118.『楽山樵夫夢裡記稿』(宇野朗覚書)(2) 江戸から沼津へ:山伏井戸を出立:宇野朗と神戸文哉が随行

・ 徳川慶喜(けいき)注)の大政奉還により,幕臣であった医家・洋学者たちも,それぞれの行き先を決めることになります。

・ 柳川春三(やながわ・しゅんさん)(1832-1870),川本幸民(かわもと・こうみん(1810-1871),箕作麟祥(みつくり・りんしょう)(1846-1897)は,新政府に移り,福沢諭吉(1835-1901)は,自ら芝新銭座に英学塾(慶應義塾のはじまり)を開き,杉田玄端(1813-1895),林洞どう海かい(1813-1895)は,駿河に移住することを決めます。(『宇野朗覚書』(以下,『覚書』)

『覚書』

番書取調所に出仕の洋學者及洋医家の諸氏柳川春三,川本幸民,箕作鱗祥等は朝廷の召に應じ福澤諭吉は徳川氏に致仕し朝廷の召を辞し芝新銭座に英學塾を開き子弟の薫陶に従事せり(之を慶應義塾の濫觴とす)

又杉田,林(洞海後楳仙)其他に医家は大概駿河に移住の事となりたり 是に於て杉田家は住宅及倉庫を分解して駿州沼津に向け海路運搬せしめて土地は棄賣同様に賣却し明治元年十月二十一日両國山伏井戸の住地を引佛い二十三日三島を経て沼津に着し本町旅舎□屋に宿せり。塾中随行せしは神戸文哉と予とす。予は即日別辞して三島駅傳馬坊父上の許に帰たり。又杉田先生は一旦静岡政廰に出頭し居住地の指揮を仰ぎ沼津に住居することに決しより先に積送せる家屋材料を以て八幡町柳下知之所有地に再築し竣工の報に接したれば十一月十五日訪問し再塾を謝して辞去す。予は英書自習の傍初学の人に素読を授け又日々神戸氏と沼津病院に出頭し医書化学書等の聴講,患者の診療補助或は外科的手術の傍観等をなしたり。當時医師にて重要の地位にありしは,杉田玄端,林梅仙(洞海),篠原直路,三浦文卿等の諸氏又化学担任は桂川甫策氏とす。篠原氏は後大阪医学校の招聘に応じ沼津病院を退き神戸氏も同氏に随行して杉田家を去れり。

 

山伏井戸を出立:明治元年(1868)10月21日

『日本橋北内神田両國濱町明細絵圖』(部分)

・ 杉田玄端は,明治元年(1868)10月21日,早朝,山伏井戸を家族とともに出立,三島を経由して沼津に向かうことになります。塾生中,随行したのは,宇野朗らと神戸文哉の二人でした。

・ この杉田家の山伏井戸からの旅立ちの様子は,杉田玄端の五男・盛さかりが著した『杉田盛氏六十年回想記』(以下,『回想記』)にも,記されています。

(この『回想記』は,樋口雄彦氏(前・沼津市明治史料館,現・国立歴史民俗博物館準教授)が、私が執筆中の「江戸東京医史学散歩」をご覧になり、直接、宇野彰男氏に連絡されて翻刻1)されたものです。)

 

・ 『想記』によると,盛は,沼津へ父母,そして,兄の武[次男],雄いさお[四男]の家族と向かっています。このとき,杉田分家,廉卿(成卿の養子)は,江戸に残って,小濵藩酒井家の家臣としての勤めをはたすことになりました。分家、二代目の成卿は,箕作阮甫とともに天文方附蘭書翻譯御用手傳出役と蕃書取調出役教授となった人物2)で,榊綽ゆたかの師でもありました。

 

・ 塾生中,随行したのは『覚書』では,宇野朗と神戸文哉の二人としていますが,『回想記』には,宇野朗と神戸文哉のほかに小山内建が同行したとあります。

・ 神戸文哉(かんべ・ぶんさい)(1848-1899)3)4)5)は,信濃小諸藩の家臣(長野縣士族)で,のち京都療病院・仮癲狂院てんきょういん6)の医員となり,明治9年(1876)に,「精神病約説」(上中下 三巻 癲狂院蔵版)(翻訳本),明治11年(1878)に,「養生訓蒙」(京都療病院蔵版)を著しています。また,「西醫雑報」(京都療病院)(明治9年[1876]),「療病院雑誌」(京都療病院)(明治13[1880]年3月発行月刊)を編輯したのも,神戸文哉でした。

・ 明治12年(1879)4月16日(京都療病院医学校創立日)に京都療病院内(上京區第十二組梶井町四六五番地)に医学予科校および医学校が設置されたときの職員表によると,神戸文哉(編輯係),木下凞ひろむ(当直医),山田文友(通訳兼当直医)の名前があります。ここで,神戸文哉と木下凞ひろむが繋がりました。

神戸文哉(1848-1899)4)

 

・ 杉田家の同行者のなかには,出入りの大工や棟梁もいました。この人たちも,道中は両刀をさして侍に仮装し,警護の任にあたりました。沼津に到着後は,本来の棟梁や大工にもどって,先に海路(船廻し)で運搬しておいた山伏井戸の家屋材料を,組み立て杉田家の建物を沼津で再築することになります。家屋の部材まで運ぶなど,沼津に定住することを覚悟しての旅支度でした。

・ 杉田玄端の一行は,東海道を宇野朗の生家のある三島を経由して沼津へと向かいますが,官軍の一行とぶつかり,箱根越えを前に,小田原宿での滞在(3日間)を余儀無くされます。そのことを,『回想記』に,盛は,次のように書いています。

『回想記』

途中,小田原宿では,官軍の行軍にあい,箱根越えができず3日間滞在,箱根は,駕篭が不足して,「母も女中も歩行し,余[盛]は小兄雄と父[玄端]の駕篭に同乗して有名の関所の手形あらためも睡眠して知らずに三島駅に着た。其夜の十時頃父母達はやっと旅宿に着き途中峠では既に雪がふり道路がすべって非常に苦労した

 

 

 

三島街道:芦の湖の景観(戦前の絵葉書)箱根旧街道十二丁(石畳)
🌲三島街道・旧箱根街道・十二丁(石畳)
 三島から箱根山を登って小田原へと出る。箱根八里の山道(石畳)

 

Google earth(箱根十二丁)

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・ 『覚書』による宇野朗が,三島に到着したのは,23日となっています。山伏井戸を発って3日後のことです。宇野朗や神戸文哉など随行した塾生は,旅の宰領さいりょうとして,杉田家一行より一歩早く,次の宿に先着して,宿の手配や馬の準備などを取り締まっていましたので,三島にも,23日には到着していたものと思われます。

 

山伏井戸(両國・濱町)――>小田原宿―――>箱根宿(箱根峠)―――>三島宿―――>沼津(八幡町)

 

・ 杉田家は,沼津の八幡町(八幡前)の柳下知之(三島・医師)の土地に家を再築しました。杉田家の江戸での建物が沼津に移築されたことになります。

沼津千本濱の富士(戦前の絵葉書)

 

・ 八幡町での生活を盛は『回想記』のなかで,次のように回想しています。

 

『回想記』

沼津の家は八幡町に在た。隣地は八幡神社の境内で大木が繁茂して居た。周圍は皆農家であった。随て余の遊び仲間否いたづら仲間は多くは農家の子弟であった。為に日常の遊戯も野人の夫れであった。虫採,蝉狩,筍子掘り,木のぼり,などで今日考へると随分野蛮のものであった。蛇などは平気で手づかまえにし蜂の子を捕て食ひ,榎木の実,山いちご,桑の実,桜ぼうなどは常食であった。小兄の雄は遂に赤痢に罹ったが母の心づくしの看病で幸に全治した。余の少年時代は頗る無病健康のいたずら子で,養母にも実母にも毎度警告された事と記憶して居る。

