69. タムソン夫妻の墓 (Gravestone of DAVID THOMSON and His Wife : MARY PARKE) They are buried in Somei Cemetery, Toshima-Ku, Tokyo, Japan.

染井霊園内の外人墓地墓道の先が巣鴨門の方向

墓石の場所:染井霊園内(外人墓地)

住 所:東京都豊島区駒込5-5-1

♪平成22年(2010)10月2日(土)の午後,染井霊園の外人墓地にタムソン夫妻のお墓を探しに行ってみることにしました。昨日までの雨は止み,やっと,秋らしい気配が感じられる気候になってきました。

♪職場からの帰り,地下鉄都営大江戸線の春日駅で,都営三田線に乗り換え,巣鴨駅で下車。まず,旧中山道(巣鴨地蔵通り商店街)沿いにある「とげぬき地蔵尊」(高岩寺)にお参りしてから,「お地蔵さま」の山門の前の路地を入ったところにある青森屋さんで,いつもの「シソ漬にんにく」を買いました。ここの漬物は,国産で,おいしくて,もう何年も通っています。お店のおばさんの応対にも,なかなか,味があります。

巣鴨地蔵通り商店街:青森屋(漬物)

♪今日も,「お地蔵さま」の境内の横の路地にあるカレーうどんの古奈屋さんの店前には,行列ができていました。ここが本店なのですが,小さなお店です。ずいぶん,お洒落に改装されていました。最近では,東武百貨店(池袋東武レストラン街スパイス)や六本木ヒルズなどにも支店ができるほどの人気店となっているようですが,残念ながら,まだ,古奈屋さんのカレーうどんを味わったことはありません。なにしろ,いつも,順番待ちの行列が,路地を埋めているのです。

♪古奈屋さんの前の路地を抜けると,白山通りに出られます。そこの横断歩道を渡ったところに,各地から「お地蔵さま」にくる観光バスが止まる駐車場があります。

♪江戸時代には,もちろん,白山通りはなかったわけですから,駐車場のところまでが高岩寺こうがんじの敷地でした。白山通りができたことによって,高岩寺の境内が分断され,飛び地となった場所を,「高岩寺駐車場」として利用しているようです。その駐車場の裏手一帯が,染井霊園です。

♪白山通りは,関東大震災後に旧中山道のバイパスとしてつくられた道路です。「お地蔵さま」の境内は,旧中山道(巣鴨地蔵通り商店街)と白山通りに挟まれているわけです。

♪森鴎外が,池田京水のお墓を探しに,染井共同墓地に足を運んだのは,大正5年(1616)1月10日のことでした(関連 第29回 第30回 第31回 第32回)。タムソンが亡くなったのは,大正4年(1915)のことですから,森鴎外は,その翌年に,染井霊園を訪ねたことになります。

♪そのころの染井共同墓地の周辺は,染井吉野桜の木々とともに,緑の多い場所でした。墓地の裏には,巣鴨御薬園跡(関連 第19回第20回)が広がり,藍染川の水源の長池の面影も,まだ,色濃く残っていたと思われます。森閑とした墓地の姿を想像しながら,染井霊園の巣鴨門から墓道を進みました。外人墓地は,墓道をまっすぐ進むと右手にあります。

♪外人墓地のなかで,タムソン夫妻のお墓は,すぐに見つかりました。ワイリック女史のお墓(関連 第66回 第67回)の並びにありました。外人墓地の区画に入る入口の右手にワイリック女史,左手にタムソン夫妻の墓石がありました。

聖書の形をしたワイリック女史のお墓

 

タムソン夫妻と娘・Mamie(二女)の墓

 

♪染井霊園の外人墓地の区画は,青山霊園の外人墓地のように広くはなく,埋葬されている方も,そんなに多くはないようです。

♪キダー女史(Anna H. KIDDER)(1840-1913)(米国バプテスト教会宣教師)(駿河台女子英和学校)のお墓(宣教師アンナ エッチ キダー之墓)や,キング技師(Archibald KING)(1848-1886)(英国人・造船 工部省工学寮 石川島平野造船所技師)のお墓(SACRED TO THE MEMORY OF ARCHIBALD KING)も,この外人墓地内にあることがわかりました。タムソン夫妻のお墓をお参りさせていただきながら,染井霊園に眠る外国人の方々についても,調べてみたいと思うようになりました。

♪タムソン夫妻のお墓には,次のように刻まれていました。

表 面

生必死雖者我信曰蘇耶

DAVID THOMPSON

BORN 1835-DIED 1915

MARY PARKE

HIS WIFE

BORN 1841-DIED 1927

DAVID THOMPSONとMARY PARKEの墓碑

裏 面

我□者命生我者生復曰蘇耶

Mamie

Mamie(タムソン夫妻の二女)の墓碑

 

♪タムソンの妻となったメアリー・パーク(Mary E. Parke)(1841-1927)は,明治6年(1873)に長老教会派遣の宣教師として来日し1),翌明治7年(1874)5月12日にタムソンと結婚。築地居留地内に新榮女学校(B六番女学校)(女子学院の前身)を設立し,布教と教育に尽力しました。

 

♪タムソンは,明治9年(1876)8月1日に東京築地居留地の42番地(495坪)を金768円64銭で借り受けています。(国立公文書館デジタルアーカイブ:『東京築地居留地調』の25頁を参照)

♪明治11年(1878)9月20日には,築地居留地内に東京日本基督公会(のちの新榮教会)を創設します。この場所(京橋區築地明石町27番地)は,明治38年(1905)に至って聖ルカ病院(聖公会)に転売されることになります。タムソンは3年にわたって移転交渉を進め,東京日本基督公会は,京橋區新榮町1丁目12番地に移ることになるのです2)。ミッションの決定だったとはいえ,天塩にかけた教会の移転は,残念なことであったでしょう。

築地居留地にあった立教中学校高塔(六角塔)(立教大学の前身)

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♪墓石の裏面にも,筆記体で文字が刻まれています。大分,風化して薄くなっています。「長老・改革教会来日宣教師事典」1)で調べたところ,このお墓には,9歳で亡くなった二女のMamieも葬られていることがわかりました。タムソン夫妻とMamieの親子が眠っています。

♪タムソンの日本昔噺の英訳「MOMOTARO」は,自分の3人の娘たち(Ruth Rea, Mamie, Grace Colquehan)に読み聞かせることも目的のひとつであったのかもしれません。異国の地で,子供を育て,教育することは,並大抵のことではなかったのではないでしょうか。

♪タムソンは,大正4年(1915)10月29日,新宿角筈102番地の自宅で亡くなり,葬儀は,タムソンが創立した築地新榮教会で,11月1日に行われたそうです。

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♪お墓の脇の染井吉野桜の葉陰からこぼれる日差しには,まだ,夏の力が残り,湿った空気も漂っていました。この染井吉野桜は,幹も太く,枝は,大動脈から分岐する血管のように空に向かって伸びています。

♪タムソン夫妻のお墓を辞し,榊順次郎など医家のお墓をお参りしながら,墓道を進みました。井上元章(もとあき)(陸軍軍医正)(1種イ5号1側)のお墓の前を通ったとき,木下凞(京都療病院初代院長)と親戚関係にある下瀬謙太郎(陸軍軍医学校長)のお墓のことを思いました。下瀬謙太郎のお墓(下瀬家之墓)(一種ロ12号2側)も,この染井霊園にあります。

♪ふと,本郷森川町にあった本郷基督教会3)のことが,頭に浮かびました。

♪「碌山と小石川の教会」4)という論文と「基督教会(ディサイプル)史」5)にワイリック女史と本郷森川町教会の記述があることを思い出しました。この本郷森川町教会は,本郷基督教會とも呼ばれ,森川町幼稚園が併設されて,現在の本郷郵便局の裏あたりにあったようです。本郷基督教會は,明治27年(1894)秋,日本家屋の集会所としてつくられたのが始まりといわれています。

♪本郷森川町は,木下凞が大正2年(1913)に京都から東京に移り,晩年を過ごした場所です。また,明治学院大学出身で,明治22年(1889)高輪台町教会で洗礼をうけた島崎藤村にも関係のある場所でもありました。

♪本郷界隈には,「本郷教会」と名のついた教会がいくつかあり,そのなかで,長老派の「本郷教会」は,明治11年(1878)9月4日に,タムソンが初代仮牧師(在任:明治6年[1873]-明治13年[1880])となって創立されました。この「本郷教会」(大正3年当時の所在地:東京市本郷區本郷4-43)は,戦災にあい,戦後,杉並の上荻(東京都杉並区上荻4-25-5)に移転し,今日に至っています。献堂式は,昭和25年(1950)8月6日に行われました。木下正中,下瀬謙太郎も,「本郷教会」の会員でした6)。

♪大学南校(現在の東京大学)にも関係したタムソンは,「ちりめん本」を片手に,神田・本郷界隈を歩いていたかも知れません。

♪タムソンが,「日本昔噺」(Japanese fairy tale series)の第1号として「桃太郎」(MOMOTARO : MOMOTARO or Little peachling)を英訳したのは,明治18年(1885)のことでした。「日本昔噺」の英訳出版にタムソンやヘボンが協力した理由が,いろいろ,想像されます。

参考ホームページ:「日本昔噺」(Japanese fairy tale series)のデジタル・アーカイブス:

放送大学附属図書館:ちりめん本コレクション

 

♪所属した教会は違っても,キリスト教伝道のために異国に生きたワイリック女史とタムソン夫妻は,横濱上陸後,それぞれ,どのような人生を横濱居留地,築地居留地,そして本郷・小石川・角筈・赤坂界隈で過ごしたのでしょうか。

♪異国で生涯を終え,3人の宣教師が,染井霊園の外人墓地に葬られた経緯を考えながら,霊園事務所脇の染井門(正門)を出ました。

♪外人墓地の染井吉野桜の大木に咲く桜の季節が思われます。染井霊園に流れる東洋と西洋の時間を感じながら,染井通りを六義園方向に歩き,家路に就きました。

 

参 考 文 献

1)「長老・改革教会来日宣教師事典」中島耕二・辻 直人・大西晴樹共著.新教出版社,2003.(日本キリスト教史双書)

2)「百年の恵み 日本基督教団新榮教会史」本田 清一編.日本基督教団新栄教会,1973.

3)「番地入り信用案内・大日本職業別明細圖之内 本郷區」(東京都文京区立真砂図書館で閲覧可能)

4)喜田 敬:「碌山と小石川の教会」聖学院大学論叢 18(3):211-237, 2006.

5)本郷基督教会.「基督教会(ディサイプル)史」(秋山 操著 基督教会史刊行委員会 1973)pp.416-421.

6)「本郷教会史(1878-1978) 100周年」長尾 史人著.日本基督教団本郷教会,1979.

(平成22年10月10日 記す)(令和元年6月21日 訂正・追加)

68. 日本の昔話を英訳:「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」(縮緬ちりめん絵本)を出版したヘボン(J.C. Hepburn)とタムソン(D. Thompson)


♪ヘボン(Hepburn, James Curtis)(1815-1911)(米国長老派宣教師・医師)(明治学院大学初代総理,1889-1891)1)2)3)が東海道・神奈川宿4)5)(現在の横浜市神奈川区神奈川本町付近)の成佛寺(じょうぶつじ›(飯田町)(横浜市神奈川区神奈川本町10-10)の本堂に住み始めたのは,安政6年(1859),44歳のときのことでした2)6)。

♪神奈川・箱館・長崎・新潟・兵庫の5港が開かれた年にあたります7)8)9)。この年には,シモンズ(Simmons, Duane B.)(1834-1889)(米国改革派教会宣教師・医師)10)も来日して宗興寺(そうこうじ)(青木町)(横浜市神奈川区幸ヶ谷10-6)に居住しました。宗興寺は,文久元年(1861)にヘボンが施療をはじめた場所でもあります11)。

♪成佛寺と宗興寺は,権現山の麓,滝ノ川沿いにあり,成佛寺には,もとオランダ領事館がおかれていました。滝ノ橋を挟んで,神奈川本陣と青木町本陣がありました12)。

♪成佛寺は,東海道から分岐した飯田道に面していました。「神奈川驛中圖會(文政6年[1823])」13)の(飯田町 成佛寺の圖)をみると,本堂と庫裡,そして,その周囲の建物の配置がよくわかります。「神奈川驛中圖會(文政6年[1823])」には,「宗興寺之圖」も描かれています。宗興寺は,東海道を滝ノ川に沿って上がった湊町・青木町にあり,船舶の真水を確保するための大井戸がありました。この井戸水は,ヘボンやシモンズの施療に役立ちました。

♪成佛寺の場所は、『金川砂子』の「神奈川方角圖」でも確認できます。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 神奈川方角圖-1-1024x708.jpg です

『金川砂子』の「神奈川方角圖」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション

参 考:

明治学院歴史資料館:東京都港区白金台1-2-37

横浜開港資料館:横浜市中区日本大通3

♪長い船旅を終え,ヘボンが神奈川湊に到着したのは,安政6年(1859)10月17日の夜。湊にはオランダ,英国,米国,仏国の各国の軍艦が停泊していたそうです。 上陸したのは,18日になってからと言われています2)。

♪安政6年(1859)といえば,「安政の大獄」の年にあたります。米使ペリーが浦賀に来航9)した嘉永6年(1853)から6年目。「安政の大獄」では,小濵おばま藩の梅田うめだ雲濱うんびんも,獄死しています。まさに,幕末の動乱の時代に,ヘボンは,海外伝道のため,強い信仰の心を持って日本にやってきたのです。

♪そのころの神奈川宿の周辺は,田園風景に囲まれていました。歌川広重は,『神奈川 台の景』(東海道五十三次)のなかで,坂道の途中に並んだ茶屋街や神奈川湊に浮かぶ和船を描いています8)。薹街から望む江戸湾の景色は,絶景だったようです。江戸湾の遠浅の白砂,海岸沿いの青松。古きよき時代の日本の湊の風景が,そこには,ありました。「細見神奈川絵図」(天保15年[1844])(神奈川県立歴史博物館)をみると、神奈川湊の沖合に「鯛活ス」とあります5)。

♪ヘボンは,田園風景を好んで,よく散歩をしましたそうです2)。いまでは,横浜に新田があったことなど,想像もできません7)。

♪神奈川宿は,京都から119里(約467㎞),江戸まで7里(約27㎞)の宿場町で,神奈川湊をもっていました。神奈川湊の『横の濱』が横濱村でした4)。神奈川湊(渡船場)と横濱波止場との間には,渡しの船がありました。

参 考:

横浜市歴史博物館:横浜市都筑区中川中央1-18-1

♪ヘボンは,成佛寺について,次のように書いています2)。

 「寺の建物は,本堂と庫裡からなっており,わたしは本堂を選びました。庫裡より小さいですが,よく修理すればこじんまりして,わたしどもの住居の習慣と趣味に適するように内部を改造できるのです。屋根は瓦ふきで地面から四フィートで,柱でささえてあり通気がよく,四十二フィート平方の一つの大きい構えで,天井までは十二フィートの高さに紙の障子で,外側は雨戸がしまるようになっております」

♪文久2年(1862),ヘボンが47歳のとき,神奈川宿から江戸へ向かう街道筋の生麦で薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件が起こります。生麦事件です。ヘボンは,このとき本覚寺(アメリカ領事館)で被害者2名(クラークとマーシャル)を治療しています。翌文久3年(1863)には,横濱居留地39番地(646坪)14)15)に新居を建て転居して,新たに施療活動をはじめています。

