126.「廃兵院」跡:豊島区立巣鴨公園
傷兵院(廃兵院)跡石碑
「傷兵院舊址」
護れ傷兵 忘るな武勲
陸軍大将男爵本庄繁書
場 所:豊島区北大塚1-12-10(東京都豊島区立巣鴨公園内)
周辺地図:

🌲巣鴨地蔵通商店街入口にある真性寺(江戸六地蔵)横の道は、JR大塚駅方面への抜け道になっています。池袋に出るにも、この道が便利ですが、狭い道の対面交通ですので、車の運転には気をつけなければなりません。「巣鴨図書館入口」の交差点を過ぎると、次ぎの交差点が「巣鴨公園前」で、ここから大塚駅前の大通りまでが下りの坂道になります。

🌲巣鴨公園の辺りに、「廃兵院」がありました。公園の中に記念碑が建っています。

🌲「廃兵院」は、日露戦争(明治37-38年)の傷病者(廃兵)の救護のためにつくられた施設で、明治40年(1907)廃兵院法(明治39年4月法律第29号)に基づき東京予備病院渋谷分院の一画に設置され、明治41年(1908)巣鴨の宍戸子爵邸跡(松平播磨守・下屋敷跡 )に移されました。
「二百人収容のところ開設時の入院者は十二人。廃兵院の設立が知れ渡っていなかったこと、また地方の役人が入院者を出すのは不名誉であると隠したからだともいわれています。」
「図書室、温室、運動場、大弓場などがあり、希望に応じて学術、刺繍、裁縫、彫刻、焼き物などが習得できたそうです。」
🌲「廃兵院」の場所を調べるために、淳久堂書店に行って、明治44年(1911)に逓信協會が発行した『東京府北豊嶋郡巣鴨町巣鴨村』の地図を入手してきました。それによると、「廃兵院」の番地は巣鴨町大字巣鴨1267-1286, 1290となっていました。現在の巣鴨公園の辺り一帯からJR山手線の際(巣鴨警察署辺り)までが「廃兵院」の敷地となっており、相当の広さだったことがわかりました。
🌲「廃兵院」の園内には、芝山や池のほか楓などの大木があり鬱蒼としていて、春には桜が咲き乱れ、秋の紅葉は燃えるようであったといいます。いまの大塚駅付近の雑然とした繁華街からは想像もつかない風景が広がっていたようです。

🌲「廃兵院」は昭和9年(1934)「傷兵院」と改称され、11年(1936)神奈川県足柄下郡大窪村大字風祭(現在の小田原市風祭)に移転し、傷痍軍人国立箱根療養所となり、現在は、国立病院機構箱根病院となっています。
国立病院機構箱根病院:
〔平成16年(2004)、国立療養所箱根病院は、組織変更し、国立病院機構箱根病院となった。〕
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名称の変遷
明治40年(1907) 東京予備病院渋谷分院の一角に廃兵院設置(陸軍省)
明治41年(1908) 巣鴨に移転
大正12年(1923) 陸軍省から内務省に移管
昭和9年(1934) 廃兵院を傷兵院に改称
昭和11年(1936) 神奈川県足柄下郡大窪村大字風祭(現・小田原市風祭)に移転
昭和20年(1945) 国立箱根療養所と改称
昭和50年(1975) 国立療養所箱根病院と改称
平成16年(2004) 独立行政法人国立病院機構箱根病院の組織変更
(文 献)
1)『北豊島郡巣鴨町・巣鴨村全図(復刻東京市十五区・近傍34町村 27)』(人文社)
2)『としま区いちにっさんぽ(豊島区郷土すごろくガイド)』(豊島区親子読書連絡会 2002)
3)「巣鴨乃むかし」(第1集)(巣鴨の歴史を語り合う会編 平成元年5月発行)
(平成14年9月11日 記)(令和5年4月16日 追記)
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125.第1回官立医科大学附属図書館協議会;新潟医科大学:昭和2年11月10日
昭和のはじめ、官立医科大学には、新潟医科大学、岡山医科大学、千葉医科大学、金沢医科大学、長崎医科大学の5大学がありましたが、例年行われる官立医科大学の「事務協議会」では、図書館関係の議題は、後回しにされ、附属図書館から参加していた書記(司書)たちは歯がゆい思いをしていました。
そこで、この事務協議会とは別の「図書館事務打合会」を組織することが岡山医科大学の松田金十郎から提案され、新潟医科大学の清川陸男(きよかわ・むつお)*を中心とした「官立医科大学附属図書館協議会」が、それぞれの附属図書館長の協力を得て創立されることになります。現在の「日本医学図書館協会」の誕生です。
今年(2022年)は、「日本医学図書館協会」の創立95年にあたります。
*清川陸男(きよかわ・むつお)

