得業士)篠原吉祥

助教授       國岡三樹

助教授(医学得業士)大関隆輔

講師(薬学得業士)石丸生駒

講師(医学士)恒遠 新

教員(陸軍歩兵中尉)大石敬太夫

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[写真帳]

(左)主事 医学博士 山形仲藝先生 (右)病院長 医学博士 内田守一先生
(明治45年写真帳より)
宮城病院正門及本館(明治45年写真帳より)

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♪宮城病院(のちの東北帝国大学医学部附属病院)の正門は、現在の県道31号線(旧国道48号線)[北四番丁通り]と264号線[木町通り]とが交わる交差点(附属病院敷地の南東角)にありました。(病院前の道路、国道(48号線)は、2016年に県道となり、現在は県道31号線と呼ばれています。)

♪この東北帝国大学医学部附属病院正門には、4つの立派な門柱があり、平成2年(1990)に復元されましたが、その後、平成16年(2004)に、現在の場所(県道31号[北四番丁通り]に面した病院正門の左手)に移転整備されています。

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上段 校舎(左) 裏門(右)
下段 東北帝国大学医学専門部正門
(明治45年写真帳より)

現在の流体科学研究所(片平)のあたり

人物上段左から
大石教官、国岡助教授、古川教授、小高教授
人物下段左から
菅原書記、武田書記、宮崎書記、田総書記

庶務室  書籍室


(明治45年写真帳より)
上段 外科手術室外景(左) 病院外景(右)
下段 講義室(左) 婦人科手術室外景(右)
(明治45年写真帳より)
藤野厳九郎教授と解剖実習室(明治45年写真帳より)
上段 遠山教授(左) 皮膚科診察室(右)
下段 皮膚科手術室(左) 皮膚科標本室(右)
(明治45年写真帳より)
四年級応援団(大運動会)(明治45年写真帳より)

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[絵葉書]

東北帝国大学医学部附属医院(絵葉書)
東北帝国大学医学部(絵葉書)
東北帝国大学医学部本館と同附属医院本館(絵葉書)

山形仲藝寿像とレリーフ

大正8年(1919)7月14日に除幕式が行われましたが、戦中の昭和18年(1943)7月3日に銅像は、供出されることになります。

戦後、昭和29年(1954)、艮陵同窓会創立70周年記念事業の一環としてレリーフをはめ込んだ記念碑が作られることになります。(医学部構内 一号館前)

山形仲藝博士レリーフ像(1989.12.5 堀江幸司撮影)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)
山形仲藝博士寿像(1989.12.5 堀江幸司撮影)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)
山形仲藝博士寿像(加藤晃一氏撮影[東北大学附属図書館]2020.2.15)

参考:

1)「東北大学百年史編纂室ニュース」(第4号 1999.8.31)

2) 冨永悌二(巻頭言 ~創立50年の年に)(PDF

東北帝国大学医学部(絵葉書) 山形仲藝寿像が写る(大正8年7月建築)
山形仲藝博士寿像(絵葉書)

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外科手術室と婦人科手術室の場所(出典:宮城病院一覧
東北帝国大学医学部附属病院 婦人科手術室外観(絵葉書)(絵葉書のキャプションに外科手術室とあるのは婦人科手術室の誤りと思われる)
東北帝国大学医学部附属病院 外科手術室外観(絵葉書)(絵葉書のキャプションに婦人科手術室とあるのは外科手術室の誤りと思われる)

参考:東北大学関係写真データベース

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(2020年1月12日 16日 記す)

87.「わが師わが友 (5)」(No.121-No.150)(「日本医事新報」)(最終回)

♪「わが師わが友」のデジタル化は、今回が最終回になります。欠ページがあるところもあり、完全とは言えませんが、先にデジタル化をした「東都掃苔記」「新東京・醫學きまぐれ散歩」とともに、明治から昭和にかけて活躍された医学者や事績を検索するときの手がかりとなればと思います。

♪各記事は、個人研究用にPDF化してEvernoteの共有ファイルとしてあります。将来的に各記事で出てくる人名索引のようなものが作成できればとも思っています。

「わが師わが友 No.121-No.150」(PDF)

