102. 日本橋川に架かる3つの「ときわ橋」

(1)常磐橋(旧常盤橋)(明治10[1877] 石橋 2連アーチ橋)

(2)新常盤橋(大正9年[1920] 3連アーチ橋)(路面電車開通時に架橋)(昭和63年[1988]改架)

(3)常盤橋(復興橋梁)(大正15年12月 竣工 2連アーチ橋)

🌲🌲🌲

♪「常磐橋(旧常盤橋)」,「新常盤橋」、「常盤橋」は,どれも日本橋川(外濠の一部を含む)に架かる橋です。読み方は「ときわばし」と同じなのですが,「わ」の漢字表記が違います。「」と「」が使い分けられています。石と皿の違いです。

🌲日本橋川(外濠の一部を含む)に架かる橋

日本橋川略図(クリックするとGoogle地図が開きます)

神田川(小石川橋)

三崎橋(日本橋川の起点)

新三崎橋

あいあい橋(旧新飯田橋の場所)

新川橋

掘留橋

南掘留橋

俎橋(靖国通り)

宝田橋

雉子橋

一ツ橋(白山通り)

錦橋

神田橋(本郷通り)

鎌倉橋(外堀通り)

新常盤橋(江戸通り)(旧都電通り)

常磐橋

常盤橋

(↑外濠)

一石橋(外堀通り)(旧・日本橋区北鞘町(きたさやちょう) 現・中央区日本橋本石町一丁目と同区西河岸 現・八重洲一丁目を結ぶ橋)

西河岸橋

日本橋(中央通り)

江戸橋(昭和通り)

鎧橋

茅場橋(新大橋通り)

湊橋

豊海橋(日本橋川の終点)

隅田川(永代橋の近く)

🌲🌲

(1)常磐橋(明治10年[1877]架橋)

♪「常磐橋(旧常盤橋)」は,日本銀行本店前に架かる石橋で,明治10年(1877)に木橋から石造りの2連アーチ橋に架け替えられた橋です。石造りとなったからでしょうか,「わ」の字が皿から石に変わりました。江戸時代には,ここに「常盤橋」(木橋)が架けられていました。

♪江戸時代の「常盤橋」(木橋)は,『江戸名所図会』(国立国会図書館デジタル化資料)の「八見橋」のなかに描かれています。八見橋は一石橋(いちこく)の異名で,この橋上からは,川筋に架かる常盤橋(常磐)(ときわ),銭瓶橋(ぜにかめ),道三橋(どうさん),呉服橋,日本橋,江戸橋,鍛冶橋が,見渡せたといいます。江戸の高台からは,川筋,それに続く江戸湾,富士山,筑波山などが,遠望できたのでしょう。川の流れとともに緑豊かな自然が,江戸にはありました。

八見橋(一石橋):国立国会図書館デジタルコレクション
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: ACtC-3d9oeSjWKJ5Eam-SGj3o91ns4Lk3ux3k5sLcQg0cRcp4UslyYCu7s8F1kvh41gY0d-XULc1Tt6GaWtQ7ZUV0S_rZ50QjpDMMfqzIa7C6VY8MZGG_8tkgFcLwXvbGyszxky1K8AVCJUPiLSh7X86D8t5=w1785-h1316-no

御本丸の大手より東の方,本町への出口にして,御門あり。橋の東詰北の方に,御高札を建てらる。『金葉集』に,「色かへぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤波」といへる古歌の意を,松平の御称号にとりまじへ,御代を賀し奉りての号なりといへり。

♪「日本銀行」の絵葉書(彩色)に「常磐橋(旧常盤橋)」が写っていました。日本銀行との位置関係がよくわかります。長崎の眼鏡橋を思わせる石橋です。美しい2連アーチの橋の姿が,日本銀行の建築によくマッチしています。日本銀行の右隣の建物(横濱正金銀行東京支店)の屋根についたドームが印象的です。横濱正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)を想わせます。

♪日本銀行(明治29年[1896]建設竣工)の建物は,東京駅の建築で有名な辰野金吾によります。コンドルのあとをうけて工部学校(現在の東京大学工学部)の教授に就任した人物です。

日本銀行と「常磐橋」(絵葉書)(堀江幸司蔵) 画面右手の建物は、横浜銀行正金銀行東京支店
写真:
日本銀行と常磐橋(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
日本銀行と常磐橋船着き場(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

🍂常磐橋の皇居側の現在、常盤橋公園(東京都千代田区立)となっている一帯(常盤橋門跡)には、明治9年(1876)10月10日に紙幣寮(大蔵省印刷局)(ポアイン・ベル設計)が竣功しています。跡地には、渋沢栄一の銅像が建てられています。(常盤橋公園は、令和2年現在、周辺の再開発工事のため閉鎖中)

(2)新常盤橋(3連アーチ橋)(大正9年)

♪常磐橋(旧常盤橋)の上流側にある新常盤橋(3連アーチ橋)は,大正9年(1920)に路面電車(市電)の開通に合わせて架けられたものです。系統17番と系統31番が交差する場所でした。昭和63年(1988)の東北新幹線の高架建設に伴って架け替えられ現在に至っています。

都電17系統(池袋駅前―数寄屋橋)

(池袋駅前)―(日ノ出町三)―(日ノ出町二)―(大塚坂下町)―(護国寺前)―(大塚仲町)―(大塚窪町)―(教育大学前)―(清水谷町)―(文京区役所前)―(同心町)―(伝通院前)―(富坂二)―(春日町)―(後楽園前)―(水道橋)―(三崎町)―(神保町)―(一ツ橋)―(錦町河岸)―(神田橋)―(鎌倉河岸)―(新常盤橋)―(日本銀行前)―(呉服橋)―(東京駅東口)―(鍛冶橋)―(有楽橋)―(数寄屋橋)

都電31系統(三ノ輪橋―都庁前)

(三ノ輪橋)―(三ノ輪車庫前)―(龍泉寺町)―(千束町)―(入谷町)―(合羽橋)―(菊屋橋)―(三筋町)―(蔵前一)―(浅草橋駅前)―(浅草橋)―(馬喰町)―(小伝馬町)―(本町三)-(室町三)―(新常盤橋)―(丸ノ内一)―(東京駅降車口)―(東京駅乗車口)―(都庁前)

♪一石橋の背景には,外濠に架かる常盤橋(2連アーチ橋),常磐橋(旧常盤橋)(2連アーチ橋),新常盤橋(3連アーチ橋)の3橋が,綺麗に写っています。画面の左上隅に,新常盤橋の3連アーチが,かすかに見えます。自然光による撮影のため,橋への太陽光線のあたり具合とアングルを考えての撮影だったと思われます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: ACtC-3fMUR3PEo2KZ_008HwdQpzhUZCwemhF0eL5XHt0KID4SSnc9qj59xED81JXQ8_WRfLcwtb9hTVQu8iB0jIiJeuxtoBRjwR6fHa0M0cI1PFy_Uo4E5DetQRzSr3fy778AEY8OnXqMpiWZBbo2jP5q3y3=w1516-h1316-no

(3)常盤橋(復興橋梁)(大正15年竣功)

♪「常磐橋(旧常盤橋)」の下流(一石橋側)に位置する「常盤橋」は,関東大震災の復興計画のなかで架けられた橋です。常盤橋の復興工事の写真が,土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス(震災復興橋梁工事写真[橋梁No.28])のなかにもありました。

写真: 常盤橋(絵葉書)(大東京の十六大橋)(堀江幸司所蔵)
常盤橋(復興雄橋梁)(絵葉書 堀江幸司所蔵)

♪「常盤橋」(復興橋梁)の絵葉書は「大東京の十六大橋」のなかにもありました。背景に日本銀行と横濱正金銀行東京支店の建物が見えます。横濱正金銀行東京支店は,工事期間中に関東大震災に会うのですが,昭和2年(1927)に竣工しています。設計は長野宇平治でした。

常盤橋(復興橋梁)

位 置:麹町區鐡砲町 日本橋區北鞘町間(外濠架設)