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第1回官立医科大学附属図書館協議会は、昭和2年(1927)11月10日~11日の日程で新潟医科大学附属図書館で開催されることになります。医学雑誌の共同雑誌目録編纂や相互図書貸借などについて協議されています。
参加した司書(書記)には、当番館の新潟から清川陸男(きよかわ・むつお)、渡邊正亥(わたなべ・まさい)の2名、岡山から松田金十郎、千葉から北村清、金沢から山本弥三吉、長崎から山口林一がいました。
館長には、新潟医科大学・宮路重嗣(衛生学)、岡山医科大学・生沼漕六(生理学)、千葉医科大学・福田得志(薬理学)、金沢医科大学・古畑種基(法医学)、長崎医科大学・緒方大象(生理学)の諸教授がいました。
会場:新潟医科大学




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協議終了後、宮路重嗣館長の招宴が当時日本海側随一と言われたイタリア軒で開催され、その後、実務者ばかりの2次会が清川陸男を中心に料亭金子楼で開催されています。金子楼は、文藝春秋の菊池寛も遊びにきていた場所でした。
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懇親会:イタリア軒
参考:イタリア軒物語


https://goo.gl/maps/9AVzhBNpNYu5aQeU9
2次会:金子楼(料亭)

このときの懇親会のお座敷での写真は、わたしが習志野のお自宅を訪ねて渡邊正亥先生からお借りしたものですが、写真について渡邊先生は、次のように書かれています。
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習志野に渡邊正亥先生のご自宅を訪ねたときのスナップ写真
(令和4年[2022]11月10日 日本医学図書館協会創立95年)
124.長崎行き:史跡「長崎醫科大学・正門門柱」(絵葉書)と「「医学伝習所趾」の石碑」
(1) 「長崎醫科大学・正門門柱」
♪今年(2007)の第24回医学情報サービス研究大会は、8月25日(土)~26日(日)の2日間、長崎市の活水女子大学4号館で開催されるそうです。その案内をいただき、「長崎医学史巡り」が、研究会の合間にオプションとして企画されることを知りました。
♪案内役は、唐通事東海氏の子孫である東海安興氏とありました。東海さんとは、昭和62年(1987)6月6日(土)~7日(日)の2日間にわたって岡山県倉敷(川崎医科大学現代医学教育博物館)で開催された第4回の研究大会を抜け出して、長崎に行った折に、長崎大学附属図書館医学分館でお会いしたことがありました。懐かしくなりました。
♪古いアルバムを出してみました。長崎大学附属図書館医学分館をお訪ねしたときの写真が残っていました。東海安興さんや末田博さんなどが、快く迎えてくださった記憶が甦ってきます。ちょうど、20年前のことです。



♪現在、東海さんは、長崎市の「さるく観光 」のガイドをされておられるそうです。
♪このとき長崎に行ったのは、長崎から急行で39分かかる大村市にある長與専齋の生誕地を取材するためでした。長崎市は、通過地点でしたが、やはり、長崎に行ったら、長崎大学附属図書館医学分館、鳴滝塾(シーボルト宅跡)、小島養生所・精得館跡、医学伝習所跡などの医史跡は、可能な限り確認したいと思っていました。

鳴滝塾跡:シーボルト記念館
♪長崎大学医学部に伺ったのは、6月8日(月)のことで、その日は、朝から雨がしとしとと降り、タクシーで向かいました。その途中で、昭和20年(1945)8月9日の原爆投下で、片足になったまま立っているという片足鳥居を見た記憶があります。
♪長崎大学医学部は、もと長崎醫科大学といいましたが、現在の日本医学図書館協会(昭和2年・1927)の創立メンバー(新潟・岡山・金沢・長崎)である官立医科大学のひとつでした。その長崎醫科大学の正門の門柱が、原爆の投下で傾いたまま、残されていたのです。この門柱を見たときの興奮は、いまだに、忘れることができません。