121.久保猪之吉先生の思い出 先生の御勤務(山川強四郎) 或る日の先生(宮城冱山) 先生の片鱗(執行作彌) 1381 41[2777]-42[2778] 昭和25年10月14日

122.井街 謙君を思う (淺山亮二) 1385 34[3034] 昭和25年11月11日

123.楠木長三郎先生 (布施信良) 1386 37[3105]-38[3106]4段目 昭和25年11月18日

124.眞鍋嘉一郎先生 (三澤敬義) 1388 25[3237926[3238] 昭和25年12月2日

125.林 文雄博士を思う (塩沼英之助) 1391 33[3457]、32[3456]3段目 昭和25年12月25日

126.中西亀太郎先生 (三戸時雄) 1393 61[61]、60[60]3段目 昭和26年1月6日

127.浅田宗伯の師友喜多村栲窓 (安西安周) 1394 59[135]60[136] 昭和26年1月13日

128.堀内次雄先生と台湾 (森下 馨) 1398 23[387]-24[388] 昭和26年2月10日

129.島薗順次郎先生 (林 良材) 1399 26[450]-28[452] 昭和26年2月17日

130.島村俊一先生 (土屋榮吉) 1401 33[577] 昭和26年3月3日

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131.長與門下の三羽烏 (平野啓司) 1402 25[637]、24[636]4段目 昭和26年3月10日

132.京大創立時代の人々(其の一) (里見三男) 1404 29[769]、28[768]3段目 昭和26年3月24日

133.京大創立時代の人々(其の二) (里見三男) 1405 29[837]、28[836]3段目 昭和28年3月31日

134.石川知福博士 誠實と努力の業績(勝木新次)石川先生の思い出(松岡修吉) 1406 25[901]-27[903]  昭和26年4月7日

135.教授と将軍 (里見三男) 1410 35[1207]、37[1209]4段目 昭和26年5月5日

136.磐瀬雄一先生 (安井修平) 1412 29[1353]-30[1354] 昭和26年5月19日

137.噫!田村於兎博士 (寺師義信) 1414 23[1491] 昭和26年6月2日

138.北里・緒方両先生 (緒方規雄) 1415 29[1565]-30[1566] 昭和26年6月9日

139.明朗な近代的學究 中島 實先生 (小島 克) 1418 31[1771]-32[1772] 昭和26年6月30日

140.中村 登先生 (牟田哲三郎) 1420 29[1921] 昭和26年7月14日

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141.城井尚義のことども 上原太朗 1422 49[2077]、50[2078] 昭和26年7月28日

142.寺邑政徳君 秋田縣内小友村開業の恙虫病の研究家 緒方規雄 1423 55[2159]-56[2160] 昭和26年8月4日

143.宮路重嗣先生 伊藤泰一 1432 33[2777]-34[2778] 昭和26年10月6日

144.二木謙三先生 村山達三 1437 27[3131] 昭和26年11月3日

145.志賀先生を語る(一) 松岡憲固 1438 31[3207] 昭和26年11月17日

146.志賀先生を語る(二) 松岡憲固 1441 27[3419]-28[3420] 昭和26年12月8日

147.卒業五十年の同窓を語る(一) 小池 重 1442 31[3495]-32[3496] 昭和26年12月15日

148.卒業五十年の同窓を語る(二) 小池 重 1443 31[3563]-32[3564] 昭和26年12月22日

149.佐々木東洋先生と佛教醫學 安西安周 1446 53[169]-54[170] 昭和27年1月12日

150.泌尿器科學と土肥慶蔵先生 高橋 明 1450 35[495]-37[497] 昭和27年2月9日

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(令和元年[2019]12月13日 作成 堀江幸司)

86.「わが師わが友 (4)」(No.101-No.120)(「日本医事新報」)

♪今回の「わが師わが友」には、「江戸東京」にも関係深い、ウイリス(No.112)とポンぺ(No.119)が含まれています。また、東京大学医学部関係では、初代解剖学教授を務めた田口和美(No.109)が含まれています。