橋 長:39メートル

橋 幅:27メートル

竣 工:大正15(1926)年12月

♪土木図書館のアーカイブスのなかに,一石橋と常盤橋(復興橋梁)が写っている絵葉書もありました。タイトルは「丸の内に通ずる新常盤橋及一石橋を望む」となっています。この新常盤橋とは,現在の常盤橋のことと思われます。震災後,常磐橋(旧常盤橋)の下流に新たに橋を架橋したために「新常盤橋」と表記したものと思われます。

丸の内に通ずる新常盤橋及一石橋を望む(ここで新常盤橋とあるのは現在の常盤橋)

🌲日本橋川に架かる橋

三崎橋→新三崎橋→あいあい橋(旧新飯田橋の場所)→新川橋→掘留橋→南掘留橋→俎橋→宝田橋→雉子橋→一ツ橋→錦橋→神田橋→鎌倉橋→新常盤橋→常磐橋→常盤橋→(←外濠)→

一石橋→→西河岸橋→日本橋→江戸橋→鎧橋→茅場橋→湊橋→豊海橋→隅田川

新常盤橋(大正9年[1920] 3連アーチ橋 都電) (昭和63年[1988]改架)(東北新幹線)

常磐橋(旧常盤橋)(明治10[1877]年 石橋 2連アーチ橋)

常盤橋(復興橋梁)(大正15年12月竣工 2連アーチ橋)

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♪当時の工事写真や絵葉書から,外濠や日本橋川上のひろびろとした空,静かであったころの江戸・東京が想像されます。

♪3つの「ときわ橋」には,それぞれの歴史があることがわかりました。日本銀行前に架かる「常磐橋(旧常盤橋)」の近くには,「常盤橋公園」があって,養育院に関係した渋沢榮一の銅像が建っているようです。7)

♪春の訪れとともに,街道筋の散歩に加えて,隅田川,日本橋川,神田川などの川筋の散策も続けたいと思います。散歩を通して,記憶し,過去の文献とともに記録に残すことがいかに重要なことかと,改めて,感じています。

🌲🌲

♪外濠(御堀)は一石橋で日本橋川に分かれて,西河岸橋→日本橋→江戸橋→鎧橋→茅場橋→湊橋→豊海橋と続き,隅田川に流れ込みます。

♪一石橋を外濠側から見た絵葉書を入手しました。絵葉書のタイトルは「日本銀行」となっているのですが,前景に外濠,遠景(画面右側)に改架前の一石橋が写っていました。外濠と日本橋川が繋がる部分です。一石橋がアーチ橋に改架されるのは,震災前の大正11年(1922)12月のことです1)。

写真:
写真: 左から日本銀行・横濱正金銀行東京支店・東京火災保険株式會社(外濠と日本橋川分岐点の一石橋際)

♪外濠には,舟が浮かんでいます。これから,一石橋をくぐり,日本橋川を下って隅田川に出るのでしょうか。江戸は舟運で繁盛しました。

♪外濠に沿って,建物が並んでいます。画面左が日本銀行,中央が横濱正金銀行東京支店(震災前の建物)(東京銀行の前身・現在の三菱東京UFJ銀行日本橋支店および貨幣博物館の場所・東京都中央区本石町一丁目[旧本両替町]),その右隣が東京火災保険株式會社(明治36年[1903]8月起工,明治38年[1905]7月竣工・旧北鞘町)の建物です。

横濱正金銀行東京支店(正金銀行出張所)
写真: 東京火災保険株式會社(日本橋區北鞘町一番地 一石橋際・辰野金吾設計・明治39年8月1日)
東京火災保険株式会社
写真: 東京火災保険株式會社と一石橋(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
東京火災保険株式会社新築落成移転記念(絵葉書)

◇🌲🌲

♪日本橋白木屋の上空から俯瞰した絵葉書がありました。画面左に外濠,そこから分かれて日本橋川が流れています。外濠には,復興後に架けられた常盤橋(復興橋梁)(大正15年[1926]12月竣工)が見えます。日本橋川に入って,一石橋,西河岸橋,日本橋と橋が架かっているのがわかります。

写真: 日本橋上空から見た日本橋川・外濠(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
[絵葉書2](白木屋上空から見た日本橋川・外濠(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

参考文献

1) 『東京の橋 生きている江戸の橋』(石川悌二著 新人物往来社 1977)

2) 『新訂江戸名所図会1』(巻之一天枢之部)(市古夏生・鈴木健一校訂 ちくま学芸文庫 1996)

3) 『帝都復興記念帖』(昭和5年 復興局)

4) 『都電が走った町 今昔』(林順信著 JTB日本交通公社出版事業局 1996)

5) 『都電が走った町 今昔II』(林順信著 JTB日本交通公社出版事業局 1998)

6) 長野宇平治:「横浜正金銀行東京支店建築概要」.土木建築工事画報 3(2):22-26, 1927.(土木図書館デジタルアーカイブス 「土木建築工事画報」)

7) 『東京の銅像を歩く』(木下直之著)(祥伝社 2011)

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🌲「東京新聞」(2020.11.08)によると、東日本大震災によって被害を受けた常盤橋の修復工事が完成したそうです。

写真:
復元工事中の常磐橋(平成25年5月 堀江幸司撮影)
写真:
復元工事中の常磐橋(平成25年5月 堀江幸司撮影)

(平成25年3月27日 記す)(平成25年5月11日 追加 記す)(令和2年11月22日 追記)

101. 日本赤十字社病院:本館と外来診察所(設計:片山東熊と岡田信一郎)

現在地日本赤十字社医療センター:渋谷区広尾4丁目(旧南多摩渋谷村御料地・渋谷区宮代町1丁目)

(1)本館(明治23年)(片山東熊設計)

明治23年(1890)6月竣功 設計:片山東熊(長州藩出身 コンドルの一期生)(参考:建築学会写真データベース

🌲現在の日本赤十字社医療センターは、もと佐倉藩・堀田下屋敷跡にあり、「日本赤十字社病院全景」の絵葉書に写る大木は、手術室の裏庭にあった「宗吾の松」かと思われます。敷地内には、多くの松のほかに、大イチョウ、大椎、大桑の木があったそうです。この「宗吾の松」は、関東大震災後、昭和初期に枯れ、その後、敷地内に一株だけの残った松が、二代目の「宗吾の松」として、医療センターの新築工事(2010年落成)の際に現在地(日本赤十字看護大学広尾キャンパス構内)に移植されています。

参考:日本赤十字社医療センター建物建設工事

日本赤十字社病院全景(絵葉書)
渋谷赤十字の宗吾松(東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書. 第2冊 (天然記念物老樹大木の調査))(国立国会図書館デジタルコレクション)

日本赤十字社病院(絵葉書)(本館は正門を入って右手)

日本赤十字社病院本館荘園(絵葉書)

(2)本館の再建(大正14年[1925])(岡田信一郎設計)

🌲岡田信一郎(東京帝国大学工科大学建築学科)が日本赤十字社病院の設計顧問となったのは、大正4年(1915)のことで、岡田による日本赤十字社病院関連の設計には、震災後の大正14年(1925)に竣功した本館のほかにも、外来診察所、分病室、産院など多数ありました。(参考:「岡田信一郎岡田捷五郎建築設計原図集成 内容一覧」国立国会図書館デジタルコレクション

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 日本赤十字社病院前庭001-1024x644.jpg
日本赤十字社病院前庭(右手に見える建物が本館、左手の植木の後ろに見える建物が外来診察所)

🌲🌲🌲

(3)外来診察所(明治37年[]1904)

「外来患者の増加にともない明治35年本社に増築委員会を設け、同年7月工事い着手、同38年にかけて、外来診察所が完成。このとき、分病室(伝染病室)、寄宿舎、教場なども完成。」

明治35年には、長年、日本赤十字社の社長を務めた佐野常民(さの・つねたみ)(佐賀藩)が死去し、後任として、松方正義(まつかた・まさよし)(薩摩藩)が就任して、副社長も大給恒(おぎゅう・ゆずる)(奥殿藩)にかわって小澤武雄(おざわ・たけお)(小倉藩)(陸軍士官学校校長・陸軍中将・貴族院議員)が就任しています。