 

・ 宇野朗は,父・陶民(とうみん)の許しをうけ,沼津の杉田塾に再塾をはたします。沼津病院での新らたな修業生活がはじまりました。沼津病院には,杉田玄端のほかに,林梅仙(洞海)7),篠原直路,三浦文卿,桂川甫策(化学担当)などがいて,医学書の講読を受け,診療補助・外科手術の見学なども行いました。しかし,沼津で勉強すればするほど,朗は,東京で英学の勉学の機会を持ちたい,との思いをつのらせることになります。

 

・ 明治元年(1868),宇野朗(1850-1928)18歳,杉田武(1852-1920)16 歳,神戸文哉(1848-1899)20 歳,榊俶(1857-1897) 11歳,榊順次郎(1859-1939)9歳。沼津病院,沼津兵学校附属小学校での,それぞれの出会いとなりました。

・ このとき,木下凞(ひろむ)8)9)(1844-1914)は24歳,藩命により長崎で修業していた時期にあたります。木下凞(ひろむ)が横濱に出て山田文友とともにシモンズに学んだのが明治4年(1971),早矢仕有的10)11)の塾(靜々舎診療所)で杉田武と共に学ぶことになるのは,明治5年(1972)になってのことです。

 

宇野 朗ほがら  沼津病院→  大學東校・南校・東校  →  (帝國大學醫科大學第一醫院・外科学,繃帯学・皮膚病及黴毒學担当)(皮膚病黴毒科講座初代教授)→樂山堂病院長

 

杉田 武  沼津→  横濱(靜々舎診療所) → 大學東校・ニューヨーク大學留学 →慶應義塾医学所教授

榊  俶(はじめ)  沼津兵学校附属小学校→ 大學東校 → 帝國大學醫科大學教授(精神病学講座初代教授)

榊順次郎 沼津兵学校附属小学校 → 大學東校 → 榊病院長(産婦人科)

神戸文哉  沼津病院→ 大阪醫学校→東校へ転学→京都療病院→大阪府立醫學校副長兼教授

 

木下凞(ひろむ)  → 横濱 (靜々舎診療所)→ 京都療病院→京都駆黴院初代院長

・ 宇野朗は,慶應3年(1867)9月から翌慶應4年(1868)10月までの約1年間,高砂町(小林塾)と山伏井戸(杉田塾)の日本橋・濱町界隈で過ごしました。濱町川に架かっていた小川橋や高砂橋を渡って,勉学に励んでいたのでしょうか。その頃の江戸の風景を想像してみます。濱町界隈には,江戸湾からの風が磯の香りを運び,大川の川面には,光が溢れ,土手には花々が咲き,蝶が舞う。そんな自然豊かな姿が想像されます。

 

注) 慶喜の呼び方と読み方:『徳川慶喜家の子ども部屋』(榊原喜佐子著 草思社 1997)によると,徳川邸内では,「ケイキ様」と呼んでいたそうです。また,『開橋記念 日本橋志』(東京印刷編輯・発行)の巻頭・目次にある「徳川慶喜公書日本橋」のルビには「とくがは けいき こうしょ にほんばし」とあります。

 

参 考 文 献

1) 樋口雄彦:杉田盛の六十年回想記.「静岡県近代史研究 」第31号,pp.108-122, 2006.

2) 『箕作阮甫』 呉秀三著.思文閣,1971.(復刻版)

3) 「京都府立醫科大學八十年史」(京都府立醫科大學 昭和30年)pp.173-174.

4) 平沢 一:我が国最初の西洋精神医学書「精神病約説」とその訳者神戸文哉.「精神医学」6(7) : 548-555, 1964.

5) [雑報記事]故神戸文哉君略歴.「大阪興医雑誌」107号, 78-80, 1899.

6) 小野尚香:京都府立「癲狂院」の設立とその経緯.日本医史学雑誌,39(4) : 477-499, 1993.

7) 樋口雄彦:静岡藩の医療と医学教育 林洞海「慶応戊辰駿行日記」の紹介を兼ねて.「国立歴史民俗博物館研究報告」第153号, pp.445-489,2009.

8) 木下凞(ひろむ):木下凞翁懐舊談.「京都醫事衛生誌」,第163号,pp.27-30, 1907.

9) 木下凞(ひろむ):木下凞翁懐舊談(承前).「京都醫事衛生誌」,第164号,pp.32-35, 1907.

10) 丸善社史資料 15(早矢仕有的年譜 (7)):「學鐙」100(7) : 36-37, 2003.

11) 丸善社史資料 16(早矢仕有的年譜 (8)):「學鐙」100(8) : 34-35, 2003.

 

 

(平成23年2月23日 記す)(令和4年4月2日 追記)

117.『楽山樵夫夢裡記稿』(宇野朗覚書)(1)誕生から杉田玄端塾まで

 

宇野 朗(1850-1928)

・宇野朗(1850-1928)は,大正8年(1919),70歳を迎えるのを機会に,子孫への記録として『楽山樵夫夢裡記稿』(大正13年1月記, 昭和2年11月追記)を書き遺してします。これは,『宇野朗覚書』とも呼ばれて,宇野家に代々,伝わるものでした。

・宇野彰男氏(宇野朗の曾孫)が,その全文をスキャンした電子化ファイルと,解読したワープロ原稿を,「江戸東京」の参考にと送ってくださいました。

『楽山樵夫夢裡記稿』の1頁目(宇野彰男氏提供)

・宇野朗の伝記的な記述については,宇野朗のあとを継いで皮膚病学・黴毒学講座教授(現在の東京大学医学部)となった土肥慶蔵が著したものなどがありますが1)2)3)4),『楽山樵夫夢裡記稿』は,誕生から父・陶民の遺稿集『静窓自楽』の刊行までを記録した貴重な資料です。時期的には,幕末の安政の大地震から大正の大震災までの期間にあたります。

・この『楽山樵夫夢裡記稿』については,「江戸東京」でも,紹介させていただきたいと思っていました。今回,宇野彰男氏から「資料を利用するのは構わない」との許可をいただきましたので,少しずつ紹介していきます。

 

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生誕地と生年月日

・宇野朗は,宇野陶民(とうみん)(1814-1874)の長子として君澤郡三島驛傳馬坊に,嘉永3年(1850)陰暦10月15日に生まれます。戸籍上の生日が5日となっているのは,役場の誤記とのことです。

宇野朗の家系

・宇野家の家祖は,與惣右衛門といい,伊豆國君澤郡三島驛長谷坊(のちに傳馬町に移住)に土着したのが最初で,五世・新右衛門までは,代々里正を勤めて,六代與三(幼名・逸八または逸八郎)の代になって,はじめて,醫を業としました。

 

與惣右衛門(宇野家・家祖)[伊豆國君澤郡三島驛長谷坊]

與三(6代)(はじめて醫を業とする)

陶民(7代)

(8代)

 

 

・三島宿は,東海道の第11番目の宿場町で,江戸から約28里半(約112㎞)。箱根の山を超えて三嶋大社に着いた旅人にとっては,ほっとして一息ついた宿場であり,江戸に向かう旅人にとっては箱根山の難所に向かう準備をするための宿場でありました。宇野一家が住んだ傳馬町は,三嶋大社の東側にありました。

三嶋大社(Googe earth)

 