♪この長崎醫科大学の門柱の横は、なだらかな階段になっていました。門柱の横には、プレートがはめ込んであり、次のように書かれていました。
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一九四五年昭和二十年八月九日よく晴れし日の午前十一時二分世界第二発目の原子爆弾により一瞬にしてわが師わが友八百五十有餘名が死に果てし長崎医科大学の正門門柱にして被爆当時の儘の状態を生々しく此処に見る。
一九五五年 昭和三十年八月九日
誌 之
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♪今年も、また、尊い医学生らの命を奪った原爆投下の8月9日が、近づいています。
(平成19年7月28日記)(令和4年10月10日 追記)
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「医学伝習所趾」の石碑
場所:長崎市万才町:長崎グランドホテル前
♪今年、平成19年(2007)は、長崎大学医学部の創立150年の節目の年にあたります。安政4年(1857)11月12日にオランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォルト(Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)により長崎奉行所西役所医学伝習所がはじめられ、この日が、現在の長崎大学医学部の創立記念日となっています。創立150周年として、いろいろな、記念行事・事業が企画されているようです。
♪ポンペは、日本政府が雇った最初の外人教師で、文久元年(1861)年、小島に養生所と医学所(現在の長崎市立佐古小学校構内*)(長崎県長崎市西小島1丁目7番1号)を設立することになり、この養生所は日本で最初の洋式病院で、のち慶應元年(1865)、長崎奉行により精得館と改称されます。
*長崎市立佐古小学校は、平成28年仁田小学校と統合され長崎市立仁田佐古小学校(長崎県長崎市西小島1丁目7番25号)となっています。
*長崎小島養生所跡資料館:仁田佐古小学校の新校舎建築に合わせて、体育館横に、令和2年(2020)4月6日に開館されています。
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♪ポンペは、幕府医官の松本良順(佐藤泰然の二男)をはじめ、佐藤尚中(しょうちゅう)(佐藤泰然の養子)、司馬凌海(りょうかい)などに洋式医学を伝習し、その後、長與専齋、緒方惟準(これよし)(緒方洪庵の二男)がポンペの教えを受けることになります。
♪この医学伝習所は、現在の長崎県庁所在地に位置しており、20年前に長崎を訪ねたとき、事前の調査で県庁周辺にあるはずの「医学伝習所趾」の石碑を探しました。
♪長崎は、日本最初のキリシタン大名になった大村純忠(すみただ)(第18代領主)が、元亀2年(1571)に開港し、長崎県の最古の町である外浦町を開きました。外浦町は、昭和38年(1963)の町制変更により、万才町と江戸町となり、農林中央金庫長崎支店前に「旧外浦町由来」の石碑がありました。
♪県庁の裏手が出島です。県庁の前庭に「イエズス会本部・奉行所西役所・海軍伝習所」の石碑はあるのですが、肝心な「医学伝習所趾」の石碑は、いくら探し回っても、見つかりません。それが、長崎大学附属図書館医学分館の貴重図書室(史料室)を案内していただいて、なぜ、県庁付近にないのか。その理由がわかりました。




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♪貴重図書室では、「出島オランダ商館模型 設計石原明 日本医史学会寄贈 1960」、「松本良順・長與専齋遺墨」、「小島養生所(1861.8.6落成 9.6開院) ポンペ滞日五年 下絵」、「Bauduin肖像写真」など貴重な史料を見せていただきました。
♪貴重図書室内を一巡していて、「医学伝習所趾」の石碑が、部屋の片隅に置かれているのに気がつきました。県庁前で探し回った、目当ての石碑でした。まさに、目に飛び込んできたという感じでした。
♪お話によると、「県庁前で石碑が、車にぶつけられて折れたので、それを修繕してここに保存している」とのことでした。さすがに、古いものを大切にする長崎大学だと感心せずには、いられませんでした。
♪今回、調べてみると、貴重図書室の史料は、電子化され「医学は長崎から」(長崎大学電子化コレクション)となっていることが分かりました。シーボルトの『日本植物誌』もデジタル化されています。それも、ただ、デジタル化するのではなく、画面展開が、利用者が見やすいように工夫されています。一部の史料は、FLASHプレイヤーを使って、画面を横スクロールさせて、ページを移動させるようにしてあります。
♪貴重図書室に保管されている石碑に変わって、長崎グランドホテル前に「医学伝習所跡」の新しい石碑が建てられているようです。古いものを大切に扱い、新しいことがわかる長崎を、また、いつか、是非、訪ねたいと思っています。
(平成19年7月29日記)(令和4年10月9日 写真追加)
123.染井の書棚:長與衛生文庫(3)
VI.『松香私志』の発刊
VII.「長與衛生文庫」の利用と蔵書
VIII.専斎の生誕地―肥前・大村
IX.おわりに
(医学図書館 35(1):41-58,1988.)
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121.染井の書棚:長與衛生文庫(2)
120.染井の書棚:長與衛生文庫(1)
♪明治30年代、医学生や開業医に勉学の場を与えるための「医学文庫」(書籍館)が発起されています。全国各地にあった衛生会(医師会)が中心となって設立されました。
♪この医学文庫には「日本医学図書館」(東京・明治30年)、「長與衛生文庫」(東京・明治31年)、京都医学図書館(京都・明治31年)、大阪医学図書館(大阪・明治32年)、広島医学図書館(広島・明治33年)などがありました。市井に開かれた医学図書館でした。
♪「長與衛生文庫」は、長與専斎(1893‐1902)の還暦にあたり、個人の功績を顕彰するために設立された医学文庫ですが、明治期の医学図書館の発生を知る上でも大切なものです。

