106.染井の書棚より:「第2回協議会・第14回協議会の記念写真を求めて」

医学図書館 32(1):20, 1985

♪日本医学図書館協会(はじめは官立医科大学附属図書館協議会)の歴史に興味を持ち、ちょうど創立60周年(1987)も間近ということもあって、毎年、一度、開催された協議会のたびに撮られた記念写真を集めることに、やっきになっていました。当時は、国立大学の図書館にも、医学図書館畑専門という方々が各地におられて、いろいろ、教えていただきました。

♪新潟で開催された第1回協議会に、開催館の一員として参加された渡邊正亥(わたなべ・まさい)先生が、習志野でご健在のことを知り、渡邊先生から、昭和2年(1927)の第1回協議会(新潟医科)から昭和18年(1943)の第15回協議会(東京帝國大學医学部)までのほとんどの記念写真を拝借できました。

♪しかし、第2回(岡山医科)と第14回(千葉医科)の協議会の記念写真だけは、渡邊先生の手元にもなく、あきらめかけていました。そこで、不思議な力が働いたようです。「医学図書館」誌の編集で、ご縁のあった青木公男(あおき・きみお)さんのお力添えがあり、千葉の故北村清氏宅で、第14回協議会の貴重な写真を発見できたのです。

♪このエッセイは、千葉市内の北村家を、1984年11月17日に、お訪ねしたときのもの。奥様とお嬢様が、丁寧に応対してくださり、写真の掲載を許可してくださったことが、昨日のことのように、思い出されます。

左から取材に協力していただいた青木公男さん(千葉)、半田光子さん(千葉)。北村清氏の奥様、お嬢様
北村清一家家族写真 女学校入学の初夏(昭和14年夏休み)

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(令和3年 2021年2月6日 記す)

105. 染井の書棚より:「津山に箕作阮甫の史跡を訪ねて」    

医学図書館 34(1):82-84, 1987] 

 [平成21年10月13日 個人リポジトリ登録]

♪津山の静かな駅前から、旧出雲街道を進み、古い町並みのなかに、旧宅跡をみつけました。裏手の林田の丘にある箕作家の墓所から眺めた吉井川の景観が、蘇ります。

津山林田の丘からの景観と箕作家墓所

津山洋学資料館:岡山県津山市川崎823番地(平成22年西新町5に新築移転)

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♪今年、平成21年(2009)の5月30日に、、箕作阮甫旧宅跡の隣に建築中であった津山洋学資料館の新館が完成して、その竣工式が行われたようです。前庭には、市内各所に点在していた洋学者のブロンズ像が集められ、来年3月のオープンを目指して準備中とのこと。桜咲く、津山を再訪してみたいものです。

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(令和3年(2021)1月26日 追記)

104. 染井の書棚:医史学散歩 (1)

🌲ソネット(SONY)のサーバーを利用して、「染井の書棚」というホームページを作成して、私が在職中から書いてきたエッセイなどをデジタル化して公開していたのですが、2021年1月28日をもって、ソネットのホームページ作成サービスが中止されることになりました。

🌲私の書いたもののなかには、Wikipediaの参考文献となっているものもありますので、「染井の書棚」で公開していたものを、一部、本「改訂版・江戸東京医史学散歩」に移しておくことにしました。

🌲1)「日本医学図書館」と金杉英五郎

🌲2)「日本医学図書館」―神田駿河台周辺と明治35年以降の「日本医学図書館」

🌲3)拓本『二本榎保存碑』

🌲4)東京医学校本館遺構

🌲5)加賀谷凡秋と第14回医科大学附属図書館協議会

♪加賀谷凡秋(勇之助)は、ホトトギス同人で、千葉医科大学の法医学教授を務めた。昭和15年(1940)5月9日~11日、千葉を会場として開催された第14回医科大学附属図書館協議会を附属図書館長として主宰している。このエッセイは、昭和59年(1984)から昭和61年(1986)にかけて、凡秋先生の足跡を辿り、千葉大学医学部猪鼻構内や、その周辺の猪鼻城址を散策したときのもの。

103. 『二本榎保存碑』(拓本)誠心堂書店で発見

誠心堂書店
場 所:東京都千代田区神田神保町2-24
電 話:03-3262-5947

二本榎保存之碑:東京都北区西ヶ原2丁目13(Google Earth)

関連連載94 「二本榎保存之碑」(西ヶ原一里塚):飛鳥山公園の附属地:三上参次と澁澤栄一

🌲高村光太郎のアトリエ跡を訪ねて旧駒込林町界隈(現在の文京区千駄木5丁目と3丁目の一部)を散策していた昨年の暮れに、智恵子の記念碑について、インターネットで検索していました。そのとき、偶然に誠心堂書店のホームページに入り込み、三上参次が碑文を書いた「二本榎保存之碑」(大正五年六月)の拓本『二本榎保存碑』を発見しました。

🌲日光御成道(旧岩槻街道)の二里目の一里塚(西ヶ原)にある記念碑「二本榎保存之碑」を調べ始めたときには、その拓本があることは知りませんでした。

🌲ちょっと興奮して、誠心堂書店に連絡してみました。在庫しているとのことでした。拓本が残されていることにも驚きましたが、その価格が貴重なものの割には、安価であることにも驚かされました。早速、入手しておくことにしました。

🌲拓本は、写し取った和紙を一行づつに裁断して、折本形式の台紙に貼付けられ、一帖となっていました。しかし、残念なことに記念碑の最後に刻まれていた「廣群鶴刻」の文字と裏面の説明文は、摺り取られていませんでした。

🌲また、この拓本は誰がいつ作ったものなのか。折本に書誌的記載がなく定かなことはわかりません。墨で写し取られた碑面の状態からみると、記念碑が建てられた直後というわけではないような気がしました。

🌲高村光太郎・智恵子の事跡を調べていて、三上参次の『二本榎保存碑』(拓本)に出会う。なにか不思議な縁を感じずにはいられませんでした。

🌲『二本榎保存碑』(拓本)は、たいへん貴重な史料だと思いますので、折本の全体をデジタル化して記録に残しておこうと思います。

(平成15年10月9日記)

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○ 『二本榎保存碑』(拓本

https://www.evernote.com/shard/s180/sh/a2f1a85e-c044-483e-b7fe-1086ef22f405/957d4bb91425a930828801538f38697f


(三宅参次撰文 阪正臣書 帖仕立拓本 一帖)
(縦:35.5cm 横:22.5cm 厚さ:7mm)

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一

里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸

街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧斤の厄を免れず今

存するもの甚少し二本榎は実に其存するもの 一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせ

しが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び

将来土地の繁栄と共に車馬躙轢老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵澁澤栄一君最も力を之に尽し篤志者