安政の大地震

・安政元年(1854)11月4日,5歳のとき,安政の大地震(安政東海大地震)にあいます。朝9時,激烈な震災が三島をおそい,家屋は倒壊。続いて附近の民家より発生した火災により類焼。三嶋明神の石造大鳥居も切断・倒壊し,神池の石橋は池中に墜落して,三重塔だけが残ります。

・この大地震の年の4月10日に妹の千代が生まれています。まだ1歳にもならない千代は,子守に背負われて三嶋明神境内に避難し,三重塔附近で泣いているところを,父・陶民に発見されます。

・陶民一家は,罹災後,一時,金谷坊(今,宮町)の西井右衛門に世話になりました。長く続いた余震がおさまったのち,仮舎を建て,その後,家屋を新築して,旧地にもどることになります。

三島にコロリが流行

・ 安政5年(9歳):6月〜9月にかけて虎列拉(コロリ)流行。

当時病原を知らず又其傳染の恐るべきを識ざる為め蔓延の急劇猛烈なる實に燎原の火の如し。又其原因に就て民間報道する所は甚だ牽強附會(けんきょうふかい)にして或は之を狐狸の所為に帰し或は之を洋人海中に投たる毒を食いし魚類殊に鯖の毒に帰するあり(魚毒と云うは当時印度日支間往来の船舶乗員の本疫にて死せしを水葬せしに因るならんか)

此の頃毎夜西方の天空に大彗星出現せり。これ亦疫病に関係ありと看做したり。当時田舎人(否日本人一般然りしならん)の知識の低劣なりしは想像も及ばざる程なりしは慨嘆すべし余儀なき次第と謂うべし。都人士否医師も多くは傳染の猛劇なるを理解せざりしならん。当時医たる老父等も恐くは彼数珠に連りしならん呵々。

桜田門外の変

・安政7年(1860)(11歳):3月3日桜田門外の変。

井伊大老の遺骸は途中菩提所玉沢山に宿し次いで我驛を通過せり。其の行列粛々として藩士は白脚絆の様に覚えし。

三島に麻疹が流行

・文久2年(1862)(13歳):6月頃より,三島に麻疹が流行。

俳優であれ,足袋職であれ,或は帳簿職であれ,皆医師の真似をなし本職より多忙を極めしは滑稽と言わんか危険と言わんか実に言語道断の次第なりし。然れども病症が病症なれば薬剤といえば烏う犀角(さいかく),鹿角(ろっかく),セメンシーナ等に限られたれば格別の過失も出来ずして終了したる如きは不幸中の幸いと言うべし。

宇野朗が通った学塾

 千之塾[福井雪水]

・文久3年(1863),14歳のとき福井雪水(通称・亨作)の千之塾に入塾し,経書の講義を聴きます。16歳のころ,親友の河合浦太郎(のち博と改名)と計って,洋学の勉強を志して江戸への脱出をこころみますが,失敗に終ります。

 小林塾[小林伍堂]

・慶應3年(1867)5月31日:沼津宿の水野出羽守医師・深澤雄甫方に寄寓。養子・要橘に学びます。9月,雄甫の江戸屋敷勤番に同行。10月16日丹後宮津の城主・松平伯耆守医師・小林伍堂に入塾することになります。小林伍堂は,前には木村宗俊といい,米国に幕府使節を派遣の際に船医として随行した人で,杉田玄端の門弟でした。

 杉田塾[杉田玄端]

・慶應4年(1868)5月26日:維新に際して,小林伍堂は旧地に帰ることとなり,宇野朗は,杉田玄端塾に転じることになります。杉田塾は,山伏井戸にあり,塾中には小山内建(おさない・たけし)(津軽藩)(文学士・小山内薫の父),神戸文哉(かんべ・ぶんさい)(小諸藩)がいました。

・山伏井戸の近くには,津軽藩と小諸藩の屋敷がありました。いまの久松警察署前交差点・久松町交差点の周辺です。隅田川に繋がる濱町川が流れていたのも,この辺りです。『日本橋北内神田両國濱町明細絵圖』(部分)によると,濱町川に架かる小川橋の畔に「山伏井戸」「杉田玄丹」の文字が見えます。「玄丹」は「玄端」の誤記と思われます。

久松警察署周辺地図(Google earth)

 

・小山内建は代診方,神戸文哉は調剤方を専門として,宇野朗は神戸文哉の補助をして英書の講読を受けています。小山内建は,のちに陸軍軍醫正となっています。

・宇野朗 −− 杉田玄端 −− 杉田武(玄端の息子)−− 木下凞(ひろむ),そして,沼津兵学校の榊綽(ゆたか)との繋がりが見えて来ました。

 

参考文献

1) 黴毒學者としての宇野博士(1)體性 12(2):49,1929.

2) 黴毒學者としての宇野博士(2)體性 12(3):46-47,1929.

3) 黴毒學者としての宇野博士(3)體性 12(4):44-46,1929.

4) 宇野先生の追憶 皮膚科泌尿器科雑誌 29(1):99-103,1929.

(続く)

 

(平成23年2月3日 節分 記す)(令和4年3月30日 追記)

116.徳川慶喜が騒音を嫌った豊島線:山手線の成立(駒込駅の歴史)

●現在、環状線となっている東京の「JR山手線」(やまのてせん)は、はじめから環状線として計画された訳ではありませんでした。

●環状となっている東側部分(下町部分)は、東海道本線、東北本線の幹線の一部として計画され、武蔵野台地上を走る山手線という線路の名称は、当初、品川・赤羽間(品川線)をいいました。つまり、現在の環状線の西半分の「山手」(やまのて)の部分のみを山手線と称しました。(参考図)

(1)新 橋(汐 留) – 品 川 官設鉄道(東海道本線)明治5年(1872)6月12日

(2)上 野 – 田 端 日本鉄道(東北本線)明治16年(1883)7月26日

(3)品 川 – 赤 羽 日本鉄道品川線(山手線)明治18年(1885)3月1日

(4)池 袋 – 田 端 日本鉄道品川線豊島支線(豊島線)(山手線)明治36年(1903)4月1日

(5)東 京 – 上 野 (東北本線)大正14年(1925)11月1日

●のちに山手線の一部になる豊島線の工事の様子を当時の新聞(東京日日 明治35年9月19日)は、次のように報じています。

「日本鉄道の事業拡張 同会社にては、昨年来諸般設備の拡張方針を執り、既に工事に着手したるもの、もしくは着手せんとするものあまたあるが、目下工事中なる豊島線、すなわち田端より池袋に至る新線路は、本年十一が竣成期限なれど、用地買収の思わしく進行せざりしと、工事着手後天候の不良なりし等にて、兎角工事捗取らず、ようやく土工の六分通りを竣えたるに過ぎざれば、その完成は来年三月頃となるべく、四月頃より運転開始に至らんか。」

●徳川慶喜は、この豊島線の鉄道開通の騒音を嫌って、明治30年(1897)11月19日から明治34年(1901)12月24日までの4年間住んだ巣鴨の「梅屋敷」(北豊島郡巣鴨町一丁目十七番地)(現・豊島区巣鴨一丁目)から、小石川區小日向第六天町五四番地(現・文京区春日二丁目7-4)の小日向邸(徳川慶喜終焉の地)(現・国際仏教学大学院大学の場所) に転居することになります。

●明治39年(1906)11月1日に日本鉄道が鉄道国有法によって国有化された後の明治42年(1909)10月12日になって、品川線と豊島線とがまとめて山手線と呼ばれるようになります。