「わが師わが友(101-120)」PDF

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101.京大解剖の創設者 鈴木文太郎先生 國友 鼎 1347 21[429]-22[430]、20頁[428]4段目 昭和25年2月18日

102.飯島 魁先生 吉田 貞雄 1348 23[491]-24[492]、22頁[490]4段目 昭和25年2月25日

103.大五組の人々 西宮金三郎 1349 25[553]-26[554] 昭和25年3月4日

104.海人草の研究者田中正鐸 田中正太 1351 21[669]-22[670] 昭和25年3月18日

105.芳賀榮次郎君 三浦謹之助 1352 20[728]-21[729] 昭和25年3月25日

106.Dr. H. Heinemann 中澤 進 1355 46[958]-47[959] 昭和25年4月15日

107.大原八郎博士と野兎病の研究 岩永幾太郎 1356 32[1020]-33[1021] 昭和25年4月22日

108.田口和美先生を偲ぶ 大串菊太郎 1357 31[1087]-32[1088] 昭和25年4月29日

109.三宅速先生の思い出 須藤 求、隈 鎭雄 1359 28[1220]-29[1221] 昭和25年5月13日

110.武谷 廣君を憶う 小池 重 1360 29[1289]-30[1290] 昭和25年5月20日

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111.氏家信君を憶う 梅室痩庵 1362 33[1429]-34[1430] 昭和25年6月3日

112.ウイリスの事ども 鮫島近二 1363 27[1499]-28[1500] 昭和25年6月10日

113.村田宮吉先生 安田龍夫 1365 30[1646]-31[1647] 昭和25年6月24日

114.角尾先生を偲ぶ 楠井賢造 1371 41[2073]-42[2074] 昭和25年8月5日

115.淺井猛郎先生 戸苅近太郎 1372 43[2151]、44[2152]の4段目 昭和25年8月12日

116.關場不二彦先生の事ども 鮫島龍水 1374 32[2292]-33[2293]、34[2294]3段目 昭和25年8月26日

117.岡本梁松先生の逸話 小南又一郎 1375 26[2354] 昭和25年9月2日

118.山崎正薫先生を憶う 谷口彌三郎 1377 34[2498]、33[2497]4段目 昭和25年9月16日

119.蘭醫ポムぺの事 佐藤恒二 1378 29[2561]-30[2562] 昭和25年9月23日

120.佐多愛彦先生 吉田貞雄・大野内記 1379 27[2627]28[2628]2段目まで、29[2629]3段目から30[2630]4段目27行目 昭和25年9月30日

(令和元年[2019]12月7日 記す)

85.「わが師わが友 (3)」(No.61-No.100)(「日本医事新報」)

♪今回、紹介する「わが師わが友」の連載記事のなかで、第70回(入澤達吉先生の側面)は、長文のため2週(1313号、1314号)にわけて掲載されています。

♪No.74で取り上げられている「岩熊哲先生」は、『解體新書を中心とする解剖書誌』の執筆者です。「改訂版江戸東京」の第25回を書いていたとき、岩熊哲先生について知りたいと思っていたのですが、今回、「わが師わが友」の記事で、岩熊哲先生の人物像が見えてきました。

「わが師わが友」PDF(No.61-No.100)

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61.石黒忠悳先生 (平井政遒) 1304:21[773] 昭和24年4月23日

62.小澤修造先生のことども (福島寛四) 1305:26[830] 昭和24年4月30日

63.アシヨフ先生のことども (小池 重) 1306 : 25[831]-26[832] 昭和24年5月7日

64.唐澤光徳先生 (鎭目専之助) 1307:25[933] 昭和24年5月11日

65.石川 修先生の思ひ出 (梅室痩庵) 1308 : 25[985]-26[986] 昭和24年5月21日

66.三田定則先生 (古畑種基) 1309:24[1036] 昭和24年5月28日

67.遠藤 滋君 (北島多一 ) 1310:24[1088]-25[1089] 昭和24年6月4日

68.草間滋さんの半面 (高野六郎) 1311:23[1139]-24[1140] 昭和24年6月11日

69.田村君の片鱗 (高橋 明) 1312:22[1190]-23[1191] 昭和24年6月18日

70.入澤達吉先生の側面 (宮川米次) 1313 : 20[1240]-22[1242] 昭和24年6月25日

70.入澤達吉先生の側面(続) (宮川米次) 1314 : 21[1293]-22[1294],20[1292] 昭和24年7月2日

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71.守山恒太郎君を語る (里見三男 ) 1315 20[1344]-21[1345] 昭和24年7月9日