の義損を得て周邊の地を購ひ人家を徹して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事

を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就

きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし

幕府治平を構ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に澁澤男爵両市長町長及び諸有志者の力

に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん

大正五年六月

文 学 博 士  三 上 参 次 撰
         阪   正 臣 書

           廣 群 鶴 刻

🌲題字を書いた徳川家達(とくがわ・いえさと)(1863-1940)は、御三卿(ごさんきょう、田安・一橋・清水)のひとつ田安家の出身で、幼名を田安亀之助といい、明治元年(1868)、六歳のとき、徳川慶喜(第15代将軍)が処分されたあとをうけて、徳川宗家(将軍家)(駿河府中七十万石)を相続し静岡知事になりました。この「二本榎保存之碑」の題字を書いた大正5年(1916)は、年表によると、徳川家達は華族会館館長・貴族院議長を務めていた時期にあたります。夏目漱石、菊池大麓が亡くなり、理化学研究所が設立されたのも大正5年(1916)のことでした。


🌲後年、徳川家達は、佐野常民(さの・つねたみ)(1822-1902)(参考文献1)と大給恒(おぎゅう・ゆずる)(1839-1910)が、西南戦争の最中の明治10年(1877)5月1日に「博愛社」として創設し、明治20年(1887)5月20日に「日本赤十字社」と改称・発展させた第六代の社長を務めています。また、昭和10年(1935)には、第12回国際オリンピック大会招致委員会会長なども務めました。

                  徳川宗家(将軍家)

水戸家―――――――→一橋家――――慶喜(よしのぶ)(15代将軍)
                     ↓
           田安家――――――→家達(いえさと)
                     ↓
                     家正(いえまさ)


🌲大給恒(おぎゅう・ゆずる)(1839-1910)は、幕末の龍岡藩主(田野口藩)であった松平乗謨(まつだいら・のりかた)のことで、明治に入ってから大給恒と改名しました。元老院議官を務め松平十三家の代表者でもありました。龍岡藩は、現在の長野県佐久市田口にあり、龍岡城跡(星形稜堡)は田口小学校の敷地になっているそうです。

(平成15年10月18日記)

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🌲本郷通りと不忍通りがぶつかる交差点の上富士前を上野不忍池方向に向かうと動坂下、道灌山下、団子坂下と続きます。この不忍通りの右手側、本郷台地上に動坂上と団子坂上を繋ぐ江戸時代から続く道があります。

🌲この道は、現在の住所でいうと文京区千駄木3丁目で、かつて大給恒が住んだことがあるそうです。不忍通りを保健所通りを繋ぐ細い坂を大給坂といい、その名を残しています。

🌲団子坂界隈は、菊人形でも有名な地で、現在、音羽にある講談社(旧大日本雄弁會講談社)(本郷區駒込坂下町)の発祥地もこのあたりでした。

(令和3年(2021)1月12日 追記)

102. 日本橋川に架かる3つの「ときわ橋」

(1)常磐橋(旧常盤橋)(明治10[1877] 石橋 2連アーチ橋)

(2)新常盤橋(大正9年[1920] 3連アーチ橋)(路面電車開通時に架橋)(昭和63年[1988]改架)

(3)常盤橋(復興橋梁)(大正15年12月 竣工 2連アーチ橋)

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♪「常磐橋(旧常盤橋)」,「新常盤橋」、「常盤橋」は,どれも日本橋川(外濠の一部を含む)に架かる橋です。読み方は「ときわばし」と同じなのですが,「わ」の漢字表記が違います。「」と「」が使い分けられています。石と皿の違いです。

🌲日本橋川(外濠の一部を含む)に架かる橋

日本橋川略図(クリックするとGoogle地図が開きます)

神田川(小石川橋)

三崎橋(日本橋川の起点)

新三崎橋

あいあい橋(旧新飯田橋の場所)

新川橋

掘留橋

南掘留橋

俎橋(靖国通り)

宝田橋

雉子橋

一ツ橋(白山通り)

錦橋

神田橋(本郷通り)

鎌倉橋(外堀通り)

新常盤橋(江戸通り)(旧都電通り)

常磐橋

常盤橋

(↑外濠)

一石橋(外堀通り)(旧・日本橋区北鞘町(きたさやちょう) 現・中央区日本橋本石町一丁目と同区西河岸 現・八重洲一丁目を結ぶ橋)

西河岸橋

日本橋(中央通り)

江戸橋(昭和通り)

鎧橋

茅場橋(新大橋通り)

湊橋

豊海橋(日本橋川の終点)

隅田川(永代橋の近く)

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(1)常磐橋(明治10年[1877] 石橋架橋)

♪「常磐橋(旧常盤橋)」は,日本銀行本店前に架かる石橋で,明治10年(1877)に木橋から石造りの2連アーチ橋に架け替えられた橋です。石造りとなったからでしょうか,「わ」の字が皿から石に変わりました。江戸時代には,ここに「常盤橋」(木橋)が架けられていました。

♪江戸時代の「常盤橋」(木橋)は,『江戸名所図会』(国立国会図書館デジタル化資料)の「八見橋」のなかに描かれています。八見橋は一石橋(いちこく)の異名で,この橋上からは,川筋に架かる常盤橋(常磐)(ときわ),銭瓶橋(ぜにかめ),道三橋(どうさん),呉服橋,日本橋,江戸橋,鍛冶橋が,見渡せたといいます。江戸の高台からは,川筋,それに続く江戸湾,富士山,筑波山などが,遠望できたのでしょう。川の流れとともに緑豊かな自然が,江戸にはありました。

八見橋(一石橋):国立国会図書館デジタルコレクション
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: ACtC-3d9oeSjWKJ5Eam-SGj3o91ns4Lk3ux3k5sLcQg0cRcp4UslyYCu7s8F1kvh41gY0d-XULc1Tt6GaWtQ7ZUV0S_rZ50QjpDMMfqzIa7C6VY8MZGG_8tkgFcLwXvbGyszxky1K8AVCJUPiLSh7X86D8t5=w1785-h1316-no

御本丸の大手より東の方,本町への出口にして,御門あり。橋の東詰北の方に,御高札を建てらる。『金葉集』に,「色かへぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤波」といへる古歌の意を,松平の御称号にとりまじへ,御代を賀し奉りての号なりといへり。

♪「日本銀行」の絵葉書(彩色)に「常磐橋(旧常盤橋)」が写っていました。日本銀行との位置関係がよくわかります。長崎の眼鏡橋を思わせる石橋です。美しい2連アーチの橋の姿が,日本銀行の建築によくマッチしています。日本銀行の右隣の建物(横濱正金銀行東京支店)の屋根についたドームが印象的です。横濱正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)を想わせます。

♪日本銀行(明治29年[1896]建設竣工)の建物は,東京駅の建築で有名な辰野金吾によります。コンドルのあとをうけて工部学校(現在の東京大学工学部)の教授に就任した人物です。

