74.「東都掃苔記」(1-50)と「GoogeMyMap 医家墓所掃苔録」(1)

♪「東都掃苔記」の著者,杉野大澤は、漢方医で医史学者であった安西安周(あんざい・やすちか)の筆名です。2年間にわたって,毎週,一度の休みもなく,一頁のなかに,文章,墓石の写真,肖像写真,遺墨などが,きれいに,割り付けられています。

♪これだけの,記事を書くとなると,普段から相当の資料を,収集していたと思います。さらに、執筆にあたっては,文献だけに頼らずに、子孫を訪ねるなど,取材も,しっかり,なされたようです。編集者の協力もあったとは思いますが,大変な労作です。

♪「掃苔録」の基本文献としては,戦前に発刊され,昭和48年(1973)に八木書店によって再刊された『東京掃苔録』(藤浪和子著)があります。平成5年(1993)に神田の古書店「慶文堂書店」で,『東京掃苔録』を入手したとき,将来,医家の掃苔録をつくりたいと思っていました。

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♪「江戸東京医史学散歩」を進めて行く過程で、『日本醫事新報』誌のなかに,近代医家のお墓を,まとめて,取り扱った連載記事(「東都掃苔記」)があることを知り,早速,本学図書館の保存書庫から,借り出して確認してみることにしました。

♪第1回(昭和29年8月28日発行)の土肥慶蔵からはじまって,最終回の第100回(昭和31年7月21日発行)の宇野朗(うの・ほがら)までをみてみると,いままで,知りたいと思っていた医家のお墓の場所が,ほとんど,載っていました。近代名医の掃苔記を完成させるという強い意思を感じさせる連載記事です。

♪60年近く前の記事ですので,現在では,風化などの理由により整理されている墓石などもあるかとは思いますが,これらのお墓を「江戸東京」で,再び訪ねて,墓誌や石碑などを,デジタル画像で記録し,顕彰してゆけば,後世に繋がるのではないか。そんな思いに捉われました。

♪そこで、今回、「改訂版・江戸東京」では、GoogleMyMapの機能を活用して各霊園別の地図を作成しインターネット上で公開、データを共有できるようにしました。地図上の墓石の位置を示すポイントボタンを押すと、関係する写真などの画像が表示できます。

 参考文献:「江戸東京医史学散歩」とGoogleマイマップ:オンライン検索 32(3・4), 118-125, 2011-09.

♪染井霊園の医家のお墓については、ほとんど実地調査が終わり、医家の墓石の位置を確認できたのですが、雑司ヶ谷霊園、谷中霊園は、まだ調査継続中です。掃苔を続けてゆければと思います。多磨霊園、青山霊園についても、調査予定です。気長な散歩になりそうです。

♪「東都掃苔記」を一覧表にまとめ,2回(1-50)(51-100)にわけて,掲載しておきます。各記事の画像をクリックすると、Evernotesに保管してある大きな画像にリンクします。

◆◆◆「東都掃苔記」に登場する人物と墓所

人 物所属・専門墓 所位 置
1) 土肥 慶蔵東大皮膚科教授多磨霊園七區甲一側
1) 片山 國嘉東京帝國大學・法醫學多磨霊園七區甲五側
2) 河本 重次郎東京帝國大學・眼科多磨霊園九區甲三側
2) 桐淵 鏡次東大卒,桐淵眼科病院多磨霊園八區甲一側
3) 呉 秀三東京帝國大學・精神病學多磨霊園五區甲一側
3) 宮本 仲東大別課卒,開業。正岡子規の主治医多磨霊園廿二區の裏門近く
4) 宮入 慶之助東大卒,九州大學名誉教授,寄生虫學多磨霊園七區乙十九側
4) 秦佐 八郎岡山第三高等學校醫學部卒,慶大細菌学教授多磨霊園十四區甲廿一側
5) 藤浪 剛一名墓顕彰會・日本醫史學會の主宰者多磨霊園九區甲十側
5) 草間 滋東大卒,慶應義塾大學醫學部教授・細菌学多磨霊園六區甲十六側
6) 近藤 次繁東京帝國大學・外科学多磨霊園二十二區一種二十二側
6) 呉 建東京帝國大學・内科学多磨霊園廿一區甲廿五側
7) 井上 通泰東大卒,岡山醫専教授多磨霊園十九區甲十二側
7) 遠山 郁三東大皮膚科二代目教授多磨霊園十九區甲四十四側
8) 太田 正雄東大皮膚科三代目教授多磨霊園十六區甲十二側
8) 長尾 折三千葉醫専卒,開業多磨霊園廿一區と廿二區の中間域
9) 高木 友枝東大卒,伝染病研究所多磨霊園廿二區甲五側
台北病院長
9) 川村 麟也慶大教授・病理学多磨霊園十九區甲十側
10) 山谷徳治郎日新醫學社社長多磨霊園七區甲十六側
10) 中泉 行徳東大助教授・眼科多磨霊園八區甲七側
11) 八代 豊雄宮内省侍醫・外科多磨霊園七區甲六側
11) 南 大曹南胃腸病院長・胃腸病多磨霊園十區甲二側
12) 菅沼 定男京大卒,慶大教授・眼科多磨霊園廿一區甲一側
12) 荒井 實東大内科物療學助教授多磨霊園十一區甲三側
13) 眞鍋嘉一郎東大内科物療學教授梅窓院港區青山
13) 飯島 茂千葉醫専卒,軍醫學校長梅窓院港區青山
14) 竹内 玄同幕府侍醫梅窓院港區青山
14) 中泉 正軍醫監梅窓院港區青山
15) 長與 専齋醫事衛生の確立者青山霊園一種イ十三號二側
15) 長與 称吉消化器病学青山霊園一種イ十三號二側
15) 長與 又郎病理学・東京大學総長青山霊園一種イ十三號二側
16) 稲田 龍吉東大・内科(青山内科の後を継ぐ)青山霊園一種イ十三號二側
16) 久保猪之吉九大・耳鼻咽喉科青山霊園一種ロ第二十號
17) 高木 兼寛慈恵医大草創者青山霊園一種イ十號
17) 高木 喜寛青山霊園一種イ十號
17) 高木 兼二慈恵医大教授・内科青山霊園一種イ十號
18) 北里柴三郎伝染病研究所・北里研究所所長青山霊園一種ロ十九號
18) 浅川 範彦北里研究所部長青山霊園一種ロ十八號
18) 柴山五郎作北里研究所部長青山霊園一種イ一號
19) 後藤 新平満鐵総裁・愛知病院長青山霊園一種イ五號
19) 金杉英五郎東京醫科大學別課卒,衆議院議員青山霊園一種ロ三號
20) 實吉 安純慈恵醫専・東京病院の學校長・醫院長青山霊園一種イ十八號
20) 鶴田禎次郎陸軍省醫務局長青山霊園一種ロ八號
21) 栗本 東明東大卒,大森病院長青山霊園二種十二號
21) 澤崎 寛制東大卒,病理学,内科学。駒込病院,青山霊園一種イ十號
臨床細菌学。長岡病院長。
22) 斎藤 茂吉東大卒,巣鴨病院医員,長崎醫専教授青山霊園一種イ二號
22) 大鳥 次東大醫科卒・薬物学青山霊園一種イ一號
23) 大野 豊太大野病院長・性病醫,俳諧青山霊園一種イ十號
23) 岡 玄郷明治天皇の侍醫頭,津山藩青山霊園一種イ廿二號
24) 杉田 玄端杉田立卿の養子,蕃書調所教授手傳青山霊園一種イ一號
24) 杉田 盛横濱で開業,震災後,大森の蘭崎庵に住す青山霊園一種イ一號
24) ユリウス・スクリバ東京帝國大學名誉教師・外科青山霊園外人墓地
24) フリッツ・スクリバ日本醫科大學教師青山霊園外人墓地
25) 佐藤 進順天堂第二代吉祥寺文京区駒込
25) 佐藤 恒久帝國大學醫科卒,順天堂副院長吉祥寺文京区駒込
25) 佐藤 健醫學博士吉祥寺文京区駒込
25) 佐藤 篤海軍軍醫大佐醫學博士吉祥寺文京区駒込
26) 大澤 謙二東大生理学教授吉祥寺文京区駒込
26) 西郷 吉義陸軍軍醫監・侍醫・宮中顧問官吉祥寺文京区駒込
27) 賀古鶴所陸軍軍醫監・耳鼻科・森鴎外の親友吉祥寺文京区駒込
27) 橋本 節齋小石川病院長・新内科全書の著者吉祥寺文京区駒込
28) 澤 弌醫文學者,済生學舎に學ぶ吉祥寺文京区駒込
28) 石津 寛東大卒,軍醫少佐,牛込薬王寺開業,眼科愛染院練馬区春日町二
29) 入澤 達吉東京帝國大學醫科大學・内科教授谷中霊園一種乙第二號
29) 三輪徳寛千葉醫大初代學長・外科谷中霊園一種乙第二號
30) 足立 寛陸軍軍醫監,東京大學醫學部教授谷中天王寺
30) 戸塚 静海幕末洋方三大家の一人谷中天王寺
30) 戸塚 文海海軍軍醫総監谷中天王寺
30) 戸塚 文雄谷中天王寺
31) 佐藤 信圭(泰然)佐倉順天堂谷中天王寺国電線路に沿った崖上
31) 佐藤 尚中谷中霊園一種甲第九號
31) 佐藤 佐東京順天堂副院長谷中霊園乙八號四側
32) 片山 國棟法醫學の祖片山國嘉の實兄谷中霊園事務所前から五重塔までの大通りの右側
32) 奈須 柳村「本朝醫談」の著者,醫史學の先哲
33) 片山 芳林  (よしもと)東大卒,森鴎外と同期。宮内省,侍醫頭谷中霊園片山國棟墓誌の右側を数間入ったところ
33) 片山 荘次駒込病院醫局長谷中霊園片山國棟墓誌の右側を数間入ったところ
34) 石黒 忠悳陸軍軍醫監,枢密顧問官谷中霊園五重塔の前,十字路の角
34) 長谷川 泰済生學舎の創立者谷中霊園一種乙第一號
35) 大野 松齋種痘醫谷中天王寺足立・戸塚両家の墓地に入る途中
35) 大野 恒徳陸軍一等軍醫谷中天王寺足立・戸塚両家の墓地に入る途中
35) 馬島 瑞園會津藩士,馬島瑞伯の門,眼科谷中天王寺戸塚家の墓地の近く
36) 三宅 艮斎三宅秀の父谷中天王寺
36) 三宅 秀西洋醫學所の教授谷中天王寺
36) 三浦 道生福島県下寒村の開業醫谷中五重塔の天王寺より角
36) 三浦謹之助東大教授,三浦内科谷中五重塔の天王寺より角
37) 今田 束東大助教授・解剖學谷中霊園甲種乙第十號廿一側
37) 樫村 清徳私立山龍堂醫院長谷中霊園甲九號九側
38) 浅田 宗伯(栗園)明治漢方界の代表的人物谷中霊園甲種乙第八號十側
38) 浅田 宗叔(棕園)浅田宗伯の長女と婚して浅田を名のる谷中霊園乙七號九側
39) 島村 鼎醫を適塾の緒方洪庵に修めた谷中霊園佐藤尚中墓の近く
39) 島村 俊一帝大醫科大學卒,第一醫院勤務,京都府立谷中霊園佐藤尚中墓の近く
療病院長(英米醫學者)
39) 小林 義直東京養育院治療掛(英米醫學者)谷中霊園甲種乙十三號
40) 高松 凌雲緒方洪庵に學ぶ,函館病院,鶯渓醫院谷中霊園一種乙五號
40) 石川 良信(櫻所)凌雲翁の師,陸軍軍醫監谷中霊園高松家墓地の近く
41) 池田 玄仲幕府の醫官谷中霊園徳川家墓地
41) 池田 謙斎陸軍軍醫監,一等侍醫,東京大學醫學部総理谷中霊園徳川家墓地
41) 青山 胤通帝大青山内科教授谷中霊園池田家墓地と背中合せの位地
42) 今村 了庵明治漢方界の雄谷中霊園甲六號十五側
42) 中村 昌恵岩手醫大の學長藤田敏彦博士夫人の先考谷中霊園乙十三條左五側
43) 林 紀軍醫総監谷中霊園甲種甲第八號五側・五重塔裏手
43) 花岡 真節大學東校当時の桐原真節・内外科兼皮膚科梅毒科教官谷中霊園乙十號九側
43) 前田 元温薩人・明治前後のわが國醫事衛生で活躍した醫家谷中霊園石川櫻所の墓の近く
44) 清水郁太郎東京大學産科婦人科の初代教授谷中霊園甲一號三側小林家墓地
44) 安藤 正胤大槻俊齋・伊東玄朴の門下,大學種痘館醫員谷中霊園入澤先生墓の近く
45) 田代 基徳整形外科學の鼻祖谷中天王寺戸塚・三宅両家の墓地近く
46) 佐々木東洋杏雲堂醫院長谷中霊園一種甲九號
46) 佐々木政吉東洋先生の養子,帝國大學醫科大學内科教授の鼻祖谷中霊園谷中霊園
46) 島園順次郎東大島園内科教授谷中霊園一種甲八號
47) 佐藤 三吉東大佐藤外科教授谷中天王寺戸塚・足立・田代・三宅・大野諸家の近く
47) 樫田亀一郎東大卒,三浦内科,侍醫,日本橋に開業谷中霊園一種乙四號
47) 樫田 五郎東大卒,呉秀三教授の巣鴨病院に精神科を研究谷中霊園一種乙四號
48) 林 洞海幕末の名醫,種痘館設立の一人,大阪醫學校長吉祥寺文京区駒込
48) 伊東玄朴幕末蘭醫の第一人者天龍院谷中三崎町
48) 伊東 方成玄朴の養子,本邦最初の海外留醫生,侍醫天龍院谷中三崎町
49) 榊 綽杉田成卿の塾生,銀板写真や活版石版の鼻祖染井霊園一種イ五號
49) 榊 俶東京帝國醫科大學教授・精神病學染井霊園一種イ五號
49) 榊順次郎産科婦人科病院長染井霊園一種イ五號の隣
50) 榊保三郎九大精神科教授染井霊園一種イ五號
50) 緒方正規東京帝國醫科大學教授染井霊園榊家の隣地