72.井上嘉都治先生 (高田 蒔) 1316 22[1398]-23[1399] 昭和24年7月16日

73.高木喜寛先生 (永山武美) 1317 20[1448]-21[1449] 昭和24年7月23日

74.病床の醫史家 岩熊哲先生 (米山千代子) 1318 22[1502]-23[1503] 昭和24年7月30日

75.市井の名醫 木堅田次郎氏 (及熊謙一) 1319 23[1555]、前頁3段目へ続く 昭和24年8月6日

76.伊東祐彦先生の思い出 (遠城寺宗徳) 1320 33[1617]-34[1618] 昭和24年8月13日

77.木村孝蔵先生 (藤田小五郎) 1321 21[1665] 昭和24年8月20日

78.久保猪之吉先生 (山川強四郎) 1322 21[1717]-23[1719] 昭和24年8月27日

79.小川劔三郎先生 (戸田 亨) 1323 22[1773], 21頁4段目へ続く 昭和24年9月3日

80.秦 勉造君 (小池 重) 1324 27[1835]-28[1836] 昭和24年9月10日

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81.エーリッヒ・レキセル先生の追慕 (村山小七郎) 1325 22[1890]-24[1892] 昭和24年9月17日

82.佐藤秀三先生を憶う (黒屋政彦) 1326 19[1939]-20[1940] 昭和24年9月24日

83.〇九會の人々 (村山達三) 1327 31[2003]-32[2004] 昭和24年10月1日

84.名醫 濱田玄達先生 (田澤多吉) 1328 23[2055]-24[2056] 昭和24年10月8日

85.畏友 三浦謹之助君 (芳賀榮次郎) 1329 33[2117] 昭和24年10月15日

86.井上善次郎先生 (花岡和夫) 1330 21[2165]-22[2166] 昭和24年10月22日

87.亡友の俤[おもかげ] (飯島 茂) 1331 25[2221] 昭和24年10月29日

88.佐多愛彦先生 (熊谷謙三郎) 1332 27[2283]-28[2284] 昭和24年11月5日

89.佐々木秀一先生 (若林東一郎) 1333 26[2342]-27[2343] 昭和24年11月12日

90.大森治豊先生 (溝口喜六、芳賀榮次郎) 1334 25[2401]-26[2402] 昭和24年11月19日

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91.古瀬安俊博士 (梅室痩庵) 1335 23[2459] 昭和24年11月26日

92.晩年の松本順 (松本本松) 1336 29[2525]-30[2526] 昭和24年12月3日

93.大澤岳太郎先生 (井上通夫) 1337 22[2578] 昭和24年12月10日

94.山極勝三郎先生を憶う (石橋松蔵) 1338 21[2637] 昭和24年12月17日

95.三五會の人々 (樫田十次郎) 1339 20[2688]-22[2690] 昭和24年12月24日

96.三浦守治先生 (佐多愛彦) 1341 64[64]-65[65], 63頁3段目へ続く 昭和25年1月7日

97.Bernou先生 (篠原研三) 1343 69[221] 昭和25年1月21日

98.一九四九年ノーベル醫學賞授賞者 ワルター・ルドルフ・ヘス先生 (筒井徳光) 1344 22[250]-24[252] 昭和25年1月28日

99.島峰 徹先生 (金森虎男) 1345 34[322]-35[323] 昭和25年2月4日

100.葛西勝彌君 (高野六郎) 1346 21[369]-22[370] 昭和25年2月11日

84.「わが師わが友 (2)」(No.51-No.60)