ヘボン邸(現・横浜地方合同庁舎)(横浜市中区山下町)は、谷戸橋が架かる谷戸川に面していて、グランドホテル(居留地20番地)(現・横浜人形の家のあたり)に隣接し、対岸には、仏国領事館(現・港の見える丘公園)がありました。

ヘボン邸(画面左手の三角形の屋根の家)

♪ヘボンは,施療活動のほかに,和英辞書(『和英語林集成』)(初版 慶応3年[1867] 再版 明治5年[1872])の編纂,そして聖書の和訳に力を注ぎます。横濱にいたバラ夫妻16)(改革派宣教師)とタムソンも協力しています。

♪ヘボンがブラウン(Brown, Samuel Robbins)(1810-1880)(米国改革派教会宣教師)らと聖書翻訳委員社中を結成したのは,明治7年(1874)3月のことでした17)。

♪その前年の明治6年(1873)2月22日には,切支丹禁制が撤廃されていました。ヘボンも,やっと,自由な気持ちで伝道活動ができたことでしょう。日本人のキリスト教の信者も安心して説教を聴くことができ,ヘボンのもとへも通うことができるようになったことと思われます。

♪タムソン(Thompson, David.)(1835-1915)18)は,ヘボンと同じく米国長老派の宣教師で,文久3年(1863)5月18日に来日。ヘボン塾(英学塾)や日曜学校(安息日学校)を助けることになります。

♪ヘボンは,タムソンについて次のように語っています。

タムソン氏も語学研究に着手し,よくやっています。わたしは同氏に到着後,まもなく日本語の教師を世話してやりました。同氏はあるアメリカの商人の息子を教えております。・・・またその奉仕に対してタムソン氏は年二百ドルの報酬を受けることになるので,その金額はミッションの会計を多少うるおすことになるでしょう。タムソン氏はそのほか,わたしどもの礼拝堂で安息日に説教しております。    [文久3年(1863)6月15日 ラウリー博士宛の書簡]

♪タムソンは,横濱では,運上所の英語教師として働き,明治2年(1869)に東京に転じてからは,築地居留地19)に居住して,大学南校の英語教師に就任しています。

♪明治4年(1871)には,海外視察団の通訳兼案内人として各藩と契約して6月23日にアメリカ号で横濱を出港します。国立公文書館に『香川権大参事外一名海外視察人撰上中並米人タムソン同行等伺』(明治4年1月)の文書が残されています。この件に関しては,ヘボンとタムソンの間にトラブルもあったようです18)。

♪この使節団は,岩倉具視を特命全権大使とする派遣使節団より,半年も前に横濱を出港していたことになります。視察団のなかには,のちに沼津兵学校の設立に加わった江原えばら素そ六ろくも静岡から参加していました18)。

♪明治4年(1871)といえば,木下凞が,小濵から上京してきた時期にあたります。「江戸東京」の登場人物が,各地から横濱に集まってきています。杉田武(杉田玄白の子孫)と早矢仕有的の塾で,共に勉学に励んだのも,この時期のことでした。

♪明治5年(1872)5月8日には,横濱―品川(桜木町)間に汽車が開通。一日,6往復の発着がありました20)。当時の時刻表をみると,横濱から品川への所要時間は,35分。陸おか蒸気の威力は絶大で,まさに,時代が,文明開化へと突き進む象徴でした。

♪ヘボンとタムソンの事績を追っているなかで,彼らが日本の昔話を英訳してシリーズ化して出版していることを知りました。「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」です。ヘボンは,医者らしく昔話のなかから「こぶとり爺さん」を選んで,英訳していました。

♪「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」の所蔵調査をしたところ,福生市郷土資料室で,原本を所蔵していることがわかりました。縮緬ちりめん紙に挿絵が木版で刷られ,それに英訳が印刷されたものです。和洋折衷本です。閲覧利用には,問い合わせが必要なようですが,日本の昔話が,どのように英訳されたか,縮緬ちりめん紙の風合いとともに,内容を見てみたい衝動にかられました。

福生市郷土資料室(東京都福生市熊川850-1)(電話 042-530-1120)

縮緬ちりめん絵本:「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」

英訳者:ダビット・タムソン 画家:小林 永濯

No.1 MOMOTARO[桃太郎]

No.3 BATTLE OF THE MONKEY AND THE CRAB [猿蟹合戦]

No.4 The Old Man Who Made The Dead Trees Blossom[花咲爺]

No.5 KACHI-KACHI MOUNTAIN[勝々山]

英訳者:ダビット・タムソン 画家:鈴木 華邨

No.6 THE MOUSE’S WEDDING[鼠嫁嫁入]

英訳者:ドクトル・ヘボン

『瘤取』(OLO MAN & THE DEVILS)

♪縮緬ちりめん本の原本を,一冊くらい持っていたいと思い,古書店のサイトをみてみました。高価すぎました。それに代わる本はないものか,もう少し,Google検索を続けました。

♪宮尾與男氏らが蒐集した「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」(全21冊)を底本として『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(全3巻)21)22)23)と題して,平成21年(2009)に彩流社から出版されていることが,わかりました。対訳として日本語訳も,あわせて載せられているようです。

♪自宅近くの図書館で,その所蔵がないかを検索したところ,東京都文京区立本駒込図書館にありました。早速,平成22年(2010)9月16日の午後,借りに行ってきました。

♪『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(は,挿絵の印刷も,大変,綺麗なものでした。装丁も素敵で,見返し用紙も凝っています。ちりめん紙がみを想像しました。ちょっと,久しぶりに,感動的な紙の書籍との出会いでした。

♪『和英語林集成』や聖書の和訳とは違ったヘボンの翻訳の別の側面を知ることができ,医学図書館や病院図書室にも,所蔵しておくべき貴重な絵本だと感じました。

♪デジタル・アーカイブスの時代にあってこそ,紙の印刷物を複製し,後世に残してゆくことも,大切なことです。小学校時代に,絵本がいっぱい置いてある木の香りのする小さな図書室で,先生に読み聞かせてもらった昔話や童話のことを思い出しました。絵本には,記憶に残る色と匂いがあるのです。

♪第1巻に収載されている「舌切雀」は,福生市郷土資料館では,ド-トロミエルの訳述となっていますが,こちらものは,タムソンが翻訳したものでした。

『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(第1巻)(宮尾與男編 彩流社 2009)

  1. 桃太郎 MOMOTARO

(小さな桃の子) MOMOTARO OR LITTLE PEACHLING

  1. 舌切雀 THE TONGUE CUT SPARROW

(舌を切られた雀)THE TONGUE CUT SPARROW

  1. 猿蟹合戦 BATTLE OF THE MONKEY AND THE CRAB

(猿と蟹の戦い)BATTLE OF THE MONKEY & THE CRAB

  1. 花咲爺 THE OLD MAN WHO MADE THE DEAD TREES BLOSSOM

(枯れた木に花を咲かせたお爺さん)THE OLD MAN WHO MADE THE DEAD TREES BLOSSOM

  1. 勝々山 KACHI-KACHI MOUNTAIN

(カチカチ山)KACHI-KACHI MOUNTAI

  1. 鼠嫁入 THE MOUSE’S WEDDING

(ねずみの結婚式)THE MOUSE’S WEDDING

  1. 瘤取 THE OLD MAN & THE DEVILS

(お爺さんと瘤)THE OLD MAN & THE DEVILS

OLO MAN & THE DEVILS

A LONG time ago there was an old man who had a big lump on the right side of face. One day he went into the mountain to cut wood, when the rain began to pour and the wind to blow so very hard, that finding impossible to return home, and filled with fear, he took refuge in the hollow of an old tree.

・・・・

The old man replied, “I have had this lump many years and would not without good reason part with it; but you may have it, or an eye or my nose either if you wish”. So the devils laid hold of it, twisting and pulling, and took it off without giving him any pain, and put it away as a pledge that he would come back.

♪さらに,タムソンの文献を探っていると,タムソン夫妻の墓が,染井霊園にあることがわかりました24)25)。横濱に関係深い榊順次郎の墓(第47回)のある染井霊園に,タムソンの墓もあるとは思ってもいないことでした。

♪木下凞ひろむとヘボンの関係で,調べはじめた横濱26)27)が,染井霊園と繋がってきました。タムソンが亡くなったのは,大正4年(1915)のことですから,同じ年に,榊順次郎は,自家の墓を建てたことになります。

♪染井霊園の外人墓地には,ワイリックの墓があり,その独特な聖書の形をした墓標については,「江戸東京」(第66回第67回)のなかでも紹介しましたが,タムソンの墓石についても,現地調査しておきたいと思います。

♪平成22年(2010)の夏は,東京でも記録的に真夏日が続く厳しい夏でした。今日は,秋のお彼岸の中日。朝から激しく雨が降り,前線からの北風が入って,気温がぐっと下がり,一気に,秋らしくなってきました。秋というより肌寒いくらいです。久しぶりに,染井霊園内を散策してみようと思います。

参考文献

1) 「ヘボン書簡集」高谷道男編訳.岩波書店,1959.

2) 「ヘボン」高谷道男著.吉川弘文館,1986.(人物叢書 新装版)

3) 「ヘボン博士の愛した日本」杉田幸子著.改定新版.いのちのことば社2006.

4) 神奈川宿(街道を行く 東海道 3) pp.14-15.「週刊江戸」No.3 (2010年2月16日発行)通巻第3号,デアゴスティーニ・ジャパン.

5) 「企画展 東海道と神奈川宿」横浜市歴史博物館,1996.

6) 石川 潔:ドクトル・ヘボン神奈川宿での1169日.「明治学院大学キリスト教研究所紀要」第38号,pp.301-350.(2006)

7) 「企画展 江戸時代の横浜の姿 絵図・地誌などにみる」横浜市歴史博物館,1997.

8) 「絵地図・浮世絵にみる開港場・横浜の風景(横浜市歴史博物館 平成二十一年企画展)」横浜市歴史博物館,2009.(横浜開港150周年記念―Part 1)

9) 「瓦版・絵巻にみるペリー来航と横浜開港」横浜市歴史博物館,2009. (横浜開港150周年記念―Part 2)

10)「ドクトル・シモンズ」荒井保雄著.有隣堂,2004.

11)「市民グラフヨコハマ」No.31(特集 ヘボンと横浜)1979.

 第7章 仁術の医師 ヘボンの施療事業(大滝紀雄著)pp.31-35.

 第8章 ヘボンの鼓動を伝える横浜の二教会pp.36-39.

   ヘボンが帰国直前に建てた横浜指路教会(森田恭一郎著)

   日本最初のプロテスタント教会 横浜海岸教会(友野宏弥著)

12)「御開港横濱之全図でみる御開港横浜めぐり」(めぐりシリーズ 10)人文社.(基図「御開港横濱之全圖」安政六年[1859])

13)「横浜市歴史博物館特別展 横浜開港150周年記念 陸の道と海の道の交差点 -江戸時代の神奈川」横浜市歴史博物館,2009.

14)石川 潔:横濱居留地39番でのヘボン.「明治学院大学キリスト教研究所紀要」第39号,pp.247-290.(2006)

15)「図説横浜外国人居留地」横浜開港資料館編.有隣堂,2007.

16)「古き日本の瞥見 -Glimpses of Old Japan 1861-1866」マーガレット・バラ著.川久保とくお訳.有隣堂,1992.(有隣新書)

17)石川 潔:聖書和訳事業で活躍する『医師・ヘボン』.「明治学院大学キリスト教研究所紀要」第40号,pp.95-144.(2007)

18)中島耕二:宣教師デビット・タムソンの生涯 ―誕生から日本基督一致協会の創立までを中心として―.「明治学院大学キリスト教研究所紀要」第35号pp.225-275.(2003)

19)『築地の外国人住宅 -聖路加国際病院の付属外人住宅「ポラバ・バンガロ―」に関する調査報告―』.(中央区文化財調査報告書 第1集)中央区教育委員会,1992.

20)横浜―品川間汽車が開通(5月9日):「『横浜毎日新聞』が語る明治の横浜 第一集(三年~五年)」横浜開港資料館,1987.

21)『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(宮尾與男編)<第1巻> [1.桃太郎 2.舌切雀 3.猿蟹合戦 4.花咲爺 5.勝々山 6.鼠嫁入 7.瘤取](彩流社,2009)

22) 『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(宮尾與男編)<第2巻> [内 容:8.浦島 9.八頭の大蛇 10.松山鏡 11. 因幡の白兎 12.野干の手柄 13.海月 14.海幸彦山幸彦](彩流社,2009)

23)『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(宮尾與男編)<第3巻> [内 容:15.俵藤太 16.鉢かづき 17.竹箆太郎18.羅生門 19.大江山 20.養老瀧 21.文福茶釜](彩流社,2009)

24) 「来日西洋人名事典」武内 博編著.日外アソシエーツ,1983.

25)「キリスト教人名辞典」日本基督教団出版局,1986.

26)「写真集 明治の横浜・東京 残されていたガラス乾板から」岩崎与四郎育英会著作.神奈川新聞社/かなしん出版,1989.

27)「横浜と医学の歴史」三杉和章,杉田暉道 編.横浜市立大学一般教育委員会,1997.