●自宅のある豊島区駒込四丁目の最寄り駅であるJR駒込駅から山手線に乗ってJR田端駅へ行く途中に山手線でもめずらしい踏切(第二中里踏切)(滝野川・円勝寺近隣)があります。この踏切を過ぎたあたりから、電車は右にカーブをとりながら勾配を下ります。左手にコンクリートで固められた半島の先端のようにみえる土手を過ぎると、突然、視界が開けます。山道を下って海岸の崖下へでた感じがします。一瞬、太古はこのあたりも海だったのではないかと思わせますが、いまでは新幹線の高架が視界を遮っています。

 

駒込駅前の本郷通り

注)第一中里踏切は、すでに廃止されています。この踏切の近くにあったのが、東京養老院です。養育院とは別の施設です。「東京養老院鳥観図」でみると踏切との位置関係がわかります。

東京養老院鳥観図 画面右手が田端駅方面、左手が駒込駅 中央に第一中里踏切がみえる

 

第一中里踏切跡付近

昭和14年当時の踏切風景

●逆にJR田端駅からJR駒込駅に向かうと、今度は、右手に見える土手のあたりから、掘り割りを進むように勾配を登り、山手(やまのて)に入って行く感じがします。土手の右手の崖下(中里トンネル)には、王子・赤羽方面に向かう京浜東北線が走っています。

●豊島線の工事は、駒込から大塚あたりまでは、武蔵野台地の一部を削りながらの工事であったようですから、巣鴨あたりの静けさのなかでは、自然を愛し、田端・駒込あたりで狩猟を楽しんだ慶喜にとっては、工事の騒音が趣味を奪う、自然破壊のように思われたのかもしれません。

●JR駒込駅の構造は、わたしが山手線を使いはじめた昭和30年代のはじめ頃から、ほとんど変わっていません。巣鴨よりの改札口へは階段を上がり、田端よりの改札口へは階段を下ります。駅のホームは土手に面していますが、ツツジが植えられ「植木の里・染井」を印象づけています。

駒込駅にホームドアがついたのは2013年(堀江幸司撮影)
線路の向こう側の建物はHOTEL METS(堀江幸司撮影)
駒込駅(1977年9月3日に撮影された写真)
巣鴨駅(1977年7月16日に撮影された写真)

 

駒込巣鴨間 画面奥に駒込駅の駅舎がみえる 橋は染井橋(この線路が露天掘りで明治期につくられた)

JR駒込駅巣鴨よりの改札口(南口・北口)からは、台地上の本郷通りに出られます。六義園旧古河庭園へは、この改札口を使うことになります。田端よりの改札口(東口)(中里・田端方面)からは、今は暗渠となっていますが、染井墓地(霊園)から上野不忍池に向かって流れていた藍染川があった低地に出ることができます。この藍染川の暗渠に沿って芥川龍之介が晩年を過ごした田端に抜けるよい散歩道があります。

田端文士村記念館

●駒込は、地形的に山手の入口ともいえる場所で、また、営団地下鉄南北線の開通で、山手散歩と下町散歩にはうってつけの場所となりました。

 

開業当時の品川線(山手線):品川・赤羽間の途中駅
明治18年(1885)3月1日、[16日開業]

品 川 ⇔ [目 黒] ⇔ 渋 谷 ⇔ 新 宿 ⇔ [目 白] ⇔ 板 橋 ⇔ 赤 羽

(列車は、一日、四往復で新橋駅に乗り入れた)

(参考図)

現在、一般的に山手線というと1周34.5キロ(29駅)の環状線をさしますが、正確には、これは運転系統の名称で、線路名称(路線)としての山手線は、品川・大崎・五反田・目黒・恵比寿・渋谷・原宿・代々木・新宿・新大久保・高田馬場・目白・池袋・大塚・巣鴨・駒込・田端の17駅の間をいうそうです。また、池袋・赤羽間が赤羽線と呼ばれるようになったのは、昭和47年(1972)7月15日のことでした。

京浜東北線
↓↑
↓↑
(赤 羽) ⇔ ⇔ (東十条) ⇔ ⇔ (王 子)
↓↑                         ↓↑
(十 条)                        ↓↑
↓↑                       (上中里)
(板 橋)                         ↓↑
↓↑                          ↓↑
池 袋 ⇔ 大 塚 ⇔ 巣 鴨 ⇔ 駒 込 ⇔ 田 端
↓↑                          ↓↑
目 白                      西日暮里
↓↑                          ↓↑
高田馬場                      日暮里
↓↑                          ↓↑
新大久保                      鴬 谷
↓↑                          ↓↑
新 宿                       上 野

↓↑                          ↓↑
代々木                       御徒町

↓↑                          ↓↑
原 宿                       秋葉原
↓↑                          ↓↑
渋 谷                       神 田
↓↑                          ↓↑
恵比寿                       東 京
↓↑                          ↓↑
目 黒                       有楽町
↓↑                          ↓↑
五反田                       新 橋
↓↑                          ↓↑
大 崎 ⇔ ⇔ 品 川 ⇔ ⇔ 田 町 ⇔ ⇔ 浜松町

 

駒込駅の歴史(駒込駅70周年記念入場券より)

 

駒込・巣鴨間(染井付近)を走る電車

🌸土手の下を走る電車が写っています。説明文によると、駒込巣鴨間の染井のあたりとあります。画面の左側が大和郷のある旧本郷区で、右側が旧豊島郡染井です。電車は、ちょうど私の自宅の土手下を通過しています。

🌸小学生の頃の土手は、のどかなもので、線路側まで降りていって、ザリガニ取りなどができ、菜の花が咲き、染井吉野桜とのコントラストが見事なものでした。

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地下鉄・南北線の開通

駒込駅に通じる地下鉄・南北線の駒込・赤羽岩淵間の開通記念切符(平成3年11月29日)を追加しました。

わたしは、平成7年から約2年間、尾久にあった東京女子医科大学第二病院の図書室に勤務していましたので、この南北線を使って王子経由で通勤していました。王子からは、都電で熊野前まで行って、商店街のなかを抜けて、病院に隣接する医局棟の一階の図書室で執務していたのです。昼休みには、荒川散歩など楽しい時代でした。

南北線は、その後、市谷方向に延長されましたので、本館に戻ってからも、南北線と大江戸線を乗り継いで、新宿河田町に通うことになりました。

いまでは、南北線は、いろいろな線と接続されていますので、駒込から横浜まで乗り換えなしに行くことできるようになっています。

 

参考文献:
(1) 原田勝正:井上勝と山手線建設計画.『江戸・東京を造った人々I』(『東京人』編集室編 筑摩書房 2003)(ちくま文芸文庫)pp.237-256.

(平成15年11月24日記)(令和4年2月24日 追記)

115.「鶚軒文庫」:東京医科歯科大学図書館へわたった経緯

♪鶚軒(がっけん)は、東京帝國大學醫科大學の皮膚科梅毒学講座主任教授を務めた土肥慶蔵(どひ・けいぞう)の号です。土肥慶蔵は、鶚軒先生と呼ばれていました。昭和6年(1931)11月6日に、麹町の自邸において、肝臓癌のため逝去。享年66歳。戒名は「智德院殿譽光鶚軒大居士」といい、鶚軒の文字が入っています。

Google earth 東京大学医学部(本郷キャンパス)

東京帝國大學一覧(昭和12年度)平面図(国立国会図書館デジタルコレクション)

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♪♪♪

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♪土肥慶蔵は、慶應2年(1866)6月9日、越前武生(たけふ)藩医であった石渡宗伯の二男として福井県越前府中松原(旧武生市(たけふし)・現越前市)に生まれ、明治22年(1889)24歳のとき、叔父土肥淳朴の養嗣子として入籍しています。

♪土肥慶蔵は、安政の大獄で処刑された橋本左内(はしもと・さない)(1834-1859)と同郷(越前国)の人です。左内の実弟は、陸軍軍医総監となり、東京大学醫科大學教授(外科)も務めた橋本綱常(はしもと・つなつね)(1845-1909)でした。