日本銀行と「常磐橋」(絵葉書)(堀江幸司蔵) 画面右手の建物は、横浜銀行正金銀行東京支店
写真:
日本銀行と常磐橋(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
日本銀行と常磐橋船着き場(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

🍂常磐橋の皇居側の現在、常盤橋公園(東京都千代田区立)となっている一帯(常盤橋門跡)には、明治9年(1876)10月10日に紙幣寮(大蔵省印刷局)(ポアイン・ベル設計)が竣功しています。跡地には、渋沢栄一の銅像が建てられています。(常盤橋公園は、令和2年現在、周辺の再開発工事のため閉鎖中)

(2)新常盤橋(3連アーチ橋)(大正9年)

♪常磐橋(旧常盤橋)の上流側にある新常盤橋(3連アーチ橋)は,大正9年(1920)に路面電車(市電)の開通に合わせて架けられたものです。系統17番(池袋駅⇔数寄屋橋)と系統31番(三ノ輪橋⇔都庁前)が交差する場所でした。昭和63年(1988)の東北新幹線の高架建設に伴って架け替えられ現在に至っています。

 日本銀行前を走行する市電

都電17系統(池袋駅前―数寄屋橋)

(池袋駅前)―(日ノ出町三)―(日ノ出町二)―(大塚坂下町)―(護国寺前)―(大塚仲町)―(大塚窪町)―(教育大学前)―(清水谷町)―(文京区役所前)―(同心町)―(伝通院前)―(富坂二)―(春日町)―(後楽園前)―(水道橋)―(三崎町)―(神保町)―(一ツ橋)―(錦町河岸)―(神田橋)―(鎌倉河岸)―(新常盤橋)―(日本銀行前)―(呉服橋)―(東京駅東口)―(鍛冶橋)―(有楽橋)―(数寄屋橋)

都電31系統(三ノ輪橋―都庁前)

(三ノ輪橋)―(三ノ輪車庫前)―(龍泉寺町)―(千束町)―(入谷町)―(合羽橋)―(菊屋橋)―(三筋町)―(蔵前一)―(浅草橋駅前)―(浅草橋)―(馬喰町)―(小伝馬町)―(本町三)-(室町三)―(新常盤橋)―(丸ノ内一)―(東京駅降車口)―(東京駅乗車口)―(都庁前)

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♪一石橋の背景には,外濠に架かる常盤橋(2連アーチ橋),常磐橋(旧常盤橋)(2連アーチ橋),新常盤橋(3連アーチ橋)の3橋が,綺麗に写っています。画面の左上隅に,新常盤橋の3連アーチが,かすかに見えます。自然光による撮影のため,橋への太陽光線のあたり具合とアングルを考えての撮影だったと思われます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: ACtC-3fMUR3PEo2KZ_008HwdQpzhUZCwemhF0eL5XHt0KID4SSnc9qj59xED81JXQ8_WRfLcwtb9hTVQu8iB0jIiJeuxtoBRjwR6fHa0M0cI1PFy_Uo4E5DetQRzSr3fy778AEY8OnXqMpiWZBbo2jP5q3y3=w1516-h1316-no

(3)常盤橋(復興橋梁)(大正15年竣功)

♪「常磐橋(旧常盤橋)」の下流(一石橋側)に位置する「常盤橋」は,関東大震災の復興計画のなかで架けられた橋です。常盤橋の復興工事の写真が,土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス(震災復興橋梁工事写真[橋梁No.28])のなかにもありました。

写真: 常盤橋(絵葉書)(大東京の十六大橋)(堀江幸司所蔵)
常盤橋(復興雄橋梁)(絵葉書 堀江幸司所蔵)

♪「常盤橋」(復興橋梁)の絵葉書は「大東京の十六大橋」のなかにもありました。背景に日本銀行と横濱正金銀行東京支店の建物が見えます。横濱正金銀行東京支店は,工事期間中に関東大震災に会うのですが,昭和2年(1927)に竣工しています。設計は長野宇平治でした。

常盤橋(復興橋梁)

位 置:麹町區鐡砲町 日本橋區北鞘町間(外濠架設)

橋 長:39メートル

橋 幅:27メートル

竣 工:大正15(1926)年12月

土木図書館のアーカイブスのなかに,一石橋と常盤橋(復興橋梁)が写っている絵葉書もありました。タイトルは「丸の内に通ずる新常盤橋及一石橋を望む」となっています。この新常盤橋とは,現在の常盤橋のことと思われます。震災後,常磐橋(旧常盤橋)の下流に新たに橋を架橋したために「新常盤橋」と表記したものと思われます。

丸の内に通ずる新常盤橋及一石橋を望む(ここで新常盤橋とあるのは現在の常盤橋)

🌲日本橋川に架かる橋

三崎橋→新三崎橋→あいあい橋(旧新飯田橋の場所)→新川橋→掘留橋→南掘留橋→俎橋→宝田橋→雉子橋→一ツ橋→錦橋→神田橋→鎌倉橋→新常盤橋→常磐橋→常盤橋→(←外濠)→

一石橋→→西河岸橋→日本橋→江戸橋→鎧橋→茅場橋→湊橋→豊海橋→隅田川

新常盤橋(大正9年[1920] 3連アーチ橋 都電) (昭和63年[1988]改架)(東北新幹線)

常磐橋(旧常盤橋)(明治10[1877]年 石橋 2連アーチ橋)

常盤橋(復興橋梁)(大正15年12月竣工 2連アーチ橋)

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♪当時の工事写真や絵葉書から,外濠や日本橋川上のひろびろとした空,静かであったころの江戸・東京が想像されます。

♪春の訪れとともに,街道筋の散歩に加えて,隅田川,日本橋川,神田川などの川筋の散策も続けたいと思います。散歩を通して,記憶し,過去の文献とともに記録に残すことがいかに重要なことかと,改めて,感じています。

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♪外濠(御堀)は一石橋で日本橋川に分かれて,西河岸橋→日本橋→江戸橋→鎧橋→茅場橋→湊橋→豊海橋と続き,隅田川に流れ込みます。

♪一石橋を外濠側から見た絵葉書を入手しました。絵葉書のタイトルは「日本銀行」となっているのですが,前景に外濠,遠景(画面右側)に改架前の一石橋が写っていました。外濠と日本橋川が繋がる部分です。一石橋がアーチ橋に改架されるのは,震災前の大正11年(1922)12月のことです1)。

写真:
写真: 左から日本銀行・横濱正金銀行東京支店・東京火災保険株式會社(外濠と日本橋川分岐点の一石橋際)

♪外濠には,舟が浮かんでいます。これから,一石橋をくぐり,日本橋川を下って隅田川に出るのでしょうか。江戸は舟運で繁盛しました。

♪外濠に沿って,建物が並んでいます。画面左が日本銀行,中央が横濱正金銀行東京支店(震災前の建物)(東京銀行の前身・現在の三菱東京UFJ銀行日本橋支店および貨幣博物館の場所・東京都中央区本石町一丁目[旧本両替町]),その右隣が東京火災保険株式會社(明治36年[1903]8月起工,明治38年[1905]7月竣工・旧北鞘町)の建物です。