日本赤十字社創立貳拾五年記念祝典記念(絵葉書)(佐野常民社長・花房義質副社長・大給恒副社長)
「第九囘万国赤十字総会参列日記 : 明治四十五年五月」(国立国会図書館デジタルコレクション)
(日本赤十字社社長・松方正義 副社長・小澤武雄 副社長・花房義質)

小沢男爵講話百題 : 日本赤十字社副社長

少将小沢武雄士官学校長被命ノ件

(4)外来診察所(大正11年[1922]11月)(岡田信一郎設計)(のちに外来別館として使用)

(5)新外来診察所(昭和11年[1936])

「昭和10年7月9日地鎮祭を行って工事に着手し、翌年11月に完成。鉄筋コンクリート4階建で、一部に地階をもち外面は白色タイル張、本館と薬剤科、レントゲン科に区分されている」

日本赤十字社中央病院構内圖(昭和41年当時)(病院創立80周年)

参考文献

「日本赤十字社中央病院80年史」(日本赤十字社中央病院 昭和41年刊)

(令和2年[2020]8月23日 コロナ渦中 記す)

100.『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)(2)

🌲前回からの続きです。絵葉書と組み合わせて紹介します。

『日本赤十字社病院寫眞帖』(PDF)

設立経緯:

参考:

1)「日本赤十字社中央病院80年史」

2)「日本赤十字社病院沿革及現况」(国立国会図書館デジタルコレクション)

3)「日本赤十字社歴史画談」(国立国会図書館デジタルコレクション)

明治19年(1886)

 5月 陸軍軍医総監 橋本綱常の提出した病院設立建議書に基づいて本社臨時会議で病院建設を可決

 8月 陸軍軍医監 石黒忠悳の斡旋で麹町區飯田町付近の土地を陸軍省から借り入れ病院の建築起工

博愛社(日本赤十字社の前身)
日本赤十字社(飯田町)(絵葉書)

日本赤十字社跡記念碑(東京都千代田区神田佐久間町4丁目9番地)

 10月 院長陸軍軍医総監橋本綱常、副院長陸軍軍医監石坂惟寛 以下病院職員を嘱託

 11月17日 開院式を挙行し博愛社病院と命名

明治20年((1887)

 博愛社が日本赤十字社と改名されたのに伴い、博愛社病院も日本赤十字社病院と改名される

明治21年(1888)

 12月 現在の地(渋谷区広尾)である南多摩御料地(豊多摩郡渋谷村御料地)の拝借を許可

 🌲この御料地内では、照憲皇太后(明治天皇の皇后)が奨励された養蚕のため、桑の木などが栽培された時期もあったようです。

明治23年(1890)

 12月 新築病院はほとんど落成 

明治24年(1891)

 5月 病院新築成り現在地(現・渋谷区広尾)に移転開院

「新築の病院はドイツのハイデルベルヒ大学病院を模したもので、・・・この新病院は、三宅大学教授が持ち帰ったハイデルベルヒ大学病院の設計図によって汚水の消毒まで完備したもので、・・・設計監督は片山[東熊]工学博士による」

二階建てのレンガ造りの本館の背後に内庭があり、その廻りを病室が囲む形で設計されています。この病棟の一部は、現在、明治村に移築(昭和48年[1973]解体・昭和49年[1974]移築)されて、現存しています。

🌲🌲🌲

日本赤十字社病院正門(渋谷)(絵葉書)

日本赤十字社病院本館正面(絵葉書)

明治25年(1892)

 6月17日 新築病院開院式挙行

日本赤十字社病院開院式:「中央医事新報」(294)

明治45年・大正元年(1912)

 10月 飯田町にあった本社、芝の現在地に移転。博愛社時代に本館として使われていた建物は、看護婦集会室として広尾の構内に移築される。

[写真]

芝の日本赤十字社本社(現・港区芝大門1丁目1ー3)

日本赤十字社病院(現・日本赤十字社医療センター 渋谷区広尾4丁目1-22

日本赤十字社本部(芝)(絵葉書)

大正11年(1922)

 外来診察所を新築。

[写真]

大正14年(1925)

 10月 本館、理学診察所、第1区東別室、北病棟、調乳室、分病室南棟、販売所落成。

[写真]

昭和11年(1936)

 11月 病院創立五十周年記念式典並に外来本館落成式挙行。新築外来本館で診察開始。

[写真]

昭和12年(1937)

 3月 旧外来診察所、薬室のあとを病棟に改め入院患者を収容する

🌲🌲🌲(前回の続き)

16、『日本赤十字社病院寫眞帖』
17、『日本赤十字社病院寫眞帖』
18、『日本赤十字社病院寫眞帖』
19、『日本赤十字社病院寫眞帖』
20、『日本赤十字社病院寫眞帖』
21、『日本赤十字社病院寫眞帖』
22、『日本赤十字社病院寫眞帖』
23、『日本赤十字社病院寫眞帖』
24、『日本赤十字社病院寫眞帖』
25、『日本赤十字社病院寫眞帖』
26、『日本赤十字社病院寫眞帖』
27、『日本赤十字社病院寫眞帖』
28、『日本赤十字社病院寫眞帖』
29、『日本赤十字社病院寫眞帖』
30、『日本赤十字社病院寫眞帖』
31、『日本赤十字社病院寫眞帖』
32、『日本赤十字社病院寫眞帖』
33、『日本赤十字社病院寫眞帖』
34、『日本赤十字社病院寫眞帖』
35、『日本赤十字社病院寫眞帖』
36、『日本赤十字社病院寫眞帖』

(令和2年(2020)8月17日 東京は新型コロナ禍 酷暑・37度 記す)

99.『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)(1)

🌲『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)を入手しましたので、デジタル化して紹介します。(2回にわけて掲載します)

場 所:東京市渋谷區宮代町一番地(現・東京都渋谷区広尾4丁目)

略 歴

🌲明治19年(1886)11月麹町區飯田町に当院の前身の博愛社病院創立、翌明治20年(1887)5月、日本赤十字社病院と改称。

🌲昭和16年(1941) 日本赤十字社中央病院と改称

🌲昭和47年(1972) 日本赤十字社産院を統合して、日本赤十字社医療センターとなる

参考:日本赤十字看護大学校歌・貞明皇后御歌「四方のくに」

(次回へ続く)

(令和2年(2020)8月5日 記す)

98. 三上参次:我が住へる番地の歴史

千駄木林町:「東叡山御林」

場所:現在の団子坂上から動坂上に繋がる道(保健所通り)と駒込大観音通りに挟まれた本郷台地上の区域。谷をこえて田端、道灌山、不忍池、遠くには品川湊がみえたような自然豊かな、空気清らかな土地。周囲には、寺院も多く、畑ではお茶なども作られたことがあったようです。

間江戸大絵図(明和9年(1772))(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

(1)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲今は亡き父君に従ひて、我が居を駒込千駄木林町の片ほとりにトせしより、早や二十年を過ぎたり。

🌲一夢茫々、隙行く駒の足のいと疾きを覚ゆれども、顧みれば、二十年は二タ昔の事なれば、その間の林町の変化は、実に驚かるるなり。

🌲我がはじめてここに住ひし頃は、げに林町と名に負へるに背かず、樹木生ひ茂り、空気清く、桃紅李白の眺めもまた、ここかしこにありて、閑静なる境なりき。

🌲日毎に我が大学に通ふに、門を出でて二町ばかり、途すがらに太田の原といふがあり。

🌲千駄木町の五十番地といへるにてもとは懸川の城主太田氏の下邸なりき。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
分間江戸大絵図(明和9年(1772))

(注)千駄木町50番地:現在の光源寺(駒込大観音)前の駒込学園前交差点を日本医科大学病院方面に向かって、「日医大つつじ通り」に抜ける道の両側一帯

駒込大観音


(注)太田氏:太田摂津守

 周辺地図:(旧千駄木50番地附近)

🌲さすがに江戸の開祖たる人の後とて、邸地いと広く、十年許りの前までは、雑木茂り、青草の氈を敷き詰めたる如き原にて、朝夕の往来にここにさしかかれば、自から、心舒び気爽かなるを覚ゆるばかりなりき。