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1)「東都掃苔記(1)」土肥家累代之墓・片山家之墓:『日本醫事新報』第1583号,p.34[3614](昭和29年8月28日)

「東都掃苔記(1)」

2)「東都掃苔記(2)」河本重次郎墓・桐淵家之墓:『日本醫事新報』第1584号,p.66[3730](昭和29年9月4日)

「東都掃苔記(2)」

3)「東都掃苔記(3)」呉家累代墓・宮本 仲之墓:『日本醫事新報』第1585号,p.35[3816](昭和29年9月11日)

「東都掃苔記(3)」

4)「東都掃苔記(4)」宮入家墓・秦家墓:『日本醫事新報』第1586号,p.62[3930](昭和29年9月18日)

「東都掃苔記(4)」

5)「東都掃苔記(5)」藤浪剛一博士の墓・草間家之墓:『日本醫事新報』第1587号,p.30[4018](昭和29年9月25日)

「東都掃苔記(5)」

6)「東都掃苔記(6)」近藤次繁之墓・呉家之墓:『日本醫事新報』第1588号,p.48[4120](昭和29年10月2日)

「東都掃苔記(6)」

7)「東都掃苔記(7)」井上家之墓・遠山家墓:『日本醫事新報』第1589号,p.30[4226](昭和29年10月9日)

「東都掃苔記(7)」

8)「東都掃苔記(8)」太田正雄之墓・長尾家之墓:『日本醫事新報』第1590号,p.50[4330](昭和29年10月16日)

「東都掃苔記(8)」

9)「東都掃苔記(9)」高木夫妻の墓・川村家之墓:『日本醫事新報』第1591号,p.28[4428](昭和29年10月23日)

「東都掃苔記(9)」

10)「東都掃苔記(10)」山谷家之墓・中泉家之墓:『日本醫事新報』第1592号,p.54[4538](昭和29年10月30日)

「東都掃苔記(10)」

11)「東都掃苔記(11)」八代家之墓・南家之墓:『日本醫事新報』第1593号,p.30[4634](昭和29年11月6日)

「東都掃苔記(11)」

12)「東都掃苔記(12)」菅沼家墓・荒井實之墓:『日本醫事新報』第1594号,p.50[4738](昭和29年11月13日)

「東都掃苔記(12)」

13)「東都掃苔記(13)」眞鍋家之墓・飯島家諸霊之墓:『日本醫事新報』第1595号,p.28[4836](昭和29年11月20日)

「東都掃苔記(13)」

14)「東都掃苔記(14)」竹内玄同の墓・中泉正軍醫監の墓:『日本醫事新報』第1596号,p.50[4942](昭和29年11月27日)

「東都掃苔記(14)」

15)「東都掃苔記(15)」長與家の墓:『日本醫事新報』第1597号,p.28[5040](昭和29年12月4日)

「東都掃苔記(15)」

16)「東都掃苔記(16)」稲田龍吉墓・久保家の墓:『日本醫事新報』第1598号,p.50[5146](昭和29年12月11日)

「東都掃苔記(16)」

17)「東都掃苔記(17)」高木家の墓:『日本醫事新報』第1599号,p.36[5252](昭和29年12月18日)

「東都掃苔記(17)」

18)「東都掃苔記(18)」北里家之墓・浅川範彦之墓・柴山五郎作之墓:『日本醫事新報』第1600号,p.32[5332](昭和29年12月25日)

「東都掃苔記(18)」

19)「東都掃苔記(19)」後藤新平伯之墓・金杉英五郎之墓:『日本醫事新報』第1601号,p.86[86](昭和30年1月1日)

「東都掃苔記(19)」

20)「東都掃苔記(20)」實吉家之墓・鶴田家之墓:『日本醫事新報』第1602号,p.94[230](昭和30年1月8日)

「東都掃苔記(20)」

21)「東都掃苔記(21)」栗本東明之墓・澤崎寛制墓:『日本醫事新報』第1603号,p.58[326](昭和30年1月15日)

「東都掃苔記(21)」

22)「東都掃苔記(22)」茂吉之墓・大鳥次郎墓:『日本醫事新報』第1604号,p.46[466](昭和30年1月22日)

「東都掃苔記(22)」

23)「東都掃苔記(23)」大野家之墓・岡 玄卿墓:『日本醫事新報』第1605号,p.66[570](昭和30年1月29日)

「東都掃苔記(23)」

24)「東都掃苔記(24)」杉田家の墓・スクリバの墓:『日本醫事新報』第1606号,p.40[664](昭和30年2月5日)

「東都掃苔記(24)」

25)「東都掃苔記(25)」佐藤家の墓:『日本醫事新報』第1607号,p.66[774](昭和30年2月12日)

「東都掃苔記(25)」

26)「東都掃苔記(26)」大澤家之墓・西郷家之墓:『日本醫事新報』第1608号,p.28[856](昭和30年2月19日)

「東都掃苔記(26)」

27)「東都掃苔記(27)」賀古家之墓・橋本家之墓:『日本醫事新報』第1609号,p.42[1002](昭和30年2月26日)

「東都掃苔記(27)」

28)「東都掃苔記(28)」澤 弌氏の墓・石津博士の墓:『日本醫事新報』第1610号,p.14[1156](昭和30年3月5日)

「東都掃苔記(28)」

29)「東都掃苔記(29)」入澤先生の墓・三輪博士の墓:『日本醫事新報』第1611号,p.70[1298](昭和30年3月12日)