♪明治35年(1902)3月6日、土肥慶蔵が37歳のとき、結婚して妻となった多越子は、三井財閥の三井元之助の妹でした。のちに土肥慶蔵の蔵書が「三井文庫」に寄贈された所以です。

♪土肥慶蔵の歿後、どういう経緯で、「鶚軒文庫」の一部が、「三井文庫」の手を離れて、母校の東京大学だけでなく、東京医科歯科大学にもわたることになったのか、気になっていました。その手がかりを求めて、東京医科歯科大学図書館の石井保志氏に連絡してみました。石井氏とは、『医学図書館』誌の編集で、ご一緒したことがありました。

♪早速、調べてくださり、『東京医科歯科大学図書館報』のなかに、次の記事をみつけて、そのコピーを送ってくださいました。

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『東京医科歯科大学図書館報』(No.22 Oct. 1980)

「鶚軒文庫」の由来について 「鶚軒文庫」は約1年6カ月の年月を要して整理が完了し、目録を刊行することができた。しかし同文庫の由来については、何分にも戦時中の古いことで、現在の図書館職員のなかでその由来を承知している者がいない。このたびの整理を完了した機会に、萬年図書館長から当時のことをご存知の初代図書館長であった岡田正弘名誉教授にご照会したところ、鄭重なご返事をいただきその経緯が明らかとなった。それによれば「鶚軒文庫」の購入は終戦前の藤田恒太郎第2代図書課長時代(昭和16年から同20年)のことで、東京の爆撃が激しくなり、土肥家の疎開がはじまり、蔵書を売払うこととなった。和漢書及び洋書の稀覯書は天理大学東京大学で買い、後の残りを全部本学の前進である東京医学歯学専門学校で購入したものである。

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♪昭和55年(1980)2月に刊行された『鶚軒文庫目録』(東京医科歯科大学図書館)の序文に、図書館長の萬年甫(昭和22年東大卒・神経解剖学)は、次のような序文を寄せています。

明治から昭和初期にかけての医学者で、皮膚科学、性病学および泌尿器科学の大家である土肥慶蔵(号は鶚軒)先生が生前に収集された御蔵書の一部が本学の図書館に保存されていた。この蔵書には医学以外の他の分野のものもいくらか含まれているが、主として皮膚科学および黴毒学に関する洋書(主にドイツ語)で、洋書1,340冊、和書232冊である。この中には土肥先生御自身の手で表紙の裏に「珍本」と書き込まれたものが49冊あり、また先生がその名著「世界黴毒史」を執筆されるに当って、収集し参考とされた貴重な文献もいくつか含まれている。

♪また、平成元年(1989)2月には、『鶚軒文庫目録 雑誌編』が刊行されています。この中には、雑誌のほかに、皮膚疾患および性病関係の写真をまとめて製本したものも含まれています。

♪土肥慶蔵は、大正初期から、古本漁りをしていたようです。当時の古本の展覧即売会は、神田明神境内の旗亭、開化樓、のちに江東両国橋畔の美術倶楽部で行われていて、黴毒史関係、詩集類、および性病予防に関する古本を求めたようです。これらの古本の蒐集が、「鶚軒文庫」のもととなるわけです。

鶚軒文庫の所在

1.東京大学附属図書館総合図書館

2.東京医科歯科大学図書館

3.天理図書館

4.国立国会図書館「鶚軒文庫蔵書目録. 和漢書分類之部」「鶚軒文庫日本詩文書目録

5.CA607 – カリフォルニア大学バークレー校「三井プロジェクト」終了 / 中井万知子

5.カリフォルニア大学東アジア図書館所蔵 日本関連特殊コレクション

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♪神田明神や両国橋で目的の古本を入手した土肥慶蔵の気持ちは、どんなだったのだろうか。古本に染み付いた時代の香りとともに、すぐそこにあった「江戸時代」を感じていたのかもしれません。皮膚科泌尿器科教授として土肥慶蔵のあとを継いだ太田正雄(木下杢太郎)の両国の詩が浮かんできます。

♪「鶚軒文庫」が東京医科歯科大学附属図書館にあるのは、当時の図書課長で、戦後、東京大学の解剖学教授となった藤田恒太郎によるところが大きかったようですが、終戦前の東京大学の館長(医院図書室)が太田正雄(皮膚科教授)、医学部長代理をつとめた西成甫が解剖学教授であったことも、記録に留めておく必要がありそうです。

(平成19年10月27日 記)(令和4年2月16日 追記)

114.岡田和一郎の邸宅跡:日大会館(日本大学本部)

周辺地図

♪JR市ヶ谷駅近くの靖国通り沿いに日大会館(日本大学本部)があります。「第5回国際医学図書館会議」(1985.10)の会場となった場所です。ここに岡田和一郎の邸宅がありました。

岡田邸(麹町)(出典:『岡田和一郎先生傳』

 

第5回医学図書館会議(日大会館本部 1983年10月4日)

嶋井和世(慶應)(写真中央)、西川滇八(日大)(左から2番目)、津田良成(慶應)(右端)(堀江幸司撮影)
Brodmanさんと札幌医大から参加された野口迪子さん(堀江幸司撮影)

♪岡田和一郎の邸宅があった場所は、住所でいうと旧麹町三番町36番地(現在の千代田区九段南4丁目)にあたり、明治34年(1901)から昭和13年(1938)5月30日に逝去するまで、この地に住みました。

♪また、この邸宅を構えた明治34年(1901)は、「時計臺」(東京大学医学部)(旧東京医学校本館・元大学本部)に耳鼻咽喉科學講座の教室を移し、病室を設けた年でもありました。

♪維新前の番町・麹町周辺には、武家屋敷が多くあり、江戸時代を通じて旗本集団の宅地でした。幕末の元治元年(1864)につくられた『切絵図(東都番町大絵図)』をみると、岡田和一郎の邸宅があった辺りにも、多くの屋敷があったことがわかります。

♪大正元年(1912)起工、大正3年(1914)竣工した灰色タイル張り三層の重厚な洋館は、後にデンマーク公使館として使われたこともあったそうです。

(平成14年8月12日 記)(令和4年2月12日 追記)

113.岡田和一郎(1864-1938)の略歴、病理解剖所見・葬儀

岡田和一郎肖像(1864-1938)

♪岡田和一郎は、幼名を市松といい、元治元年(1864)1月3日に岡田喜惣太、つね子の長男として、伊豫國西條藩(現・愛媛県西条市)の城下町である新居郡西條本町一丁目に生まれました。

♪岡田和一郎が生まれた元治元年(1864)は、緒方洪庵、箕作阮甫(みつくり・げんぽ)が逝去した翌年にあたり、佐久間象山が暗殺された年でもあります。

♪明治11年(1878)松山に赴き、渡邊悌二郎(渡邊洪基の弟)(松山病院長)方に寄宿し、明治12年(1879)上京。本郷臺町の獨逸語学校に入っています。

♪明治17年(1884)東京大学医学部に入学し、翌18年(1885)月謝の値上げが森有札(文相)によって唱えられたとき、総代に選ばれて、濱尾新と会見交渉し、値上げを中止させたといいます。

 (参考:東京大学の歴代総長一覧。濱尾新は明治26年(1893)3月より総長に就任。 濱尾新の墓所も、染井霊園にあります。)

 

岡田先生遺徳碑(染井霊園内)(現在は撤去されています)