(注)舒(じょ):舒暢(じょちょう):こころがのびのびする。楽しくなる。

🌲されば、過ぐる日清戦役の折には、この原に、幾棟の厩舎建て連ねられて、馬匹の徴発せられたるもの幾百頭、ここに繋がれて、之を扱ふ兵士の操練なども、行はれたるほどなりき。

🌲さるに、いつしか人家稠密の巷となりて、今は殆んど立錐の余地だになく、土地人の、尚、太田の原と呼ぶのみぞ、可笑しきながら、尚、昔忍ばるる心地す。
(注)稠密(ちゅうみつ):多く集まる。こみ合う。

🌲芝、麻布、青山さては本所、深川などの場末と同じように、この窮北の地も次第に開かれて、都会は何処まで膨張するにやと打ち驚かれ、滄桑の変といふもかくやと思はるる事多し。
(注)滄桑の変(そうそうのへん):滄海(あおうなばら)が変じて桑畑(くわばたけ)となる意。世の中の移り変わりの激しいこと。

🌲都市のみかく急速に発達するは、如何なる現象ぞや、国民思想は健全なりや、否やとまでも疑うはるるなり。

🌲我が茅屋も、昨年は、火災保険の契約を締ぶべき必要に迫られぬ。

🌲あはれ、四十五年の大博覧会の敷地ともならば、何地にか移り行かんなど、一時は心苦しう思ひたり。

🌲それは幸に青山の方へ逸(そ)れたれど、今にして、この林町の過去をたづね、また今を記して、将来の変遷を占はばやと思ひ立ちぬ。

(次回に続く)

(平成15年1月29日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

🌲🌲

🌲江戸太郎重長、太田道灌持資などの頃には、我が林町は如何なる状態にかありけん。

🌲猫額大のところの事なれは詳かならず。

🌲菅原孝標朝臣の女の更科日記、道興准后の迴國雑記、さては堯恵法印の北國紀行などにも、この林らしきところは見えず。

🌲小田原北條の分限帳に、駒込卅六貫文、屋中卅九貫文、新堀四十五貫文、合せて百廿貫文の地、遠山孫九郎の所領たる旨記されたれは、千駄木林町も、その卅六貫文のうちなるべけれど、尚、その名は見えず。

🐎さて、駒込は、駒の飼はれたりし区域なるべしとの説、信ずべきが如くなれば、その一小部分なる林町も、雑木生ひ立ち、萱草など茂り合ひて、武蔵野の片端なる面影をとどめ、勇める駒の四つ三つ二つ、ここかしこに遊牧せるさまなりけんかし。

🌲明治七年の東京地図にも、ここは市区の外として、全く記載せられざるほどなれは、「権現様御入国」の時代には、もとより、人の注意にも上らざるところなりしと見ゆ。

(次回に続く)

(平成15年1月30日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

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(3)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲千駄木とは、何時如何なる縁由ありての唱へなるにや、定かならず、或は、その昔太田道灌が植ゑ附けたりし林にて、栴檀の木特に多かりしが故になどともいひ、或は、東叡山へ千駄の護摩の木を納めしによるなどとも、口碑には傳へたれども、信用しがたし。

(注)栴檀(せんだん):庭に植える落葉高木。夏の初め、薄紫の花を開く。皮・実は薬用。「栴檀(センダン)は双葉(ふたば)より芳し(かんばし)[大きくなってから立派になる人は、小さい時分からすぐれた所が有るものだ]」 このセンダンは、正確にはビャクダン(白檀)を指すようです。

🌲青山近くの千駄が谷も、もとは千駄萱と書き、萱の多く出でしよりの名なるべければ、ここの林も、薪材を伐出ししよりの唱へにて、千駄とはただ数の多きをいへるなるべし。

🌲新編武蔵風土記の編者も、この説に従へり。

🌲寛永年間となり、上野に東照宮の建立せられ、ついで三代将軍の靈屋の建てらるるに及んで、その宮靈屋の薪材として、この地を附属せられし事と見えて、元禄、享保頃の江戸図には、明かに「日光御門跡御やしき」としるせり。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))

🌲延享三年に至りて、林は開発せられて、段高の場所となり、そのうち、六町八反は上野の寒松院の、四町八段は同じく東漸院の預ることとなりにき。

🌲されど、尚、天保の地図などを見れば、上野などと同じに、木立多かりし様に書けり。

🌲嘉永五年の江戸図にも、尚、御林とあれども、団子坂筋の表通りのみは、駒込御林跡地としるし、但し町家なりと注せり。

(注)「東都駒込邊絵図」(安政4年<1857>)で確認してみると、現在の大観音通り沿いの駒込学園横から稲荷社(御林稲荷社)の前に駒込御林跡地との記載があります。また、その奥の都立駒込病院の方向に、上野東漸院御林、上野寒松院御林と記載されています。

🌲ついで間もなく、米艦渡来の頃よりして、林もおひおひに開かれて、畠地となり、宅地と変りしこと、古老も語るところなり。

(注)米艦渡来:アメリカ使節ペリーが浦賀に来航したのは嘉永6年(1853)。

🌲表通りより林への入口には、二カ所に黒木の総門ありて、無用の者入るべからずとの、厳かなる榜示は、御一新の頃まで掲げられたりしと云ふ。

(注)門の位置:「東都駒込邊絵図」と現在の地図を並べてみると、門は大観音通りから千駄木5丁目を突っ切って文京区立千駄木幼稚園に通じる道の入口付近にあったようです。この道の途中に、千駄木児童遊園があります。番地でいうと文京区千駄木5丁目4番地と5番地をわける道の大観音通り沿いに御林に入る門があり、4番地側(15番地・16番地・17番地・26番地、28番地、29番地あたり)が上野寒松院の御林で、5番地側(11番地・12番地・13番地・14番地・30番地あたり)が上野東漸院の御林であったようです。現在、かつての門のあたりは、まちづくりのための用地(文京区役所都市計画部・地域整備課)となっています。

🌲是れまた、古の荘園の一種、守護不入の禁の遺例にて、我はその地の民なりと、思はるるも可笑し。

(次回に続く)

(平成15年2月2日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

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(4)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲さて、お林地といふは、東西二町強、南北は四町余りもありぬべし。北の方、下駒込村に接するところ、則ち今の動坂、駒込病院の方面には、御林なりし頃の境界の堤、百五十間の長きにも亘りたりけるが、文政の頃には、はやわづかに三十間ばかりとなり、今となりては、全くその痕跡をも見るべからず。

(注)御林境界の堤:『分間江戸大絵図』(文政11年<1828>)および『御江戸大絵図』(天保14年<1843>)と現代の地図を比較してみると、「千駄木御林」を囲む堤は、大保福寺(現在の駒込学園の地)と養源寺大保福寺に沿って、北へ御鷹部屋(現在の都立駒込病院の地)方向に、現在の文京区立千駄木小学校あたりまで延びていました。そこから堤は、南へ円を描くように現在の本郷保健所通りあたりに沿って、団子坂方向に築かれていたようです。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))
分間江戸大絵図(明和9年(1772))


♪『分間江戸大絵図』(須原屋茂兵衛蔵版)によると、明和9年(1772)頃の御林は「東叡山御林」と呼ばれていました。明和といえば、杉田玄白が解体新書を出版したころです。この東叡山(とうえいざん)とは、京都の比叡山に擬してつけられた上野寛永寺の号です。

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♪今回、御林の場所を確認するために、参考文献のなかに収録されている何種類かの本郷界隈の『江戸切絵図』をみました。色彩が美しく、まるで「花のお江戸」が目に浮んでくるようでした。


♪人文社の「古地図目録」によると、各地の絵図の復刻版がでているようです。古地図や絵図は、ほとんどジュンク堂書店2階の地図の売場(http://www.junkudo.co.jp)に揃っています。また、神田神保町界隈にも古地図を扱っている古書店があるようです。文献収集の範囲が広がって「江戸東京」の楽しみがますます増えそうです。