(平成22年9月23日 秋彼岸の中日)(令和元年(2019)5月2日 追記)

67. 「長谷川泰翁像」建立される:新潟県長岡市新組地区・大黒農村公園内

 
場 所:新潟県長岡市大黒農村公園内・「北越戊辰戦争伝承館」隣
建立日:平成25年[2013]4月18日

参考地図
GoogleMap:「長谷川泰先生と新組地区」(「長谷川泰を語る会」提供)

♪長谷川泰の没後,大正5年(1916)4月20日,湯島天神境内(湯島公園)に,長谷川泰を顕彰する銅像(座像)が建てられました。(参考連載:第65回

図1.湯島天神境内にあった「長谷川泰先生之像」
(大正5年[1916] 武石弘三郎制作)
(出 典:『柳塘遺影』)1)

♪長谷川泰の唯一の写真集である『柳塘遺影』1)に銅像(図1)と除幕式の写真が残っています。除幕式では,石黒忠悳が祝辞を述べています。

♪銅像は,どこにあったのでしょうか。『柳塘遺影』のなかの説明文には「湯島公園内」とだけ書かれており,公園内の具体的な場所まで記録されていませんでした。

♪それが『湯島公園平面図』の発見で,銅像の場所を特定できました。湯島公園とは,湯島天神境内のことで,銅像は,境内の湯島神社(本殿)の裏手,戸隠神社と稲荷神社の並びにあったことがわかったのです。

♪この長谷川泰の銅像は,戦時中に供出され,戦後は台座のみが遺っていました。その台座も境内の改築によって撤去され,「長谷川泰先生之銅像」の名残は,湯島の地から,消えてしまっていました。・・・

♪長谷川泰の銅像があった場所を探る:湯島天神境内(湯島公園)]を掲載したあとになって,長岡市の新組(しんくみ)地区に「長谷川泰を語る会」[ブログ(長谷川泰先生と新組地区)]があり,長谷川泰の没後100年(平成24年[2012])を記念して新たに長谷川泰の銅像を建立する計画があることに気付きました。

ブログより
湯島天神の銅像
長谷川泰像の台座
長谷川泰翁像の建立が発起

♪早速「長谷川泰を語る会」に連絡したところ,恩田富太氏が,銅像に関する資料と『長谷川泰ものがたり』(企画:長谷川泰を語る会 漫画:おんだちかこ 2011年刊 第2版])を送ってくださいました。

♪銅像の制作者は,彫刻家の峰村哲也氏(東京藝術大学彫刻科・大学院博士課程卒)で,新しい長谷川泰の銅像は,湯島天神境内にあった旧銅像(以下,湯島像)をモデル(基本的なデザインを継承)に制作されるとのことでした。

♪峰村哲也氏は,母子像「生きる」(長岡戦災資料館),「河井継之助銅像」(河井継之助記念館),「良寛さん,あそぼ」(良寛と幼子二人のブロンズ像)(新潟市美術館前の西大畑公園内)などで知られる長岡市在住の彫刻家です。

♪「湯島像」を制作した武石弘三郎(現在の長岡市中之島出身)は,東京美術学校の一期生ですから東京藝術大学卒業の峰村哲也氏とは同窓ということになります。

♪ブログによると制作は,順調に進んでいるようで,新たな長谷川泰の銅像の出来上がりが待たれました。・・・・・・・

[制作進む]長谷川泰先生銅像

♪銅像の除幕式が,平成25年[2013]4月18日(木曜日)午後3時より長岡市大黒農村公園内(「北越戊辰戦争伝承館」隣り)で挙行されるとのご案内をいただきました。4月18日は,山本五十六(旧長岡藩)の命日にあたる日です。

♪除幕式には,参加できませんでしたが,恩田富太氏が,除幕された銅像の写真や資料(パンフレット[図2]・新聞記事など)を送ってくださいました。

図2.「済生救民(長谷川泰翁像除幕式)」のパンフレット
(「長谷川泰を語る会」提供)3)

♪新たに銅像になった長谷川泰先生は,椅子に座り右手に書物を広げています。視線は,書物からは離れて,正面に向けられています。母校の長善館(漢学者・鈴木文薹による私塾)と生家跡を眺めているようです。制作者の峰村哲也氏によると「毅然として先を見据えるたたずまい(気骨・先見性)」を表現したとのことです。(図3)

図3.「長谷川泰翁像」(平成25年[2013] 峰村哲也制作)
(写真「長谷川泰を語る会」提供)

図4.「長谷川泰翁像」(平成25年[2013] 峰村哲也制作)
(写真「長谷川泰を語る会」提供)

♪恩田富太氏のお話によると,銅像の後ろに見える建物が「北越戊辰戦争伝承館」とのことです。(図4)(図5)「戊辰戦争最大の激戦といわれる『八丁沖の戦い』を,農民の目線から伝え残す施設で,「長谷川泰翁像」の建立に先駆け,平成24年(2012)4月にオープンしたそうです。内部には,長谷川泰の展示もあるとのこと、一度は、訪ねたいものです。

図5.「北越戊辰戦争伝承館」(写真「長谷川泰を語る会」提供)
画面の左奥に長谷川泰翁像がある

♪台座には,正面に銘板(長谷川泰翁像 平成二十五年(2013)四月十八日),側面に「済生救民」と題する顕彰文(右側面)と発起人の名前の一覧(左側面)がプレートになって嵌め込まれています。台座の意匠も,「湯島像」の4本柱の雰囲気を継承しています。

台座に嵌め込まれたプレート

(1)済生救民

図6.台座の右側面:「済生救民」(写真「長谷川泰を語る会」提供)

済 生 救 民

  揮毫 石丸雨虹

この地は長谷川泰先生の生誕した所です。
祖先は開拓者であり,子孫は医術で民を救う家系でした。長谷川泰は良寛の慈愛の心と河合継之助の気概に接し医術をもって済生救民の志をたてます。
風雲に乗じ,泰は官に衛生を説き,医師の数が少ないとみるや済生学舎を建てます。
また,病の根源は貧しさであるとし政治家にもなっています。
先見にみちた下水対策など,その業績は日本近代医学に希望の虹をかけたものでした。

(2)発起人一覧

図7.台座の左側面(建立発起人名が刻まれている)(写真「長谷川泰を語る会」提供)

建立発起人代表 新潟県議会員 星野 伊佐夫

長岡市
長岡市商工会議所
日本医科大学医史学研究会
日本医科大学同窓会新潟県支部
北里柴三郎記念会
野口英世記念会
東京女子医科大学
長岡市医師会
長岡中央総合病院
立川メディカルセンター
新潟県医師会
河合継之助記念館
燕市長善館史料館
新潟県生活衛生同業組合連合会
長岡管工事組合
智徳寺
株式会社高陽社


唐沢 信安
殿崎 正明
山本 鼎
大村 智
川村 賢司
吉岡 博光
太田  裕
吉川  明
渡部  透
高野 春樹

丸山  智
小林 弘昌
室橋 一司
稲川 明雄
吉田  勝
西片 正栄
深滝 純一
吉田 直治
平澤 俊一


長谷川泰先生銅像建立委員会
郷土の偉人 長谷川泰を語る会 理事長 恩田利平太 以下会員一同
銅像制作者 峰村哲也

♪越後長岡は,池田謙斎,入澤達吉,小金井良精に所縁の地でもあります。「江戸東京」が「峠」を越えて,越後と繋がってきました。

♪東京都立谷中霊園には、長谷川泰(乙1号7側),池田謙斎(乙11号5側 突き当り奥),入澤達吉(乙7号甲1側)など越後長岡に所縁の先生方のお墓が,東京都谷中霊園にあります。長谷川泰と親交のあった石黒忠悳(甲3号8側)のお墓もあります。同郷の人々は,故郷を想い,それぞれに長谷川泰の銅像の完成を喜んでいるのではないでしょうか。

長谷川泰の墓(1)
長谷川泰の墓
長谷川泰の墓(3)

◇◇

♪詩人・堀口大學(堀口九萬一くまいち[長岡藩出身の外交官]の息子)は,戦後の4年間を高田(現在の上越市)で過ごしたことがありました。この間,良寛に魅かれたようです。「長谷川泰翁像」の姿は,良寛に通じるものがあるように感じます。

良寛さま

心はまどか
 月の輪と

姿は淡し
 けむりかと

(詩:堀口大學)

♪堀口九萬一と武石貞松(漢学者・武石弘三郎の兄)の二人の友情を現した「友情の双像」の胸像が,若宮神社(長岡市中之島長呂)に昭和35年(1960)6月に建立されているそうです4)。

♪この「堀口九萬一 武石貞松 友情の双像」は,「湯島像」を制作した武石弘三郎4)注1)の作で,翌昭和36年(1961)10月には,堀口大學によって撰文が付けられています。いつか長岡市を訪ねる機会があったら,峰村哲也氏の「長谷川泰翁像」とともに見てみたいと思っています。

注 記

注1)武石弘三郎:明治10年(1877)7月28日,新潟縣南蒲原郡中之島字長呂で生まれる。昭和38年(1963)5月11日歿。享年87。墓は,東京都雑司ケ谷霊園(1種9号1側)今年,平成25年(2013)年は,武石弘三郎の没後50年にあたる。

参 考 文 献

1) 『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會発行 昭和9年)

2) 『虹の館―父・堀口大學の思い出―』(堀口すみれ子著 かまくら春秋社 昭和62年)


3) 『済生救民 長谷川泰翁銅像除幕式 平成25年4月18日[大安]』(パンフレット)


4) 『彫塑家・武石弘三郎ノート』(佐々木嘉朗著 昭和60年)

(平成25年10月31日 堀江 幸司 記す)(平成31年4月25日 追記)

66.<余滴>長谷川泰の真影と塑像

♪長谷川泰が亡くなったのは、明治45年(1912)3月11日のことでしたが、百か日にあたり「長谷川泰翁塑像」が彫塑家・牧野國助(当時の住所は東京市本郷區千駄木町272番地)によって製作され頒布(3円50銭)されることになります。

♪雑誌『日本之醫界』(第36号 明治45年7月15日)に「醫傑長谷川泰翁塑像成る!」の広告があり、長谷川泰の真影をもとに作られる石膏塑像の完成イメージ図が載っていました。

♪長谷川泰の真影(最後の写真)は、明治44年(1911)4月に同門の人々270余名が上野公園常盤華壇に長谷川泰を招いて謝恩の宴を催した折、来会者に記念品として贈るために撮影された写真です。長谷川泰の写真集『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和9年)に収載されています。

長谷川泰「最後の真影」(出典:『柳塘遺影』)

「長谷川泰を語る会」のブログによると、この塑像は、新潟県長岡の黒条地区で開業医を務められていた織田さん宅(医院)にも所蔵されていたそうです。

◆◆◆

長谷川泰石膏塑像(胸像)の裏側

♪「長谷川泰を語る会」(新潟県長岡市)の恩田富太さんから長谷川泰の石膏塑像の裏側の写真を送っていただきました。
そこには、「故長谷川泰先生像 牧野國助作」と刻まれていました。現在、この塑像の実物は、織田家(医院)より寄贈され「長谷川泰を語る会」で保管されているとのことです。

長谷川泰石膏塑像の裏面(「長谷川泰を語る会」提供)

(平成31年3月26日 追記)(平成31年3月27日 追記)

65.長谷川泰の銅像があった場所を探る:湯島天神境内(湯島公園)

   
場 所:湯島天神境内の社務所から戸隠神社に続く回廊の辺り。

住 所:〒113-0034 東京都文京区湯島3-30-1

Googleマイマップ:「本郷界隈」

湯島天神(絵葉書)
島公園内の長谷川泰の銅像(絵葉書)(平成26年2月2日 追加)

■『柳塘遺影』(長谷川泰遺稿集刊行會)の銅像写真

♪長谷川泰の銅像については,『柳塘遺影』1)(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和九年)に写真があり,その存在についてはわかっていましたが,どこにあるのか,場所については,写真の説明に「ゆかりの地湯島薹上緑深きほとり」とあるだけで,具体的な記載はなく,はっきりしていませんでした。

♪説明文からは,銅像が武石弘三郎の作で台座の設計が岡田信一郎によることもわかります。武石弘三郎は,東京大学本郷キャンパス内にある教授たちの銅像の制作者でもありました。

出典:『柳塘遺影』:長谷川泰の銅像と説明文


♪『柳塘遺影』には,銅像の除幕式(大正5年[1916]4月20日)の写真もあり,その説明には,「湯島公園に於ける銅像除幕式」との記載があります。この「湯島公園」が,どこなのか,わからないでいました。「湯島公園」と長谷川泰の銅像の場所の調査が進んでいませんでした。

■雑誌論文の別刷をみる

♪文京区立真砂図書館に行った時のことでした。真砂図書館には,地域資料がよく収集されているのですが,そこに「湯島の長谷川泰銅像の顛末(上)(下)」2)というタイトルの別刷が,ファイルされて書棚にありました。雑誌の論文ですから,数頁のものです。このような資料まで収集・整理しておくのかと感心したものです。長谷川泰に関係の深い日本医科大学が文京区内にあり,タイトルに湯島とあるためではないかとも思われました。

♪文献によると長谷川泰の銅像は,湯島天神(湯島神社)の境内にあり,戦時中(昭和19年[1944])に強制供出されて台座だけが残っていたが,その台座も昭和61年(1986)年の夏に神社の回廊が新築されたときに撤去されたとありました。「湯島公園」が湯島神社の境内であったこともわかりました。

♪「湯島公園」の地図でもあれば,もう少し,はっきりと,長谷川泰の銅像の場所を特定できるのではないかと思って探していたのですが,その地図が見つかりました。・・・・・

■「湯島公園平面圖」を発見

♪古書店のサイト(「日本の古本屋」)を検索していたところ「湯島公園平面圖」がヒットしました。早速,問い合わせたところ,本郷の「湯島公園」の平面図だとのこと,興奮して注文しました。

♪はやる気持ちを抑えて,入手した「湯島公園平面圖」3)をみると,「長谷川泰銅像」の位置が,はっきりと,記載されていました。長年の疑問が,氷解した思いでした。銅像と本殿・社務所との位置関係も,確認できました。

「湯島公園平面圖」(縮尺六百分之一 所在地 東京市本郷區湯島天神社境内)

♪長谷川泰の銅像は,湯島天神社境内の切通電車通(現在の春日通り)に沿った台地上(崖上)に建っていたのでした。末社である戸隠神社と稲荷神社の並びの社務所寄りにありました。本郷台地へと繋がる湯島台上の見晴しのよい場所にありました。

■『湯島天神誌』(湯島神社編):付図(湯島神社見取圖 明治十八年)

♪文京区立本駒込図書館も,よく利用するのですが,郷土資料の書棚をみていたら『湯島天神誌』4)(湯島神社編 昭和53年)という資料がありました。そのなかに「湯島公園」についての記述がありました。

♪湯島神社の境内は,江戸時代から物見遊山の盛り場で,「飲食店・矢場・見晴し掛茶屋,見世物小屋などがあって,昼夜を問わず,非常に繁昌していたのを,明治23年(1890)2月7日,境内の約三千坪(崖地を含む)を公園地とした」とありました。

♪国立公文書館のデジタルアーカイブスにも資料がありました。「湯島公園」が正式に東京市の所属となったのは,明治23年(1890)8月12日のことでした。

♪湯島神社が,公園地となったときに,境内にあった飲食店などの建物は撤去され,そこに梅樹・雑木の数百株が植えられたとのことです。戦災後に境内が荒れ果てたときにも,復興を願って植えたのも梅樹でした。

♪長谷川泰の銅像の場所の調査から,湯島天神の梅園の由来がわかってきました。男坂と女坂の間には,楓樹もあったようです。湯島台地・本郷台地からの田園風景が想像されます。不忍池も見通せたのでしょう。

♪本駒込図書館から借りてきた『湯島天神誌』には付録の付図が付いていません。欠落してしまったようです。やはり,付図(境内図)(明治十八年)の付いた完全な『湯島天神誌』も入手しておくことにしました。

♪平成24年(2012)9月19日,『湯島天神誌』を本郷の文生書院から入手しました。付図は,一枚ものの見取図(境内図)でした。明治18年(1885)に本社・拝殿・神饌所が落成した際に作成された境内図のようです。

湯島神社見取圖(明治18年)(出典:『湯島天神誌付図の一部)

♪当時の雰囲気が,十分に伝わってきます。やはり,資料の探索は,散歩と同様に,よいものです。とくに絵地図からは,想像をかき立てられます。

♪戸隠山(地主),末社(イナリ),拝殿・本社の裏手には筆塚も描かれています。当時の拝殿と社務所は渡り廊下で繋がっていませんでした。社殿と社務所との間に廻廊(渡殿)が新築されたのは,明治25年(1892)になってからのことでした。

♪湯島神社境内が「湯島公園」となり,梅園となった経過をみておきます。

明治23年(1890):本社境内飲食店・矢場・見晴シ掛茶屋,其他各種ノ見世物等有之。昼夜ノ繁盛ナリシガ,上申ニ依リ市参事会ノ決議ヲ以テ公園地ニ編入セラレ,右建物悉皆取払ヒトナリ,梅樹・雑木数百株植附ケ,旧裏石坂ヲ更ニ現今ノ地ニ改築シ,又裏廻リ石垣ヲ改築ス,是ニ於テ永続資金トシテ金弐千五百円下渡サル。

明治23年[1890]8月12日:「湯島公園」が東京市の所属となる。

明治27年(1894):総代会及び世話係会の決定により,永続資金で軍事公債(額面弐千五百円)を買入れ,さらに日本銀行へ預け入れられる。

昭和24年(1949):公園地は,湯島神社に返還される。

昭和32年(1957):古梅樹数百本を植え,樹間に芝生を配して大梅園となる。

♪『湯島天神誌』の第51図(p.206)によると,長谷川泰の銅像が置かれていた場所は,見晴台となったようです。いま,その跡地は,回廊となり,春日通り沿いは,マンションだらけで,切通坂にも,昔の景色は感じられません。

♪湯島天神には,子どもの頃,初詣に行っていました。正面の鳥居から続く静かな境内と木造の拝殿,そして渡り廊下の雰囲気が好きでした。

♪男坂・女坂も,ゆっくり,上り下りしたことがありません。今度は,切通坂の方から,夫婦坂を,ひとり,登って,戸隠神社の前に出てみたいと思います。

参考文献・資料

1)『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和9年)

2)「湯島の長谷川泰銅像の顛末(上)(下)」(小関恒雄・尾崎邦雄共著)(「日本医事新報」No.3362[昭和63年10月1日]pp.63-65. : No.3363[昭和63年10月8日]pp.62-63.)