「東都掃苔記(29)」

30)「東都掃苔記(30)」足立家の墓・戸塚家の墓:『日本醫事新報』第1612号,p.38[1386](昭和30年3月19日)

「東都掃苔記(30)」

31)「東都掃苔記(31)」佐藤泰然夫妻の墓・佐藤尚中夫妻の墓・佐藤左の墓:『日本醫事新報』第1613号,p.68[1500](昭和30年3月26日)

「東都掃苔記(31)」

32)「東都掃苔記(32)」片山國棟の墓・奈須柳村の墓:『日本醫事新報』第1614号,p.38[1590](昭和30年4月2日)

「東都掃苔記(32)」

33)「東都掃苔記(33)」片山家の墓:『日本醫事新報』第1615号,p.66[1714](昭和30年4月9日)

「東都掃苔記(33)」

34)「東都掃苔記(34)」况翁石黒忠悳の墓・長谷川夫妻の墓:『日本醫事新報』第1616号,p.28[1792](昭和30年4月16日)

「東都掃苔記(34)」

35)「東都掃苔記(35)」大野恒徳の墓・馬島瑞園夫妻の墓:『日本醫事新報』第1617号,p.70[1914](昭和30年4月23日)

「東都掃苔記(35)」

36)「東都掃苔記(36)」三宅家之墓・三浦博士夫妻の墓:『日本醫事新報』第1618号,p.48[2012](昭和30年4月30日)

「東都掃苔記(36)」

37)「東都掃苔記(37)」今田束氏の墓・樫村清徳の墓:『日本醫事新報』第1619号,p.50[2114](昭和30年5月7日)

「東都掃苔記(37)」

38)「東都掃苔記(38)」浅田家の墓:『日本醫事新報』第1620号,p.32[2200](昭和30年5月14日)

「東都掃苔記(38)」

39)「東都掃苔記(39)」島村家の墓・小林義直の墓:『日本醫事新報』第1621号,p.66[2318](昭和30年5月21日)

「東都掃苔記(39)」

40)「東都掃苔記(40)」高松凌雲夫妻の墓・石川櫻所の墓:『日本醫事新報』第1622号,p.46[2418](昭和30年5月28日)

「東都掃苔記(40)」

41)「東都掃苔記(41)」池田家の墓・青山胤通の墓:『日本醫事新報』第1623号,p.64[2536](昭和30年6月4日)

「東都掃苔記(41)」

42)「東都掃苔記(42)」今村了庵の墓・中村家の墓:『日本醫事新報』第1624号,p.52[2644](昭和30年6月11日)

「東都掃苔記(42)」

43)「東都掃苔記(43)」林紀軍醫総監の墓・花岡真節の墓・前田元温の墓:『日本醫事新報』第1625号,p.58[2754](昭和30年6月18日)

「東都掃苔記(43)」

44)「東都掃苔記(44)」清水郁太郎教授の墓・安藤正胤墓:『日本醫事新報』第1626号,p.62[2870](昭和30年6月25日)

「東都掃苔記(44)」

45)「東都掃苔記(45)」田代家の墓・田代基徳夫妻の墓:『日本醫事新報』第1627号,p.48(昭和30年7月2日)

「東都掃苔記(45)」

46)「東都掃苔記(46)」佐々木家の墓・島園家の墓:『日本醫事新報』第1628号,p.62(昭和30年7月9日)

「東都掃苔記(46)」

47)「東都掃苔記(47)」佐藤三吉夫妻の墓・樫田家の墓:『日本醫事新報』第1629号,p.54(昭和30年7月16日)

「東都掃苔記(47)」

48)「東都掃苔記(48)」林 洞海の墓・伊東玄朴父子の墓:『日本醫事新報』第1630号,p.62(昭和30年7月23日)

「東都掃苔記(48)」

49)「東都掃苔記(49)」榊俶の墓・榊順次郎博士の墓:『日本醫事新報』第1631号,p.52(昭和30年7月30日)

「東都掃苔記(49)」

50)「東都掃苔記(50)」榊保三郎博士の墓・緒方正規先生の墓:『日本醫事新報』第1632号,p.114(昭和30年8月6日

「東都掃苔記(50)」

73. 染井霊園:医家墓所掃苔録

♪ 染井霊園は,明治5年(1871)11月28日に染井墓地として開設された神葬地で, 明治7年(1873)9月1日,共葬墓地となりました。神葬地としては,染井のほかに,青山,雑司ヶ谷,深川がありました。昭和10年(1935)5月に名称が染井墓地から染井霊園に改められ,現在は東京都公園協会(TOKYO霊園さんぽ)によって管理されています。

♪染井霊園は,もと播州(ばんしゅう)林田藩主・建部(たけるべ)内匠頭の下屋敷跡で、面積67,911㎡,都営霊園の中では最も規模が小さい霊園です。春になると、園内には,江戸時代,この辺りにあった染井植木屋によって品種改良された染井吉野桜が咲き乱れます。染井霊園があった染井村は、染井吉野桜の発祥地です。

♪都立霊園の墓地には墓域毎に「住所」がついています。東京都染井霊園事務所で入手できる「染井霊園案内図」(東京都公園協会発行)にも、この「住所」が載っています。

♪有名人のお墓の場所は、霊園内の案内図に載っているのですが、医家のお墓の掲載はありません。そこで拙宅が近くにあることもあり、医家のお墓をお参りさせていただきながら、染井霊園に眠る医家達の墓石の位置を特定してみることにしました。

♪以下に記載してある墓石の位置は、実地調査をして、霊園内の各所に建っている「住所」を示す標柱をもとに作成しました。

染井霊園医家墓所案内図(堀江幸司作成)

♪染井霊園に眠る医家達は、そのほとんどが東京帝国大学医学部の出身です。地方から東京に出て帝国大学に入学、のち教授となり、お墓を染井の地に求めた方も多かったようです。その方々が、名古屋帝国大学医学部(名古屋大学医学部)、千葉医科大学(千葉大学医学部)、昭和医学専門学校(昭和大学医学部)などとも関係しています。

♪また染井霊園には、東京大学医学部の草創期に活躍した人物だけでなく、順天堂医院の創立に貢献した人々のお墓もあります。

染井霊園医家関係図(1)(堀江幸司作成)
染井霊園医家関係図(2)(堀江幸司作成)

参考文献

(1)染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.

(2)染井霊園:医家の名簿を探る② 榊俶・田口和美.医学図書館 1996:43(3):361-368.

(3)『東京掃苔録』(藤浪和子著 八木書店 1973)(本書は昭和15年刊行された図書が再刊されたもの)

(4)「東都掃苔記」(題目一覧)(PDF)記事PDF

(「東都掃苔記」は、漢方医で医史学者であった安西安周(あんざい・やすちか)(筆名・杉野大澤)が昭和29年(1954)から昭和31年(1956)にかけて週刊誌『日本醫事新報』に連載したものです。)

染井霊園に眠る医家の方々(名前の50音順)

(医家ではありませんが、 今村有隣、濱尾新、古市公威、三上参次は、東京帝国大学関係者として収録しました。)

(1) 阿久津資生(あくつ・しせい)(1846-1915)(軍医)

(2) 井上元章(いのうえ・もとあき) (1834-1878)(軍医)

(3) 今村有隣(いまむら・ゆうりん)(1845-1924)(東京高等学校教授・フランス語学者)

(4) 大瀧富三(おおたき・とみぞう)(1841-1902)(順天堂設立)・潤家(おおたき・ますえ)(1876-1948)(内科)

(5) 岡田和一郎(おかだ・わいちろう)(1864-1938)(耳鼻咽喉科)

(6) 岡田清三郎(おかだ・せいさぶろう)(1885-1946)(内科)

(7) 緒方正規(おがた・まさのり)(1853-1919)(衛生学)

(8) 緒方規雄(おがた・のりお)(1887-1970)(細菌学)

(9) 尾澤主一(おざわ・しゅいち)(1858-1889)(小児科)

(10) 勝沼精蔵(かつぬま・せいぞう)(1886-1963)(血液学)・晴雄(1916-1985)(衛生学)

(11) 高 良齋(こう・りょうさい)(1799-1846) (蘭学者 シーボルト門下)

(12) 小峰茂之(こみね・しげゆき)(1883-1942)(精神医学)

(13) 榊俶(さかき・はじめ)(1857-1897)(精神医学)

(14) 榊保三郎(さかき・ほさぶろう)(1870-1929)(精神医学)

(15) 榊順次郎(さかき・じゅんじろう)(1859-1939)(産婦人科)

(16) 下條通春(しもじょう・みちはる)(1827-1885)(漢方医)

(17) 下瀬謙太郎(しもせ・けんたろう)(1868-1944)(軍医)

(18) 須田卓爾(すだ・たくじ)(1869-1910)(眼科)

(19) 田口和美(たぐち・かずよし)(1839-1904)(解剖学)

(20) 田口碩臣(たぐち・ひろとみ)(1880-1923)(解剖学)

(21) 高階経徳(たかしな・つねのり)(1834-1889) (明治天皇の侍医)

(22) 高山正雄(たかやま・まさお) (1871-1944) (法医学)

(23) 田中苗太郎(たなか・なえたろう)(1869-1910)(外科)

(24) 坪井信道(誠軒)(つぼい・しんどう)(1795-1848)(蘭方医)・信良(しんりょう)(1825-1904)(静岡病院(藩立駿府病院))

(25) 濱尾 新(はまお・あらた)(1849-1925)(東京帝國大學総長)

(26) 古市公威(ふるいち・こうい)(1854-1934)(工科)

(27) 三上参次(みかみ・さんじ)(1865-1939)(史料編纂)

(28) 水原豊(秋桜子)(みずはら・ゆたか<しゅうおうし>(産婦人科)

(29) 山内豊城(やまうち・とよき)(佐藤泰然と関係)