横濱正金銀行東京支店(正金銀行出張所)
写真: 東京火災保険株式會社(日本橋區北鞘町一番地 一石橋際・辰野金吾設計・明治39年8月1日)
東京火災保険株式会社
写真: 東京火災保険株式會社と一石橋(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
東京火災保険株式会社新築落成移転記念(絵葉書)

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♪日本橋白木屋の上空から俯瞰した絵葉書がありました。画面左に外濠,そこから分かれて日本橋川が流れています。外濠には,復興後に架けられた常盤橋(復興橋梁)(大正15年[1926]12月竣工)が見えます。日本橋川に入って,一石橋,西河岸橋,日本橋と橋が架かっているのがわかります。

写真: 日本橋上空から見た日本橋川・外濠(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
白木屋上空から見た日本橋川・外濠(絵葉書)(堀江幸司所蔵)

参考文献

1) 『東京の橋 生きている江戸の橋』(石川悌二著 新人物往来社 1977)

2) 『新訂江戸名所図会1』(巻之一天枢之部)(市古夏生・鈴木健一校訂 ちくま学芸文庫 1996)

3) 『帝都復興記念帖』(昭和5年 復興局)

4) 『都電が走った町 今昔』(林順信著 JTB日本交通公社出版事業局 1996)

5) 『都電が走った町 今昔II』(林順信著 JTB日本交通公社出版事業局 1998)

6) 長野宇平治:「横浜正金銀行東京支店建築概要」.土木建築工事画報 3(2):22-26, 1927.(土木図書館デジタルアーカイブス 「土木建築工事画報」)

7) 『東京の銅像を歩く』(木下直之著)(祥伝社 2011)

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🌲「東京新聞」(2020.11.08)によると、東日本大震災によって被害を受けた常盤橋の修復工事が完成したそうです。

写真:
復元工事中の常磐橋(平成25年5月 堀江幸司撮影)
写真:
復元工事中の常磐橋(平成25年5月 堀江幸司撮影)

(平成25年3月27日 記す)(平成25年5月11日 追加 記す)(令和2年11月22日 追記)

101. 日本赤十字社病院:本館と外来診察所(設計:片山東熊と岡田信一郎)

現在地日本赤十字社医療センター:渋谷区広尾4丁目(旧南多摩渋谷村御料地・渋谷区宮代町1丁目)

(1)本館(明治23年)(片山東熊設計)

明治23年(1890)6月竣功 設計:片山東熊(長州藩出身 コンドルの一期生)(参考:建築学会写真データベース

🌲現在の日本赤十字社医療センターは、もと佐倉藩・堀田下屋敷跡にあり、「日本赤十字社病院全景」の絵葉書に写る大木は、手術室の裏庭にあった「宗吾の松」かと思われます。敷地内には、多くの松のほかに、大イチョウ、大椎、大桑の木があったそうです。この「宗吾の松」は、関東大震災後、昭和初期に枯れ、その後、敷地内に一株だけの残った松が、二代目の「宗吾の松」として、医療センターの新築工事(2010年落成)の際に現在地(日本赤十字看護大学広尾キャンパス構内)に移植されています。

参考:日本赤十字社医療センター建物建設工事

日本赤十字社病院全景(絵葉書)
渋谷赤十字の宗吾松(東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書. 第2冊 (天然記念物老樹大木の調査))(国立国会図書館デジタルコレクション)

日本赤十字社病院(絵葉書)(本館は正門を入って右手)

日本赤十字社病院本館荘園(絵葉書)

(2)本館の再建(大正14年[1925])(岡田信一郎設計)

🌲岡田信一郎(東京帝国大学工科大学建築学科)が日本赤十字社病院の設計顧問となったのは、大正4年(1915)のことで、岡田による日本赤十字社病院関連の設計には、震災後の大正14年(1925)に竣功した本館のほかにも、外来診察所、分病室、産院など多数ありました。(参考:「岡田信一郎岡田捷五郎建築設計原図集成 内容一覧」国立国会図書館デジタルコレクション

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 日本赤十字社病院前庭001-1024x644.jpg
日本赤十字社病院前庭(右手に見える建物が本館、左手の植木の後ろに見える建物が外来診察所)

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(3)外来診察所(明治37年[]1904)

「外来患者の増加にともない明治35年本社に増築委員会を設け、同年7月工事い着手、同38年にかけて、外来診察所が完成。このとき、分病室(伝染病室)、寄宿舎、教場なども完成。」

明治35年には、長年、日本赤十字社の社長を務めた佐野常民(さの・つねたみ)(佐賀藩)が死去し、後任として、松方正義(まつかた・まさよし)(薩摩藩)が就任して、副社長も大給恒(おぎゅう・ゆずる)(奥殿藩)にかわって小澤武雄(おざわ・たけお)(小倉藩)(陸軍士官学校校長・陸軍中将・貴族院議員)が就任しています。

日本赤十字社創立貳拾五年記念祝典記念(絵葉書)(佐野常民社長・花房義質副社長・大給恒副社長)
「第九囘万国赤十字総会参列日記 : 明治四十五年五月」(国立国会図書館デジタルコレクション)
(日本赤十字社社長・松方正義 副社長・小澤武雄 副社長・花房義質)

小沢男爵講話百題 : 日本赤十字社副社長

少将小沢武雄士官学校長被命ノ件

(4)外来診察所(大正11年[1922]11月)(岡田信一郎設計)(のちに外来別館として使用)

(5)新外来診察所(昭和11年[1936])

「昭和10年7月9日地鎮祭を行って工事に着手し、翌年11月に完成。鉄筋コンクリート4階建で、一部に地階をもち外面は白色タイル張、本館と薬剤科、レントゲン科に区分されている」

日本赤十字社中央病院構内圖(昭和41年当時)(病院創立80周年)

参考文献

「日本赤十字社中央病院80年史」(日本赤十字社中央病院 昭和41年刊)

(令和2年[2020]8月23日 コロナ渦中 記す)

100.『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)(2)

🌲前回からの続きです。絵葉書と組み合わせて紹介します。

『日本赤十字社病院寫眞帖』(PDF)

設立経緯:

参考:

1)「日本赤十字社中央病院80年史」

2)「日本赤十字社病院沿革及現况」(国立国会図書館デジタルコレクション)

3)「日本赤十字社歴史画談」(国立国会図書館デジタルコレクション)

明治19年(1886)

 5月 陸軍軍医総監 橋本綱常の提出した病院設立建議書に基づいて本社臨時会議で病院建設を可決

 8月 陸軍軍医監 石黒忠悳の斡旋で麹町區飯田町付近の土地を陸軍省から借り入れ病院の建築起工

博愛社(日本赤十字社の前身)
日本赤十字社(飯田町)(絵葉書)