3)「湯島公園平面圖」(一枚もの)(古書店から入手)

4)『湯島天神誌』(湯島神社編 昭和53年)および付図(湯島神社見取圖 明治十八年)(注:付図は一枚もの)

(平成24年9月21日 記す)(平成31年3月17日 追記)

64. 木下正中:香港ペスト研究当時を語る (2):「青山胤通没後20年座談会」:座談会の内容

♪青山胤通の追悼会に出席した木下正中は,資料を配布したのち,香港でのペスト調査研究の当時を振り返って,入澤達吉,長與又郎らの質問にこたえています。

(1)英語の通訳

入澤達吉:では,木下君一つ。

木下正中:私は御手元へ差上げて置いた印刷物が代弁するのですから,茲ここで申上げる事は何も考へて居りませんが,ただ香港のペスト研究にお供した時一番困ったのは,青山先生も英語を話されない事でした。それで始終通辯に引っ張り出されたのですが,困った事には,私の英語は高等学校の一年半,毎週一二時間の第二外国語で学んだだけで甚だ薄弱なものでありました。

入澤:誰に対して英語を使うのか。

木下:買物に行っても,また第一に病院でも,病歴を誌しるそうと思うのだが病人の容体を訊くのに困っちゃったのです。腹が痛いか?と聞いても日本語は勿論解らず,独逸語も判らず,英語でも我々の英語は判らず,初めは日本人の通辯を頼んだが,通辯は逃げてしまった。ペストが怖いというのでしょう。それから漸ようやく印度人の巡査か兵隊が僅わずかに一人来た。それが英語を解する。私が高等学校で使っていたウィリアムのポケット・ディクショナリ―などを持って行き,先生が何か言はれると私がそれを英語に直して云う。すると,その印度人の看護人が支那語にして病人に訊くわけです。それを再び英語に直したのを聞いて独逸語にして病歴に書き付けると云う順序で,漸くやっていた。然し終には再び日本人の通譯が出来て少し便利でしたが,そんなわけで,街へ買物に行かれる時でも,私に一寸来てくれと云はれて,一緒に行く。随分困った事もある。単語を並べて辛かろうじて話をする。先生は初め胸の固いYシャツに固いカラーを着けて居られたが,とても暑い。その上,汗が出てグチャグチャになる。私は現今のソフトシャツと同じものを着ていたのですが,それがよい,その通りのものを造らせようというので,製造している店へ行った。が,何と言って注文してよいか判らない。それで私のシャツを見せて,これと同じ型のものをと注文した事があります。こんな様な事情で,あちらでは一ばん英語で苦労しました。併しかし先生は,時に依ると日本語で済まされた場合も沢山あります。

♪青山胤通は,英語ができなかったので,病歴を聞くのも困ったようです。学生の木下正中が,通訳として教授を助けました。英語の辞書を持参するなど,用意もよかったようです。

香港:The Peak(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪実用的なソフトシャツを着た木下正中を見て,それと同じものをつくりたいという。異国の地で,教授のわがままを聞く学生の困った顔が浮かんでくるようです。香港は,北回帰線の南に位置しており,一年を通して暑い所でした。

独逸留学当時の木下正中(明治30年7月10日)(木下實氏提供)

♪独逸医学のメッカである帝国大学医科大学(東京)から香港(英国領)に来て,ラウソン医師(労森 James Alfred Lowson,1866-1935)(スコットランド出身)の世話になる。英語で通訳しながら独逸語でカルテを作る。語学で苦労したことが,晩年,下瀬謙太郎(木下正中の義兄)と協力して編纂した『医学用語集』に繋がってくるようにも思えます。

♪北里柴三郎・青山胤通ら一行,六名が香港に上陸したのは,明治27年(1894)6月12日のことでした。ラウソン医師の歓迎を受けています。その三日後の6月15日には,エルザン医師(葉赫森 Alexandre Yersin, 1863-1943)がフランスを代表して,ベトナム・サイゴン[從越南 西貢]{現・ホーチミン}から船に乗り到着しています1)。

♪明治期の香港は,どのような所だったのでしょうか。岩倉使節団は,帰航日程のなかで,明治6年(1873)8月27日に香港に寄港しています。当時の香港を次のように記録しています2)。

香港港(絵葉書)

夜明け方,香港沖の群島の間を走った。どの島も山で,大小の島が不規則に海上に散らばっている。どの山も草は青々しているが,樹木はない。だいたい広東地方の山々は,その形がみな秀でており,細かい山襞の間の方々に岩石が露出し,まるで中国絵画の「点苔法」のようである。・・・

ここは広東省恵州新安県に属する島で,マカオから東へランタオ島,香港島と並ぶ諸島のひとつである。・・・海岸から山裾に向って階段状に街が開かれている。・・・ここから西へランタオ島との海峡を通って西北に六〇キロほど航行するとマカオに達する。早くからポルトガルが占領し,天正・慶長のころから東洋貿易の中継地とした。また湾を北に航行して川(珠江しゅこう)を一九二キロ遡ると広東に達する。・・・英国人は石の家を建てて中国人に貸して住まわせている。したがってこの街は中国人が多いけれども清潔である。・・・

 欧州人の多くは山手に住居を建て,明るく伸び伸びした建物である。庭をめぐらし,木々を植え,清潔で優雅である。ここは北回帰線の南で,四季を通じて暑く,寒い季節はない。市街地は南面しているし,島の北側には海峡を隔てて本土側の高い山が屹立しているので,南北とも風が通らず,暑さはとりわけ厳しい。・・・

 公園の前に総督邸があるが,これも花崗岩造りの美しい建物である。近くに兵営があり,英国から派遣された常備の兵士が八〇〇人いる。

◆◆◆

♪ラウソン医師は,香港でペストに罹った青山胤通と石神亨を救うことになるのですが,そのラウソン医師自身も九死に一生を得る経験をしていました。3)。

♪明治25年(1892)10月8日に上海でのクリケットの試合のあと,香港への帰路,ボカラ(Bokhara)号(蒸気船)に乗船します。当時,ラウソン医師は,香港のクリケットチームのメンバーでもありました3)。

♪10月10日,澎湖(ほうこ)諸島の砂礁で嵐(台風)にあって遭難し,砂浜に打ち上げられていたところを地元の漁師に救われます。助かった乗客は,ラウソン医師とマーカム中尉(軽歩兵師団)の2名だけだったそうです。

♪このボカラ号遭難のとき,ラウソン医師が助からなかったら,香港での青山胤通と北里柴三郎のペスト調査研究も,どのような方向に進んでいたかわかりません。人々の出会いには,運命の導きといったことを感じます。

(2)帰路,一時,長崎女神消毒所に留まる

林 春雄:・・・青山先生が例のペスト研究に香港へ行かれてペスト病に罹られた時(明治27年),あの頃は今の若い方は知らないかも知れませんが,新聞の号外を大きな字で新聞社の前へ貼り出したものだが,「青山氏脈拍悪し,熱度何度何分」などと書いてあったのを覚えて居る。私は,先生が出発される時にも新橋に一行を送って行ったのですが,どれが先生か知らなかった。それから7月10日,卒業式,濱尾(新)先生が総長でしたが演説された。本学の卒業生が年々各方面で活動して行くのは喜ばしい。青山,北里両氏が今香港でペスト病の研究をやっている事は世界的に有名で本学の誇とする處である。而しこうして青山氏がその病気に罹かられたことは,真に憂慮に堪えないと言われたのです。それから病気が癒って帰って来られたのは・・・何日でしたかね。

木下正中:8月下旬か,9月上旬です。

林 春雄:兎に角,日清戦争が始まってから後だ。まだ学校が始まらぬ間で,新橋のステーションへ僕等が迎えに行ったのです。大へんな人出で,停車場へ縄を張って通路を作った。あの時は,君は一緒だったかしら。

木下正中:僕は先へ帰ったのです。一緒に帰ったのは宮本叔君に高田畊安君でした。

長與又郎:此間高木友枝さんの話では,あれはペストではないという事だが・・・。

木下正中:十九體か,二十體かの解剖をやって,一ばん終の解剖のときに伝染したらしいのです。其時は宮本君も僕も関係せず,ちょうど手隙てすきだからというので石神君が解剖の手伝いをしたのでした。・・・

長與又郎:石神さんは何処から入ったのですか。

木下正中:やはり傷があったのでしょうが,青山先生の悪くなられた晩は,先ず両先生の研究も一段落ついたから此辺で切上げて広東へ立寄って其上で帰朝しようというので,香港で世話になった人々を御馳走した。政庁の書記長だの,病院長だの,有力な開業医だのが集まった。会を開く少し前に,先生に少し熱が出て来たので心配して居った。宮本君と僕と二人で会のときに先生を見ると,顔色が悪いから,二人で心配して居ったが,宴会が済むと,先生は熱が出て苦しいといわれた。そのときに先生の部屋は風通しが悪い。僕と石神君は同じ部屋にいたのですが,風通しのよい部屋ですから,代わりしましょうというので部屋を代へて,先生は私のベットへ寝られ,私は先生のベットへ寝た。

先生が悪いという事を聞いて,前夜のお客さんたちが見舞いに来た。ピークの病院をやって居るカントリーは,之はペストとじゃない,自分の病院へ預かろうという。市の病院長のラウソンはペストだから病院船へ預かうという。すると青山先生は,病院船の方へ行こうといわれたので,その順序に運んで行くと,今度は石神君が,どうも僕も昨夜から変だという。淋巴腺が腫れて何だか気分が悪い。僕も一緒に行くよという事になった。それでランチで一緒に行ったのですが,船の上で石神君は『やっぱり予定の通りやって来たよ,寒気がして来た』と言い始めた。・・・

林 春雄:木下君は試験があるので早く帰ったのだね。

木下正中:宮本君が心配してくれて,大丈夫だから帰ってよかろう。卒業試験も大切であるから,帰って支度をした方がよい。高田君が見舞いに来るというのだから,というので帰って来ました。それで船へ乗って帰ったのですが,長崎で僕の扱い方に困った。ゼクチオンの材料を大きな壜に入れて八,九個持っていたのです。その材料は宮本君と僕と半分宛持ったのです。それをどうするか?どこまで消毒するかという事が問題になったようです。香港出帆の後九日になるまで,長崎の女神消毒所で暮して,その後に漸ようやく神戸へ帰って来ました。

長與又郎:長崎へは上陸したのですか。

木下正中:いや長崎は消毒所まで上っただけで,市街へは上らなかった。神戸で上陸して,すぐに東京へ直行した。

♪木下正中が,帰京したのは,7月23日とあります4)。高田畊安が香港に到着したのが7月24日5)。その夜,高田畊安は,急ぎ小金井良精宛の書簡を認め,翌日出帆の廣島丸に託しています6)。

高田畊安は,中川恒次郎領事,高木友枝に面会しています。このとき高木友枝は,カントリー医師(Dr.Cantley)の病院の隔離病室にいたのですが,ハイジア号にいた青山胤通のところへ向かうための渡船の手配をしています。高木友枝自身は,ペストではなかったようです。

♪北里柴三郎が香港を出発したのは,7月21日のことでした7)。(長崎に到着したのは,7月25日の夜)この頃になると,青山胤通の病勢も治っていました。木下正中も,卒業試験のこともあり,宮本叔のすすめに従って帰途に就いたのでした。

♪高田畊安の電報は,「石神亨が,香港を発ったのは8月3日,青山胤通の出発は,8月20日頃」8)と,伝えています。

♪青山胤通が帰朝したのは,8月31日のことでした。当時の新聞は,「香港黒死病戦地より凱旋」と報じました9)。さながら凱旋将軍のような扱いでした。

♪木下正中は,香港からの帰途,一時,長崎の「女神消毒所」(女神検疫所)(長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ データベース収蔵)に留め置かれました。ペスト研究のための病理解剖の材料を持っていたのですから,検疫所でも,その扱いについては苦慮したのではないでしょうか。

         
長崎港女神検疫所(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪木下正中が,東京での研究報告のことを思い,家族のことを思いながら,何日かを過ごした女神消毒所(長崎台場跡)の周辺は,いま,どうなっているのでしょうか。「江戸東京」でも,いつか散策できる日が来ればと思います。

参考文献

1) 王道還著:科學史上的這個月 一八九四年七月葉赫森,北里柴三郎公布黑死病病原.張貼日期:2003/7/11.

2) 『特命全権大使 米欧回覧実記 第5巻 ヨーロッパ大陸編(下) 附 帰航日程』(久米邦武編著 慶應義塾大学出版会 2005)第100章 香港及び上海の記.pp.362-381.

3) 木下 實著:「ラウソン博士について(Dr. James Alfred Lowson)」(私家版)

4) 木下氏の帰京. 東京醫學會雑誌 8(15):707.

5) 高田学士の安着.東京醫學會雑誌 8(15):707.

6) 高田学士の書翰.東京醫學會雑誌 8(15):708.

7) 青山博士の近況.東京醫學會雑誌 8(15):707.

8) 香港発の最近報.東京醫學會雑誌 8(15):710.