🌸🌸🌸🌸🌸

(1) 阿久津資生(あくつ・しせい)(1846-1915)

墓石の位置:1種ロ6号5側

阿久津資生肖像

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順天堂医院創立功労者のひとり。阿久津家は下野大田原藩の藩医。弘化3年10月20日生。大正4年9月20日没。軍医として活躍したあと、順天堂の佐藤進院長を補佐。

文献:「東都掃苔記(54)」:阿久津資生翁の墓・阿久津三郎博士の墓. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/be19ea20-8fd2-4c1f-9475-a85f6425f420/328747ce8f8e3008fbe4cf8221f365fa)

(2) 井上元章(いのうえ・もとあき)(1834-1878)

墓石の位置:1種イ5号1側

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は REiPts0Lpmgs6VKON6CeHy12xHWBHk0sytt2f6PNmzKzw9vk54-BxKz5Dc7WAWXlsauQnwdoYEi2ecN7U69IVPkfGvv_Q8r1bBZV0TIJrQ=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IRt117tN0PwKrctbo6qdDSEuQ_hZpQjOtToBDmuHJ6nPQwZhPihuYJJIDyA3DTM6E1acS07VjICAhwZEJg=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 4YXzudATFa_6VdD8mpD5lECyCqUG2FeM9hXfB4B-q4WwRxpx99wF0UCMuALqdFSh8iVxAgKm4egA80hXqw=w1026-h770-rw です

陸軍軍医 旧土佐藩士
碑文のなか:明治十一年十月十一日 四十有四年

記念碑の正面:正七位勳五等井上元章君碑

(3) 今村有隣(いまむら・ゆうりん)(1845-1924)(第一高等学校教授・フランス語学者)

墓石の位置:一種イ2号7側

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は znity7aDDkf8Xjr-J25S_lusKNoRQpepgkc9fPHTkfLSkDFv1M3qb9EznbuWupuMOTFCpOvV_jfgZ4fwxg=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は pwCWH4IW-plR_qUcwRkephap7lEpKjgwzJf5Gi7NeK2k4SsZVwpgP-jGohVtbZXq6AommDNaVvUpXB_BJw=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は KtC-PeEUmISdzL6WQ4oIsrN4iE71TtoTz5OcRayVlB0y3Be1CLZIYfJc8JUK819eMIavIJljNSWrYvZj2A=w578-h770-rw です

(今村有隣の息子の今村新吉は、京都帝国大学京都医科大学精神医学講座の初代教授)

(4) 大瀧富三(おおたき・とみぞう)(1841-1902)・潤家(おおたき・ますえ) (1876-1948)

墓石の位置:1種イ8号3側

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は oCb_bxtz2c6S935R3bMX7u7YYLsXGqK-3o0s7-T_y54l7rzD3pDA23jK3OyiFpwJLnKp0-8uvA2V23pqmw=w879-h660-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は xQOeEpoelVrpkGSVVL-yExC8on7m6FcAd796c8OxMsJwlR1Yjge8YtL1iJG4pi11TQMMWjDVlg-ngsmtaw=w495-h660-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 1-U4ivwErBV2_o0D1tyrupS5QENr15KkDdj9GlY3Fx3kGkLjIiMKDKBKNNgtoFvNjMD_hJmpuYlPCW_ebw=w495-h660-rw です

大瀧潤家(おおたき・ますえ)は佐藤尚中の五男で大瀧富三の養子、駒込病院、順天堂医院内科に務めました。

文献:「東都掃苔記(55)」:大瀧家の墓・大瀧潤家博士の墓. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/72fe2aa8-c632-48bd-8ebb-f52cc32c5174/4a4589cd647412ad33b818ddf44cf634)

(5) 岡田和一郎(おかだ・わいちろう) (1864-1938)

墓石の位置:1種イ4号8側
正 面:岡田家之墓
右側面:昭和二十二年三月改造建立 岡田徳子 登

墓 誌:東京帝國大學名譽教授 正三位勲二等醫學博士 天祥院殿名譽昭和鐵山大居士 岡田和一郎 昭和十三年五月三十日薨去 行年七十五才

岡田和一郎(肖像)

東京帝国大学医学部教授・耳鼻咽喉科学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 3UksxG31atZyjyrF2s_ckFmovWvLQkQRD-j9P8EaUrf9wfq5EKg7mO-CdMZF8DJkVxDAZ0ACBW0j191KHm08684OJGt6rsAaorDmgUjglw=w1026-h770-rw です

墓域内に「岡田先生遺徳碑」があります。(題額は若槻禮次郎)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Okadahi-1.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は OkadahiRGB.jpg です

(6) 岡田清三郎(おかだ・せいさぶろう)(1885-1946)

墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:岡田家之墓
右側面:昭和二十二年三月 改造建立 岡田徳子 登

墓 誌:名古屋帝國大學教授 正三位勲二等醫學博士 眞性院清譽覺月淨光居士 岡田清三郎 昭和二十一年三月十日薨去 行年六十二才

岡田清三郎(肖像)

千葉医科大学第二内科教授・名古屋帝国大学教授・昭和医科大学理事・消化器内科。墓域内に「岡田清三郎先生記念碑」があります。

(7) 緒方正規(おがた・まさのり)(1853-1919)

墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:東京帝國大學教授正三位勲一等醫學博士緒方正規墓
背 面:法号顕正院釈規眞居士 嘉永六年十一月五日於熊本縣八代郡川俣村生 大正八年七月三十日於東京薨去 行年六十七歳

緒方正規(肖像

東京帝国大学医学部教授・衛生学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 044-1.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 041-4.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 035-2.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 026-1.jpg です

8) 緒方規雄(おがた・のりお)(1887-1970)

墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:緒方家之墓
右側面:覚證院釋仁信居士昭和四十五年二月六日俗名規雄

千葉医科大学教授・帝国女子医学専門学校教授・日本歯科大学教授・細菌学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Ogata-Masanori1-1.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Ogata-Masanori2.jpg です

第7回[仙台・昭和8年]と第8回[大阪・昭和9年]の日本医学図書館協会総会に千葉医科大学の附属図書館長として参加。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 第7回協議会(東北)昭和8年集合写真.jpg です
第7回協議会集合写真(東北・昭和8年)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 第7回協議会集合写真名前一覧.jpg です
第7回協議会集合写真名前一覧(東北・昭和8年)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 緒方規雄集合写真(第8回総会・大阪帝国大学昭和).jpg です
第8回協議会集合写真(大阪帝国大学 昭和9年)
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 緒方規雄集合写真名前.jpg です
第8回協議会集合写真名前一覧(大阪帝国大学 昭和9年)

(9) 尾澤主一(おざわ・しゅいち) (1858-1889)

墓石の位置:1種イ5号32側正面:醫學士尾澤主一之墓
裏面:明治廿二年六月廿一日

尾澤主一(独逸伯林留学中の集合写真より)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は OyXAdnCJxtMazh1DrJ7PG7P0ynfLYq6X__ARj48N-wDyF9RFx2T4pfgATHWruF5q6pt-UX-Nj5_0Xi2ud3LF9QX1SO1fdJPnrcw9GtV0Ow=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は -lG8PWZhGtp9tCAfm8v91y5RwhCslbMN7iWneK2DuY6H4D9OzSFY8PPUpmoFSMDXehpgMOA2Z5UgRlXnWHh0VhPgb0sc9Qd4XyyN_XVvzw=w578-h770-rw です

尾澤主一は、同じ染井霊園に眠る田口和美(解剖学)らと独逸伯林に衛生制度見学ため派遣されたことがありました。その時の集合写真が、『石黒忠悳 懐旧九十年』(昭和十一年 石黒忠悳著)に載っています。尾澤主一の隣りには隈川宗雄、後ろには江口襄、北里柴三郎が写っています。森林太郎、中濱東一郎、河本重次郎、山根正次、片山國嘉、濱田玄達の顔を見えます。

尾澤主一は、帝国大学医科大学で小児科を担当していましたが、任を辞してまで留学するのですが、この独逸留学の帰途、病を得て、清国上海の旅館で亡くなります。明治22年(1889)6月21日のことでした。32歳の若さでした。(参考図書:『明治二十一年六月三日 鴎外「ベルリン写真」の謎を解く』(山田光夫著 講談社 2012))

「明治二十一年 於伯林 医学関係者」(出典:「石黒石黒忠悳 懐旧九十年」)

(10) 勝沼精蔵(かつぬま・せいぞう) (1886-1963)

墓石の位置:1種イ4号19側
正 面:勝沼家之墓
背 面:昭和三十一年十月建之

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 勝沼家の墓.jpg です

息子の勝沼晴雄<1916-1985>は東京大学医学部公衆衛生学教授・医学部長、杏林大学副学長

(11) 高 良齋(こう・りょうさい)(1799-1846)

墓石の場所:1種イ3号1側

高良斎(肖像)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は sFcERb1XGYPtFk2lh6xk0lusOhdEne3FlcIRZrYVJd0_ZxEA3V4QN19p9pXnUDmorB44rY41JVHgNCkR0g=w578-h770-rw です

蘭学者。寛政11年(1898)5月19日、徳島城下助任村(現在の徳島県常三島町)に生まれる。シーボルトについて医学(眼科)を学ぶ。

(12) 小峰茂之(こみね・しげゆき)(1883-1942)(精神医学)