日本赤十字社跡記念碑(東京都千代田区神田佐久間町4丁目9番地)

 10月 院長陸軍軍医総監橋本綱常、副院長陸軍軍医監石坂惟寛 以下病院職員を嘱託

 11月17日 開院式を挙行し博愛社病院と命名

明治20年((1887)

 博愛社が日本赤十字社と改名されたのに伴い、博愛社病院も日本赤十字社病院と改名される

明治21年(1888)

 12月 現在の地(渋谷区広尾)である南多摩御料地(豊多摩郡渋谷村御料地)の拝借を許可

 🌲この御料地内では、照憲皇太后(明治天皇の皇后)が奨励された養蚕のため、桑の木などが栽培された時期もあったようです。

明治23年(1890)

 12月 新築病院はほとんど落成 

明治24年(1891)

 5月 病院新築成り現在地(現・渋谷区広尾)に移転開院

「新築の病院はドイツのハイデルベルヒ大学病院を模したもので、・・・この新病院は、三宅大学教授が持ち帰ったハイデルベルヒ大学病院の設計図によって汚水の消毒まで完備したもので、・・・設計監督は片山[東熊]工学博士による」

二階建てのレンガ造りの本館の背後に内庭があり、その廻りを病室が囲む形で設計されています。この病棟の一部は、現在、明治村に移築(昭和48年[1973]解体・昭和49年[1974]移築)されて、現存しています。

🌲🌲🌲

日本赤十字社病院正門(渋谷)(絵葉書)

日本赤十字社病院本館正面(絵葉書)

明治25年(1892)

 6月17日 新築病院開院式挙行

日本赤十字社病院開院式:「中央医事新報」(294)

明治45年・大正元年(1912)

 10月 飯田町にあった本社、芝の現在地に移転。博愛社時代に本館として使われていた建物は、看護婦集会室として広尾の構内に移築される。

[写真]

芝の日本赤十字社本社(現・港区芝大門1丁目1ー3)

日本赤十字社病院(現・日本赤十字社医療センター 渋谷区広尾4丁目1-22

日本赤十字社本部(芝)(絵葉書)

大正11年(1922)

 外来診察所を新築。

[写真]

大正14年(1925)

 10月 本館、理学診察所、第1区東別室、北病棟、調乳室、分病室南棟、販売所落成。

[写真]

昭和11年(1936)

 11月 病院創立五十周年記念式典並に外来本館落成式挙行。新築外来本館で診察開始。

[写真]

昭和12年(1937)

 3月 旧外来診察所、薬室のあとを病棟に改め入院患者を収容する

🌲🌲🌲(前回の続き)

16、『日本赤十字社病院寫眞帖』
17、『日本赤十字社病院寫眞帖』
18、『日本赤十字社病院寫眞帖』
19、『日本赤十字社病院寫眞帖』
20、『日本赤十字社病院寫眞帖』
21、『日本赤十字社病院寫眞帖』
22、『日本赤十字社病院寫眞帖』
23、『日本赤十字社病院寫眞帖』
24、『日本赤十字社病院寫眞帖』
25、『日本赤十字社病院寫眞帖』
26、『日本赤十字社病院寫眞帖』
27、『日本赤十字社病院寫眞帖』
28、『日本赤十字社病院寫眞帖』
29、『日本赤十字社病院寫眞帖』
30、『日本赤十字社病院寫眞帖』
31、『日本赤十字社病院寫眞帖』
32、『日本赤十字社病院寫眞帖』
33、『日本赤十字社病院寫眞帖』
34、『日本赤十字社病院寫眞帖』
35、『日本赤十字社病院寫眞帖』
36、『日本赤十字社病院寫眞帖』

(令和2年(2020)8月17日 東京は新型コロナ禍 酷暑・37度 記す)

99.『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)(1)

🌲『日本赤十字社病院寫眞帖』(昭和9年刊)を入手しましたので、デジタル化して紹介します。(2回にわけて掲載します)

場 所:東京市渋谷區宮代町一番地(現・東京都渋谷区広尾4丁目)

略 歴

🌲明治19年(1886)11月麹町區飯田町に当院の前身の博愛社病院創立、翌明治20年(1887)5月、日本赤十字社病院と改称。

🌲昭和16年(1941) 日本赤十字社中央病院と改称

🌲昭和47年(1972) 日本赤十字社産院を統合して、日本赤十字社医療センターとなる

参考:日本赤十字看護大学校歌・貞明皇后御歌「四方のくに」

(次回へ続く)

(令和2年(2020)8月5日 記す)

98. 三上参次:我が住へる番地の歴史

千駄木林町:「東叡山御林」

場所:現在の団子坂上から動坂上に繋がる道(保健所通り)と駒込大観音通りに挟まれた本郷台地上の区域。谷をこえて田端、道灌山、不忍池、遠くには品川湊がみえたような自然豊かな、空気清らかな土地。周囲には、寺院も多く、畑ではお茶なども作られたことがあったようです。

間江戸大絵図(明和9年(1772))(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

(1)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲今は亡き父君に従ひて、我が居を駒込千駄木林町の片ほとりにトせしより、早や二十年を過ぎたり。

🌲一夢茫々、隙行く駒の足のいと疾きを覚ゆれども、顧みれば、二十年は二タ昔の事なれば、その間の林町の変化は、実に驚かるるなり。

🌲我がはじめてここに住ひし頃は、げに林町と名に負へるに背かず、樹木生ひ茂り、空気清く、桃紅李白の眺めもまた、ここかしこにありて、閑静なる境なりき。

🌲日毎に我が大学に通ふに、門を出でて二町ばかり、途すがらに太田の原といふがあり。

🌲千駄木町の五十番地といへるにてもとは懸川の城主太田氏の下邸なりき。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
分間江戸大絵図(明和9年(1772))

(注)千駄木町50番地:現在の光源寺(駒込大観音)前の駒込学園前交差点を日本医科大学病院方面に向かって、「日医大つつじ通り」に抜ける道の両側一帯

駒込大観音


(注)太田氏:太田摂津守

 周辺地図:(旧千駄木50番地附近)

🌲さすがに江戸の開祖たる人の後とて、邸地いと広く、十年許りの前までは、雑木茂り、青草の氈を敷き詰めたる如き原にて、朝夕の往来にここにさしかかれば、自から、心舒び気爽かなるを覚ゆるばかりなりき。


(注)舒(じょ):舒暢(じょちょう):こころがのびのびする。楽しくなる。

🌲されば、過ぐる日清戦役の折には、この原に、幾棟の厩舎建て連ねられて、馬匹の徴発せられたるもの幾百頭、ここに繋がれて、之を扱ふ兵士の操練なども、行はれたるほどなりき。