♪また明治期の医学図書館設立の流れには、各地の官立医科大学に設けられた文庫もみておく必要があります。東京大学医学部図書館、成医会文庫(慈恵)、長尾文庫(千葉)などです。
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♪「長與衛生文庫」と題する記事を3回にわたって「医学図書館」誌に発表しました。1986年のことです。松田明子さん(養育院老人学情報センター)、平川裕子さん(千葉県立中央図書館)に取材・調査の協力をえて纏めることができました。3人で長與専斎の孫にあたられる平山次郎先生を四谷の胃腸病院(現・平山胃腸クリニック)(平成28年 四谷より大京町に移転)にお訪ねしたのも思い出深い記憶となっています。


♪わたしの医史学散歩としては、もっとも遠地の長崎県大村市に専斎旧宅(松香館)(国立長崎中央病院 [現・長崎医療センター]敷地内)や古田山疱瘡所跡など、資料や史跡をみてまわりました。
♪まだ若かったからできたことですが、とくに長崎大学附属図書館医学分館では大変お世話になり、歓待してくださったことに、今更ながら感謝しております。医史学に興味を持っているというので、年配の人がくると思っていたようですが、若輩にもかかわらす、ご案内いただきました。

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「長與衛生文庫」の連載内容は以下の通りです。3回にわけてアップいたします。
(1)設立主旨の発表から開庫までの経緯
I. はじめに
II. 長與専斎と大日本私立衛生
III. 「長與衛生文庫」設立趣旨の発表
IV. 開庫までの経緯
(医学図書館 33(2):164-176,1986.)
(2)開庫とその活動
V.「長與衛生文庫」の開庫
V-1.宗十郎町時代(京橋区宗十郎町6番地)
V-2.大手町時代(麹町區大手町一丁目)
(医学図書館 34(1):46-61,1987.)
(3)専斎の生誕地肥前・大村を訪ねて
VI.『松香私志』の発刊
VII.「長與衛生文庫」の利用と蔵書
VIII.専斎の生誕地―肥前・大村
IX.おわりに
(医学図書館 35(1):41-58,1988.)
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(以下、次回につづく)
(令和4年7月16日)
119.染井の書棚より:遠野行き(柳田國男と井上通泰)
医学図書館 1993;40(1):118-121.
🌲遠野へ行ったのは、平成4年(1992)8月3日のことでした。夏休みを利用して、東北地方の宮古・盛岡へ行く途中、『遠野物語』で有名な遠野で一泊することにしました。遠野は南部藩の宿場町、城下町でした。民話の故郷でもあります。
🌲車で民話の里を目指しました。東北自動車道の北上江釣子インターチェンジをおり、国道107号の山道を三陸海岸に向かって、だだひたすら下りました。途中の山道を抜けると青く澄んだ田瀬湖が見え、遠方には早池峰山、「遠野物語」の世界に導かれ、山神様の風を感じました。
🌲遠野へ行くまでは、気がつかなかったのですが、『遠野物語』を書いた柳田国男の次兄が,眼科医で、歌人・国文学者としても有名な井上通泰(みちやす)であることを知り、このエッセイにまとめました。
長兄:松岡 鼎(1860-1934)(医師)
次兄:井上通泰(1866-1941)(眼科医・歌人)
柳田国男(1875-1962)
次弟:松岡静雄(1878-1937)(軍人)
末弟:松岡映丘(本名輝夫)(1881-1938)(日本画家)(東京美術学校教授)
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「遠野物語」で有名な柳田國男(民俗学)の先祖、松岡佐仲は字儀輔、本名勇と言い、京都に苦学し、吉益南涯(1750-1813)(吉益東洞<1702-1773>の長男)に古方医学を学んだ人物です。
柳田國男の次兄は、眼科医で有名な井上通泰(みちやす)(1866-1941)で弟には、画家の松岡映丘(えいきゅう)がいました。
松岡家は代々、医家の家系で、母(たけ)の実家尾柴家も医者を業とした旧家でした。
長兄:松岡 鼎(1860-1934)(医師)
次兄:井上通泰(1866-1941)(眼科医・歌人)
柳田国男(1875-1962)
次弟:松岡静雄(1878-1937)(軍人)
末弟:松岡映丘(本名輝夫)(1881-1938)(日本画家)(東京美術学校教授)
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遠野市(Google earth )