墓石の位置:1種イ4号20側

小峰茂之肖像

幣原喜重郎の墓の裏手にあたります。墓域には、「保證責任東京醫師建築信用購買利用組合」の献燈が一対、置かれています。

小峰茂之:明治16年(1883)生れ。昭和17年(1942)1月10日没。王子脳病院院長。小峰病院院長。

王子脳病院 (東京府北豊島郡滝ノ川西ヶ原899)は、現在の北区立飛鳥中学校(北区西ヶ原3-5-12)の辺りにありました。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は BDNWT_GfEQNpwkGLWhTHbgIo5GWhJ231MwC1LVQ80vUWzhx-GWDMxeawy55nPYokg6VGXXcVyPm_SB-M_YXrnCuEVOIh4XheyoYbTjdO4w=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は ZndClU2LL836APVsZBd6tJqts9mT-yf85VG73jFbYJpbv6rWyYp6h3-EgeZQRIVySzv4q3OEDYrRv8oIxFUkB6TI4QfzK69UYAgStpNCPw=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は w29qnynvV99Q8x0BAMUqIVcrUEd_W75Y_mBoMvvuqq5a02Wbqe0XVsB3eDS2hJkp-W-pg9pws3X6xTWVNi3quL5s4UM4AbJzzDaPLSaLbA=w578-h770-rw です

(13) 榊俶(さかき・はじめ)(1857-1897)

墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:東京帝國醫科大學教授従五位醫學博士榊俶墓
右側面:高樹院顕譽光徳俶睿居士
左側面:明治三十年二月六日歿 享年四十一

東京帝国大学医学部教授・精神医学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は %E6%A6%8A%E4%BF%B6-300x292.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Sakaki-Hosaburo-1.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Sakaki-Hajime.jpg です

(14) 榊保三郎(1870-1929)(さかき・ほさぶろう)

墓石の位置:1種イ4号8側
正 面:榊家之墓
右側面:従四位勲三等醫學博士文學博士昭和四年三月十九日歿 栴檀院殿精譽不撓永保居士 榊保三郎 享年六拾歳

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は %E6%A6%8A%E4%BF%9D%E4%B8%89%E9%83%8E001.jpg です

九州帝国大学医科大学教授・精神医学

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Sakaki-Hosaburo-1.jpg です

(15) 榊順次郎 (さかき・じゅんじろう)(1859-1939)

墓石の位置:榊俶のお墓に入る墓道の手前(二葉亭四迷のお墓と墓道を挟んで斜め前)

榊順次郎(榊病院長・産婦人科) は榊俶の弟。別家。(関連:第47回参照

(16) 下條通春(しもじょう・みちはる)(1827-1885)

墓石の位置:1種ロ2号4側

下條通春は、松本藩御殿医。下條康麿は、政治家・統計学者。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は ZPT1UfOOgFB3-fLbez833ib24gbGgMXoVIduj2pgAyOHYwcXqimD2bqdYz_aB2n3Dgsd9sSpN_QgMsWZtw=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は xr_iUD457O2_9tPtvEb-Hn0RqC8Q8ZV0v46LNcyuuqf7ZmoxTQvVGitbWgntmb0-6Y1oRgMc6pt8CNX4mA=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は tcsWLKOY_9KsNe8ALp7djclfW4F0_u2QhMKZdakuiDPt6o9sjJQ4Bt3GFzXxSyyHxyEF8af4eU3xsh8trA=w578-h770-rw です

(17) 下瀬謙太郎(しもせ・けんたろう)(1868-1944)

墓石の位置:1種ロ12号

墓石の正面:下瀬家之墓

墓石の裏面:昭和五年五月二十一日改修 豊後高田下瀬氏

このお墓は、昭和5年(1930)、下瀬謙太郎自身によって改修されたものです。

墓誌:下瀬謙太郎 昭和十九年三月二十九日 行年 七十六才

下瀬謙太郎(肖像)

陸軍軍医監、陸軍軍医学校長(19代)。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は U_hZFtyBJ-X-By0Hq5gD1i2xdY506lC9rWOPgRdV3qWR9gM3QgCLk9Ob1mmBE8RDSn4ywyXR7wj6vAC0Avb_tNLZdRcvnE5Nz1uxWqi5ng=w578-h770-rw です

文献:「東都掃苔記(66)」:下瀬家の墓. https://www.evernote.com/l/ALRk6ECCBTdFbpxQHC605tX7vO73eZSXxys/

(18) 須田卓爾(すだ・たくじ)(1869-1910)(眼科)

墓石の位置:1種イ1号11側

須田卓爾(肖像)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は bU0ods31ssEkHBvBeRCCcRPYnJ_amhl4Uek27XGSnf3gkeL7QPjuanxeue-3EBvcAWLWrwpYHJe3xv4AZTxZGIuxedF3k5g3cVTOQzdFuQ=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は j0QDsP9WrEKYEQYI-s-Tkr1OSKE2Bhp6fzqQZ-CENdKGoycXfmsPRQvEmWv1MHTLCK8S53cuWInnnCXuvE3-lF5nlhtx2F5crrA79kGoaw=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は vGIAetNFqohEtCin9d7kBzibxrev86uEXX1WguVB9fR6pvSuyAvkpOB9qn93dwS6d9to5RVPN4zglth5DDT3nn-gLRJgj0j4AvdJZf6qFg=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Vi9LQzTdScTZubOiDKWaBi5Tf273UbQZtQBsetnfcxDONbZq-dvAfYJ0TDPVAjILV6VdJri3umufXb45-d5trcGDkCeCET6F0VB7chDffQ=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は mNklclCwAsRywy7szOsR2D-lWGxf-L4xoUYqZYvKt0Mx50sttkRrZyczPfgNXsZZr6hLJaPfUl3gDHm5F0jXAUaA5CzlbXxBVvf055gkog=w578-h770-rw です
「須田卓爾先生墓誌」

明々堂眼科として知られた春日町の須田家の墓。「須田卓爾先生墓誌」の冒頭には、以下のように刻まれています。

先生ハ信州高遠内田文皐ノ長男明治二年九月廿九日生ル、同廿二年第二高等中学校醫學部卒業 須田哲造ノ養嫡子トナル 同年独逸國ニ留學シ「ドクトルメディチーネ」ノ學位ヲ得 同廿九年帰朝シ家業を継承シテ明々堂眼科醫院長トナル

墓道を挟んで、ちょうど田口和美の墓と向かい合っています。染井通りにつながる霊園の正面から入り、霊園事務所横の墓道を進むと左手に階段のついた墓域があります。そこが、須田家の墓域です。生垣が、きれいに整備されていました。

文献:「東都掃苔記(53)」:須田氏の墓 (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/a288b009-c48c-49b4-a6c3-53a68bc85b83/1da011f87ee4f40f98538f2598607b2d)

(19) 田口和美(たぐち・かずよし)(1839-1904)(解剖学)

墓石の位置:1種イ1号12側
正 面:正四位勳二等醫學博士田口和美墓

東京帝国大学医学部教授・解剖学教授

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Taguti33.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 011.jpg です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 008-2.jpg です

(20) 田口碩臣(たぐち・ひろとみ)(1880-1923)(解剖学)

墓石の位置:1種イ1号12側(田口和美と同じ墓域)
正 面:正四位勳四等醫學博士田口碩臣墓 室 田口ツル墓
右側面:皎月院殿淨誉碩臣大居士 大正十四年九月三十日歿 行年四十六歳
左側面:貞照院慈光妙鶴大姉 昭和二十六年五月廿八日歿 行年六十歳

千葉医科大学(千葉大学医学部)・解剖学教授

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 008-2.jpg です

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は bMmJkY0rF5o-mQFRsrQ2qkhSArij3u3tR94OX7aOcNu5BVnwLioFk6tsxMQEpQo_K9rzgvbUoaFg0dpKxJ3lT1NETERsaR9ggyP-dJgQ5w=w578-h770-rw です

(21) 高階経徳(たかしな・つねのり)(1834-1889)

墓石の位置:1種イ3号1側
墓石の正面:高階家之墓
墓石の裏面:昭和六十二年十一月吉日 施主 高階経和建之

京都出身。明治天皇の侍医。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 1QQ13_aLXAAy8kxw39e7hceN0SLcSoQKiMzLGQSidnTUhB10gevIvuXCVGDJAzCL_DWJGgDQSrqrZj5HjEN_YrOEDaj1JqW6IUeKkdV6Ug=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は TTgAulXp0ygdNQAKF50NXIT8pJFYK0sPcKT7gDO-k2UzuQPdb-M3OKVKBpyBLcweIRmelff1ymWQ6JnlmCMz85KKmBdqk1GAeXXuVON37g=w578-h770-rw です

(22) 高山正雄(たかやま・まさお) (1871-1944) (法医学)

墓石の位置:1種イ12号3側
墓石の正面: 高山家累代之墓
墓石の裏面: 明治四十五年七月八日建立 醫學博士 高山正雄

右側: 高山正雄 昭和十九年十月十日歿 行年七十四歳

高山正雄(肖像)

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は FKc5WSNLjmQxaIx_5dtsHDZtk-jzc4VYoJ8qGmjG76jSvajNW16WQwwCx3h3kZX0lkadATUMCELpO7XORQ=w578-h770-rw です

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は Lr3KWB7QdUT1veTvd2QXCkzpYhzE75M4MjUbzfkjNZsqMlqsu8Kib3P1vA7HPZeCq8HQQQtPw0FZ2WLerw=w578-h770-rw です

明治32年(1899)、東大助教授となり、同36年(1903)独逸に留学し、同39年(1906)に帰朝。京都帝國大学福岡醫科大學教授(現在の九州大学医学部)(法医学を担任)。夫人は中濱東一郎の長女。九州帝国大学医科大学教授総長 長崎医科大学学長

文献:「東都掃苔記(58)」:高山正雄博士の墓・菅野徹三氏の墓・田中苗太郎博士の墓. https://www.evernote.com/l/ALR4DRWyexVF7Jqg0_TnG6JHSelIMgGpVCs/

(23) 田中苗太郎(たなか・なえたろう)(1869-1910)

墓石の位置:1種イ12号1側

田中苗太郎(肖像)

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この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は sSdoxlMKBIZcdrx2dNVVS53-TEvYofzhK-stlDRCMsLw2_DnTV1QUDOrAgi5T-HxCzb0NXSJ_VBjubVViw=w578-h770-rw です