♪明治19年(1886)本科2年のとき本郷追分町に刀圭社を設け、済生学舎に対抗して医学生を集め講義を始めました。東京医学会を設立したのも、この年のことでした。

 ♪明治22年(1889)本科4年を卒業し、佐藤三吉教授(外科学・第二醫院)のもとに勤務しています。当時、外科学教授には、佐藤三吉のほかに、宇野朗(うの・ほがら)(第一醫院)がいました。

(平成14年7月31日記)

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♪明治23年(1890)12月28日、榊俶の妹徳子と結婚し、新居を呉秀三夫人の父(三浦千春)が所有していた家屋(旧本郷区森川町)を借り受けて構えました。また、森鴎外の後任として、『東京醫事新誌』の主筆となったのも、この年のことでした。

♪岡田和一郎の妻・徳子の長兄が精神科医の榊俶、次兄が産婦人科医の榊順次郎で、長女の小梅は緒方正規に嫁いでいます。末の弟が、九大の精神科教授となった榊保三郎です。

 ♪明治28年(1895)12月7日、帝国大学医科大学(東京大学医学部)の外科助教授に任じられています。この頃、文部省は、帝国大学に耳鼻咽喉科講座を設けることを決め、小金井良精によって、岡田和一郎が推薦されました。

 ♪明治29年(1896)3月、ドイツへ留学。明治32年(1899)12月19日、郵船土佐丸にて帰朝、耳鼻咽喉科助教授に任じられ、明治35年(1902)3月になって正教授となりました。この年の4月には、大日本耳鼻咽喉科会頭にもなっています。

 ♪また、岡田和一郎は、本務のほかに、顧問となって根岸養生院を経営しています。場所は、旧下谷区中根岸36番地で、もと根岸岡埜菓子舗の所有した所だそうです。

 [岡埜(おかの)の名前は、いまも「竹隆庵岡埜」に残っています。今度、散歩の折にでも、立ち寄ってみたいと思います。]

(平成14年8月2日記)

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♪明治42年(1909)3月21日に「汎(ひろ)く貧困なる病者の為め施療を為すを目的」として東京帝国大学第二醫院跡(旧神田區和泉町1番地)に開院された「三井慈善病院」(現在の三井記念病院)の設立にも協力しました。(註4)この三井(泉橋)慈善病院には、東京帝國大學醫科大學から役員として、岡田和一郎のほかに、青山胤通(醫科大學々長)、佐藤三吉、土肥慶蔵、入澤達吉が参加しています。

♪明治44年(1911)11月21日、長女和子に横田清三郎を迎えて養嗣子としています。媒酌は青山胤通(あおやま・たねみち)(註1、2)が行いました。

♪11月23日に上野精養軒で催された結婚披露宴には、各界から名士が多数参会し、その数は八百数十人に達したといいます。森鴎外も夫妻で出席しました。その日のことを鴎外は日記の中で、次のように記しています。

 「23日(木)妻と上野精養軒の園遊會にゆく。岡田和子が横田清三郎を壻に迎へたる披露宴なり。」

♪大正3年(1914)、聖路加国際病院の設立に参画し、さらに昭和3年(1928)には、昭和医学専門学校(現在の昭和大学)(註3)を設立して、その理事長・校長になっています。

♪大正13年(1924)には新たな定年制の内規により東大を依願免官となります。岡田和一郎にとっては、納得のできない辞令であったようです。

♪昭和4年(1929)には、東京市総選挙に麹町区から立候補して、当選しました。

(平成14年8月5日記)

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病理解剖所見

♪昭和13年(1938)5月12日、いつもの通りに昭和医専の修身の講義を終えますが、翌13日は気分がすぐれず根岸養生院から帰宅してからは、病臥の状態となります。眞鍋喜一郎(東大内科教授)が主治医となって治療にあたりますが、30日午後6時35分逝去。翌31日に東京大学病理が教室で解剖されることになります。

♪この病理解剖を行ったのが、緒方洪庵の孫にあたる緒方知三郎教授でした。解剖所見には、以下のようにあります。

「・・・尚心筋軟化が相次いで起こった為め心臓の機能不全を招来し全身の循環障碍の為め胸水、腹水、下腿水腫、咽頭水腫、諸臓器の鬱血等が現れ遂に逝去せらるるに至ったものである・・・」

葬 儀

♪昭和13年(1938)6月3日に、青山斎場において告別式が挙行されました。このとき葬儀委員長となったのが、入澤達吉(内科教授)でした。

♪東京大学からは、総長の長與又郎が出席し、弔辞を読んでいます。長與又郎は長與専齋の3男にあたります。

♪午後2時から3時までの一般告別式の参弔者は三千数百人を数え、昭和医専生徒一同685名の焼香のあと、3時半に青山斎場を出発、染井墓地に向かい、午後4時に埋葬されています。

♪この岡田和一郎が亡くなった昭和13年(1938)には、葬儀委員長を務めた入澤達吉、さらに三宅秀と相次いで亡くなっています。明治期の医学教育・診療・研究に情熱を傾けた多くの東京大学医学部教授が亡くなった年となりました。

♪翌一周忌にあたる昭和14年5月30日には、芝増上寺において一周忌の法要が営まれ、午後4時から染井墓地の墓前に献碑式が行われたのでした。同門の菊池循一が総代として「顕碑之辞」を述べ、嗣子岡田清三郎の答辞があって、その後上野精養軒において岡田家の招宴が催されています。

(令和3年8月15日 追記)

112.「岡田先生遺徳碑」東京都立染井霊園内

染井霊園の岡田家の墓域の左手に岡田和一郎(東京帝国大学・初代耳鼻咽喉科教授)を顕彰する「岡田先生遺徳碑」が建っています。題額は、同じく染井霊園に眠る若槻禮次郎によります。

岡田和一郎は、明治医界の中心人物のひとりで、医家の姻戚が多くあり、妻の徳子は、榊俶(さかき・はじめ)(帝国大学医学部精神科教授)の妹にあたります。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Somei-ryakuzu-1.jpg

 昭和14年(1939)5月30日芝増上寺において一周忌の法要が営まれたあと、午後4時から染井霊園の墓前において献碑式が挙行され、上野精養軒で招宴が催されました。

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場所:東京都立染井霊園・岡田家墓域内(現在は、岡田家の墓域であった場所は改修され、他家の墓所となっています。)

○岡田和一郎(1864-1938)(東京帝国大学医学部教授・耳鼻咽喉科学)

 墓石の位置:1種イ4号8側
 正 面:岡田家之墓
 右側面:昭和二十二年三月改造建立 岡田徳子 登

墓 誌:東京帝國大學名譽教授 正三位勲二等醫學博士 天祥院殿名譽昭和鐵山大居士 岡田和一郎 昭和十三年五月三十日薨去 行年七十五才

 墓域内に「岡田先生遺徳碑」があります。(題額は若槻禮次郎)
 

写真: 岡田和一郎墓域(東京都染井霊園)(堀江幸司撮影)
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 岡田和一郎.jpg
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 岡田先生遺徳碑.jpg

岡田先生遺徳碑

正三位勲一等男爵若槻禮次郎題額

先生諱和一郎號鐵山又壽山姓岡田氏伊豫西條人考諱喜惣太先生其長子妣小野氏明治二十二年十一月畢帝國大學醫科大學醫學科業二十八年十二月任帝國大學醫科大學助教授明年三月簡派濁墺二國研究耳鼻咽喉科學三十二年十二月帰朝明年一月東京帝國大學創設耳鼻咽喉科命先生開講其學耳鼻咽喉科學自此大開四月授醫學博士學位三十五年四月任東京帝國大學醫科大學教授大正十三年四月辞職授東京帝國大學名譽教授稱號配榊氏擧一女名和子養横田濱五郎貳子清三郎配和子為嗣現為名古屋醫科大學教授先生積労得病昭和十三年五月三十日薨距生元治元年一月三日享年七十五位勲至正三位勲二等加授旭日章先生天資高邁與同志謀創立同仁會昭和醫學専門學校等盡瘁學界誘掖後進四十年斯學之興實頼先生之力矣門人思慕其學徳結岡田門下同窓會建石記恩來徴余文案状録其大節繋之以銘銘曰