9) 青山博士も全治,帰国.『明治ニュース事典 第五巻[明治26年―明治30年]』(毎日コミュニケーションズ 1985)

(平成24年8月22日  記す)(平成31年3月13日 追記)

63. 木下正中:香港ペスト研究当時を語る (1):「青山胤通没後20年座談会」で資料を配布

♪昭和11年(1936)12月7日(月),青山胤通の没後20年にあたって座談会が開かれました。主催したのは,日本醫事新報社長の梅澤彦太郎。池之端(下谷茅町)の「濱のや」(割烹・濱乃家)を会場として,午後5時から開始されています。


青山胤通没後20年座談会(昭和11年12月7日 池之端・濱乃家)
(後列右から3人目の和服姿が木下正中)

♪この座談会には,明治27年(1894)に,ペスト研究のために青山胤通に同行して香港へ渡った木下正中も出席しています。東京帝大(医学部)から,錚々たる面々が,出席しています。そのなかに岡田和一郎もいました。

♪岡田和一郎(耳鼻咽喉科)は,青山内科門下生ではないのですが,第二醫院で佐藤三吉(外科)の助手をしていた当時,青山内科と佐藤外科の医局が向かいあっていた関係から,青山胤通と近付きになっていたのでした。

青山胤通先生 没後20年の座談会

開催年月日:昭和11年12月7日(月)午後5時より。池之端「濱の家や」にて。

出席者:青山徹蔵(東京帝大教授),入澤達吉(東大名誉教授),稲田達吉(東大名誉教授),岡田和一郎(東大名誉教授),木下正中(前東京帝大教授),坂口康蔵(東京帝大教授),長與又郎(東京帝大教授),永井 潜(東大医学部長),林 春雄(東大名誉教授),林 曄はじめ(東京府医師会長),眞鍋嘉一郎(東京帝大教授),梅澤彦太郎(日本醫事新報社社長)

♪この座談会の出席者に長與又郎(東京帝国大学総長・第12代)がいました。長與は,その日の日記1)2)に次のように記しています。

[昭和十一年十二月七日]月 晴 六時 池の端浜の家。青山[胤通]先生座談会(日本醫事新報社主催)入澤(座長),岡田,林(春雄),木下,稲田,林曄,眞鍋,坂口,永井,及び青山徹蔵諸氏。 既に伝記あり。この夕は主に人としての青山先生を物語る。逸話,行跡に就て話し合えり。徹蔵君 青山家保存せる楷書遺墨を示さる。  玩物喪志 師者傳道 気韻高き書風なり。木下氏香港ペスト研究当時のことを語る。小冊子を頒つ。

♪『長與又郎日記(上)(下)』1)2)には,参考文献や註が丁寧についています。この青山胤通の座談会の参考文献に,『近代名醫一夕話』(日本醫事新報社 昭和十二年)とありました。

♪『近代名醫一夕話』3)は,以前,古書店で入手しておいたはずです。書棚を探してみました。ありました。青山胤通の座談会は,冒頭に載っていました。座談会の集合写真や,長與又郎が日記に書いた墨跡(玩物喪志)も口絵に掲載されていました。村山論文4)5),中瀬論文6)のなかにも掲載されている「香港ペスト研究当時の記念撮影」もありました。


『近代名醫一夕話』(日本醫事新報社 昭和12年)

♪座談会のなかで,木下正中が配った小冊子も転載・収録され,香港でのペスト解剖室の見取図も添付されていました。


香港ペスト研究解剖台見取図

♪木下正中が,当日,配布した資料の実物は,みつかっていませんので,小冊子そのものの体裁などは,わかりませんが,この転載記事から,その内容を知ることができました。

『香港「ペスト」研究當時の追憶』 醫學博士 木下 正中  出かけたのは明治二十七年六月五日横濱解䌫の米船「リオ・デ・ヂャネイロ」號に乗り,その日,日清戦争が始まるならんと云ふ確かな報告をきいた。直行して十二日,目的地の香港に着いた。同地には「ペスト」が猖獗しょうけつ註)を極めて居ったから,その研究の為め青山,北里両先生が我国政府から派遣せられたのであるが,その随行として助手宮本叔君及わたくし(当時大学四年生)又海軍軍医石神亨(後大阪濱寺研究所長),内務屬岡田義行君が一行に加った。  偖さて六月十三日には香港政廰,英ゼネラルホスピタル,日本領事館,病院船(Hygeia)等を歴訪し,十四日より「ケネデー・タウン・ホスピタル」Kennedy Town Hospitalにて愈々いよいよ研究を開始した。これは元警察であったのを臨時病院とせるものである。病人は上下にて四十人許り居り英醫ラウソン氏Dr.Lawsonが治療あたり居ったのである。其病院の「ベランダ」に急造の「テーブル」をおき,青山,北里両先生は共に研究を始められた。  第一に困りたるは言葉の通ぜぬ事であった。患者の病歴や訴を聞くにしても先づ最初には日本人の通譯を傭ひたるが,恐ろしがりて直ちに逃れ去った。次には男の看護人にて印度人であったか,マニラ人であったか,其男は支那語及英語が出来たから先生の質問を先づわたしがきゝそれを看護人に話し,更に患者に傳へると云ふ方法をとった。又その時ウィリアムス獨英字書をも利用したのを記憶して居る。その男は暫くやって居ったが,その中に廣東に居れる日本人が来り,日本人だけにて通ずる様になり便利を得たのである。短時日ではあたが朝は早くから午後は遅く迄勉強したので解剖は十九體か,二十體出来た。解剖につきては相當人知れぬ苦心を経験したのであった。解剖室は實にひどきものにて物置か小使室を臨時使用したものである。(見取圖末頁掲載) 一間半四方位の處は板間,たたきの所にて青山先生が解剖せられ,上の間より宮本君かわたくしが踞しゃがんで手助けをなしたのである。どちらか一人は筆記をした。又窻からの監視者を兼ね,もし人が通れば窻を急ぎ締める役をつとめた。と云ふのは土地の人は解剖を極度に嫌忌けんきしてそれを知つたら大騒動が起りそうであったから,人目を極度に恐れたのであった。  解剖器機は一具だけしか持ち行かずメスは宿に持ち帰りて日本砥其他皮砥などを用ゐて砥ぎ,又鋸は直ちに切れなくなり困ったから,土地で一挺の外科用弓鋸を辛うじて探し当てて買求めた。脛骨を縦にひき切る事二本に及びたるがその為に宮本君と共に困難を感じたのであった。血の交りたる水の捨て處に困り考案の末「タール」を交えて色を變へ又悪臭を誤魔化して捨てる事にした。 解剖は上記の如く禁制であったから解剖するのは消毒すると云ふ名目の下に上記の部屋に持ち來り,解剖を行ったあとは看護人が充分始末して,釘附にしておくり出されたのである。  かゝる事は約二週間つゞきたるが二十八日より青山先生には終に「ペスト」に罹られ大心配をしたのであるが幸ひにして九死に一生を得られ「ペスト」研究上の立派な業績を貽のこされたのである。その日は先ず大體仕事も進行したから両先生が主人役となり香港「ホテル」に主として英国側の人々の招待會を催したのであった。 即ち政廰の関係者,市内の外人,醫師等にて研究の為に世話になった人々を招き一行は六人,客側は十二三人,全體にて二十人以内であった。所が其會が始まる前から青山先生の顔色がわるく少し熱があったので一同心配の種となり,先生がやられたのではないかと眉をひそめた。其前には日本人にて感染せるものがなかったのである。「ホテル」では,わたくしと石神氏は同室,その部屋は西と北をうけ,先生の部屋は西向きで暑かったから先づ部屋を換へる事となり先生はわたくしの「ベット」に就褥しょうじゅく註)せられわたくしは先生の「ベット」に移った。 その晩先生には苦痛を忍耐して主人の役目をはたされたが果して高熱となってそのまゝ就褥せられ,翌朝に至るも下熱しない。宴會の晩にも,カントリー氏,Dr.Cantleyは「ペスト」にあらずとした。この人は「ピーク」の上に病院を有せる有力な醫師であった。自分の病院にて治療せんと申し出たが,ラウソン氏が自分の病院船「ハイジア」號Hygeiaにて治療することになった。即ち二十九日夕刻同病院にひき移らるゝ事になった。然るにその時石神氏まだ熱なかりしが既に腋窩腺が腫れ居り,自らも違和を覚えられたと見え同時に入院を希望したが,同船へ乗る迄の気艇の中で既に悪寒あり次で発熱し,つまり同時に二人が病気となったのである。 石神氏は更衣の際二十八日夜腋窩腺に疼痛を覚えそれから注意しだしたのである。 病院船には宮本君とわたしと泊り込み,先生の看護には普通の看護人の外パアマーMiss pa’mar嬢と云ふ人が居った。それは横濱の港などをつくりたるパアマー氏の令嬢であると云ふことであった。大に親切に看護せられた。其他に英国,マニラの看護婦や支那人の看護人も居った。 青山先生及石神氏は各単独の部屋にて治療を受けられた。宮本君と私とは其の向側の室に同室して交代しつゝ看護につとめたが,顔を見せると先生には興奮されるゝ故顔をなるべく見せずして番をするやり方をとったのであった。 石神君は病勢の盛んな時に譫せん語ご注)状態になった。其頃には支那人の看護人を見れば「スパイ」と思ひ込み之を殺さゞるべからずとしたから宮本君と相談の上石神君の短刀を「カバン」の中より取り出した事を覚えて居る。石神君の方は病気が割合に軽く七月十九日わたくしが帰朝注)の途につく時は同君は神識じんしき注)既に明かになり,青山先生は熱もなく予後は確かに良きを認めたるも,大層感動性となって居られたからそれとなく暇を告げ,言葉に現はしたる挨拶はわざと避けたのである。 わたくしは卒業の試験を控へて居り,もう大丈夫なれば帰れと云ふ宮本君の言葉に従ったのである。標本は半分を持ち帰りたるが,夫は大きな缶が九つか十個あり,第二醫院におきたる故焼けたるならん。尚看護中はラウソンが八釜しく忠告しくれたるにより後には隔日に交代にて上陸した。 蠅は病院に沢山居り,陸の方は大変でケネデータウン病院には砂糖をおけば真黒になる程であった。蚊は余り気がつかず,ケネデータウン病院にお茶によばれる時は蠅が砂糖につく故,誰も砂糖は用ゐなかった。蚤もひどいことがなかった。 先生の病気と同時に,日本人の医師にて中原氏と云ふ人も「ペスト」に罹った。最後の解剖の手伝いをし宮本君かわたくしが筆記をなし,その人に臓器を洗はせる位の事をなさしめ石神氏が解剖の助手をした。その時の解剖は,あるひは肺「ペスト」ならざりしかと思ふ。その例が三人の伝染原ならざりしかと思ふ。 中原氏も感染し「ハイジア」號にて治療を受けたりしもこれは不幸にして死亡せられた。 先生は「ハイジア」號に入りてよりはわたくしと宮本氏と代りあひて材料及「プロトコル」の整理をなした。あの報告(大学紀要をさす)には先生の病気の後に代りてわたくしが記載せる為わたくしの名も残って居るのである。 北里博士は青山先生の発病後は,急造「バラック」にてその後研究を続けられた。見舞には始終来られて心配せられた。 エールサン氏はケネデータウン病院の下方にある急造「バラック」にて研究し居り,我々とは交通が殆どなかった様に思ふ。 黒井大尉(のち大将)は我々の行きたる当時一,二日彼地に居られ非常に世話になったが中川領事は北里博士の親戚の関係もあり大層よく世話をせられた。政廰及英国医師も優遇して呉れた。彼地にては既に肉眼的の所見にて種々発見する所があったが,例へば臨床上の方では譫せん語ごが患者にあるのか無いのか解らなかった。それは言葉が不通の為で青山先生などの病気で始めて譫せん語ごが解った様な次第である。万事その通りで実に隔靴掻痒かっかそうよう注)の感があった。主な研究は内地に帰られてから出来たのである。 解剖には勿論大に緊張して行ひ,又「コロヂウム」を用ひ,「ゴム」の手袋等は無かった。昇汞水にて洗ふ丈であったがその中に稀鹽酸註)を加へて使った。 × × ×  青山先生は当時三十六歳,北里博士は三十九か四十,宮本君は二十九歳位,わたくしは二十六歳,岡田氏は三十三四歳,石神君は北里氏と同年か上位ならん。 わたくしの同行した理由は野次馬的であった。研究の方式などを実際に見せて貰へれば将来の参考になると云ふ事を単純に考へ先生に懇願したのであるが,父は喜んで承諾してくれた。 その時下瀬氏(謙太郎氏)と共に同じ下宿に住み居りしが,自分は行って見ることを先づ相談し,次で先生に伺ひに行くと同時に父に電報にて返事をして貰った。 × × ×  後の事であるが看病の余暇に散歩の時上陸して見ると青山先生と石神氏の棺が用意せられてあった。立派な棺は急には間にあわぬためである。先生及石神氏は,死は免れぬものと思はれたからであった。 今から考へれば実に感慨無量で,死生の間に出入りして,それでこはいと云ふ様な感がなく,先生の病気を看病しても別に恐ろしいとは思はなかった。 尚顧みれば今日現存するのは北里男爵とわたくしのみとなったが,更に当時の事を追懐して故人のことを思ふの情洵に切なるものがある。(了)

注)

猖獗(しょうけつ):わるいものの勢いが盛んなこと。

就褥(しょうじゅく):病床に就くこと。

譫語(せんご):うわごと。神識(じんしき):意識

隔靴掻痒(かっか・そうよう):靴の外部から足のかゆい所をかくように,はがゆく,もどかしいことをいう。[広辞苑]

稀鹽酸(きえんさん):希塩酸

注)木下正中が帰京したのは、7月23日7)。

♪木下正中が下瀬謙太郎の妹・泰子やすこと結婚したのは,明治26(1893)のことで,香港へ向かう一年前のことでした8)。香港へペスト研究に向った夫の帰りを信じて待つ,妻の気持ちはいかばかりであったでしょう。強い気持ちを感じます。長女の篤子(とくこ)をさずかったのは,明治28年(1895)になってからのことでした。

下瀬謙太郎は,『近代名醫一夕話』の北里柴三郎の座談会(昭和12年[1937]6月1日)に参加して,木下正中とのペスト時代のことを述べていますが,このことについては,稿をあらためます。

♪座談なかで,木下正中は,長與又郎や林春雄の質問にこたえ,青山胤通と石神亨に対して,どのような治療をしたかなどについても,述べています。

♪座談会の記録は,香港で、青山胤通と行動を共にした木下正中自身が語る「香港ペスト研究」の貴重な史料となっています。 (続く)

参考文献

1) 『長與又郎日記(上)』(小高 健編 学会出版センター 2001)


2) 『長與又郎日記(下)』(小高 健編 学会出版センター 2002)


3) 『近代名醫一夕話』(日本醫事新報臨時増刊)(梅澤彦太郎編 日本醫事新報社 昭和12年)


4) 村山達三:本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本医事新報 第1369号, pp.1928-1930. 昭和25年.

5) 村山達三:本邦に於けるペスト研究の偉業(2).  日本医事新報 第1370号, pp.1995-1998. 昭和25年.

6) 中瀬安清. 北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで. 日本細菌学雑誌 50(3):637-650, 1995.

7) 木下氏の帰京. 東京醫學會雑誌 8(15):707.8) 『先徳遺芳』(木下文書)(木下 實編)(私家版・平成23年7月):第三部(附録)「木下凞ひろむ・正中・東作の略年譜」.