永楽病院外科医長を務め、明治39年(1906)には、鹿児島病院長兼外科医長嘱託。病を得て、明治42年(1909)に鹿児島病院長を辞し兵庫県西宮で療養後、明治43年(1910)に上京。同年12月15日、本郷千駄木町で逝去。享年42歳。

文献:「東都掃苔記(58)」:高山正雄博士の墓・菅野徹三氏の墓・田中苗太郎博士の墓. https://www.evernote.com/l/ALR4DRWyexVF7Jqg0_TnG6JHSelIMgGpVCs/

(24) 坪井信道(誠軒)(つぼい・しんどう)(1795-1848)(蘭方医) ・信良(しんりょう)(1825-1904)(静岡病院[藩立駿府病院])

墓石の位置:1種イ8号6側
正  面:誠軒先生之墓
左側面:墓誌
裏 面:墓誌

没年月日:嘉永元年(1848)11月8日(54歳) 緒方洪庵の師。

坪井信道が、はじめ葬られた浅草誓願寺は,田島山快樂院と号し,浄土宗江戸4ケ寺の一つで天正18年(1590)相模小田原に創建されたお寺です。のち江戸に移り,神田白銀町(須田町)を経て,明暦大火後,寛文元年(1661)浅草田島町に移っています。

誓願寺の子院には,坪井信道の墓のほかに,小野蘭山,宇田川榛斎などの著名人の墓が数多くありました。のち誓願寺は多磨霊園近くに移転し,坪井信道,宇田川榛斎の墓も多摩霊園(府中市多磨町4丁目)に移されています。

『東京掃苔録』(昭和15年刊)によると,坪井信道の墓は,多摩霊園の第五区乙三側と記載されていますが,その後,現在の染井霊園に改葬されたようです。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は lIuHMeArL8qYYoJdTcZ_Br-GDj2RbUYV5v1EQteMBDNqkGT0LCy8xTkSCUMWfsiI1GbQgqb31jCUs-3rFQ=w441-h660-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は gm8eeK4S-Kl5yclK8IhEhAMmMrIHKvpgoQtC-yag6TBnARXmo1nVVOcplPHmEGufGrUFY_vhrHBNx5oZcA=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は AX61-fDP3aHusJgE1FOGXYKBCugfJ-zUT5cAOR3JiPDtVKyHUkCWpx_fpr28zwMLD-HQy22c4Lrz3bFh5w=w578-h770-rw です

坪井信良墓(墓域の正面)

墓石の位置:1種イ8号6側
正 面:坪井信良・與能子之墓
側 面:坪井信良略歴・墓誌
背 面:後妻與能子墓誌

坪井信良は、坪井信道の養子で、静岡病院(藩立駿府病院)では、戸塚文海とともに副院長を務めた人物です。

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染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.

(25) 濱尾 新(はまお・あらた)

墓石の位置:1種イ4号1側
墓石の正面:従一位勳一等子壽濱尾新墓 室作子


没年月日:大正14年(1925)9月25日(77歳)

「濱尾子爵略歴・葬儀概況」(学士会月報)第451号. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/a20065f4-02cf-4a81-b188-37e10a48faff/8da0b07cf9c3699cc25e3bfe17d89624)


東京帝國大學総長(明治26年)、枢密院議長(大正13年)

濱尾新の銅像が東京大学本郷構内にあります。

(26) 古市公威(ふるいち・こうい)(1854-1934)

墓石の位置:1種ロ6号8側

墓石の表面:工學博士男爵古市公威墓 室 幸子墓

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は zgqbEL6wfwLIw3ZdKkWQ8ZXS70diQDADOmxlg_I_OfE2c8fmo-QuWsCnv1ndXGSO8Y5f7n2ppCdv9aFuCRUe5u12YeSXLIK9OTxK7QgkGA=w578-h770-rw です

帝国大学工科大学初代学長:東京大学本郷構内に銅像があります。

(27) 三上参次(みかみ・さんじ)(1865-1939)

墓石の位置:1種イ13号1側
墓石の正面:三上参次 室晴子 墓
墓石の側面:崇文院殿三長明観大居士 昭和十四年六月七日薨 享年七十五

史料編纂所掛事務主任、東京帝國大學文科大學教授。「明治天皇記」を編纂。貴族院議員。 医科大学で皮膚泌尿器科教授をつとめた宇野朗とは姻戚関係。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 13KEzXuu1EhcY_XHVVLNabnMNuyg294IeCgexycM61YFbd5K5nwyOmIBuuLOCa3369hPzqJplctjrpycdqVZRS39ZUknz5uNcRhdhwZovw=w1026-h770-rw です
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(28) 水原豊(秋桜子)(みずはら・ゆたか<しゅうおうし>)(1892-1981)

墓石の位置:1種イ3号1側
正 面:水原秋桜子 妻しづ之墓
裏 面:昭和五十六年十月 水原春郎建之

昭和医学専門学校教授・産婦人科学・俳人「ホトトギス」で活躍、「馬酔木(あしび)」を主宰

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は r8TEmeZ8aGVElEB_LmKiAOlW4yn9le58uqFLyVLVavVAdcCDp13yfkJz7BTu1ON9tY0QWwwQa29lZGhqc2UlBMCCN2hPOIMVGrijuxOpHQ=w1026-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は DRNOXJAizrfgo6rGOrYbWeQPaL7EthZHMMCMgDfCoXEF38l4zjw6mV-O6HS-ibzQz5iNmEb-XkE_-6YqpA=w1026-h770-rw です

(墓石には水原秋桜子と刻まれていますが、墓域内にある墓誌には、水原豊<昭和五十六年七月十七日八十八才>と本名が刻まれています)

(29) 山内豊城(やまうち・とよき)

墓石(五輪塔)の位置:1種イ1号19側

山内豊城(やまうち・とよき)の妻(河端清子)の妹が、佐藤泰然の妻。山内豊城と佐藤泰然は、義兄弟の関係。山内堤雲(ていうん)(六三郎)(箱館戦争、のち開拓使)は豊城の3男。山内恭彦(たかひこ)(東京帝国大学理学部)は孫。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は P1kxXAbaBgpJPquF96GnNSRSG12Xy2WFbILFkkbdvr1XLJtHSm7lQYu_TvNPjaXEW1Siuw-lcytz3ViydQ=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は S8oEr5JVnoIfi_JWbam27HnWVUA55YO7FtC1ZYCvrDhqrX6HgMlTaWu19k-6RJmVPFevdz7c8BwPL5XF9g=w495-h660-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 8TjLsJSKDXshTYW68J0-I7zwkG2p54fiuQb1CfiA5JaZ_M8rEi0MUB9LpnJyMzgWi7c4HwRhjRxgvGa1IQ=w578-h770-rw です
この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は e08F5cTYNf2puR-VHDu46QovBl5sRcmhcggYUW2v2cYIz3Wv97_Y-_HYp-XfmHWVCfx-_EC16rI92mK2ww=w578-h770-rw です

(平成14年7月28日 記) (令和元年[2019]9月6日 追記)

72. 池田京水のお墓を探す

場所:東京都雑司ヶ谷霊園(1種10号1側)

(はじめ向島の嶺松寺(れいしょうじ)に葬られたが、のち染井墓地を経て雑司ヶ谷墓地に遷された[森鴎外による調査])

雑司ヶ谷鬼子母神(絵葉書)

♪少し医学図書館員らしいことを考えてみました。森鴎外が情熱を傾けて探した池田京水のお墓の所在についての調査です。

♪まず、鴎外が探索した年は、大正のはじめのことですから、昭和15年(1940)に発刊された『東京掃苔録』(藤波和子著 八木書店 昭和48年再刊)には、収載されているのではないかと思い調べてみました。載っていました。それによると池田京水のお墓は雑司ヶ谷墓地(豊島区)にあるとありました。

♪『東京掃苔録』の雑司ヶ谷墓地の池田京水の項には、以下のように記述されています。

 「池田京水(醫家)名大淵、通稱瑞英。瑞仙の男。種痘を以て知らる。著書痘科學要、痘科曾通等あり。天保七年十一月十四日歿。年五十一。宗經軒京水瑞英居士。」

♪次にインターネット上でも、調べてみました。『ルーツを訪ねて 江戸の疱瘡醫 池田京水とその一族』(中尾英雄著 平成7年)という書籍がありました。

自費出版図書館(2016年閉館)で所蔵しており、郵送での借り出しが可能なことがわかりました。送られてきた図書によると、著者の中尾英雄氏は、池田京水の子孫にあたる方で、父方の祖母(中尾喜代氏)が、京水の孫であるとのことです。

(令和元年[2019]8月 弘南堂書店[札幌]より入手)

♪中尾英雄氏は、文藝春秋に連載された松本清張の「二医官伝」を読んで、祖母の実家「池田家」について書かれていることを知り、池田家ルーツの探究をスタートさせ、ついに、池田分家の墓と円柱状の石碑(四世痘科京水池田瑞英先生門人誓書埋蔵之表)が、雑司ヶ谷霊園の1種10号1側(後掲写真参照)にあることを突き止めています。

♪実際に池田京水の墓域を発見したのは、探募の調査に協力していた中尾氏の友人(出版社勤務)であったそうです。雑司ヶ谷霊園を散策していて偶然に円柱の形をした石碑が目に入り、それが池田京水に関係するものであることに気づいたとのことです。

♪また、のちに長尾氏は、池田本家のお墓を谷中霊園(乙9-14)に発見しています。これには、東京大学総合図書館の「鴎外文庫」に収載されている「池田氏事蹟」(森鴎外が執筆のために調査したことをまとめた手稿)のなかに「谷中墓地管理者茶屋金子」と記載があったのが手がかりとなったとのことです。

池田分家の墓を発見 pp.109-112. 池田本家の墓見つかる pp.113-115.