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「わが師わが友」No.51-No.60(PDF)

51.片山國嘉先生を偲ぶ 三田定則 1294 19[279]-20[280] 昭和24年2月12日

52.宮入慶之助先生 大平得三 1295 19[327]-20[328] 昭和24年2月19日

53.目黒庸三郎先生 中富猪熊 1296 21[377] 昭和24年2月26日

54.父井上達也 井上達二 1297 19[423] 昭和24年3月5日

55.慈恵の恩師  新井春次郎先生・生沼曹六先生・木村哲二先生・朝倉文三先生・加藤義夫先生・ 實吉、大角両先生  飯田喜久 1298 21[473]-22[474] 昭和24年3月12日

56.恩師ベルツ先生の傳 三浦謹之介 1299 19[519] 昭和24年3月19日

57.佐々木政吉先生 小池 重 1300 19[567]-20[569[ 昭和24年3月26日

58.高木友枝さんの思出 荒井 惠 1301 19[615] 昭和24年4月2日

59.藤浪 鑑先生 森 茂樹 1302 23[671]-24[672] 昭和24年4月9日

60.佐藤邦雄先生の追憶 竹内 勝 1303 37[737]-38[738] 昭和24年4月16日

(令和元年[2019]11月24日 記す)

83. 「わが師わが友」(1)(第1回から第50回)

♪「東都掃苔記」と「新東京・醫學きまぐれ散歩」の一覧表を作成するために,戦後の『日本醫事新報』(週刊)の雑誌に一冊一冊あたっていて,別の連載記事があることがわかりました。「わが師わが友」という連載記事です。

♪「わが師わが友」には,単行本の形で伝記が出版されていない医家の貴重な伝記的な記述が多く含まれており,この連載記事も,一覧表の形で集積しておきたいと思います。長期(全150回)(昭和23年1月から昭和27年2月)にわたる連載なので,一覧表(デジタルアーカイブス)づくりは,根気作業となりそうです。

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♪「わが師わが友」の第1回は,昭和23年(1948)1月1日(第1242号)の「青山胤通先生」(稲田龍吉著)からはじまっていました。第2回は,「北里柴三郎博士」(中山壽彦著)を取り上げています。連載の冒頭に,明治から大正にかけて活躍した国立と私立の医科大学の中心人物を取り上げた形になっています。青山胤通と北里柴三郎は,明治27年(1894)6月,香港で発生したペスト調査のために共に,内務省から派遣された仲でもありました。

♪この連載記事は,長期にわたるのですが,とりあえず第1回から第50回までの連載記事を一覧表に纏めてみました。帝國醫科大學時代の蒼々たる教授たちが取り上げられ,その執筆陣も著名な方ばかりです。第10回の小金井良精の項では,紹介記事を西成甫が書き、第40回の三宅秀については、佐藤物外[恒二]が書いています。

♪取り上げる人物の肖像写真が,本文中に挿入されていますので,その点でも,貴重な連載記事となっています。

「わが師わが友(1-50)」(PDF)