(平成24年6月10日 入梅の日 記す)(平成31年2月28日 追記)

62.香港ペスト研究一行の記念写真が撮影された年と場所を特定

前回、明治27年(1894)に香港にペスト研究に行った北里柴三郎、青山胤通、木下正中ら一行が、帰国後に撮影した集合写真を紹介しましたが、その写真がいつ、どこで撮影されたものか、不明でした。

調査の結果、以下のように開催年月日と場所を特定しましたので、その経緯を追ってみます。

香港遠征者紀念會(石神亨 離京記念)( 中川 恒次郎慰労会)

開催年月日: 明治29年(1896)10月17日

場所: 日本橋偕楽園

参加者:木下正中,宮本叔,石神亨,青山胤通,北里柴三郎,岡田義行(内務省衛生局)と黒井悌次郎(のちの海軍大臣),中川恒次郎(香港在住一等領事・外交官),高田畊安

後列左から:岡田義行・木下正中・石神亨・宮本叔
前列左から:高田畊安・北里柴三郎・中川恒次郎・黒井悌次郎・青山胤通

♪ペスト研究のために木下正中が青山胤通に,石神亨が北里柴三郎に随行して横濱から香港へ向けて出帆したのは,明治27年(1894)6月5日のことでした。

木下正中(写真:木下實氏提供)

海軍時代の石神亨(出典:『故石神亨紀念誌』6)

♪日清戦争の直前のことです。7月25日には豊島沖(ほうとうおき)で海戦(高陞号こうしょうごう事件)が起こり,2年におよぶ戦争がはじまります。緊迫した戦時状況下で,内務省にとっては,ペスト検疫がいかに重要な問題であったかがわかります。ペスト(黒死病)は,戦争と同様に国を滅ぼすほどの脅威であったのでしょう。

♪当時,香港領事であった中川恒次郎は,日本国に向う船舶の検疫について下記のような電報(明治27年5月12日付)[上陸ヲ禁スルニ若ラス]を陸奥大臣宛てに発していました。この段階では,まだ,伝染病がペストであるとの認識はなかったようです。

当地支那人労働者中ニ流行ノ伝染病ハ餘リ猛烈ナルモノト思ハレス去リナラカ若シ貴大臣ニ於テ香港ヨリ支那労働者ヲ搭載シテ本邦海口に来ル船舶ヲ検査スルコトヲ適当ナリト思セラレ候ハヽ其ノ上陸ヲ禁スルニ若ラス

♪5月22日付の電報では,乗組員の上陸について[当分禁セラルヽヲ可トス]と報告しています。10日前の電文とは違って,緊迫感が感じられますが,それでも,次第に治まるのではないかと思っていたようです。

景况続テ同様ナリ昨正午迄二十四時間内ニ新患者三十一名死亡三十四名治療中ノモノ五十九名,此四日間大雨アリ為衰况ヲ呈スヘシト信セラル,支那移住人ノ上陸ハ尚ホ当分禁セラルヽヲ可トス

♪伝染病の種類が不明だったため陸奥大臣は中川香港領事に調査を命じます。その結果,伝染病がペスト(黒死病)であることがわかり(5月13日付電報),ペストに対する検疫は,明治15年(1882)に布告された「虎列刺コレラ地方ヨリ来ル船舶検査規則」が適用されることになります。(勅令第五十六號 5月25日)

♪5月28日:芳川顕正(内務大臣臨時代理司法大臣)が伊藤博文(内閣総理大臣)へ「黒死病調査として中央衛生會委員派遣の件」を提出します。北里柴三郎,青山胤通の派遣が正式に決定されます。このとき,「調査條件」とそれに伴う「予算」も決められました。当初の予定では,滞在日数は30日間を予定していたようです。

調査條件

一.現流行區域ノ地理殊ニ醫學ニ関スル地學上ノ調査

二.支那地方ニ於ケル本病ノ来歴及諸統計

三.病原病理及病徴

四.今回廣東及香港ニ發生ノ原因及現時流行傳播ノ系統

五.現流行病ニ對シ實施シタル諸豫防法及其成績

六.本病ニ対スル豫防消毒ノ研究

費用豫算

貮千六百拾七円二十銭

(備考)滞在日數ハ三十日ト豫定シタルモ調査上ノ都合ニ依リ多少ノ伸縮アルヘシ

♪6月5日(香港ペスト研究一行横濱港出帆):ペスト感染の危険のある地域に飛び込んでゆくことになります。香港行の決断は,木下正中,石神亨にとっても,研究のためとはいえ,覚悟を持っての行動であったといえるでしょう。医学・医療に対する真摯な精神が感じられます。

◆◆◆

♪記念撮影の写真について、文献調査を続ける過程で,同一の記念写真が,いくつかの論文1)2)3)や記事(座談会)4)のなかで使われていることを知りました。有名な記念写真であったようです。

♪文献によって,記念写真の撮影年の記載が違っていました。明治27年(1894)とするものと明治28年(1895)とするものとがありました。どちらが,正しい撮影年なのか,特定できる文献はないか,探索してみることにしました。

文献1)・文献2) 「本邦に於けるペスト研究の偉業」(1)(2)(村山達三著)1)2)(

♪「本邦に於けるペスト研究の偉業」(村山達三著)に掲載されている記念写真には,「ペスト研究記念撮影(明治廿八年)」のキャプションがつけられています。撮影は,香港行の一年後の明治28年(1895)となっています。

文献3) 「北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで」(中瀬安清著)3)

♪中瀬論文のなかに掲載された記念写真のキャプションでは,「香港派遣ペスト調査員とその関係者(1894年撮影 北里研究所所蔵)」とされていました。撮影されたのは明治27年(1894)となっています。香港に行ったその年に記念撮影が行われたことになります。

文献4)「青山胤通先生」(座談会の口絵)4)

♪この座談会の口絵としても、同じ記念写真が掲載されています。そのキャプションは,「香港ペスト研究當時の記念撮影」となっていて,撮影時期や場所などの説明はありません。

♪記念撮影がされたとされる明治27年(1894)から明治28年(1895)にかけては,日清戦争の時期にあたります。明治27年(1894)の開戦当時,海軍にいた黒井悌次郎や香港領事であった中川恒次郎が,会合に出席できたのだろうか。さらに,撮影が明治27年(1894)だとすると,ペストに罹患して帰国した青山胤通や石神亨の両名が,会合に出席できるぐらいまで快復していたことになります。

♪日清戦争や個人的な健康状況から,明治27年(1894)から明治28年(1895)にかけて,香港ペスト研究の関係者が会合を持つことには,無理があるように感じていました。

♪また,中瀬論文の写真のキャプションには,「北里が石神の送別会を催し当時の関係者を招いた時の記念写真」とあります。石神の送別会のためだけの理由で黒井悌次郎や帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)の関係者までもが出席しただろうか。石神の送別のほかにも会合を催す理由があったのではないだろうか。疑問が広がっていきました。

♪木下實先生から北里柴三郎記念室の展示室(北里本館1階)にも同じ記念写真が展示されているとのご教示をいただきました。記念室の大久保美穂子さんを紹介されて訪ねることにしました。

♪檀原宏文先生と森孝之先生が迎えてくださいました。檀原先生からは『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)にも,同じ記念写真が載っていることを教えていただきました。

文献5) 『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)5)

♪『藤野・日本細菌学史』に掲載されている記念写真は,大阪大学微生物病研究所図書館分館内に「石神文庫」として残された石神亨の関係資料の原図から採られたもののようでした。

♪写真のキャプションには「石神亨 離京の記念写真」とあり,解説文がつけられていました。石神自身によると思われる添え書き(手書き)をもとに藤野がまとめたもののようです。

石神亨 離京の記念写真

石神の文章によると「一昨年ペスト病原探究のため香港に赴いた同行者一同が,石神が大阪に移るので,中川恒次郎香港領事と領事館の黒井海軍大尉を招いて記念撮影をのこし,偕楽園で宴を開いた。青山と石神がペスト感染,その見舞に香港へ来た高田耕[畊]安はこの会に出席したが,高木友枝は九州出張のため欠席」

♪藤野による解説文のなかには,一昨年とあります。ペスト研究のために香港に渡ったのは明治27年(1894)のことですから,この記念写真は,明治29年(1896)に撮られたことになります。添え書きの部分に,年月日を特定できることが書いてあるのではないかと思い拡大して見てみました。

石神亨によると思われる記念写真の添え書き

♪添え書きの部分は,印刷が不鮮明で,判読できないところが多いのですが,かすかに「明治廿九年十月十□日」の文字が読み取れました。□の部分は,七か八か判断に迷いました。

♪元の手書きの添え書きを確認できないか。「石神文庫」のなかに写真と添え書きの原図が残っているのではないか。大阪大学微生物病研究所図書室に問い合わせてみました。大阪大学生命科学図書館まで探していただきましたが,残念ながら原図は発見できませんでした。

♪北里柴三郎,青山胤通,黒井悌次郎,中川恒次郎など,医学界,海軍,領事を代表する人々が出席した会合です。当時の医学雑誌(新聞)にも記事が載っているのではないか。明治29年(1896)10月に発行された雑誌を調べてみることにしました。

♪東京大学医学図書館へ行って,まず『東京医事新誌』を調べてみることにしました。東京大学医学図書館は,外部にも公開されていて,雑誌のバックナンバーを閲覧・複写することができるのです。

♪探しているような記事は,目次に索引されないのが一般的です。一冊ずつ雑報記事欄を見ていきました。第969号に「香港遠征者紀念會」という記事を見つけました。こんなにすぐに,目的の記事が見つかるとは思ってもいませんでした。

♪「香港遠征者紀念會」によると,明治27年(1894)当時,香港領事であった中川恒次郎を慰労するために日本橋偕楽園に会合(明治29年[1896]10月17日)を持ったとありました。

♪中川恒次郎7)は,文久3年(1863)3月東京の生れ,明治17年(1884)7月東京大学政治理財科を卒業後,大蔵省に入り,領事館書記生としてシンガポールを振り出しに釜山,元山,香港,タウンズビル,シドニー,ワシントン,ニューヨークなどを勤務地とした人物です。香港に着任したのは,明治27年(1894)1月16日のことでした。

♪同じ号(第969号)の雑報記事欄に「岡田黒部両氏送別會」の記事もありました。この時期は,後藤新平が台湾総督府衛生顧問嘱託になった時期にあたります。領事にも異動があったようです。中川恒次郎は,明治29年(1896)1月20日に豪州タウンズビル,ウィール府駐在一等領事を委任されていました。そして,香港へ内務省から派遣された岡田義行は,台湾総督府民生局総督部衛生課員として同年11月初旬に台湾に派遣されることになっていました。

♪岡田義行と黒部島吉の送別会は,「香港遠征者紀念會」が開催された二日後の10月19日に,後藤新平,北里柴三郎,青山胤通も出席して,下谷松源楼で開催されました。

♪石神亨が東京を離れて大阪に向った時期は,香港に同行した人々の新たな旅立ちの時期にあたっていました。記念写真を残した「石神亨 離京の送別會」は,中川恒次郎の慰労と岡田義行の送別を兼ねて開催した「香港遠征者紀念會」でもあったのです。記念写真は、青山胤通と北里柴三郎が,気持ちをひとつにして同席した貴重な記念写真となりました。

♪石神亨6)は,明治29年(1896)2月に軍艦武蔵を退艦し海軍大学校教官となっていましたが,6月15日横須賀病院に赴任後,病気引退しています。大阪に転じたのは,10月19日のことでした6)。「香港遠征者紀念會」(石神亨送別會)の二日後には離京したことになります。

♪この時,すでに大学を卒業して福島病院副院長になっていた木下正中も上京して「香港遠征者紀念會」に出席しています。正中は,翌明治30年(1897)に,独逸に留学しますので,正中にとっても,新たな出発を想い,記念写真におさまったのではないでしょうか。

明治29年(1896)10月17日:香港遠征者紀念會:日本橋偕楽園
(石神亨 離京記念)( 中川 恒次郎慰労会)

 参加者:木下正中,宮本叔,石神亨,青山胤通,北里柴三郎,岡田義行(内務省衛生局)と黒井悌次郎(のちの海軍大臣),中川恒次郎(一等領事・外交官),高田畊安

明治29年(1896)10月19日:岡田義行・黒部島吉送別會:下谷松源楼

 参加者:岡田義行,黒部島吉,後藤新平,北里柴三郎,青山胤通,石黒五十二など多数。

♪「香港遠征者記念會」が開催された日本橋の偕楽園は,どの辺りにあったのでしょうか。日本橋界隈の散歩が,続きます。

参考文献

1) 村山達三.本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本医事新報 第1369号, pp.1928-1930. 昭和25年.

2) 村山達三.本邦に於けるペスト研究の偉業(2).  日本医事新報 第1370号, pp.1995-1998. 昭和25年.

3) 中瀬安清. 北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで. 日本細菌学雑誌 50(3):637-650, 1995.

4) 「青山胤通先生」pp.7-pp.46.『近代名醫一夕話』(日本醫事新報臨時増刊)(梅澤彦太郎編 日本醫事新報社 昭和12年)

5) 阪大微研図書館分館内の石神文庫:『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著 近代出版 1984)pp.229-234.

6) 『故石神亨紀念誌』(石神研究所同窓會 大正十年発行)

7) 山本四郎.領事中川恒次郎について.史林 68(2):313-329, 1985.

(平成24年12月23日 記 平成31年2月22日 追記)

61.木下正中の香港行き:「ペスト研究記念撮影」(明治廿八年)


 
♪戦後の『日本醫事新報』誌を,一冊一冊,探索するなかで,「本邦に於けるペスト研究の偉業」(1)(2)(村山達三著)という文献をみつけました。1)2)

♪そのなかに,明治28年(1895)に撮影された「ペスト研究記念撮影(明治廿八年)」と題した集合写真がありました。


ペスト研究記念撮影(明治廿八年)1)
後列左から:岡田義行・木下正中・石神亨・宮本叔
前列左から:高田畊安・北里柴三郎・中川恒次郎・黒井悌次郎・青山胤通

♪木下正中(せいちゅう)3)(当時醫科大學4年生)が,ペスト(黒死病)の調査・研究のために青山胤通(たねみち)4)5),北里柴三郎6)7)8)に随行して,香港(英領)に渡ったのは,明治27年(1894)6月のことですから,記念写真は,帰国後,翌年に撮られたものと思われます。明治28年(1895)といえば,陸奥むつ宗光むねみつが外務大臣を務めていた時代にあたります。

♪明治27年(1894)5月末,清国(広東地方)と香港にペストが流行し,船舶の検疫が行われていました。ペストの流行は,外交・軍事上の問題でもありました。(清国及香港ニ於テ流行スル伝染病予防ノ為メ船舶検疫ヲ施行ス)

♪香港でのペスト患者数を,中川香港領事は,内務省に明治27年(1894)5月27日発の電報で次のように報告しています。

[在香港中川領事 一千八百九十四年五月二十七日発]

五月二十一日正午まで患者およそ三百四十名,死亡二百七十一名,爾後二十六日正午まで死亡百十四名,治療中の者七十二名,目下衰況に傾けりと信じらる。


内務省(絵葉書)(平成26年6月26日 追加)


♪記念写真には,青山胤通,北里柴三郎のほかに,木下正中(せいちゅう)(のち東京帝國大学醫科大學・産科学婦人科学教室教授),宮本叔9)10)(のち東京駒込病院長),高田畊安(こうあん)11)(のち茅ヶ崎・南湖院長),石神亨(とおる)12)(海軍軍医・のち大阪濱寺石神研究所[石神医学紀念研究所]),黒井悌次郎(ていじろう)(のち海軍大将),中川恒次郎(つねじろう)(香港領事),岡田義行(内務省事務官)の9名が写っていました。

♪村山達三の論文には,記念写真の出典についての説明はなく,具体的な撮影場所・日時などは不明です。撮影された明治28年(1895)当時の医学雑誌や新聞記事を調査する必要がありそうです。