五官之屬 皆有専醫 耳鼻咽喉
君實大師 及門如林 人懐厥徳
萬歳千秋 視斯銘刻

昭和十四年五月

帝國學士院會員正三位勲一等文學博士服部宇之吉撰
従三位勲三等菅虎雄書

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岡田清三郎(1885-1946)(千葉医科大学教授・名古屋帝国大学教授・昭和医科大学理事・消化器内科)(岡田和一郎の養嫡子)

 墓石の位置:1種イ5号8側
 正 面:岡田家之墓
 右側面:昭和二十二年三月 改造建立 岡田徳子 登

墓 誌:名古屋帝國大學教授 正三位勲二等醫學博士 眞性院清譽覺月淨光居士 岡田清三郎 昭和二十一年三月十日薨去 行年六十二才

 墓域内(入って右側)には「岡田清三郎先生記念碑」も建っています。(現在は撤去)

(東日本震災後、墓域が整理され、現在、岡田先生遺徳碑は撤去されています。)

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文献:「岡田和一郎先生傳

110.昭和東京の偉観 大十六橋(絵葉書)

♪絵葉書「昭和東京の偉観 大十六橋」(中村興文堂謹製)は,16枚のセット物なのですが,「千住大橋」の一枚が未入手でした。いつか,完全にしたいと思って探していました。外袋も付いた「昭和東京の偉観 大十六橋」を入手することができましたので紹介いたします。

♪太田圓三が関係した永代橋や相生橋など隅田川に架かる橋からはじめた絵葉書の収集ですが,それに繋がる日本橋川,外濠,神田川,築地川などの橋や周辺の土木建築物などにも収集範囲を広げています。・・・明治期に発行された手彩色の絵葉書なども収集して,Googleマイマップに展開できればと思っています。

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1.千住大橋(92.4m 22m 1,037,800円)

2.言問橋[237.7m 22m 2,383,000円]

3.駒形橋 [149.1m 22m 1,900,000円]

4.厩橋[152m 22m 1,138,000円]

5.蔵前橋[173.2m 22m 1,751,000円]

6.両国橋[180m 22m 未記載]

7.新大橋[193.5m 16.5m 860,000円]

8.清洲橋[186.6m 22m 3,213,000円]

9.永代橋[185.2m 22m 2,924,000円]

10.相生橋[192m 22m 1,507,000円]

11.江戸橋[63.4m 44m 852,000円]

12.聖橋[92.5m 22m 778,000円]

13.三吉橋[82.8m 11m 209,000円]

14.芝浦臨港線ハネアゲ橋[30m 重量8萬貫 160,000円]

15.数寄屋橋[39.5m 36m 342,000円]

16.日本橋[50m 27m 550,000円]

(令和3年7月3日 静岡熱海大雨で土石流が発生)

109. 辰野金吾の設計による「東京火災保険株式會社」社屋(一石橋北詰)と旧澁澤栄一邸(日本橋)

   
場 所:旧日本橋區北鞘町一番地(一石橋北詰)(現在の東洋経済ビルの場所)

北鞘町・東京火災保険株式會社本社社屋(辰野金吾設計・岡田時太郎現場監理)(出典:『東京火災保険株式會社五十年誌』7))

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♪東京駅が復元され,観光名所となっているようです。復元のもととなった東京驛(中央停車場)は,大正3年(1914)に辰野金吾によって設計・建築されたものでした1)。

♪辰野金吾2)3)4)は,日本銀行本店・小樽支店(現・金融資料館)・大阪支店・京都支店,盛岡銀行本店(現・岩手銀行中ノ橋支店),奈良ホテル,万世橋駅舎(初代),両国国技館などの設計でも知られています。

東京驛(中央停車場)(辰野金吾設計)(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪外濠と日本橋川が繋がる場所に架かる一石橋際(北詰)に東京火災保険株式會社(のちの東京火災海上運送保険會社)が日本橋際(南詰)から移転して新築されたのは明治39年(1906)8月1日のことでした。外濠の日本銀行本店前に架かる常磐橋(第102回)のことを調べている過程で,この東京火災保険株式會社社屋の設計が,辰野金吾によることを知りました。

辰野金吾(1854-1919)2)3)4)は,佐賀県の旧唐津藩の出身(下級武士の家)。嘉永7(1854)年8月22日,肥前國東松浦郡唐津町(現在の佐賀県唐津市)に姫松(ひめまつ)家(姫松倉右衛門)の次男として生まれ,のちに辰野家(辰野宗安(むねやす))の養子となります。佐賀といえば,伊東玄朴相良知安佐野常民の故郷でもあります。

辰野金吾肖像(出典:『工学博士辰野金吾傳』3))

♪明治4年(1871),高橋是清が唐津藩の英語学校(洋学校)の教員となるのですが,その生徒のなかに曽禰達蔵と辰野金吾がいました。

♪明治6年(1873),東京に出て,工部省工学寮(のちの工部大学校・東京大学工学部)に入学します。工学寮の同期生のなかには,高峰謙吉(金沢藩医の長男・化学専攻)もいました。

辰野金吾は,同郷の曽禰達蔵片山東熊(長州藩)(日本赤十字社中央病院病棟の設計者,明治村に移築)と共に造家(ぞうか)(建築)を専攻,ジョサイヤ・コンドルの指導を受けることになります。

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辰野金吾,澁澤榮一に出会う:日本橋川・運河沿いの商業街計画

♪卒業設計は,「自然歴史博物館」,首席で卒業,英国留学をはたします。留学生のなかには,高峰謙吉(化学),三好晋六郎(機械・造船)の顔もありました。帰朝後,工部省に出仕,営繕課に勤務,澁澤榮一(第一国立銀行頭取)の依頼による「銀行集会所」が処女作となります。兜町にあった澁澤榮一邸(洋館)(現・日証館の敷地)も辰野金吾の設計でした。
 

兜町澁澤邸(辰野金吾設計・明治21年[1888]4月)(出典:『明治大正建築寫眞聚覧』5)

♪澁澤榮一には,日本橋川や楓川(紅葉川)にそった「兜町,南茅場町,阪本町の三町を,運河を生かしたペニスのような商業街に変える」4)構想がありました。辰野金吾は,工部省営繕課に入ることによって澁澤榮一と繋がり,のちの建築家としての活動に大きな力を得たことになります。コンドルのあとを継いで,東京大学建築学科の初代教授を務めることになったのは,明治17年(1884)のことでした。

♪外濠に沿って,日本銀行本店,日本銀行附属建物・正金銀行出張所(横濱正金銀行東京支店),東京火災保険株式會社が並んでいます。(絵葉書参照)これら建物は,すべて辰野金吾の設計によります。

左から日本銀行本店・横濱正金銀行東京支店・東京火災保険株式會社

♪横浜にある横濱正金銀行本店(現在の神奈川県立歴史博物館)は,辰野金吾(英国流)のライバルでもあった妻木(つまき)頼黄(よりなか)(1854-1919)(内務省兼大蔵省営繕局建築掛)(ドイツ流)(コーネル大学出身)の設計です。

横濱正金銀行(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
(平成26年5月12日 追加)

♪『明治大正建築寫眞聚覧』5)のなかに,横濱正金銀行東京支店が「日本銀行附属建物(正金銀行出張所)」(竣工:明治31年[1898]11月)と呼ばれた時代の写真をみつけました。その説明に設計が辰野金吾,關野貞とありました。