(注)養源寺(ようげんじ)(文京区千駄木5-38-3)には、安井息軒(やすい・そっけん)の墓があります。安井息軒(1799-1876)は日向国(宮崎県)の出身で、幕末・維新期に儒学者となり、昌平黌(しょうへいこう)の儒官を務めました。養源寺の隣は、連光寺です。連光寺には、最上徳内、青山景通(東大内科教授青山胤通の兄)の墓があります。

 

連光寺
最上徳内之墓
青山景通之墓

周辺地図(養源寺・連光寺周辺)

🌲林の中には、人家稀疎にして、東漸院預りの方には纔かに十五軒、寒松院の方には廿五軒ばかりもありしにや。

(注)駒込林町の町会は、江戸時代の上野寛永寺の東漸院持と寒松院持によって、東林会西林会とにわかれていました。

🌲いづれも、百姓、植木屋、黒鍬の者、さては商家の隠宅などにて、杉、桐、椚の類或は竹薮などの間に、茅葺、梯葺の平家を構へ、畠には大根、葱などの野菜を栽培したりき。

(注)黒鍬の者:江戸時代、江戸城内の警備や掃除、荷物の運搬などに従った者。黒鍬組丁:『小石川谷中本郷繪圖』(萬延2年<1861>)によると、現在の本郷通りの向丘二丁目交差点を大観音通りに入った角の左側の三井住友銀行の周辺一帯は黒鍬組丁と呼ばれていました。江戸時代にこのあたりに住んだ黒鍬者は、御城(江戸城)になにかことがあると、中山道を御城に向かって駆け付けたのかもしれません。

🌲幕府の末頃にていへば、この林に住へる人は、年貢として、一反毎に金二分を、名主の許に持ち行き、名主は之を取纏めて、上野なる東漸院、又は寒松院へ納むるの習ひなりき。

🌲若し上野に非常の事あれば、林の民は皆駆けつくべき掟にて、その為めに、平生より、御靈屋御用と、いかめしく銘打つたる提灯を渡され居たりとぞ。

🌲我が始めに住ひたりし百七十番地も、今住へる百六十九番地も、ともに東漸院預りの方なるが、維新前には、その組合十五軒より、毎年正月の五日といふに、手作りの菜五十把を、東漸院へ納むる例なりき。

(注)三上参次が、はじめに住んだ駒込千駄木林町170番地は、現在の文京区千駄木5丁目13番地、次に住んだ169番地は、文京区千駄木5丁目12番地あたりと思われます。なお、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(参考文献4)では、三上参次の住んだ住所を林町167番地としています。

🌲之を齎し行くものは、この時のみは、たとひ百姓の身分なりとも、靈屋の参拝を許されて、面目を施したりしは、また、非常のとき、駆けつくる習ひのありしに基いてなりとぞ。

(注)齎(もたらす):持って行くこと

(次回に続く)

(参考文献)
1. 『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』人文社、2002.
2. 『江戸東京名士の墓碑めぐり』人文社、2002.
3. 『嘉永・慶応 江戸切絵図で見る幕末人物・事件散歩』 第3版. 人文社、2002. 
4. 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(季刊)其の二十八. 谷根千工房、1991.(みんなでつくる林町事典 p.4-23.)

(平成15年2月8日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

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(5)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲百六十九番地の方は、亡き父君が、淺川某といふ挿花の師匠より、買ひ受けられしものなるが、淺川の前には、もと舊幕の御坊主たりし吉田某その前には、御家人たりし大羽某、またその前には、御普請方なりし某、尚その以前には、或る紀州の人地主たりしにて、その人は、この地に小屋掛けして、「ドンドル」の製造を試みたりしといふ恐ろしき話もあり。

🌲これ恰も、御一新直ぐ後の事なるが、それより以前の持主の事は未だ分らず。


(注)恰(あたかも):ちょうど
(注)御一新:慶応4年(1868)4月、江戸城が無血開城。徳川慶喜(よしのぶ)(15代将軍)は水戸に退去して、9月に明治と改元されました。

🌲さて百七十番地の方は、これもまた亡き父君が、小島某なる人より購はれしなり。

🌲小島氏は、或る名家の後なるが、慶應の初年に、この地三百廿坪強を、金二十五両にて、或る神田の質商より求めしなりといふ。

🌲この老人、今は古稀を過ぐること、はや四五歳なるべきが、語りていふ、老人幼年の頃には、この邊りの土地は、殆ど價なかりしときけりと。

🌲地主は、僅かばかりなりとも、年貢を上野へ納めずばならず、非常の節に駆つけの義務はあり、組合の交際はあり、かたかた煩はしきがために、或は一樽の醤油、或は一升の酒などを引出物として、土地を遺り取りしたる時ありといふは、この頃なるべし。

🌲老人また曰ふ、その後嘉永の頃とか、今の或る大地主は、九百坪の地を金廿両にて購ひ得て、やがて今の身代の基をなしたり。

🌲下つて上野戦争の前には、繁華なる巷の人の、かかる邊鄙の地を望めるもありて、一時は俄に、二倍にも三倍にも、地価の騰貴せし事ありしが、やがてかの瓦解となりて、大名、旗本、家人の邸地の、多く廃虚となり、原と化したる時には、また暴落して、千坪拾五両ならば、可なりの土地を手にし得たりけりと。


(注)瓦解(がかい):江戸時代の終わり。明治維新。

🌲物価如何に低廉にして、天保通寶の一枚だにあれば、銭湯に積もる垢を去りて、六枚を佛ひ、床店に髪を結ひ髯を剃りて、廿六文を遣はし、次に卅二文にて二八蕎麦のをかはりを命じ、三十文を酒一合に投じ、尚、六文の残余ありしと云へる時代の事とは云へ、九百坪廿両といひ、千坪拾五両といふは、その格別に廉なりしに驚かるるなり。


(注)天保通寶(てんぽうつうほう):天保6年(1835)に江戸幕府がはじめて作った銅銭で、楕円の形をしており、四角穴がある。

🌲その頃、このあたりの畠地一反を、金五六両にて購へるものは、之に栽培せる大根の一両年の収穫、若しくはその葱を、四五回も青物市場に運び出だせば、やがて、畠地の原価を回収し得たりしとぞ。

🌲能く時変を観て富を成せる、昔の白圭の如き人、孰れの世にも乏しからず、かかる機に乗じて、江戸の一時の空閑地を買占めて、巨富を致ししもの頗る多しと云ふ。


(注)孰れ:いずれ。頗る:すこぶる。

🌲明治五六年の頃よりは、さる土地に、茶を植うる事しきりに行はれたりといへるが、我がここにト居せし頃も、かしこここに、雑木の老幹の亭々たる外は、家を環りて皆茶にして、その小さく、白く、清楚愛すべき花の盛り、又は茶摘み時の歌の調子など、いと興ある事に思ひたりしなり。

🌲その茶も、今は殆んど残りなく抜き棄てられて、人の住居とかはりぬ。

🌲昔はかかる鄙にても、住めば都と思ひたりしに、今はまことの都となりぬ。


(注)鄙(ひな):田舎。郊外。城外の田野の地。「辺鄙」

🌲我が庭の片隅には、尚、木立多く、むかしの名残見えて、わざとならぬ鶯の春の初聲を、人よりも早く聞くは嬉しけれども、四十五年の大博覧会は逸れたるものの、ここもまた、何時までかこのままにてあるべき。

🌲谷一つ隔てたる田端の高臺も、今は家屋多くなりぬ。

🌲この谷も、幾年ならずして、家もて埋もるるに至るべし。

🌲大なる日本。大なる東京。

🌲林町の名のみ優に聞かる時は來ぬべし。

(明治四十年十二月)

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(平成15年2月10日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

97. 駒込林町:三上参次邸宅跡(2):御林稲荷社:「忠魂碑」

♪宇野彰男さんから三上参次が関係した石碑が文京区千駄木5丁目(旧駒込林町)の近くの公園(御林稲荷社)(駒込天祖神社の飛地境内)にあるとお聞きしたので、確認に行ってみることにしました。

場所:御林稲荷社(文京区千駄木5-6-13)

♪ナップザックにデジカメ、メモ帳、水筒などの取材道具を入れ、自転車で向かうことにしました。冬の風が、少し冷たく感じられましたが、よく晴れ渡って絶好のサイクリング日和となりました。