(令和4年6月9日 記す)
118.『楽山樵夫夢裡記稿』(宇野朗覚書)(2) 江戸から沼津へ:山伏井戸を出立:宇野朗と神戸文哉が随行
・ 徳川慶喜(けいき)注)の大政奉還により,幕臣であった医家・洋学者たちも,それぞれの行き先を決めることになります。
・ 柳川春三(やながわ・しゅんさん)(1832-1870),川本幸民(かわもと・こうみん(1810-1871),箕作麟祥(みつくり・りんしょう)(1846-1897)は,新政府に移り,福沢諭吉(1835-1901)は,自ら芝新銭座に英学塾(慶應義塾のはじまり)を開き,杉田玄端(1813-1895),林洞どう海かい(1813-1895)は,駿河に移住することを決めます。(『宇野朗覚書』(以下,『覚書』)
『覚書』
番書取調所に出仕の洋學者及洋医家の諸氏柳川春三,川本幸民,箕作鱗祥等は朝廷の召に應じ福澤諭吉は徳川氏に致仕し朝廷の召を辞し芝新銭座に英學塾を開き子弟の薫陶に従事せり(之を慶應義塾の濫觴とす)
又杉田,林(洞海後楳仙)其他に医家は大概駿河に移住の事となりたり 是に於て杉田家は住宅及倉庫を分解して駿州沼津に向け海路運搬せしめて土地は棄賣同様に賣却し明治元年十月二十一日両國山伏井戸の住地を引佛い二十三日三島を経て沼津に着し本町旅舎□屋に宿せり。塾中随行せしは神戸文哉と予とす。予は即日別辞して三島駅傳馬坊父上の許に帰たり。又杉田先生は一旦静岡政廰に出頭し居住地の指揮を仰ぎ沼津に住居することに決しより先に積送せる家屋材料を以て八幡町柳下知之所有地に再築し竣工の報に接したれば十一月十五日訪問し再塾を謝して辞去す。予は英書自習の傍初学の人に素読を授け又日々神戸氏と沼津病院に出頭し医書化学書等の聴講,患者の診療補助或は外科的手術の傍観等をなしたり。當時医師にて重要の地位にありしは,杉田玄端,林梅仙(洞海),篠原直路,三浦文卿等の諸氏又化学担任は桂川甫策氏とす。篠原氏は後大阪医学校の招聘に応じ沼津病院を退き神戸氏も同氏に随行して杉田家を去れり。
山伏井戸を出立:明治元年(1868)10月21日

・ 杉田玄端は,明治元年(1868)10月21日,早朝,山伏井戸を家族とともに出立,三島を経由して沼津に向かうことになります。塾生中,随行したのは,宇野朗らと神戸文哉の二人でした。
・ この杉田家の山伏井戸からの旅立ちの様子は,杉田玄端の五男・盛さかりが著した『杉田盛氏六十年回想記』(以下,『回想記』)にも,記されています。
(この『回想記』は,樋口雄彦氏(前・沼津市明治史料館,現・国立歴史民俗博物館準教授)が、私が執筆中の「江戸東京医史学散歩」をご覧になり、直接、宇野彰男氏に連絡されて翻刻1)されたものです。)
・ 『想記』によると,盛は,沼津へ父母,そして,兄の武[次男],雄いさお[四男]の家族と向かっています。このとき,杉田分家,廉卿(成卿の養子)は,江戸に残って,小濵藩酒井家の家臣としての勤めをはたすことになりました。分家、二代目の成卿は,箕作阮甫とともに天文方附蘭書翻譯御用手傳出役と蕃書取調出役教授となった人物2)で,榊綽ゆたかの師でもありました。
・ 塾生中,随行したのは『覚書』では,宇野朗と神戸文哉の二人としていますが,『回想記』には,宇野朗と神戸文哉のほかに小山内建が同行したとあります。
・ 神戸文哉(かんべ・ぶんさい)(1848-1899)3)4)5)は,信濃小諸藩の家臣(長野縣士族)で,のち京都療病院・仮癲狂院てんきょういん6)の医員となり,明治9年(1876)に,「精神病約説」(上中下 三巻 癲狂院蔵版)(翻訳本),明治11年(1878)に,「養生訓蒙」(京都療病院蔵版)を著しています。また,「西醫雑報」(京都療病院)(明治9年[1876]),「療病院雑誌」(京都療病院)(明治13[1880]年3月発行月刊)を編輯したのも,神戸文哉でした。
・ 明治12年(1879)4月16日(京都療病院医学校創立日)に京都療病院内(上京區第十二組梶井町四六五番地)に医学予科校および医学校が設置されたときの職員表によると,神戸文哉(編輯係),木下凞ひろむ(当直医),山田文友(通訳兼当直医)の名前があります。ここで,神戸文哉と木下凞ひろむが繋がりました。