🌲さるに、いつしか人家稠密の巷となりて、今は殆んど立錐の余地だになく、土地人の、尚、太田の原と呼ぶのみぞ、可笑しきながら、尚、昔忍ばるる心地す。
(注)稠密(ちゅうみつ):多く集まる。こみ合う。

🌲芝、麻布、青山さては本所、深川などの場末と同じように、この窮北の地も次第に開かれて、都会は何処まで膨張するにやと打ち驚かれ、滄桑の変といふもかくやと思はるる事多し。
(注)滄桑の変(そうそうのへん):滄海(あおうなばら)が変じて桑畑(くわばたけ)となる意。世の中の移り変わりの激しいこと。

🌲都市のみかく急速に発達するは、如何なる現象ぞや、国民思想は健全なりや、否やとまでも疑うはるるなり。

🌲我が茅屋も、昨年は、火災保険の契約を締ぶべき必要に迫られぬ。

🌲あはれ、四十五年の大博覧会の敷地ともならば、何地にか移り行かんなど、一時は心苦しう思ひたり。

🌲それは幸に青山の方へ逸(そ)れたれど、今にして、この林町の過去をたづね、また今を記して、将来の変遷を占はばやと思ひ立ちぬ。

(次回に続く)

(平成15年1月29日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

🌲🌲

🌲江戸太郎重長、太田道灌持資などの頃には、我が林町は如何なる状態にかありけん。

🌲猫額大のところの事なれは詳かならず。

🌲菅原孝標朝臣の女の更科日記、道興准后の迴國雑記、さては堯恵法印の北國紀行などにも、この林らしきところは見えず。

🌲小田原北條の分限帳に、駒込卅六貫文、屋中卅九貫文、新堀四十五貫文、合せて百廿貫文の地、遠山孫九郎の所領たる旨記されたれは、千駄木林町も、その卅六貫文のうちなるべけれど、尚、その名は見えず。

🐎さて、駒込は、駒の飼はれたりし区域なるべしとの説、信ずべきが如くなれば、その一小部分なる林町も、雑木生ひ立ち、萱草など茂り合ひて、武蔵野の片端なる面影をとどめ、勇める駒の四つ三つ二つ、ここかしこに遊牧せるさまなりけんかし。

🌲明治七年の東京地図にも、ここは市区の外として、全く記載せられざるほどなれは、「権現様御入国」の時代には、もとより、人の注意にも上らざるところなりしと見ゆ。

(次回に続く)

(平成15年1月30日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

🌲🌲🌲

(3)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲千駄木とは、何時如何なる縁由ありての唱へなるにや、定かならず、或は、その昔太田道灌が植ゑ附けたりし林にて、栴檀の木特に多かりしが故になどともいひ、或は、東叡山へ千駄の護摩の木を納めしによるなどとも、口碑には傳へたれども、信用しがたし。

(注)栴檀(せんだん):庭に植える落葉高木。夏の初め、薄紫の花を開く。皮・実は薬用。「栴檀(センダン)は双葉(ふたば)より芳し(かんばし)[大きくなってから立派になる人は、小さい時分からすぐれた所が有るものだ]」 このセンダンは、正確にはビャクダン(白檀)を指すようです。

🌲青山近くの千駄が谷も、もとは千駄萱と書き、萱の多く出でしよりの名なるべければ、ここの林も、薪材を伐出ししよりの唱へにて、千駄とはただ数の多きをいへるなるべし。

🌲新編武蔵風土記の編者も、この説に従へり。

🌲寛永年間となり、上野に東照宮の建立せられ、ついで三代将軍の靈屋の建てらるるに及んで、その宮靈屋の薪材として、この地を附属せられし事と見えて、元禄、享保頃の江戸図には、明かに「日光御門跡御やしき」としるせり。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))

🌲延享三年に至りて、林は開発せられて、段高の場所となり、そのうち、六町八反は上野の寒松院の、四町八段は同じく東漸院の預ることとなりにき。

🌲されど、尚、天保の地図などを見れば、上野などと同じに、木立多かりし様に書けり。

🌲嘉永五年の江戸図にも、尚、御林とあれども、団子坂筋の表通りのみは、駒込御林跡地としるし、但し町家なりと注せり。

(注)「東都駒込邊絵図」(安政4年<1857>)で確認してみると、現在の大観音通り沿いの駒込学園横から稲荷社(御林稲荷社)の前に駒込御林跡地との記載があります。また、その奥の都立駒込病院の方向に、上野東漸院御林、上野寒松院御林と記載されています。

🌲ついで間もなく、米艦渡来の頃よりして、林もおひおひに開かれて、畠地となり、宅地と変りしこと、古老も語るところなり。

(注)米艦渡来:アメリカ使節ペリーが浦賀に来航したのは嘉永6年(1853)。

🌲表通りより林への入口には、二カ所に黒木の総門ありて、無用の者入るべからずとの、厳かなる榜示は、御一新の頃まで掲げられたりしと云ふ。

(注)門の位置:「東都駒込邊絵図」と現在の地図を並べてみると、門は大観音通りから千駄木5丁目を突っ切って文京区立千駄木幼稚園に通じる道の入口付近にあったようです。この道の途中に、千駄木児童遊園があります。番地でいうと文京区千駄木5丁目4番地と5番地をわける道の大観音通り沿いに御林に入る門があり、4番地側(15番地・16番地・17番地・26番地、28番地、29番地あたり)が上野寒松院の御林で、5番地側(11番地・12番地・13番地・14番地・30番地あたり)が上野東漸院の御林であったようです。現在、かつての門のあたりは、まちづくりのための用地(文京区役所都市計画部・地域整備課)となっています。

🌲是れまた、古の荘園の一種、守護不入の禁の遺例にて、我はその地の民なりと、思はるるも可笑し。

(次回に続く)

(平成15年2月2日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

🌲🌲🌲🌲

(4)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲さて、お林地といふは、東西二町強、南北は四町余りもありぬべし。北の方、下駒込村に接するところ、則ち今の動坂、駒込病院の方面には、御林なりし頃の境界の堤、百五十間の長きにも亘りたりけるが、文政の頃には、はやわづかに三十間ばかりとなり、今となりては、全くその痕跡をも見るべからず。

(注)御林境界の堤:『分間江戸大絵図』(文政11年<1828>)および『御江戸大絵図』(天保14年<1843>)と現代の地図を比較してみると、「千駄木御林」を囲む堤は、大保福寺(現在の駒込学園の地)と養源寺大保福寺に沿って、北へ御鷹部屋(現在の都立駒込病院の地)方向に、現在の文京区立千駄木小学校あたりまで延びていました。そこから堤は、南へ円を描くように現在の本郷保健所通りあたりに沿って、団子坂方向に築かれていたようです。

分間江戸大絵図(明和9年(1772))
分間江戸大絵図(明和9年(1772))