♪本郷通りの富士神社入口交差点を都立駒込病院の方向へ進むと、動坂上交差点にでます。交差点を渡ると一方通行の出口があります。この道が本郷保健所通りです。文京区立千駄木小学校、文京区立千駄木幼稚園、文京区立文林中学校、文京保健所本郷保健サービスセンター、文京区立特別養護老人ホーム千駄木の郷・千駄木高齢者在宅サービスセンター・千駄木在宅介護支援センターと続きます。

♪保健所の手前に高村光太郎旧居跡(文京区千駄木5-22-8)があり、説明版が建てられていました。光太郎・智恵子については、後日、調べることとして、そのまま道なりに進みました。

♪団子坂上交差点にでました。この交差点を渡って、まっすぐに続く道が、森鴎外の薮下通り(薮下道)です。観潮楼址(文京区立鴎外記念本郷図書館)(注1)は、この薮下の道の入口にあります。薮下の道は日本医科大学・根津神社裏門方面に繋がっています。

注1)本郷図書館の移転に伴い併設されていた「鷗外記念室」は「森鴎外記念館」として独立することとなり駒込大観音通り側に移転しています。(2012.11.1開館)

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文京区立本郷図書館の並びに島薗邸(登録有形文化財)(矢部又吉設計)があります。昭和7年(1932)、島薗順次郎(東京帝国大学医学部内科教授)の長男・島薗順雄(新潟大学医学部教授・東京大学医学部教授・東京医科大学教授)(生化学)の結婚にあたって建てられた和洋折衷の住宅です。設計は、矢部又吉により、ドイツ風の意匠が施されました。島薗順次郎の家は、この島薗順雄の家から、徒歩10分のところにあったとのことです。島薗順雄の妻は、三宅秀の長男・三宅鑛一(東京府立松澤病院長)の三女・昭子です。(注2)

♪西岡 暁先生(吉祥寺病院)によると、島薗邸は、「戦後の一時期「林町内科医院」となって駒込林町21番地に住んでいた宮本百合子が患者として来院」していたそうです。

三宅家家系図(出典:「桔梗 -三宅秀とその周辺ー」福田雅代編纂 昭和60年)

注2)島薗順雄・昭子の没後、島薗邸は、たてもの応援団によって維持・管理されてきましたが、その一部を売却することになったとのことです。

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♪団子坂を下って不忍通りにでると谷中霊園へ通じる三崎坂(さんさきざか)になりますが、今回は、坂を下らずに不忍通りを背にして、大観音通りの商店街を本郷通りの向丘二丁目交差点方面に向かって進みました。

♪三上参次によると、幕末から明治のはじめまで、この辺り(駒込御林跡地)の表通りから林への入口には黒木の総門があって、「無用の者入るべからず」との榜示があったといいます。

三上参次が住んだ旧駒込林町(現・文京区千駄木5丁目13番地)

♪ちょうど、前回紹介したコースと逆方向から、駒込学園横の鉤の手になった路地の突き当たりにある御林稲荷社に着きました。

♪宇野彰男さんからのメールに、平成11年(1999)に宇野さんご自身が撮影された石碑の写真が添付されていましたので、石碑はすぐわかりました。境内に入って右手に建てられていました。

♪実は、前回、この辺りを訪ねた時も、この御林稲荷社の境内に入ったのですが、その時は三上参次が書いた碑文ばかりを探していて、この石碑の発起人には気がつかないでいました。

♪石碑の表に「忠魂碑」とあります。裏にまわってみました。石碑は塀の際に建てられているので、身体を塀と石碑に挟むようにして、台座に近い部分に刻まれていた発起人の名前を確認しました。

♪この石碑は、昭和7年(1932)7月29日「故陸軍砲兵大尉土井浩君之霊・故海軍三等兵曹奥田吉丸君之霊」のために、当時の林町町会が中心となって建立されたもののようです。発起人の最後に三上参次(林町町会顧問)の名前をみつけることができました。

♪御林稲荷社の入口に文京区が建てた旧町名案内(旧駒込林町)の案内版が建てられていました。千駄木山に位置した駒込林町の縁由などが、簡潔に書かれています。

♪三上参次も駒込千駄木林町の歴史について、雑誌『歴史地理』のなかで林町に邸宅を構えたいきさつなどとともに詳しく記しています。貴重な記録だと思いますので、次回以降に全文を紹介しておきます。

(平成15年1月26日 記)(令和2年[2020]6月7日 追記)

96. 駒込林町:三上参次邸宅跡(1)

場 所:文京区千駄木5丁目13番地
交 通:営団地下鉄・南北線 本郷三丁目駅下車

周辺地図:

♪駒込には、駒込林町のほかにも旧町名として、駒込淺嘉町、駒込逢來町、駒込千駄木町、駒込坂下町、駒込動坂町、駒込片町、駒込曙町、駒込吉祥寺町、駒込富士前町、駒込上富士前町、駒込神明町などのよい名前がありました。戦後の都市開発などによって、これらの長く馴染んだ趣のある町名が、思い出のなかに消えています。

♪三上参次の住んだ駒込林町は、現在の住居表示では文京区千駄木5丁目となりました。邸宅は駒込林町169番地(現在の文京区千駄木5丁目13番地)にありました。

♪本郷通りの向丘二丁目交差点を不忍通りに繋がる団子坂方面に向かいます。駒込学園交差点の左に駒込大観音(こまごめおおがんのん)・光源寺があります。

♪駒込大観音は縁起によると大和国(奈良県)長谷寺(はせでら)本尊の十一面観音を模して元禄10年(1697)に建立されました。昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲で消失しまたが、西山如雲によって製作され、平成5年(1993)5月18日に再興されています。戦前には、この境内に、樹齢300年を越すような梅の大木があったそうです。春になると梅の木に、鴬が飛び交い啼いていたことでしょう。長年、駒込に住んでいますが、今回、はじめて駒込大観音にお参りできました。これも「江戸東京」の散歩のお陰と感謝しています。(この駒込大観音の仏頭に関してはすげ替え事件も起こっています。)

東京新聞記事(仏頭すげ替え 著作権訴訟)(2010.3.26 朝刊)

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♪駒込学園(駒込中学校・駒込高等学校)を過ぎると、その並びに文明堂書店があります。その隣のリンデン六番館(マンション)の横の路地を入ると、突き当たりが御林稲荷社です。鉤の手になっている路地を道なりに行くと右手が三上参次の邸宅があった文京区千駄木5丁目13番地(旧駒込林町167番地)になります。

♪宇野彰男さん(三上参次曾孫)によると、三上参次は、この地に長男・勝が生れた翌年の明治20年(1887)(23歳)から75歳で亡くなる昭和14年(1939)6月7日まで50年余り住んだとのことです。敷地は600坪ほどもあったそうです。

♪邸宅の前には、明治時代から大正時代にかけて牧田牧場があって牛が放し飼いにされていました。いまでは、この界隈は庭などないような小さな家々が密集していて、邸宅があった面影は、感じられませんでした。

♪三上参次は、播磨国神東郡御立村みたちむら)(現・兵庫県姫路市船津町御立)の出身で、昭和9年(1934)9月9日に、郷里の御立村に「三上参次先生誕生之処」の碑が竣工しています。(参考文献2:)

♪また、神戸新聞によると、2019年11月23年、姫路市船津公園内に「三上参次顕彰碑」が建てられ、その除幕式が挙行されたとのことです。機会があったら訪ねてみたいと思います。

(参考文献)
 1)『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(三上参次著 吉川弘文館 1991)

2) 「三上参次先生のことども 没後80年」(三上参次顕彰会)(船津町社会教育協議会 平成31年1月)

兵庫県姫路市船津町周辺地図:

姫路文学館:(北館1階・文人展示室:三上参次)

(平成15年1月3日 記)(2020年6月2日 追記す)

95. 高村光太郎と三上参次が住んだ町:駒込林町:『本郷駒込林町地圖』

 
高村光太郎旧居跡:駒込林町25番地(現在の文京区千駄木5丁目22番地)


三上 参次邸宅跡:駒込林町169番地(現在の文京区千駄木5丁目13番地)