・ 杉田家の同行者のなかには,出入りの大工や棟梁もいました。この人たちも,道中は両刀をさして侍に仮装し,警護の任にあたりました。沼津に到着後は,本来の棟梁や大工にもどって,先に海路(船廻し)で運搬しておいた山伏井戸の家屋材料を,組み立て杉田家の建物を沼津で再築することになります。家屋の部材まで運ぶなど,沼津に定住することを覚悟しての旅支度でした。
・ 杉田玄端の一行は,東海道を宇野朗の生家のある三島を経由して沼津へと向かいますが,官軍の一行とぶつかり,箱根越えを前に,小田原宿での滞在(3日間)を余儀無くされます。そのことを,『回想記』に,盛は,次のように書いています。
『回想記』
途中,小田原宿では,官軍の行軍にあい,箱根越えができず3日間滞在,箱根は,駕篭が不足して,「母も女中も歩行し,余[盛]は小兄雄と父[玄端]の駕篭に同乗して有名の関所の手形あらためも睡眠して知らずに三島駅に着た。其夜の十時頃父母達はやっと旅宿に着き途中峠では既に雪がふり道路がすべって非常に苦労した

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・ 『覚書』による宇野朗が,三島に到着したのは,23日となっています。山伏井戸を発って3日後のことです。宇野朗や神戸文哉など随行した塾生は,旅の宰領さいりょうとして,杉田家一行より一歩早く,次の宿に先着して,宿の手配や馬の準備などを取り締まっていましたので,三島にも,23日には到着していたものと思われます。
山伏井戸(両國・濱町)――>小田原宿―――>箱根宿(箱根峠)―――>三島宿―――>沼津(八幡町)
・ 杉田家は,沼津の八幡町(八幡前)の柳下知之(三島・医師)の土地に家を再築しました。杉田家の江戸での建物が沼津に移築されたことになります。

・ 八幡町での生活を盛は『回想記』のなかで,次のように回想しています。
『回想記』
沼津の家は八幡町に在た。隣地は八幡神社の境内で大木が繁茂して居た。周圍は皆農家であった。随て余の遊び仲間否いたづら仲間は多くは農家の子弟であった。為に日常の遊戯も野人の夫れであった。虫採,蝉狩,筍子掘り,木のぼり,などで今日考へると随分野蛮のものであった。蛇などは平気で手づかまえにし蜂の子を捕て食ひ,榎木の実,山いちご,桑の実,桜ぼうなどは常食であった。小兄の雄は遂に赤痢に罹ったが母の心づくしの看病で幸に全治した。余の少年時代は頗る無病健康のいたずら子で,養母にも実母にも毎度警告された事と記憶して居る。
・ 宇野朗は,父・陶民(とうみん)の許しをうけ,沼津の杉田塾に再塾をはたします。沼津病院での新らたな修業生活がはじまりました。沼津病院には,杉田玄端のほかに,林梅仙(洞海)7),篠原直路,三浦文卿,桂川甫策(化学担当)などがいて,医学書の講読を受け,診療補助・外科手術の見学なども行いました。しかし,沼津で勉強すればするほど,朗は,東京で英学の勉学の機会を持ちたい,との思いをつのらせることになります。
・ 明治元年(1868),宇野朗(1850-1928)18歳,杉田武(1852-1920)16 歳,神戸文哉(1848-1899)20 歳,榊俶(1857-1897) 11歳,榊順次郎(1859-1939)9歳。沼津病院,沼津兵学校附属小学校での,それぞれの出会いとなりました。