♪前列に,黒井悌次郎,中川恒次郎を挟む形で,青山胤通,北里柴三郎が和服姿で着席しています。黒井悌次郎は軍服姿です。スタジオ撮影のようにも見えます。

♪記念写真に納まっている9名のうち,香港に派遣されたのは,青山胤通,北里柴三郎,宮本叔,木下正中,石神亨,岡田義行の6名でした。

♪「黒死病調査トシテ中央衛生會委員派遣ノ件」(明治27年5月28日)と題する公文書が国立公文書館に残っており,デジタルアーカイブスになっていました。

♪この公文書は,内務大臣臨時代理司法大臣の芳川顯正(よしかわ・あきまさ)から内閣総理大臣の伊藤博文宛に出されたもので,ペスト調査のための香港派遣は,内務省の中央衛生會委員であった北里柴三郎(内務技師醫學博士)と青山胤通(醫學教授醫學博士)の2名であったことがわかります。

♪内務省(伝染病研究所)からは,北里柴三郎(病原菌追及)を,文部省(大學)からは,青山胤通(病理・臨床)を派遣したともいえそうです。公文書の最後の部分に,青山胤通の嘱託派遣について,文部大臣に了解を得ているとの記述があります。あくまでも,香港への派遣は,内務省の所管であったことがわかります。

醫科大學教授醫學博士青山胤通派遣嘱託之儀ハ文部大臣ヘ協議済ナリ

♪ドイツ留学から帰国した北里柴三郎が大日本私立衛生會の委嘱により同會設立の伝染病研究所所長となっていたのは,明治25年(1892)11月30日,香港行きの2年前のことでした。

♪安西安周(医史学者)は,「東都掃苔記」の連載記事13)で「木下家の墓」を取り上げるとき,木下正一(せいいつ)(正中の長男)を訪ねて,木下正中の日記のなかに,香港行きの記述をみつけています。


木下正中の日記の一部(明治27年5月28日)13)

青山氏香港行ノ事ヲ聞キ随行を許サルルヤヲ問フ,自費ナラ可ナラントノ答ヲ聞ク 直チニ京都ニ書状ヲ発ス

♪息子・正中(せいちゅう)からの香港行きについて書状を,父・凞(ひろむ)は,どのような気持ちで読んだのでしょうか。後年,凞が記した「木下凞翁懐旧談」14)15)のなかに,その思いの一端が記されていました。

正中香港行に際し恰あたかも卒業の期に達したれば程なく一医学士の資格を得るものなり。殊に遠航をもなす身なれば余の身体自覚に煩ふ所なきも不知しらず不識しらずの中に内臓の疾病あるや図るべからず。一応診察を這げ置くは汝の業務上将た孝養上の本意なるべしとて診察せしめたるに思ひきや心臓に疾患あらんとは即大動脈口及僧房弁に噪鳴を聴取するとて正中の驚愕痛心一方ならざりしも自覚に今何の苦悩なき以上は急に障害を起すに至らざるべし。此病を認めたる以上は十分攝養を探るべし。躊躇せず旅装を整ふべしとて其行を奨めました。航路は横濱より解かい䌫らん[とも綱を解くこと]するとならば見送の為め東上の次でを以て「ベルツ」教師に診ひ大動脈口硬變の診断を受け猶軽症なれば善く攝生をなせ急變はあるべからずと懇癒せられ其意を諒して帰西せり。

♪凞は,正中の香港行きにあたって,健康診断を受けさせていました。その結果,大動脈口および僧房弁に心雑音があることわかります。とくに日常生活に障害はないことがわかりましたが,念のためベルツにも診察を受けています。

♪ベルツの診断は,「大動脈弁口硬變」。軽症とのことで,旅装を整え,香港に向かわせることになるのです。正中のペスト調査に対する真摯な思い,なにより父の子に対する慈しみの心,そして,患者さんに対する慈愛の精神が,正中の香港行きを実現させたのではないでしょうか。

♪新橋停車場,横濱港からの出発の様子を新聞は,次のように報じています。

北里,青山両博士が香港へ出発[明治27年6月6日 時事]

黒死病調査のため,香港へ派遣の命を受けたる内務技師北里柴三郎,医科大学教授青山胤通の二氏は,随行四名とともに,昨日午前八時五十分新橋発の汽車にて出発したり。同停車場まで二氏に行を見送りたるものは,長與宮中顧問官,三浦東京府知事,帝国大学の博士,学士,芝区衛生會員等を始めとして,朝野の人士無慮三百名。二氏の一行は横浜に赴き,同港を昨午後三時に出帆する仏国郵船に乗り込むはずにて,同船は神戸へちょっと立ち寄るのみにて,香港へ直行するものなりという。

♪一行は,6月12日に香港着。14日から英医ラウソン(Lowson, James Alfred [1866-1935])らと協力して,調査・研究に取り掛かることになるのですが,その1週間後の6月20日午後,日本では,地震(明治東京地震)が起こりました。そのときの模様をベルツは日記のなかで次のよう記しています16)。

六月二十二日(東京)[日付は原文のママ]

午後二時半強震。もう一揺れ揺れたら東京の過半は崩壊した事であらう。・・・余が家は幸にして何事も無かった。木材の骨組を有する日本家屋と和洋折衷の家屋とは損害最も軽微なることが明かにされた。これは家屋構造に対する一教訓であろう。


ペスト流行当時・香港市街焼払いの惨状(出典:「青山胤通」)4)

♪香港で,調査・研究にあたっていた青山胤通と石神亨がペストに感染して死線を彷徨するという事態が発生します。6月28日の夜,香港ホテルで開催された晩餐會の席上で青山胤通は体調を崩します。木下正中と宮本叔は,その前から,なんとなく,青山の体調の変化に気づいていました。

♪青山胤通は,その時のことを次のように,記しています2)。

解剖を終り予は午後二時半頃頗る著明に食事の美ならざるに気付きたり。食後階段を登る際或る腕の運動に際して左腋窩に於いて軽度の疼痛を覚えたれば,・・・食事は味なく衰弱疲労を覚え屡々帰宿せんと思惟せりき。

♪正中の明治27年(1894)6月28日と29日の日記には,次のように記されています。医学生が教授を診ている緊迫した様子が伝わってきます13)。

明治27年6月28日

青山博士本日午後来左腋窩ニ疼痛腺腫ヲ覚エ,尋テ夜少シク発熱ス。キニーネ1.0頓服

明治27年6月29日

青山博士解熱セズ

♪青山胤通の伝記4)のなかにも,ペスト研究・発病時の木下正中の活躍が描かれています。

・さて先生が作業を進めるに当って第一の困難は言語の点で,初め日本人の通弁を傭ふたが,伝染を恐れて逃げ出してしまうた。幸ひ男の看護人で英語と支那語の解るものがあったから,先生の質問を木下氏が聴き,それを看護人に話し,更に看護者に伝へるといふ方法を取った。

・先生はラウソン氏の勧めを容れ,二十九日の夕刻汽艇に乗って同氏所有の病院船ハイジア号に移ることとなり,同船に石神氏も希望に依って同船に入院した。病院船では宮本,木下両氏が同室して代る代る先生と石神氏を看護し,其の傍ら材料及びプロトコールの整理や報告書等の仕事もしなければならぬので,夜もおちおち眠れぬ程忙しかった。

・病院の物置部屋と小使室を臨時解剖室に使用し,一間半四方位の板の間に屍體を横たへ,其の傍らに棺を置き,先生がタタキに立って解剖するのを上の板の間から宮本氏若くは木下氏が踞んで助手を勤め,そして何方か一人は日誌を書くのであった。

♪青山胤通,石神亨がペストに罹患したことは,日本国内でも,大きく取り上げられる事態となります。

青山博士,石神助手がペストに感染,重態[明治27年7月3日 時事]

黒死病取調べのため先般北里博士と共に香港に赴きたる医学博士青山胤通氏並びに海軍大軍医研究所助手石神亨氏は,黒死病に罹りたる旨,一昨日,北里博士より内務省へ電報ありしよし。

青山博士,危篤状態に[明治27年7月8日]

北里博士より昨七日午前八時二十二分香港発にて,高田衛生局長に達したる電報は,左のごとし。

青山,昨夜より心臓の働きはなはだ悪し。一昨六日午後発の電報は,二人とも快方に赴くとあり。かつ北里博士は,日を期して帰朝の途に上るとまで決心するほどなれば,快復の見込み充分なりしものと見えたるに,わずか一夜の中に容体一変したるこそ,誠に歎わしき次第なれ。しかし治療,看護ともに怠りなければ,快方に赴くその望みなきにあらざるへし。

♪大學(東京醫學會,國家醫學會,學士會)からは高田畊安11)を,伝染病研究所からは高木友枝17)を,急遽,現地に向わせることになります。

♪高田畊安と石神亨が知り合ったのは,このときのことで,病院船ハイジア内のことでした。

♪高田畊安は,京都府醫學校を明治17年に卒業(第1回生)し,その後,さらに東京大学医学部に進んだ人物です11)18)。香港のペスト流行に際して『黒死病論』(高田耕注)安編述 医海時報社,明治27年7月6日発行)を著しています。

注)畊安と耕安:「こうあん」名前の漢字表記:戸籍上は,「畊安」ですが,「畊」には,新字体の「耕」をあてることもあり,本人自身も「耕安」の文字を使うことがあったそうです11)。

♪高田畊安は,重症の脚気を患ったとき,同志社に新島襄にいじまじょうを訪ねて,同志社教会に通い,明治15年(1882)7月にラーネッド牧師より洗礼を受けています。

♪東京に出た高田畊安は,下谷教会伝道師・東京YMCA幹事であった木村熊二(西片町10番地)が明治21年(1888)5月13日に組織した「大学基督教青年会」に参加しています。この会員には,のちに各方面に活躍した人々が多く,木下正中,下瀬謙太郎,藤浪鑑の名前もみえます19)。

♪石神亨(熊本医学校出身)もクリスチャンになった人で京都の佐伯理一郎(熊本医学校出身・同志社病院長・京都看病婦学校長)と親交がありました12)。

♪高田畊安の実父は,増山守正(丹波・綾部藩の典医)20)で,維新後,畊安が学んだ京都府医学校の事務取扱を務め,その後,上京して帝室博物館歴史部勤務となった人物です。漢文の基督教解説書『天道溯原』を畊安に勧めたといわれています11)。

東京帝室博物館正面之圖(絵葉書):コンドル設計(明治14年)の旧東京帝室博物館(震災で倒壊)
♪高田畊安は,明治25年(1892),勝海舟の孫・疋田輝子と結婚し,ペスト騒動が起こった明治27年(1894)の12月には,海老名えびな弾正だんじょう(熊本洋学校出身)が関係した本郷教会の婦人部の要請により,看護法学習会を開催しています11)。

♪高木友枝17)は,伝染病研究所に勤務したのち,台湾総督府医院長兼台湾総督府医学校長となった人物です。

♪木下正中は,卒業試験を控えていた関係で,研究標本の一部を携えて,香港を単身で出発,長崎経由で,無事に東京に戻りました。卒業試験に合格後,正中は,スクリバの弟子になりました3)4)。

♪軽症であった石神亨は,発病後,3週間を経ると意識も快復して痛みも減じます。帰国後,京都に佐伯理一郎を訪ねて,木下正中への感謝の気持ちを次のように述べています21)。

石神氏は帰朝の後具さに当時の模様を私に話して曰く,あの時若もしも木下さんが居なかったら,看護は皆英語の人而已のみなりし故,我々の不自由は実に言語に盡つくされませんでした。

♪佐伯理一郎と正中の父・木下凞とは,半井澄の紹介で親交を持ち,杉田家や木下家の屋敷跡がある若狭小濵へも,避暑に行っていたそうです21)。

♪青山胤通も,腺腫の切開を27か所も行い,神経衰弱になるなど,重態だったのですが,九死に一生を得て,無事に快復。病後の衰弱をおして8月21日香港を出発,8月31日に帰国しています。帰国後は,佐藤三吉(外科)の助手(久保郁蔵)をつれて,箱根塔ノ澤に2週間静養しています。

青山博士も全治,帰国[明治27年9月1日 東京日日]

医科大学教授正六位勳四等賜旭日小綬章医学博士青山胤通氏は,昨日を以って香港黒死病戦地より凱旋したり。

♪木下正中の同期に北島多一(のち北里研究所長・慶應義塾大学医学部長)がいます。北島は,木下が亡くなったとき,その追悼記事のなかで,香港行きについて触れています。同級生の北島の木下への思いが伝わってきます22)。

君は卒業の前年,青山先生が北里先生と共に香港のペスト研究に行かるゝを聞くや,奮然随行を志願し許されて同行したが,青山先生の罹病となり其の報告の為に早く帰られた。然し此の研究に学生として参加する如き一寸驚くべき行動も,学生も其位の元気がなくてはいかぬと,吾々は大いに敬意を表したので

あった。

♪北里柴三郎と北島多一の伝染病研究所が内務省から文部省に移管されたのは,記念写真が撮られた明治28年(1895)から19年後の大正3年(1914)のことです。(勅令 第二百二十一号)北里柴三郎は,北里研究所を創設し,青山胤通が第2代所長となった伝染病研究所は,のちに東京大学医科学研究所へと形を変えていくことになります。

♪木下正中の長男・正一(せいいつ】の長女・恵子の夫は,内田清二郎(東大伝研教授・予研部長)です。さらに,正中の六女・弘子(ひろこ)の夫となる川喜田愛郎(よしお)23)が,東京帝国大学を卒業して,長與又郎が所長(第4代)を務める「東京帝国大学附属伝染病研究所」に入ったのは,昭和7年(1932)のことでした。

♪川喜田愛郎は,昭和24年(1949)12月には,千葉大学へ移り,細菌学教室を主宰して,のちに千葉大学学長(第5代)を務めました。正中の伝染病への思いは,娘婿たちに引き継がれていくことになります。

♪「木下正中の香港行き:「ペスト研究記念撮影」(明治廿八年)」と題する一枚の写真は,後世のわれわれに,いろいろなことを,語りかけてくれます。香港でともにペスト菌と戦った医家達は,その後,それぞれの道を,それぞれの信念を持って歩み,医療・研究に携わることになります。

(敬称は省略させていただきました。)

(平成23年8月28日 記す)(平成31年2月20日 追記)

参考文献

1) 村山達三著. 本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本醫事新報 第1369号 PP.32[1928]-34[1930] 昭和25年7月22発行

2) 村山達三著. 本邦に於けるペスト研究の偉業(2). 日本醫事新報 第1370号 PP.31[1995]-34[1998] 昭和25年7月29発行

3) 木下實著:「木下正中」(私家版・電子版)

4) 「青山胤通」鵜崎熊吉著. 青山内科同窓会,昭和5年発行(非売品)

5) わが師わが友(1):青山胤通先生(稲田龍吉著).  日本醫事新報 第1242号 pp.22[22]-23[23]. 昭和23年1月1日.

6) 「北里柴三郎伝」宮島幹之助編輯. 北里研究所,昭和7年発行(非売品)

7) 「北里柴三郎と緒方正規 日本近代医学の黎明期」野村 茂著. 熊本日日新聞社,平成15年.

8) わが師わが友(2):北里柴三郎博士(中山壽彦著).  日本醫事新報 第1243号 pp.14[66]-15[67]. 昭和23年1月21日.