日本銀行附属建物(正金銀行出張所)(設計:辰野金吾,關野貞)(出典『明治大正建築寫眞聚覧』5))

♪横濱正金銀行の建物は,辰野金吾が出張所を、妻木頼黄が本店を設計したことになります。

♪妻木頼黄は,横濱赤煉瓦倉庫(新港埠頭保税倉庫)の設計でも知られています。赤煉瓦の東京驛(辰野金吾)と横濱赤煉瓦倉庫(妻木頼黄)。日本銀行本店(辰野金吾)と横濱正金銀行本店(妻木頼黄)。建造物は,残ることによって,歴史をつくるとともに,設計者の思いまでも伝わってくるようです。

♪横濱正金銀行東京支店は,大正9年(1920)に建て替えられることになります。外装には花崗岩が使用,加工・施工には,当時の最新の機械設備が使われたといいます。その設計をしたのが,辰野金吾の弟子にあたる長野宇平治(ながの・へいじ)6)でした。

♪一枚の絵葉書や写真のなかから,明治の建築家たちの意思と情熱が伝わってきます。江戸から明治への近代化の有りようを建築という形で示しています。

東京火災保険株式會社が設立されたのは,明治20年(1887)6月10日(発起人:鵜殿長[旧鳥取藩家老],神戸信義,木山市三,柳川清助,柳川繁の五氏)のことでしたが,その創立事務所が設置されたのは,京橋區三十間堀三町目三番地でした。その後,事務所(本店営業所)は,何度か移転されます7)。

 明治20年[1887]6月10日:京橋區三十間堀三町目三番地

 明治21年[1888]9月11日:京橋區銀座二丁目九番地

 明治21年[1888]11月23日:京橋區銀座二丁目十四番地

 明治24年[1891]4月9日:京橋區銀座三丁目二十番地

 明治29年[1896]9月13日:日本橋區西河岸第二十一號地[日本橋南詰](この年,安田善次郎が評議委員監督に就任)

 [新社屋:明治36年[1903]8月起工 明治38年[1905]7月竣工]8)

 明治39年[1906]8月1日:日本橋區北鞘町一番地[一石橋北詰に新築落成移転]

 明治40年[1907]1月4日:商号を「東京火災海上運送保険会社」と改称

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東京火災保険株式會社社屋の画像資料

資料1)『日本之名勝』(史傳編纂所刊 1900)9)

『日本之名勝』に日本橋南詰にあった当時の写真(「近代デジタルライブラリー」「写真の中の明治・大正」)がありました。明治44年に架け替えられる前の日本橋(木橋)が写っています。お正月の風景でしょうか。梯子の上で演技をしている鳶の姿が見えます。

日本橋際に建つ東京火災保険株式會社社屋(出典:『日本之名勝』9))

資料2)『東京火災保険株式會社五十年誌』(志津野眞二編 1938)7)

北鞘町・東京火災保険株式會社本社社屋(辰野金吾設計・岡田時太郎現場監理)(出典:『東京火災保険株式會社五十年誌』7))

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本店営業所移轉

 明治三十九年[1906]八月一日,本店営業所を東京市日本橋區西河岸二十一號地より,同市同區北鞘町一番地に移転した。

 日本橋々畔の本社々屋は,明治二十九年新築,その後未だ幾許も経過しなかったが,當時日本橋架け替えへの議が具體化し,當社の建物も取拂ひを餘儀なくされたので,當社では早速附近に恰好の敷地を捜求し,日本銀行に近接する一石橋際に一劃の土地を獲た。

 是に於て,當時建築界の権威,日本銀行,東京驛等の設計者たる辰野金吾博士,葛西萬司學士に設計を依頼した處,狭長なる三角地面にも拘はらず地形を巧みに利用した極めて斬新且つ模範的な榮業所が清水組の手によって竣工した。

 この新社屋は赤煉瓦二階建,ルネッサンス式の建築で,安田家一般の黒塗土蔵造りの従来の型を破ったものであり,日本銀行始め附近の建築物其他と配合宜しきを得た。又同業會社としても,當社の二階會義室を以て恰好の集會所となし,多くの會合は専ら此處で開かれた。

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♪東京火災保険株式會社が日本橋區西河岸第二十一號地から同區北鞘町一番地に新築移転したのは,明治39年[1906]8月1日のことでした。その時に発行された「東京火災保険株式會社新築落成移轉紀念」と題する絵葉書がありました。

「東京火災保険株式會社新築落成移轉紀念」(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪この絵葉書で注目したいのは,切手が左上隅に貼られていることです。「我社望楼ヨリ遥ニ宮城ヲ拝ス」と書かれています。英語でも「The view seeing the Imperial palace from the tower of the office building」とあります。望楼からは,外濠に架かった常磐橋や日本橋一帯も見えたことと思われます。

♪辰野金吾は,日本銀行本店と東京驛(中央停車場)という歴史的な建築物を残しましたが,東京火災保険株式會社の社屋も記録に残しておきたい建物のひとつです。辰野金吾の建築家としての造形の一端を見ることができます。まわりの自然に溶け合った建築の美しさを感じさせます。心惹かれます。

♪辰野金吾と苦学を共にした曽禰達蔵も歴史に残る建築物を多数設計しました。慶應義塾大学図書館旧館,慶應大学病院予防医学教室は曾禰達蔵の設計によります。小笠原伯爵邸は,大江戸線・若松河田駅の近くにあり,現在は,レストランに改装されています。また昭和9年(1934)7月に音羽に新築された大日本雄辯會社講談社の社屋も,曾禰達蔵が設計しています10)。講談社は木下凞によってまとめられた「木下文書」が保管されていた場所でもあります。

♪西岡 暁氏(吉祥寺病院医師)によると「曽禰達蔵の三女・載子は、三宅秀の孫(四女・松の長男)仁田勇の妻」とのことです。

大日本雄弁会講談社社屋外観(曾禰達蔵設計)(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
大日本雄辯會社講談社社屋側面(曾禰達蔵設計)(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

♪音羽通りに面して,昔ながらの面影を残している講談社の近くの護國寺に辰野金吾,曾禰達蔵,片山東熊の恩師であったコンドルは,眠っています。コンドル先生にとっては,唐津藩も長州藩も関係なく,教え子達の「赤煉瓦」の建築物が,新しい時代のなかに融合し,役立っていることを喜んでいるのではないでしょうか。

参考文献・図書

1)『赤レンガの東京駅 その保存・復元に向けて』(森まゆみ編 谷根千工房

1988[2012復刊])

2)『日本博士伝』:工学博士辰野金吾君

3)『工学博士辰野金吾傳』(白鳥省吾編 辰野葛西事務所刊 1926)

4)『東京駅の建築家 辰野金吾伝』(東 秀紀著 講談社 2002)

5) 『明治大正建築寫眞聚覧(建築學會創立五十周年記念展覧會出陳)』(建築學會)

6) 横浜正金銀行東京支店建築概要.長野 宇平治著.土木建築工事画報 3(2):22-26, 1927.

7)『東京火災保険株式會社五十年誌』(志津野眞二編 1938)

8) 実例:東京火災保険株式會社建築工事:「家屋建築実例 第1巻」 [辰野金吾ほか 須原屋(明治41年)(近代デジタルライブラリー)]

9)『日本之名勝』(史傳編纂所刊 1900)

10)『講談社の歩んだ五十年』(明治・大正編 昭和編 全2冊)(講談社社史編纂委員会編 1959)

(平成25年6月27日 記す)(令和3年(2021)3月24日 追記)