・ このとき,木下凞(ひろむ)8)9)(1844-1914)は24歳,藩命により長崎で修業していた時期にあたります。木下凞(ひろむ)が横濱に出て山田文友とともにシモンズに学んだのが明治4年(1971),早矢仕有的10)11)の塾(靜々舎診療所)で杉田武と共に学ぶことになるのは,明治5年(1972)になってのことです。
宇野 朗ほがら 沼津病院→ 大學東校・南校・東校 → (帝國大學醫科大學第一醫院・外科学,繃帯学・皮膚病及黴毒學担当)(皮膚病黴毒科講座初代教授)→樂山堂病院長
杉田 武 沼津→ 横濱(靜々舎診療所) → 大學東校・ニューヨーク大學留学 →慶應義塾医学所教授
榊 俶(はじめ) 沼津兵学校附属小学校→ 大學東校 → 帝國大學醫科大學教授(精神病学講座初代教授)
榊順次郎 沼津兵学校附属小学校 → 大學東校 → 榊病院長(産婦人科)
神戸文哉 沼津病院→ 大阪醫学校→東校へ転学→京都療病院→大阪府立醫學校副長兼教授
木下凞(ひろむ) → 横濱 (靜々舎診療所)→ 京都療病院→京都駆黴院初代院長
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・ 宇野朗は,慶應3年(1867)9月から翌慶應4年(1868)10月までの約1年間,高砂町(小林塾)と山伏井戸(杉田塾)の日本橋・濱町界隈で過ごしました。濱町川に架かっていた小川橋や高砂橋を渡って,勉学に励んでいたのでしょうか。その頃の江戸の風景を想像してみます。濱町界隈には,江戸湾からの風が磯の香りを運び,大川の川面には,光が溢れ,土手には花々が咲き,蝶が舞う。そんな自然豊かな姿が想像されます。
注) 慶喜の呼び方と読み方:『徳川慶喜家の子ども部屋』(榊原喜佐子著 草思社 1997)によると,徳川邸内では,「ケイキ様」と呼んでいたそうです。また,『開橋記念 日本橋志』(東京印刷編輯・発行)の巻頭・目次にある「徳川慶喜公書日本橋」のルビには「とくがは けいき こうしょ にほんばし」とあります。
参 考 文 献
1) 樋口雄彦:杉田盛の六十年回想記.「静岡県近代史研究 」第31号,pp.108-122, 2006.
2) 『箕作阮甫』 呉秀三著.思文閣,1971.(復刻版)
3) 「京都府立醫科大學八十年史」(京都府立醫科大學 昭和30年)pp.173-174.
4) 平沢 一:我が国最初の西洋精神医学書「精神病約説」とその訳者神戸文哉.「精神医学」6(7) : 548-555, 1964.
5) [雑報記事]故神戸文哉君略歴.「大阪興医雑誌」107号, 78-80, 1899.
6) 小野尚香:京都府立「癲狂院」の設立とその経緯.日本医史学雑誌,39(4) : 477-499, 1993.
7) 樋口雄彦:静岡藩の医療と医学教育 林洞海「慶応戊辰駿行日記」の紹介を兼ねて.「国立歴史民俗博物館研究報告」第153号, pp.445-489,2009.
8) 木下凞(ひろむ):木下凞翁懐舊談.「京都醫事衛生誌」,第163号,pp.27-30, 1907.
9) 木下凞(ひろむ):木下凞翁懐舊談(承前).「京都醫事衛生誌」,第164号,pp.32-35, 1907.
10) 丸善社史資料 15(早矢仕有的年譜 (7)):「學鐙」100(7) : 36-37, 2003.
11) 丸善社史資料 16(早矢仕有的年譜 (8)):「學鐙」100(8) : 34-35, 2003.
(平成23年2月23日 記す)(令和4年4月2日 追記)
117.『楽山樵夫夢裡記稿』(宇野朗覚書)(1)誕生から杉田玄端塾まで