♪『分間江戸大絵図』(須原屋茂兵衛蔵版)によると、明和9年(1772)頃の御林は「東叡山御林」と呼ばれていました。明和といえば、杉田玄白が解体新書を出版したころです。この東叡山(とうえいざん)とは、京都の比叡山に擬してつけられた上野寛永寺の号です。

🌲🌲🌲🌲🌲

 

♪今回、御林の場所を確認するために、参考文献のなかに収録されている何種類かの本郷界隈の『江戸切絵図』をみました。色彩が美しく、まるで「花のお江戸」が目に浮んでくるようでした。


♪人文社の「古地図目録」によると、各地の絵図の復刻版がでているようです。古地図や絵図は、ほとんどジュンク堂書店2階の地図の売場(http://www.junkudo.co.jp)に揃っています。また、神田神保町界隈にも古地図を扱っている古書店があるようです。文献収集の範囲が広がって「江戸東京」の楽しみがますます増えそうです。

(注)養源寺(ようげんじ)(文京区千駄木5-38-3)には、安井息軒(やすい・そっけん)の墓があります。安井息軒(1799-1876)は日向国(宮崎県)の出身で、幕末・維新期に儒学者となり、昌平黌(しょうへいこう)の儒官を務めました。養源寺の隣は、連光寺です。連光寺には、最上徳内、青山景通(東大内科教授青山胤通の兄)の墓があります。

 

連光寺
最上徳内之墓
青山景通之墓

周辺地図(養源寺・連光寺周辺)

🌲林の中には、人家稀疎にして、東漸院預りの方には纔かに十五軒、寒松院の方には廿五軒ばかりもありしにや。

(注)駒込林町の町会は、江戸時代の上野寛永寺の東漸院持と寒松院持によって、東林会西林会とにわかれていました。

🌲いづれも、百姓、植木屋、黒鍬の者、さては商家の隠宅などにて、杉、桐、椚の類或は竹薮などの間に、茅葺、梯葺の平家を構へ、畠には大根、葱などの野菜を栽培したりき。

(注)黒鍬の者:江戸時代、江戸城内の警備や掃除、荷物の運搬などに従った者。黒鍬組丁:『小石川谷中本郷繪圖』(萬延2年<1861>)によると、現在の本郷通りの向丘二丁目交差点を大観音通りに入った角の左側の三井住友銀行の周辺一帯は黒鍬組丁と呼ばれていました。江戸時代にこのあたりに住んだ黒鍬者は、御城(江戸城)になにかことがあると、中山道を御城に向かって駆け付けたのかもしれません。

🌲幕府の末頃にていへば、この林に住へる人は、年貢として、一反毎に金二分を、名主の許に持ち行き、名主は之を取纏めて、上野なる東漸院、又は寒松院へ納むるの習ひなりき。

🌲若し上野に非常の事あれば、林の民は皆駆けつくべき掟にて、その為めに、平生より、御靈屋御用と、いかめしく銘打つたる提灯を渡され居たりとぞ。

🌲我が始めに住ひたりし百七十番地も、今住へる百六十九番地も、ともに東漸院預りの方なるが、維新前には、その組合十五軒より、毎年正月の五日といふに、手作りの菜五十把を、東漸院へ納むる例なりき。

(注)三上参次が、はじめに住んだ駒込千駄木林町170番地は、現在の文京区千駄木5丁目13番地、次に住んだ169番地は、文京区千駄木5丁目12番地あたりと思われます。なお、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(参考文献4)では、三上参次の住んだ住所を林町167番地としています。

🌲之を齎し行くものは、この時のみは、たとひ百姓の身分なりとも、靈屋の参拝を許されて、面目を施したりしは、また、非常のとき、駆けつくる習ひのありしに基いてなりとぞ。

(注)齎(もたらす):持って行くこと

(次回に続く)

(参考文献)
1. 『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』人文社、2002.
2. 『江戸東京名士の墓碑めぐり』人文社、2002.
3. 『嘉永・慶応 江戸切絵図で見る幕末人物・事件散歩』 第3版. 人文社、2002. 
4. 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(季刊)其の二十八. 谷根千工房、1991.(みんなでつくる林町事典 p.4-23.)

(平成15年2月8日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

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(5)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)

🌲百六十九番地の方は、亡き父君が、淺川某といふ挿花の師匠より、買ひ受けられしものなるが、淺川の前には、もと舊幕の御坊主たりし吉田某その前には、御家人たりし大羽某、またその前には、御普請方なりし某、尚その以前には、或る紀州の人地主たりしにて、その人は、この地に小屋掛けして、「ドンドル」の製造を試みたりしといふ恐ろしき話もあり。

🌲これ恰も、御一新直ぐ後の事なるが、それより以前の持主の事は未だ分らず。


(注)恰(あたかも):ちょうど
(注)御一新:慶応4年(1868)4月、江戸城が無血開城。徳川慶喜(よしのぶ)(15代将軍)は水戸に退去して、9月に明治と改元されました。

🌲さて百七十番地の方は、これもまた亡き父君が、小島某なる人より購はれしなり。

🌲小島氏は、或る名家の後なるが、慶應の初年に、この地三百廿坪強を、金二十五両にて、或る神田の質商より求めしなりといふ。

🌲この老人、今は古稀を過ぐること、はや四五歳なるべきが、語りていふ、老人幼年の頃には、この邊りの土地は、殆ど價なかりしときけりと。

🌲地主は、僅かばかりなりとも、年貢を上野へ納めずばならず、非常の節に駆つけの義務はあり、組合の交際はあり、かたかた煩はしきがために、或は一樽の醤油、或は一升の酒などを引出物として、土地を遺り取りしたる時ありといふは、この頃なるべし。

🌲老人また曰ふ、その後嘉永の頃とか、今の或る大地主は、九百坪の地を金廿両にて購ひ得て、やがて今の身代の基をなしたり。

🌲下つて上野戦争の前には、繁華なる巷の人の、かかる邊鄙の地を望めるもありて、一時は俄に、二倍にも三倍にも、地価の騰貴せし事ありしが、やがてかの瓦解となりて、大名、旗本、家人の邸地の、多く廃虚となり、原と化したる時には、また暴落して、千坪拾五両ならば、可なりの土地を手にし得たりけりと。


(注)瓦解(がかい):江戸時代の終わり。明治維新。

🌲物価如何に低廉にして、天保通寶の一枚だにあれば、銭湯に積もる垢を去りて、六枚を佛ひ、床店に髪を結ひ髯を剃りて、廿六文を遣はし、次に卅二文にて二八蕎麦のをかはりを命じ、三十文を酒一合に投じ、尚、六文の残余ありしと云へる時代の事とは云へ、九百坪廿両といひ、千坪拾五両といふは、その格別に廉なりしに驚かるるなり。