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♪神田神保町の秦川堂書店で入手してあった『本郷駒込林町地圖』(東京市聯合青年團林町分團)をPDF化しました。

♪『本郷駒込林町地圖』には,戦前の番地が入っています。個々の地所の境界を知ることができます。駒込林町の町内全体の地番がわかります。「駒込中学校(236番地)」,「林イナリ神社」,「杏林舎印刷工場(172番地)),「鶴ノ湯(227番地)」の具体的な場所が記されています。


♪三上参次の邸宅は,169番地にありました。「林イナリ神社」の前の路地を進んだ右側が169番地です。さらに進むと「鶴ノ湯」の銭湯があります。

♪地図でみると近くですが,当時の屋敷は,それぞれの敷地が広く,千駄木界隈は,木々も鬱葱としていたでしょうから,「鶴ノ湯」も,いまとは大分違う風景のなかにあったのでしょう。

♪駒込林町の地図に載った「鶴ノ湯」は,いまでも,「鶴の湯」の看板を挙げて営業しています。(2014年1月2日廃業)「鶴の湯」の横の小路には,数日前に振った初雪が,まだ,残っていました。両脇から軒先が迫っています。路地を抜けると,しばらくして,見慣れた都立駒込病院前のバス通りにでました。本郷通りと不忍通りを繋ぐ道です。ほっとして,一息つきました。

♪動坂上の交差点から富士神社の前を通って本郷通りへ戻りました。「高村光太郎旧居跡」「三上参次邸宅跡」「富士神社」「鶴の湯」の場所を,Googleマイマップ「本郷界隈:医史跡案内」に追加しました。

(平成25年1月19日 追加)

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二つの林町(駒込林町・小石川林町)

1.千駄木5丁目(旧駒込林町)周辺地図:

2.千石2丁目(旧小石川林町)周辺地図:

♪文京区内には、旧町名で林町が二カ所ありました。駒込林町(現在の千駄木5丁目と3丁目の一部)と小石川林町(現在の千石2丁目)です。駒込林町は、明治2年(1869)から明治44年(1911)までの間は、駒込千駄木林町といいました。(参考文献1、2)

♪この駒込林町に高村光太郎と三上参次の住まいがありました。二人のお墓が、染井霊園にあることは、「江戸東京」のなかで触れましたが、住居は駒込林町でした。同じ町に住んだ二人が、同じ霊園に眠っていることになります。

♪駒込林町が、どの辺りであったかというと、医学図書館関係の方々には、日本医科大学図書館(千駄木1丁目)の近くといった方がわかりやすいかもしれません。かつて、この辺りは、東京帝國大學の住宅地として、文化人や学者が多く住んだ町でもありました。

♪千駄木5丁目(旧駒込林町)は、JR駒込駅前から東京大学本郷キャンパスに向かう本郷通りの左側に位置しており、高林寺(緒方洪庵墓所)と都立駒込病院の近くで、本郷通り、不忍通り、団子坂に挟まれた区域です。

♪千駄木の地名の由来は、太田道灌が栴壇(せんだん)の木を植えたためとか、一日に千駄(せんだ)の薪を切り出したためとか諸説があるようです。上野寛永寺創建後には、この林地を同寺に属し、徳川霊廟用の薪材をとらせたともいいます。(参考文献2、3)この辺りもバブルの影響で旧家が取り壊され、雑木林など昔の面影は残っていません。

(注)栴檀(せんだん):庭に植える落葉高木。夏の初め、薄紫の花を開く。皮・実は薬用。「栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)より芳し(かんばし)[大きくなってから立派になる人は、小さい時分からすぐれた所が有るものだ]」

駒込吉祥寺境内にある栴檀の木(和田修平撮影)

♪近くの吉祥寺の山門には、「栴檀林」の額が掛けられていますが、ここに、現在の駒澤大学の前身のひとつである学寮(栴檀林)があったことをしめしています。

駒込吉祥寺山門 額「栴檀林」(和田修平撮影)

♪三上参次は、この町から、「お正月など大礼服を着て宮中へ二頭馬車に乗り参内していた」(参考文献1)といいます。また、この町へは、高村光太郎を訪ねて、草野心平や尾崎喜八などの詩人がやってきています。

♪高村光太郎は『智恵子抄』に収載されている「うた六首」のなかで次のように歌っています。


 「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾をいねしめず」
 「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」
 (昭和13年ころの作)。

♪高村光太郎・智恵子や三上参次に思いを馳せながら、駒込林町界隈を散策してみようと思います。

参考文献:

1)地域雑誌『谷中・根津・千駄木』其の二十八(谷根千工房、199

 2)『ぶんきょうの町名由来』(東京都文京区教育委員会社会教育課編、1984)

 3)『大東京の史蹟と名所』(復刻版)(佐藤太平著、博友社、1977)

(平成14年12月18日 記)(2020年5月24日 追記)

94.「二本榎保存之碑」(西ヶ原一里塚): 拓本

所在地:東京都北区西ヶ原2-47

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♪北区西ヶ原の滝野川警察署前の道(本郷通り)の真ん中に、「二本榎保存之碑」(大正5年6月)の記念碑が建っています。

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♪この碑の存在は以前から知っていましたが、今回、三上参次の事跡を調べていて、その撰文が三上参次によることがわかりました。

♪日光御成道(旧岩槻街道)の一里目の一里塚である「本郷追分」(東京大学農学部前・高崎屋酒店角)については、連載第9回で取り上げましたが、その時は、二里目の一里塚にある「二本榎保存之碑」の碑文が、まさか、旧東京医学校本館に関係のある三上参次によるものであるとは思ってもいませんでした。

♪宇野彰男氏(三上参次の曾孫)に、お尋ねしたところ、この記念碑の撰文についてはご存じないとのことでしたので、西ヶ原は自宅からも近いので、自転車で行って撰文を確認してみることにしました。

♪染井通りの中程に本郷学園(高等学校・中学校・幼稚園)がありますが、その斜め前に染井坂に入る道の入口があります。染井坂のはじまりの右手が駒込小学校で、左手が西福寺(さいふくじ)です。西福寺には徳川吉宗にかわいがられ江戸城内の庭師も勤めた伊藤伊兵衛政武(いとう・いへえ・まさたけ)の墓(東京都指定旧跡・昭和35年2月13日)があります。


♪染井坂を下り切り、道なりに行くと、染井銀座商店街通にぶつかります。この商店街は、昭和の初めに暗渠となった谷戸川に沿った道が発展してできました。谷戸川の水源は、染井霊園の裏の東京外国語大学西ヶ原キャンパス(移転して公園・老人ホーム・マンションなどに再開発されている)のグランド付近であったといわれています。(外国語大跡地周辺まちづくりニュース

♪染井銀座商店街通を横切って、上州屋質店前の路地をさらに真っ直ぐに進み、坂を上り詰めると本郷通りの滝野川消防署前にでます。

♪本郷通りを渡って、王子に向かって右側の歩道を進みました。滝野川消防署、東京都北区防災センター、北区立滝野川公園、印刷局東京病院(現・花と森の東京病院)、財務省印刷局滝野川工場(誠心堂書店)で入手しましたので、以下に紹介しておきます。

1.

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2.

3.

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

4.

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

5.

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

6.

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

7.

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

8.

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

9.

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

10.

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

11.

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

12.

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

13.

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん

14.


大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

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「二本榎保存之碑」の碑文

2.