・宇野朗(1850-1928)は,大正8年(1919),70歳を迎えるのを機会に,子孫への記録として『楽山樵夫夢裡記稿』(大正13年1月記, 昭和2年11月追記)を書き遺してします。これは,『宇野朗覚書』とも呼ばれて,宇野家に代々,伝わるものでした。
・宇野彰男氏(宇野朗の曾孫)が,その全文をスキャンした電子化ファイルと,解読したワープロ原稿を,「江戸東京」の参考にと送ってくださいました。

・宇野朗の伝記的な記述については,宇野朗のあとを継いで皮膚病学・黴毒学講座教授(現在の東京大学医学部)となった土肥慶蔵が著したものなどがありますが1)2)3)4),『楽山樵夫夢裡記稿』は,誕生から父・陶民の遺稿集『静窓自楽』の刊行までを記録した貴重な資料です。時期的には,幕末の安政の大地震から大正の大震災までの期間にあたります。
・この『楽山樵夫夢裡記稿』については,「江戸東京」でも,紹介させていただきたいと思っていました。今回,宇野彰男氏から「資料を利用するのは構わない」との許可をいただきましたので,少しずつ紹介していきます。
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生誕地と生年月日
・宇野朗は,宇野陶民(とうみん)(1814-1874)の長子として君澤郡三島驛傳馬坊に,嘉永3年(1850)陰暦10月15日に生まれます。戸籍上の生日が5日となっているのは,役場の誤記とのことです。
宇野朗の家系
・宇野家の家祖は,與惣右衛門といい,伊豆國君澤郡三島驛長谷坊(のちに傳馬町に移住)に土着したのが最初で,五世・新右衛門までは,代々里正を勤めて,六代與三(幼名・逸八または逸八郎)の代になって,はじめて,醫を業としました。
與惣右衛門(宇野家・家祖)[伊豆國君澤郡三島驛長谷坊]
與三(6代)(はじめて醫を業とする)
↓
陶民(7代)
↓
朗(8代)
・三島宿は,東海道の第11番目の宿場町で,江戸から約28里半(約112㎞)。箱根の山を超えて三嶋大社に着いた旅人にとっては,ほっとして一息ついた宿場であり,江戸に向かう旅人にとっては箱根山の難所に向かう準備をするための宿場でありました。宇野一家が住んだ傳馬町は,三嶋大社の東側にありました。
安政の大地震
・安政元年(1854)11月4日,5歳のとき,安政の大地震(安政東海大地震)にあいます。朝9時,激烈な震災が三島をおそい,家屋は倒壊。続いて附近の民家より発生した火災により類焼。三嶋明神の石造大鳥居も切断・倒壊し,神池の石橋は池中に墜落して,三重塔だけが残ります。
・この大地震の年の4月10日に妹の千代が生まれています。まだ1歳にもならない千代は,子守に背負われて三嶋明神境内に避難し,三重塔附近で泣いているところを,父・陶民に発見されます。
・陶民一家は,罹災後,一時,金谷坊(今,宮町)の西井右衛門に世話になりました。長く続いた余震がおさまったのち,仮舎を建て,その後,家屋を新築して,旧地にもどることになります。
三島にコロリが流行
・ 安政5年(9歳):6月〜9月にかけて虎列拉(コロリ)流行。
当時病原を知らず又其傳染の恐るべきを識ざる為め蔓延の急劇猛烈なる實に燎原の火の如し。又其原因に就て民間報道する所は甚だ牽強附會(けんきょうふかい)にして或は之を狐狸の所為に帰し或は之を洋人海中に投たる毒を食いし魚類殊に鯖の毒に帰するあり(魚毒と云うは当時印度日支間往来の船舶乗員の本疫にて死せしを水葬せしに因るならんか)
此の頃毎夜西方の天空に大彗星出現せり。これ亦疫病に関係ありと看做したり。当時田舎人(否日本人一般然りしならん)の知識の低劣なりしは想像も及ばざる程なりしは慨嘆すべし余儀なき次第と謂うべし。都人士否医師も多くは傳染の猛劇なるを理解せざりしならん。当時医たる老父等も恐くは彼数珠に連りしならん呵々。
桜田門外の変
・安政7年(1860)(11歳):3月3日桜田門外の変。
井伊大老の遺骸は途中菩提所玉沢山に宿し次いで我驛を通過せり。其の行列粛々として藩士は白脚絆の様に覚えし。
三島に麻疹が流行
・文久2年(1862)(13歳):6月頃より,三島に麻疹が流行。
俳優であれ,足袋職であれ,或は帳簿職であれ,皆医師の真似をなし本職より多忙を極めしは滑稽と言わんか危険と言わんか実に言語道断の次第なりし。然れども病症が病症なれば薬剤といえば烏う犀角(さいかく),鹿角(ろっかく),セメンシーナ等に限られたれば格別の過失も出来ずして終了したる如きは不幸中の幸いと言うべし。
宇野朗が通った学塾
千之塾[福井雪水]
・文久3年(1863),14歳のとき福井雪水(通称・亨作)の千之塾に入塾し,経書の講義を聴きます。16歳のころ,親友の河合浦太郎(のち博と改名)と計って,洋学の勉強を志して江戸への脱出をこころみますが,失敗に終ります。
小林塾[小林伍堂]
・慶應3年(1867)5月31日:沼津宿の水野出羽守医師・深澤雄甫方に寄寓。養子・要橘に学びます。9月,雄甫の江戸屋敷勤番に同行。10月16日丹後宮津の城主・松平伯耆守医師・小林伍堂に入塾することになります。小林伍堂は,前には木村宗俊といい,米国に幕府使節を派遣の際に船医として随行した人で,杉田玄端の門弟でした。
杉田塾[杉田玄端]
・慶應4年(1868)5月26日:維新に際して,小林伍堂は旧地に帰ることとなり,宇野朗は,杉田玄端塾に転じることになります。杉田塾は,山伏井戸にあり,塾中には小山内建(おさない・たけし)(津軽藩)(文学士・小山内薫の父),神戸文哉(かんべ・ぶんさい)(小諸藩)がいました。
・山伏井戸の近くには,津軽藩と小諸藩の屋敷がありました。いまの久松警察署前交差点・久松町交差点の周辺です。隅田川に繋がる濱町川が流れていたのも,この辺りです。『日本橋北内神田両國濱町明細絵圖』(部分)によると,濱町川に架かる小川橋の畔に「山伏井戸」「杉田玄丹」の文字が見えます。「玄丹」は「玄端」の誤記と思われます。
・小山内建は代診方,神戸文哉は調剤方を専門として,宇野朗は神戸文哉の補助をして英書の講読を受けています。小山内建は,のちに陸軍軍醫正となっています。
・宇野朗 −− 杉田玄端 −− 杉田武(玄端の息子)−− 木下凞(ひろむ),そして,沼津兵学校の榊綽(ゆたか)との繋がりが見えて来ました。
参考文献
1) 黴毒學者としての宇野博士(1)體性 12(2):49,1929.
2) 黴毒學者としての宇野博士(2)體性 12(3):46-47,1929.
3) 黴毒學者としての宇野博士(3)體性 12(4):44-46,1929.
4) 宇野先生の追憶 皮膚科泌尿器科雑誌 29(1):99-103,1929.
(続く)
(平成23年2月3日 節分 記す)(令和4年3月30日 追記)