(注)天保通寶(てんぽうつうほう):天保6年(1835)に江戸幕府がはじめて作った銅銭で、楕円の形をしており、四角穴がある。

🌲その頃、このあたりの畠地一反を、金五六両にて購へるものは、之に栽培せる大根の一両年の収穫、若しくはその葱を、四五回も青物市場に運び出だせば、やがて、畠地の原価を回収し得たりしとぞ。

🌲能く時変を観て富を成せる、昔の白圭の如き人、孰れの世にも乏しからず、かかる機に乗じて、江戸の一時の空閑地を買占めて、巨富を致ししもの頗る多しと云ふ。


(注)孰れ:いずれ。頗る:すこぶる。

🌲明治五六年の頃よりは、さる土地に、茶を植うる事しきりに行はれたりといへるが、我がここにト居せし頃も、かしこここに、雑木の老幹の亭々たる外は、家を環りて皆茶にして、その小さく、白く、清楚愛すべき花の盛り、又は茶摘み時の歌の調子など、いと興ある事に思ひたりしなり。

🌲その茶も、今は殆んど残りなく抜き棄てられて、人の住居とかはりぬ。

🌲昔はかかる鄙にても、住めば都と思ひたりしに、今はまことの都となりぬ。


(注)鄙(ひな):田舎。郊外。城外の田野の地。「辺鄙」

🌲我が庭の片隅には、尚、木立多く、むかしの名残見えて、わざとならぬ鶯の春の初聲を、人よりも早く聞くは嬉しけれども、四十五年の大博覧会は逸れたるものの、ここもまた、何時までかこのままにてあるべき。

🌲谷一つ隔てたる田端の高臺も、今は家屋多くなりぬ。

🌲この谷も、幾年ならずして、家もて埋もるるに至るべし。

🌲大なる日本。大なる東京。

🌲林町の名のみ優に聞かる時は來ぬべし。

(明治四十年十二月)

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(平成15年2月10日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)

97. 駒込林町:三上参次邸宅跡(2):御林稲荷社:「忠魂碑」

♪宇野彰男さんから三上参次が関係した石碑が文京区千駄木5丁目(旧駒込林町)の近くの公園(御林稲荷社)(駒込天祖神社の飛地境内)にあるとお聞きしたので、確認に行ってみることにしました。

場所:御林稲荷社(文京区千駄木5-6-13)

♪ナップザックにデジカメ、メモ帳、水筒などの取材道具を入れ、自転車で向かうことにしました。冬の風が、少し冷たく感じられましたが、よく晴れ渡って絶好のサイクリング日和となりました。

♪本郷通りの富士神社入口交差点を都立駒込病院の方向へ進むと、動坂上交差点にでます。交差点を渡ると一方通行の出口があります。この道が本郷保健所通りです。文京区立千駄木小学校、文京区立千駄木幼稚園、文京区立文林中学校、文京保健所本郷保健サービスセンター、文京区立特別養護老人ホーム千駄木の郷・千駄木高齢者在宅サービスセンター・千駄木在宅介護支援センターと続きます。

♪保健所の手前に高村光太郎旧居跡(文京区千駄木5-22-8)があり、説明版が建てられていました。光太郎・智恵子については、後日、調べることとして、そのまま道なりに進みました。

♪団子坂上交差点にでました。この交差点を渡って、まっすぐに続く道が、森鴎外の薮下通り(薮下道)です。観潮楼址(文京区立鴎外記念本郷図書館)(注1)は、この薮下の道の入口にあります。薮下の道は日本医科大学・根津神社裏門方面に繋がっています。

注1)本郷図書館の移転に伴い併設されていた「鷗外記念室」は「森鴎外記念館」として独立することとなり駒込大観音通り側に移転しています。(2012.11.1開館)

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文京区立本郷図書館の並びに島薗邸(登録有形文化財)(矢部又吉設計)があります。昭和7年(1932)、島薗順次郎(東京帝国大学医学部内科教授)の長男・島薗順雄(新潟大学医学部教授・東京大学医学部教授・東京医科大学教授)(生化学)の結婚にあたって建てられた和洋折衷の住宅です。設計は、矢部又吉により、ドイツ風の意匠が施されました。島薗順次郎の家は、この島薗順雄の家から、徒歩10分のところにあったとのことです。島薗順雄の妻は、三宅秀の長男・三宅鑛一(東京府立松澤病院長)の三女・昭子です。(注2)

♪西岡 暁先生(吉祥寺病院)によると、島薗邸は、「戦後の一時期「林町内科医院」となって駒込林町21番地に住んでいた宮本百合子が患者として来院」していたそうです。

三宅家家系図(出典:「桔梗 -三宅秀とその周辺ー」福田雅代編纂 昭和60年)

注2)島薗順雄・昭子の没後、島薗邸は、たてもの応援団によって維持・管理されてきましたが、その一部を売却することになったとのことです。

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♪団子坂を下って不忍通りにでると谷中霊園へ通じる三崎坂(さんさきざか)になりますが、今回は、坂を下らずに不忍通りを背にして、大観音通りの商店街を本郷通りの向丘二丁目交差点方面に向かって進みました。

♪三上参次によると、幕末から明治のはじめまで、この辺り(駒込御林跡地)の表通りから林への入口には黒木の総門があって、「無用の者入るべからず」との榜示があったといいます。

三上参次が住んだ旧駒込林町(現・文京区千駄木5丁目13番地)

♪ちょうど、前回紹介したコースと逆方向から、駒込学園横の鉤の手になった路地の突き当たりにある御林稲荷社に着きました。

♪宇野彰男さんからのメールに、平成11年(1999)に宇野さんご自身が撮影された石碑の写真が添付されていましたので、石碑はすぐわかりました。境内に入って右手に建てられていました。

♪実は、前回、この辺りを訪ねた時も、この御林稲荷社の境内に入ったのですが、その時は三上参次が書いた碑文ばかりを探していて、この石碑の発起人には気がつかないでいました。

♪石碑の表に「忠魂碑」とあります。裏にまわってみました。石碑は塀の際に建てられているので、身体を塀と石碑に挟むようにして、台座に近い部分に刻まれていた発起人の名前を確認しました。

♪この石碑は、昭和7年(1932)7月29日「故陸軍砲兵大尉土井浩君之霊・故海軍三等兵曹奥田吉丸君之霊」のために、当時の林町町会が中心となって建立されたもののようです。発起人の最後に三上参次(林町町会顧問)の名前をみつけることができました。

♪御林稲荷社の入口に文京区が建てた旧町名案内(旧駒込林町)の案内版が建てられていました。千駄木山に位置した駒込林町の縁由などが、簡潔に書かれています。

♪三上参次も駒込千駄木林町の歴史について、雑誌『歴史地理』のなかで林町に邸宅を構えたいきさつなどとともに詳しく記しています。貴重な記録だと思いますので、次回以降に全文を紹介しておきます。

(平成15年1月26日 記)(令和2年[2020]6月7日 追記)