東京大学総合図書館所蔵 鴎外文庫本書入本画像データベース

(平成14年(2002)7月23日記)(令和元年[2019]8月16日 追記)

🌸

♪平成14年[2002]7月21日(日)に豊島区立中央図書館に雑司ヶ谷霊園関係の資料を探すために行ってきました。『豊島の墓(著名人の墓 その2 雑司が谷霊園)(豊島あちらこちら 第9集)』(東京都豊島区教育委員会 昭和58年)をみつけたあと、中尾英雄氏が参考にした「二医官伝」[『松本清張全集 64 両像・森鴎外』(文藝春秋刊)]を見てみることにしました。(「ニ医官傳」は、雑誌「文藝春秋」に連載されたあと「両像・森鴎外」と題して出版された。)

♪いろいろ探索しているうちに『伊澤蘭軒』(『鴎外全集』 第17巻 収載)の「その二百十八」以降に池田京水のお墓の所在の手がかりとなる記述があることがわかりました。「その二百二十」に二世全安の話しとして、次ぎのようにあります。

 「嶺松寺(れいしょうじ)の廢せらるるに當つて、二世全安は祖父京水の卑屬(ひぞく)たる池田分家並に又分家の両家の諸墓を処分せしめ、一石を巣鴨共同墓地に立てて「池田家累世之墓」と題した。・・・・・然らばわたくしが巣鴨に尋ねて往つた時、亳も得る所なくして帰つたのは何故であつたか。墓地の管理をする家の女は、わたくしに墓には皆檀家あり、檀家に池田氏なきを以て答へたのであった。そして女はわたくしを欺かなかった。二世全安は嘗て一たび池田両分家の合墓を巣鴨に立て、後又これを雑司谷共同墓地に徙(うつ)した。わたくしの巣鴨に往つたのは此遷徙(せんし)の後であった」

♪この鴎外の記述を読んで、疑問に思ったことがあります。まず、鴎外は『渋江抽齋』(『鴎外全集 第16巻 収載』)のなかでは「染井共同墓地」と表記をしているのに、なぜ、ここでは「巣鴨共同墓地」として染井ではなく巣鴨の地名を使っているのか。これは、染井共同墓地の住所(場所)が、北豊島郡巣鴨町であったためと思われますが、ちょっと不自然に感じました。鴎外は、谷中共同墓地のことを上野共同墓地とも書いています。

♪さらに二世全安(まさやす)(池田分家入婿・京水の孫あぐりの夫)が、嶺松寺(れいしょうじ)(向島)にあった池田京水のお墓を、「染井共同墓地」に遷したあと、どのような理由で、再度、お墓を「雑司谷共同墓地」に遷したのかという疑問です。「染井共同墓地」と「雑司谷共同墓地」とは、距離的にも、そんなには離れている訳ではありません。鴎外が大正5年(1916)の正月に「染井共同墓地」を訪ねて、お墓が発見できなかった時に、他の共同墓地(谷中・雑司ヶ谷・青山など)は、調査の対象にならなかったのか・・・。そんな疑問も浮かびました。

♪幸い、雑司ヶ谷霊園は、職場からの帰り道にあたります。資料も揃いましたので、近々、池田京水の墓域を確認しに行ってこようと思います。

(平成14[2002]年7月23日 記)(令和元年[2019]8月18日 追記)

🌸

♪雑司ヶ谷霊園は、おおまかにいうと首都高速の護国寺の出入口がある交差点の池袋寄りの所にあります。霊園からは、サンシャインビルがよく見えます。

東京都雑司ヶ谷霊園前の小篠坂

♪都電荒川線(三ノ輪橋―早稲田)の「雑司ヶ谷」駅で降りて行くことができます。霊園に入ってみて、騒々しい霊園だと感じました。霊園の中には、車道が走り、空には高速道路が丸見えです。墓道にも、雑草が生え、霊園全体の手入れもあまり行き届いていないようにも思いました。

 ♪中尾英雄氏の著書にあった池田京水のお墓(池田分家のお墓)の住所(1種10号1側4)を頼りに、霊園内を歩きました。途中、「塩田家之墓」の墓石が、なぜか目に入り、たぶん塩田広重先生(東京帝国大学教授・附属医院長・日本医科大学長・外科学)のお墓ではないかと思いました。墓域内をみると東京大学医学部塩田外科門下生が昭和41年(1966)5月に建てた顕彰碑が建っていました。

塩田広重墓(雑司ヶ谷霊園)1
塩田広重墓(雑司ヶ谷霊園)2

♪池田分家のお墓と「四世痘科京水池田瑞英先生門人誓書埋蔵之表」の石碑は、霊園の中を走る「いちょう通り」に面してありました。ブロック塀に囲まれて墓域が整備されています。それぞれの墓石は、湮滅が激しく墓石に刻まれた文字がよく確認できないところもありました。石碑の右隣に「池田家代々墓」がありましたが、二世全安が「巣鴨共同墓地」に建てたという「池田家累世之墓」との関係はわかりませんでした。

雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(1)
雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(2)

雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(3)
雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(4)

雑司ヶ谷霊園 池田分家墓域(5)

♪雑司ヶ谷霊園には、竹久夢二、夏目漱石、永井荷風、泉鏡花、小泉八雲、成島柳北、島村抱月などのお墓のほかに、医家のお墓も点在しています。少し涼しくなったら、雑司ヶ谷、鬼子母神界隈を散策して美味しい珈琲店を探したいと思います。

(平成14年[2002]7月30日 記)(令和元年[2019]8月18日 追記)

71. 森鴎外と染井共同墓地


♪森鴎外は『渋江抽齋』(『鴎外全集』[岩波書店] 第16巻 収載)の中で、染井霊園についてふれています。「抽齋の痘科の師となるべき池田京水(いけだ・けいすい)」の墓を探す経緯が書かれています。

 

青空文庫:『渋江抽齋』

その十七

「わたしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の初になった。・・・嶺松寺(れいしょうじ)の廃せられた時、其事に與った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家が無かったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井共同墓地であった。・・・しかしわたしは念晴しのために、染井へ尋ねて往った。・・・墓にまいる人に樒(しきみ)や線香を売り、足を休めさせて茶を飲ませる家で、三十計の怜悧(かしこ)そうなお上さんがいた。わたくしは此女の口から絶望の答を聞いた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然(せいぜん)たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中うちには池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。

「それでも新聞に、行倒(ゆきだお)れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の往いく所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払とりはらいになって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁はんばくを試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣やる人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは切角(せっかく)尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合うけあい申しますから。」こういって女は笑った。
 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容いれずに引き返した。

♪『大正五年日記』(『鴎外全集』 第35巻 収載)を繰ってみると、鴎外が染井共同墓地を訪ねたのは、大正5年(1916)の1月10日(月)[晴。 白雲。]だったことが、わかりました。『渋江抽齋』を「東京日日新聞」に連載し始めるが、1月13日(木)のことですから、その前に、染井共同墓地を訪ねたことになります。

♬染井霊園の正面入口の横に「山田屋本店」(休憩案内所)と「信照庵本店」(御案内所)があります。鴎外もここに立ち寄っていろいろ訊ねたのでしょうか。

 

染井霊園入口(染井通り)
染井霊園入口にある山田屋本店
染井霊園入口にある信照庵

 

♪その時、鴎外はどの道筋を通って染井共同墓地にきたのでしょう。 当時、鴎外は、本郷千駄木の観潮楼に住んでいましたから、団子坂上から本郷通り(岩槻街道・旧日光御成道)に出て右折、吉祥寺前を通り、上富士前を過ぎ、現在の六義園染井門のある駒込橋交差点から分岐する染井通りに入ったと思います。

♪その日は、前夜からの雨も上がり、暖かい日和だったようですが、どんな仕度をしてやってきたのでしょう。染井植木屋が多くあった染井通り(江戸時代からいまに残る道)には、まだ、お正月の雰囲気が残っていたかもしれません。いろいろと当時のことを想像するだけでも興味がつきません。

♪「江戸東京」の散歩の機会に、森鴎外が探した池田京水のお墓を探索してみたいとおもいます。

染井霊園入口から見た染井通り 画面奥が、六義園の染井門方向で、本郷通り(旧岩槻街道)に繋がる。

本郷通りを歩く(堀江幸司著)

(平成14年7月20日記)(令和元年(2019)8月26日 追記)

70. 東京都染井霊園:ローダスカ・ワイリックのお墓 :Gravestone of Loduska J. Wirick (1856-1914) She is buried in Somei Cemetery, Toshima-ku, Tokyo.


 

染井霊園:東京都豊島区駒込5-5-1

♪染井霊園を正面入口である染井門(駒込駅方面口)から入って,霊園事務所横の墓道を左折して巣鴨門方面に向かうと,染井吉野桜で囲まれた休憩広場があります。

♪この休憩広場には,ベンチが置かれ,春のお花見のシーズンになるとシートが敷かれて,宴会が行なわれます。また,老人会によるゲートボールも,この休憩広場で行なわれます。散歩した今日は,さわやかな秋の日差しが葉陰をつくり,お年寄りがベンチでおしゃべりに興じていました。

♪休憩広場の横を通って,ややしばらく行くと,左側に外人墓地の一角があります。ここにも,染井吉野桜の大木が何本かあり,幹から枝が血管のように伸びています。

♪この外人墓地の辺りを散策していたら,平成13年(2001)初秋に染井霊園によって建てられた「東洋のナイチンゲール ローダスカ・ワイリック 永眠の地」の標柱と説明板があることに気がつきました。お墓(石碑)の石柱の部分に「ローダスカ・ワイリック先生之碑」,台座の部分に「WIRICK」と刻まれています。

♪墓石の形にもいろいろありますが,ローダスカ・ワイリックのお墓は,とくに美しい形をしています。教会の説教台の上に聖書を開いて置いた形となっています。「ローダスカ・ワイリック先生之碑」の文字の上には,菊の紋章のようなものも彫られています。西洋的な概観の中に日本的なデザインがよく調和しています。

 ♪ローダスカ・ワイリック(Loduska J. Wirick)(1856-1914)のお墓の横の墓道に説明板が建てられています。記録のために,その全文を書き写しておきます。