1.青山胤通先生 稲田龍吉 1242 22[22]-23[23] 昭和23年1月1日

2.北里柴三郎博士 中山壽彦 1243 14[66]-15[67] 昭和23年1月21日

3.長與又郎先生 田宮猛雄 1244 15[107] 昭和23年2月1日

4.呉建先生の思ひ出 冲中重雄 1245 14[146]-15[147] 昭和23年2月11日

5.森島先生のことども 阿部勝馬 1246 21[193] 昭和23年2月21日

6.平井毓太郎先生 竹内薫兵 1247 12[225] 昭和23年3月1日

7.若き日の野口英世博士 石塚三郎 1248 18[262]-19[263] 昭和23年3月11日

8.意志と情熱の學者 布施現之助先生 内田三千太郎 1249 25[309]-27[311] 昭和23年3月21日

9.北川正惇先生の追憶 田村 一 1250 13[345] 昭和23年4月1日

10.小金井先生を偲ぶ 西 成甫 1251 14[378]-15[379] 昭和23年4月11日

11.恩師秦佐八郎先生 小林六造 1252 16[420]-17[421] 昭和23年4月21日

12.呉秀三先生 杉田直樹 1253 17[461] 昭和23年5月1日

13.石川日出鶴丸先生を語る 浦本政三郎 1255 13[521]-14[522] 昭和23年5月15日

14.宮本叔先生 村山達三 1256 13[545] 昭和23年5月22日

15.横手千代之助先生 古瀬安俊 1257 15[579] 昭和23年5月29日

16.太田正雄博士の思い出 梅室痩庵 1258 13[609] 昭和23年6月5日

17.恩師島薗順次郎先生を憶ふ 柳金太郎 1259 15[643] 昭和23年6月12日

18.川村麟也先生 伊藤辰治 1260 15[675] 昭和23年6月19日

19.金杉英五郎先生 石川光昭 1261 11[703] 昭和23年6月26日

20.南 大曹先生 桑野佐源太 1262 15[739] 昭和23年7月3日

21.茂木蔵之助先生の憶い出 島田信勝 1263 13[769]-14[770] 昭和23年7月10日

22.高木兼寛先生を語る 小田部荘三郎 1264 15[803] 昭和23年7月17日

23.中原和郎君 矢追秀武 1265 13[833], 17[837] 頁の下段へ続く 昭和23年7月24日

24.岡田清三郎先生 青山進午 1266 13[865] 昭和23年7月31日

25.土肥慶蔵先生を語る 高橋 明 1267 13[897]-14[898] 昭和23年8月7日

26.恩師大澤謙二先生 永井 潜 1268 19[935] 昭和23年8月14日

27.ドクター・トイスラー  橋本寛敏 1269 11[967]-12[968]
昭和23年8月21日

28.恩師瀬尾貞信博士 中山恒明 1270 13[1001]-14[1002] 昭和23年8月28日

29.心の父 富士川游先生 佐藤美實 1271 29[1049]-30[1050] 昭和23年9月4日

30.河北眞太郎君 小島三郎 1272 13[1073] 昭和23年9月11日

31.河本重次郎先生 庄司義治 1273 13[1105] 昭和23年9月18日

32.田代義徳先生 名倉重雄 1274 11[1135] 昭和23年9月25日

33.木村徳衛先生を憶う 荒井恒雄 1275 13[1169]-14[1170] 昭和23年10月2日

34.恩師スクリバ先生 芳賀榮次郎 1276 12[1200]-13[1201] 昭和23年10月9日

35.中村文平先生 守山安夫 1277 19[1239] 昭和23年10月16日

36.岡嶋敬治先生 平澤 興 1278 13[1273] 昭和23年10月23日

37.太田原豊一先生 六反田藤吉 1279 21[1313] 昭和23年10月30日

38.小口忠太先生 中島 實 1280 29[1361] 昭和23年11月6日

39.猪子止戈之助先生の事ども 鳥潟隆三 1281 13[1385]-14[1386] 昭和23年11月13日

40.三宅 秀先生 佐藤物外[恒二] 1282 17[1421] 昭和23年11月20日

41.足立文太郎先生 清野謙次 1283 17[1461] 昭和23年11月27日

42.桂田富士郎先生 戸田 享 1284 17[1501] 昭和23年12月4日

43.森鴎外先生 山田弘倫 1285 25[1549] 昭和23年12月11日

44.水尾源太郎先生 中村文平 1286 13[1577] 昭和23年12月18日

45.私の見た荒木寅三郎先生 古武彌四郎 1288 39[39] 昭和24年1月1日

46.弘田 長先生 栗山重信 1289 11[79] 昭和24年1月8日

47.入澤先生千古不易の教 西川義方 1290 23[115]-24[116] 昭和24年1月15日

48.大瀧潤家君を偲ぶ 二木謙三 1291 17[149] 昭和24年1月22日

49.菅 之芳先生 若山茂雄 1292 19[191] 昭和24年1月29日

50.伊藤準三先生の事ども 鳥潟隆三 1293 21[233]-22[234] 昭和24年2月5日

(令和元年[2019]11月23日)