二 本 榎 保 存 之 碑

公 爵 徳 川 家 達 題

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん


大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

(裏 面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり

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♪碑文によると南側の「二本榎保存之碑」がある土地(本郷通り中央の緑地帯)は、飛鳥山公園の附属地となっています。

♪飛鳥山公園の一部としてまで、塚と榎を保存しようとした三上参次や澁澤栄一の史蹟に対する強い思いを感じます。

♪本郷通りの車の往来による排気ガスによって、この辺り一帯も環境が随分と悪化していますが、七社神社の境内の静寂さの中に「二本榎保存之碑」が設置された大正のはじめの頃の薫りを感じ取ることができます。散歩した当日は、ちょうど碑のまわりの緑地帯の草刈りが行われていました。

♪碑文をみていて、この「二本榎保存之碑」の碑文が廣群鶴(こう・ぐんかく)(御碑銘彫刻師)によって刻まれていることに気がつきました。高林寺にある緒方洪庵の墓と岡節斎の記念碑の石碑を鐫刻(せんこく)した谷中の石屋です。

♪石碑を刻んだ廣群鶴によって、緒方洪庵と三上参次が繋がったようにも思えました。

♪廣群鶴については、連載第2回で触れましたが、廣群鶴はほかに、「澁江抽斎之碑」(台東区感應寺)、「佐藤尚中之碑」(台東区谷中霊園)、「戸塚文海墓碑銘」(台東区天王寺)などの石碑を鐫刻しているようです。(文献参照)このうち「戸塚文海墓碑銘」の題額は「二本榎保存之碑」と同じく徳川家達によるといいます。

♪廣群鶴の刻んだ石碑の確認をかねて、これからの「江戸東京」の散歩は、しばらく谷中界隈が中心となりそうです。

(参考文献)
 廣群鶴と谷中の石屋. 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の四十二(谷根千工房 1995年3月30日発行)pp.2-17.
 

(平成14年10月27日 記)(令和2年(2020)5月18日 追記)

93. 御鷹匠屋敷跡:東京都立駒込病院(現・がん・感染症センター都立駒込病院)


周辺地図


東京都立駒込病院(現・がん・感染症センター都立駒込病院):


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♪本郷通りをJR駒込駅前から東京大学方面へ向かい上富士前交差点、富士神社入口交差点を過ぎると、次ぎの交差点が文京九中入口ですが、その交差点の進行方向左側の道端に「駒込総社天祖神社入口(昭和三十四年五月建之)」の標柱が建っています。

♪天祖神社(駒込神明宮)は、駒籠(駒込)の総鎮守産土神(うぶすなかみ)で、その氏子区域は、駒込神明町、淺嘉町、動坂町、千駄木林町、駒込片町、吉祥寺町、富士前町、上富士前町、北豊島郡巣鴨町大字上駒込村字傳中、妙義坂、染井でした。

♪境内は、いまも昔の面影を残し、クスノキ、イチョウの大木があります。明治時代には、その敷地は約一千坪もあり、「老杉蔭暗らき所」で、境内から動坂に抜ける近道がありました。いまでも、境内を通って、動坂方面に通行できるようになっています。

(2019年撮影)(がん・感染症センター都立駒込病院は、この境内を入って奥、右側一帯にある)

♪この天祖神社の裏が「がん・感染症センター都立駒込病院」(旧東京都立駒込病院)(以下、駒込病院)で、この辺りは、将軍が鷹狩りをした際に、その役を担う鷹匠たちの屋敷(御鷹匠屋敷)があった場所です。八代将軍吉宗は、鷹狩りの御膳所(休憩場所)とて、いまも巣鴨地蔵通商店街入口にある真性寺(しんしょうじ)を使ったそうです。真性寺は、森鴎外が『北條霞亭』(大正6年<1917>)を執筆するために訪ねたお寺でもあります。

♪駒込病院は、本郷通りと不忍通りに挟まれた場所に位置しています。病院の名称から、JR駒込駅の近くにあるように思われがちですが、どちらかというと田端よりにあります。ちょっと交通の不便な所で、病院案内ではJR田端駅から都バスを利用した交通案内があります。JR駒込駅からはタクシーで行くのが便利です。本郷通りを富士神社入口交差点で左折すると動坂の坂上にでます。その右側が駒込病院です。

♪正面入口の一角に「動坂遺跡(東京都指定史跡 昭和51年1月16日指定)」の説明版が建っています。それによると、「縄文中期の集落跡と享保3年(1718)に置かれた鷹匠役屋敷跡の複合遺跡」で、昭和49年(1974)8月、東京都立駒込病院の改築の際に、ここから貝塚が発見され、鷹匠役屋敷跡に関連する遺構・遺物も豊富に発掘されたとあります。

♪動坂は不動坂の略で、動坂にあった赤目不動にちなんで、そう呼ばれたといいます。寛永のころ(1624-44)三代将軍家光が鷹狩の途中、赤目不動に立ち寄り、目黒・目白に対して目赤不動(南谷寺)と命名したそうです。

♪駒込病院正面入口の前をさらに進むと駒本(こまもと)小学校前交差点で本郷通りへぶつかりますが、その手前の左側が高林寺(緒方洪庵墓所)です。現在の目赤不動(南谷寺・なんこくじ)は、交差点を右折して左側の本郷通り沿いにあります。

♪東京都立駒込病院の歴史を調べていたら、『新撰東京名所図会(風俗画報臨時増刊)第50編』(明治40年発行)に東京市駒込病院の記載がありました。

東京都立駒込病院の歴史

『新撰東京名所図会(風俗画報臨時増刊)第50編』(明治40年発行)に現在の東京都立駒込病院の前身である東京市駒込病院についての記述がありましたので、紹介しておきます。

 「東京市駒込病院は、駒込動坂町にあり。明治十二年虎列刺病流行の時、設置したる舊避病院の一にして、北豊島郡駒込村即ち今の地に病室二棟を新築したりしもの、その起原たり。後ち一度閉院して東京府に引継ぎ遂に之を毀撤し、其敷地のみ保有したりしが、十九年六月向ヶ岡彌生町の避病院を其跡に移し、廿八年より事務所、病室を増築し自費患者の入院を許し三十年より、東京市に属し、之を常時傳染病院とし、以て現在の病院に擴張せり。其敷地左の如し。自廿六番地至四十一番地 自七十五番地至八十五番地 自八十九番地至九十一番地 九千九百一坪。建坪二千十六坪余。病室八棟、百七室ありて、患者二百五十人を収容するの設備を有す。消毒所、洗濯所、汚物焼却場、患者賄所、浴室、寝室、醫局、薬局事務所、看護婦室、診察所、顕微鏡室、門番所、物置等あり。醫員四名、調薬生三名、機関手一名、其他看護婦以下の諸員あり。卅九年十一月末日の在院患者百七人なり。外来患者を取扱はず、診察料不要。入院料は、特別一日金貳圓五拾銭、一等一日金壹圓五拾銭、二等一日金壹圓、三等一日金五拾銭。但自費患者に限る。電話本局七百五十八番」

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♪明治39年(1906)当時の駒込病院では、4名の医者で100名以上の入院患者をみていたことになります。病院のまわりには、天祖神社、富士神社、吉祥寺などの神社やお寺の境内があり、近くには千駄木の雑木林も多く残っていたことでしょう。隔離された一万坪ほどの敷地内で患者さん達はどのように過ごしていたのでしょうか。

♪動坂上の駒込病院の辺りには、町家のほかに植木屋も多くあったようです。動坂下は、新開地で、田端に連なり、一円に耕地が続いていたそうです。坂上からは、日暮里、尾久の方まで眺望が開けていて、野鳥が飛び交い、空気もいまよりずっと澄み切っていたことでしょう。夜空の星もどんなにか綺麗にみえたことかと思います。

♪縄文時代は、この辺りまで海だったわけで、東京都立駒込病院の前に立ち、この地域の歴史を振り返ると、すごい時代の移り変わりを感じました。

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♪令和2年(2020年)3月から顕著になった新型コロナウィルス感染症の発現により、東京には、緊急事態宣言が発せられ「がん・感染症センター都立駒込病院」をはじめ都内の各病院では、入院患者への面会原則禁止など、院内感染防止対策のため、厳重な警戒態勢がとられています。

♪5月中旬になって、全国的に感染者数は、徐々に減ってきてはいますが、まだ、安心できるような状況にはありません。依然、マスク不足は続いてます。日本手ぬぐい(トンボ柄)でマスクを自作してみました。手ぬぐいを折りたたんで、左右にゴムをかけただけですが、以外に顔にフィットします。

筆者・堀江幸司

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参考文献:『駒込病院 百三十年の史譚』(磯貝 元著 博文館新社 2011)

(平成14年8月18日 記)(平成14年8月19日 記)(令和2年(2020)5月9日 追記)