9) わが師わが友(14):宮本叔先生(村山達三著). 日本醫事新報 第1256号 p.13[545]. 昭和23年5月22日.

10)東都掃苔記(61):宮本 叔博士の墓. 日本醫事新報 第1643号,p.48.(昭和30年10月22日)

11)「南湖院 高田畊安と湘南のサナトリウム」(茅ヶ崎市史ブックレット 第5集)茅ヶ崎市史編集委員会編. 大島英夫著. 茅ヶ崎市発行,平成22年(3刷).[入手先:茅ヶ崎市史ブックレット]

12)「故石神亨紀念誌」石神研究所同窓會発行編輯. 大正10年12月15日発行.

13)東都掃苔記(77):木下家の墓. 日本醫事新報 第1659号 p.60. 昭和31年2月11日発行.

14)木下凞ひろむ翁懐旧談. 京都醫事衛生誌 第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)

15)木下凞ひろむ翁懐旧談. 京都醫事衛生誌 第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)

16)「ベルツの『日記』」濱邊正彦譯. 岩波書店刊,昭和14年.

17)わが師わが友(58):高木友枝さんの思出(荒井 恵著). 日本醫事新報 第1301号 p.19[615]. 昭和24年4月2日.

18)「京都府立醫科大學八十年史」京都府立醫科大學創立八十周年記念事業委員會編輯. 昭和30年8月1日発行.

19)「日本YMCA史」奈良常五郎著. 日本YMACA同盟,1959.

20)東都掃苔記(69):増山守正翁の墓. 日本醫事新報 第1651号 p.66. 昭和30年12月17日発行.

21)木下正中君を悼む. 佐伯理一郎著. 産婦人科の世界 3(3):17-19, 1952(昭和27年3月)

22)木下正中博士の想い出(その一)北島多一著. 日本醫事新報 第1446号 pp.63[179]-64[180]. 昭和27年1月12日発行.

23)人-153-:川喜多愛郎氏. 日本醫事新報 第1342号, p.72[148].(昭和25年1月14日)(川喜多の「多」の字は「田」の誤記。川喜田が正しい)

60. 小樽行:小樽公園内の啄木歌碑

場 所:小樽公園:北海道小樽市花園5丁目

建 立:昭和26年11月3日(小樽啄木歌碑建設期成會)

小樽公園(戦前・絵葉書)

 

こころよく

我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて

死なむと思ふ

 

🌸🌸

♪北海道へ行った折,小樽に立寄り石川啄木の歌碑を探してみることにしました。小樽には,いくつか啄木の歌碑が点在するようですが,今回は,そのなかで小樽公園の歌碑を見ることにしました。

小樽観光協会

♪何年振りでしょうか。羽田空港から空路,北海道に渡りました。新千歳空港に降り,すぐに空港ビルの地下からJR北海道の快速エアポートに乗り継ぎで,小樽に向かいました。

♪エアポートは,千歳線の新千歳空港駅から北広島駅,札幌駅を経由して,函館本線に進入する快速電車です。銭函ぜにばこ駅から浅里駅間は石狩湾を望む波打ち際を走ります。車窓からみる海岸線の風景は素晴らしいものでした。啄木がみた風景です。銭函駅は,映画「駅/STATION」のロケ地としても有名な駅です。

♪小樽駅の一つ手前の南小樽駅で下車、駅前からタクシーで小樽公園に向かいました。小樽の町を,ゆっくり散策しながら,歩いて公園まで向かえばよかったのですが,陽が落ちないうちに,歌碑をみつけたいと思い,タクシーを利用しました。

♪はじめての土地へ行って,時間の制約のなかで,目的の歌碑や石碑をみつけるのは,そう簡単なことではありません。最近では,ネット上に,いろいろな方が,歌碑の訪問記を書かれていますので,それを頼りに探すことができるようになりました。

♪小樽公園内の啄木の歌碑は,公園入口左手の広場の奥に建てられていました。自然石(仙台石)の立派な歌碑でした。歌碑の背景には,黄葉の木々がみえ,午後の柔らかな日差しを浴びて,静かに建っていました。

石川啄木歌碑(小樽公園内)(平成22年10月16日 堀江幸司撮影)

♪碑陰に回ってみました。次のような説明文が刻まれた石版がはめ込まれていました。

 


明治四十年九月末小樽日報創業に招

かれ詩人石川啄木は来樽した 在社

三ヶ月志望の記者生活を快よく働い

て独特の健筆を揮った 其頃を追想

した「かなしきは小樽の町よ歌ふこ

となき人人の声の荒さよ」は今も市

民に愛誦されて居る 翌年一月漂遊

を続け釧路新聞に轉じたが四月素志

を遂げ上京し困窮の生活を闘ひなが

ら不朽の彼の文學を築き上げた 明

治四十五年四月十三日薄倖不遇の生

涯を終ったのは二十八歳である

彼が愛し懐しんだ小樽の市民はこの

永遠に若い詩人を讃頌して記念の歌

碑を建立した

昭和二十六年十月

小樽啄木歌碑建設期成會

撰文 小樽啄木會

放書 宇野 靜山

施工 田村 孝雄


♪説明文のなかには,啄木が「小樽」を読み込んだ歌が,市民に愛誦されているとあります。啄木を愛する小樽の方々のかなしい思いが伝わってくるようです。


かなしきは小樽をたるの町よ

歌ふことなき人人ひとびとの

声の荒あらさよ


♪啄木が小樽に滞在したのは,明治40年(1907)9月27日から明治41年(1908)1月19日までの3か月ほどのことでした。その間「小樽日報」の記者として活躍しています。その後,「釧路新聞」での記者の仕事を得ますが,そこでの生活も長くは続きませんでした。上京を決心するのは,その年の4月23日のことです。旭川経由の釧路行は,啄木にとって,最果ての地への旅と感じられたようです。

♪啄木は,冬の暗く,寒い時期を小樽で過ごしたことになります。函館,札幌,小樽,釧路での北海道の生活は,啄木にとって,経済的に余裕のあるものではなく,精神的にも快いものではなかったようです。

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♪啄木の日誌(日記)4)5)を見てみます。


明治40年 (1907) 22歳

9月27日:札幌―小樽:社の方より給料まだ出来ざれど,西堀君に立かへて貰つて小樽に向ふこととせり。午后四時十分諸友に送られて俥を飛ばし,汽車に乗る。雨中の石狩平野は趣味殊に深し,銭函をすぎて千丈の崖下を走る,・・・潮みちなば車をひたさむかと思はる。海を見て札幌を忘れぬ。

なつかしき友の多き函館の裏浜を思出でて,それこれを過ぎし日を数へゆくうちに中央小樽に着す。

姉が家に入れば母あり妻子あり妹あり。

10月2日:小樽:出社す。夕方五円だけ前借し黄昏時となりて,荷物をばステーションの駅夫に運び貰ひて,花園町十四西沢善太郎方に移転したり。室は二階の六畳と四畳半の二間にて思ひしよりよき室なり。ランプ,火鉢など買物し来れば雨ふり出でぬ。

11月6日:小樽:花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る。

12月26日:小樽:日報社は未だ予にこの月の給料を支払はざりき。

明治41年 (1908) 23歳

1月18日(釧路への旅立ち):小樽に於ける最後の一夜は,今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つて行くべき手廻りの物や本など行李に収めて,四時就床。明日は母と妻と愛児とを此地に残して,自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ!!


♪啄木は,小樽について次のように書いています。(「小樽日報」第1号 明治40年10月15日)

「予は飽くまでも風の如き漂流者である。天下の流浪人である。小樽人と共に朝から晩まで突貫し,小樽人と共に根限りの活動をする事は,足の弱い予に到底出来ぬ事である。予は唯此自由と活動の小樽に来て,目に強烈な活動の海の色を見,心の儘に筆を動かせば満足なのである。・・・予が計らずも此小樽の人となって,日本一の悪道路を駆け廻る身となったのは,唯気持ちが可いのである。」

♪「小樽日報」には,野口雨情とともに入社します。三面を担当することになるのですが,小樽に来る前の札幌で,北門新聞社の校正係の仕事を紹介したのは,雨情でした。「札幌時代の石川啄木」と題して,啄木の印象を次のように書いています。啄木の様子をよく著していますので,少し長くなりますが,引用しておきます6)。


 

ある朝,夜が明けて間もない頃と思ふ。

『お客さんだ,お客さんだ』と女中が私を揺り起す。

『知つてる人かい,きたない着物を着てる坊さんだよ』と名刺を枕元へ置いていつてしまつた。見ると古ぼけた名刺の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある,啄木とは東京にゐるうち会つたことはないが,与謝野氏の明星で知つてゐる。顔を洗つて会はうと急いで夜具をたたんでゐると啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持つて洗ひ晒しの浴衣ゆかたに色のさめかかつたよれよれの絹の黒つぽい夏羽織を着てはいって来た。時は十月に近い九月の末だから,内地でも朝夕は涼し過ぎて浴衣や夏羽織では見すぼらしくて仕方がない,殊に札幌となると内地よりも寒さが早く来る,頭の刈方は普通と違つて一分の丸刈である,女中がどこかの寺の坊さんと思つたのも無理はない。

『私は石川啄木です』と挨拶をする。
『さうですか』
私は大急ぎに顔を洗つて,戻つて来ると,
『煙草を頂戴しました』と言つて私の巻煙草を甘うまさうに吹かしてゐる。
『実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました』
『煙草を売つてませんか』
『いや売つてはゐますが,買ふ金が無くて買はれなかつたんです』と,大きな声で笑つた。かうした場合に啄木は何時も大きな声で笑ふのだ,この笑ふのも啄木の特徴の一つであつたらう。


♪釧路には,小奴こやつこがいました。雨情は釧路時代の啄木について「石川啄木と小奴」のなかで,次のように書いています7)。


石川は人も知る如く,その一生は貧苦と戦って来て,ちょっとの落付いた心もなく一生を終ってしまったが,私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であったやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽くしてくれたからである。・・・いはば石川の釧路時代は,石川の一生中一番興味ある時代で,そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感じるのである。


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♪小樽は詩集『雪明りの路』で知られる伊藤整の故郷でもあります。その伊藤整が『日本の詩歌 5 石川啄木』1)の巻末に「詩人の肖像」と題して,啄木について語っています。伊藤整の小樽への想いが,重なります。

小樽文学館


「函館に渡り,その町の弥生小学校の教員となった。間もなく函館の大火にあい,札幌に移り,さらに小樽,釧路と新聞記者としての生活を一年ほどした。その間彼は,ほとんど詩歌の制作から離れ,新聞に雑文を書き,田舎新聞記者としての粗暴な生活をつづけ,筆は荒れた。」

「正岡子規は啄木より二十年前に,歌を写生という真実に結びつけることで甦らせた。啄木は,歌をその時その人の心の短いつぶやきたらしめることによって,もっと大きな生命を与えたのである」


♪その後、啄木は、釧路から岩手県宮古浜むかう帆前船に乗って上京。その様子は、雨情によると、「おおきな声ではいはれませんが、こつそりと夜だちしてしまつたのです。」経済的に苦しかったは、啄木は、あちこちで、不義理を重ねていたようです。

♪森鴎外が中心となって発刊された新雑誌「スバル」で,木下杢太郎(太田正雄),吉井勇とともに同人となったのは,明治42年(1909)1月のことでした8)。

♪生涯,経済的に恵まれずに,あこがれの東京で,病に倒れ,才能ある啄木の未来が断ち切られたのが,惜しまれます。啄木が,小石川(現・東京都文京区5-11-7)で亡くなったのは,明治45年(1912)4月13日のことでした。27歳の若さでした。

 

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♪小樽駅から小樽運河へつながる大通り(中央通)に面したお寿司屋さん(おたる大和家)に入って,昼食のランチの握り寿司を注文しました。ご主人が秋刀魚の握りを食べさせてくれました。やはり,港町小樽の新鮮な魚介類のお寿司は,一味,違いました。

♪小樽と言えば,硝子工芸が有名です。中学生のころ,しなびた温泉宿でみたランプの明かりが,蘇ります。しずかに舞い落ちる雪の降る寒い朝の廊下の隅を,ぼんやりとしたランプの光りが照らしていました。

♪小樽駅から小樽運河へと続く中央通りを下って,色内2丁目の交差点を右折。境町本通りに入り,北一硝子に向かいました。通り沿いには,北一硝子の各店舗のほかに,小樽オルゴール堂など,お洒落な店々が立ち並んでいます。昔の街道筋の面影が残ります。お目当ての硝子細工の品はありませんでしたが,硝子の持つロマンチックな温もりを感じることができました。

 

♪メルヘン交差点から坂道を上りつめると,海が見えてきます。冬になると雪の嵐がくるのでしょうか。海から山がせりあがる小樽の港町を感じられる風景です。

♪盛岡・滝沢村での雪のある生活に慣れていた啄木でも,冬にこの坂道をのぼるのは辛かったのではないでしょうか。小樽の浜から風に舞い上がる雪は,身に沁み入るものだったことでしょう。

♪南小樽駅から千歳空港にもどりました。備後屋民藝店の岡田弘(ひろむ)さんに教えてもらっていた札幌に本店のある青盤舎(せいばんしゃ)の空港内の売店(千歳店)に寄ってみました。手作りの優佳良織のキーホルダー(北海道伝統美術工芸村)とアイヌ木彫の靴ベラを購入しました。

♪空港内の売店を,いろいろ見て歩いていると,小樽硝子を扱う「小樽工藝舎」のお店があることに気づきました。この売店に,小樽で探し回っていた硝子細工の小物がありました。「小樽工藝舎」の本店は,小樽運河のほとりにあるそうです。次回は,札幌の青盤舎とともに,小樽運河工藝館も,是非,訪ねてみたいと思います。(小樽運河工藝館は、東日本大震災後の平成23年11月に閉館。青盤舎は平成24年閉店。)

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♪帰途、雨が降り始めました。雲の上にでると,茜色の夕陽のなかに富士山が黒く浮かんでいました。羽田上空,トワイライトの夕暮れのなかを,飛行機は,暗闇で明るさを増した誘導灯を目標に降下しはじめました。誘導路が,小樽の雪明りの路のようにもみえました。

♪新鮮な作物,そして自然が豊かな小樽。いずれは,生まれ育った駒込を離れて,水と空気が綺麗で,食べ物の美味しい,静かな北海道の地方都市で暮らしてみたい,そんな贅沢な幻想を持った小樽行となりました。

 

参 考 文 献

1)『日本の詩歌 5 石川啄木』. 中央公論社,1967.

2)『石川啄木歌集(日本詩人選 04)』. 久保田正文編. 小沢書店,1996.

3)『石川啄木』 新潮社,2002.(新潮日本文学アルバム 6)

4)『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』. 筑摩書房,1980.

5)『石川啄木全集 第六巻 日記Ⅱ』. 筑摩書房,1980.

6) 野口雨情著:「札幌時代の石川啄木」:『定本 野口雨情 第六巻』.未来社,1886. pp.420-425,

7) 野口雨情著:「石川啄木と小奴」:『定本 野口雨情 第六巻』.未来社,1886. pp.329-336,

8)『石川啄木全集 第八巻 啄木研究』. 筑摩書房,1980.

9) 『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986.)

(平成22年11月27日 記す)(平成30年9月26日 追記)