 ロダスカ・ワイリック(1856-1914)

 アメリカ合衆国オハイオ州に生まれ,1890年(明治23)ドレイク大学を苦学して卒業。直ちに宣教師として来日,5年間にわたり伝道活動に携わり,一時帰国。翌1896年再び来日し,教会を開いて伝道に努める一方,学習院や府立四中(現在の都立戸山高校)等で英語を教えたり,多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した。また,当時偏見の強かったハンセン病施設で患者の世話をしたり,四ッ谷鮫河橋スラム街での奉仕活動にも尽した。日露戦争(1904-5)が始まると看護婦と医師の資格を有するワイリックは戸山の陸軍病院に赴き病床から病床を回って負傷兵を励まし,献身的な看護に当たった。
 いつしか,「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになり,日本政府や東京府からも表彰された。人類愛と奉仕活動に尽くした信念の人ロダスカ・ワイリックは1914年(大正3)4月30日東京赤坂の病院で死去。享年五七歳。ここ染井霊園で永遠の眠りに就く。

 ♪この説明板の中に「都立戸山高校」「戸山の陸軍病院」が出てきます。昼休みの散歩をかねて,都立戸山公園には,四季の花々を撮影しによく出かけますが,今後は,ワイリックの足跡を訪ねて,国立国際医療センター(旧陸軍軍医学校跡地:都立戸山公園箱根山地区)の周辺も調査したいと思います。

(平成14年11月7日 記)(平成22年10月1日 リンク訂正・英文タイトル追加)(令和元年8月8日 追記)

69. タムソン夫妻の墓 (Gravestone of DAVID THOMSON and His Wife : MARY PARKE) They are buried in Somei Cemetery, Toshima-Ku, Tokyo, Japan.

染井霊園内の外人墓地墓道の先が巣鴨門の方向

墓石の場所:染井霊園内(外人墓地)

住 所:東京都豊島区駒込5-5-1

♪平成22年(2010)10月2日(土)の午後,染井霊園の外人墓地にタムソン夫妻のお墓を探しに行ってみることにしました。昨日までの雨は止み,やっと,秋らしい気配が感じられる気候になってきました。

♪職場からの帰り,地下鉄都営大江戸線の春日駅で,都営三田線に乗り換え,巣鴨駅で下車。まず,旧中山道(巣鴨地蔵通り商店街)沿いにある「とげぬき地蔵尊」(高岩寺)にお参りしてから,「お地蔵さま」の山門の前の路地を入ったところにある青森屋さんで,いつもの「シソ漬にんにく」を買いました。ここの漬物は,国産で,おいしくて,もう何年も通っています。お店のおばさんの応対にも,なかなか,味があります。

巣鴨地蔵通り商店街:青森屋(漬物)

♪今日も,「お地蔵さま」の境内の横の路地にあるカレーうどんの古奈屋さんの店前には,行列ができていました。ここが本店なのですが,小さなお店です。ずいぶん,お洒落に改装されていました。最近では,東武百貨店(池袋東武レストラン街スパイス)や六本木ヒルズなどにも支店ができるほどの人気店となっているようですが,残念ながら,まだ,古奈屋さんのカレーうどんを味わったことはありません。なにしろ,いつも,順番待ちの行列が,路地を埋めているのです。

♪古奈屋さんの前の路地を抜けると,白山通りに出られます。そこの横断歩道を渡ったところに,各地から「お地蔵さま」にくる観光バスが止まる駐車場があります。

♪江戸時代には,もちろん,白山通りはなかったわけですから,駐車場のところまでが高岩寺こうがんじの敷地でした。白山通りができたことによって,高岩寺の境内が分断され,飛び地となった場所を,「高岩寺駐車場」として利用しているようです。その駐車場の裏手一帯が,染井霊園です。

♪白山通りは,関東大震災後に旧中山道のバイパスとしてつくられた道路です。「お地蔵さま」の境内は,旧中山道(巣鴨地蔵通り商店街)と白山通りに挟まれているわけです。

♪森鴎外が,池田京水のお墓を探しに,染井共同墓地に足を運んだのは,大正5年(1616)1月10日のことでした(関連 第29回 第30回 第31回 第32回)。タムソンが亡くなったのは,大正4年(1915)のことですから,森鴎外は,その翌年に,染井霊園を訪ねたことになります。

♪そのころの染井共同墓地の周辺は,染井吉野桜の木々とともに,緑の多い場所でした。墓地の裏には,巣鴨御薬園跡(関連 第19回第20回)が広がり,藍染川の水源の長池の面影も,まだ,色濃く残っていたと思われます。森閑とした墓地の姿を想像しながら,染井霊園の巣鴨門から墓道を進みました。外人墓地は,墓道をまっすぐ進むと右手にあります。

♪外人墓地のなかで,タムソン夫妻のお墓は,すぐに見つかりました。ワイリック女史のお墓(関連 第66回 第67回)の並びにありました。外人墓地の区画に入る入口の右手にワイリック女史,左手にタムソン夫妻の墓石がありました。

聖書の形をしたワイリック女史のお墓

 

タムソン夫妻と娘・Mamie(二女)の墓

 

♪染井霊園の外人墓地の区画は,青山霊園の外人墓地のように広くはなく,埋葬されている方も,そんなに多くはないようです。

♪キダー女史(Anna H. KIDDER)(1840-1913)(米国バプテスト教会宣教師)(駿河台女子英和学校)のお墓(宣教師アンナ エッチ キダー之墓)や,キング技師(Archibald KING)(1848-1886)(英国人・造船 工部省工学寮 石川島平野造船所技師)のお墓(SACRED TO THE MEMORY OF ARCHIBALD KING)も,この外人墓地内にあることがわかりました。タムソン夫妻のお墓をお参りさせていただきながら,染井霊園に眠る外国人の方々についても,調べてみたいと思うようになりました。

♪タムソン夫妻のお墓には,次のように刻まれていました。

表 面

生必死雖者我信曰蘇耶

DAVID THOMPSON

BORN 1835-DIED 1915

MARY PARKE

HIS WIFE

BORN 1841-DIED 1927

DAVID THOMPSONとMARY PARKEの墓碑

裏 面

我□者命生我者生復曰蘇耶

Mamie

Mamie(タムソン夫妻の二女)の墓碑

 

♪タムソンの妻となったメアリー・パーク(Mary E. Parke)(1841-1927)は,明治6年(1873)に長老教会派遣の宣教師として来日し1),翌明治7年(1874)5月12日にタムソンと結婚。築地居留地内に新榮女学校(B六番女学校)(女子学院の前身)を設立し,布教と教育に尽力しました。

 

♪タムソンは,明治9年(1876)8月1日に東京築地居留地の42番地(495坪)を金768円64銭で借り受けています。(国立公文書館デジタルアーカイブ:『東京築地居留地調』の25頁を参照)

♪明治11年(1878)9月20日には,築地居留地内に東京日本基督公会(のちの新榮教会)を創設します。この場所(京橋區築地明石町27番地)は,明治38年(1905)に至って聖ルカ病院(聖公会)に転売されることになります。タムソンは3年にわたって移転交渉を進め,東京日本基督公会は,京橋區新榮町1丁目12番地に移ることになるのです2)。ミッションの決定だったとはいえ,天塩にかけた教会の移転は,残念なことであったでしょう。

築地居留地にあった立教中学校高塔(六角塔)(立教大学の前身)

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♪墓石の裏面にも,筆記体で文字が刻まれています。大分,風化して薄くなっています。「長老・改革教会来日宣教師事典」1)で調べたところ,このお墓には,9歳で亡くなった二女のMamieも葬られていることがわかりました。タムソン夫妻とMamieの親子が眠っています。

♪タムソンの日本昔噺の英訳「MOMOTARO」は,自分の3人の娘たち(Ruth Rea, Mamie, Grace Colquehan)に読み聞かせることも目的のひとつであったのかもしれません。異国の地で,子供を育て,教育することは,並大抵のことではなかったのではないでしょうか。

♪タムソンは,大正4年(1915)10月29日,新宿角筈102番地の自宅で亡くなり,葬儀は,タムソンが創立した築地新榮教会で,11月1日に行われたそうです。

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♪お墓の脇の染井吉野桜の葉陰からこぼれる日差しには,まだ,夏の力が残り,湿った空気も漂っていました。この染井吉野桜は,幹も太く,枝は,大動脈から分岐する血管のように空に向かって伸びています。

♪タムソン夫妻のお墓を辞し,榊順次郎など医家のお墓をお参りしながら,墓道を進みました。井上元章(もとあき)(陸軍軍医正)(1種イ5号1側)のお墓の前を通ったとき,木下凞(京都療病院初代院長)と親戚関係にある下瀬謙太郎(陸軍軍医学校長)のお墓のことを思いました。下瀬謙太郎のお墓(下瀬家之墓)(一種ロ12号2側)も,この染井霊園にあります。

♪ふと,本郷森川町にあった本郷基督教会3)のことが,頭に浮かびました。

♪「碌山と小石川の教会」4)という論文と「基督教会(ディサイプル)史」5)にワイリック女史と本郷森川町教会の記述があることを思い出しました。この本郷森川町教会は,本郷基督教會とも呼ばれ,森川町幼稚園が併設されて,現在の本郷郵便局の裏あたりにあったようです。本郷基督教會は,明治27年(1894)秋,日本家屋の集会所としてつくられたのが始まりといわれています。

♪本郷森川町は,木下凞が大正2年(1913)に京都から東京に移り,晩年を過ごした場所です。また,明治学院大学出身で,明治22年(1889)高輪台町教会で洗礼をうけた島崎藤村にも関係のある場所でもありました。

♪本郷界隈には,「本郷教会」と名のついた教会がいくつかあり,そのなかで,長老派の「本郷教会」は,明治11年(1878)9月4日に,タムソンが初代仮牧師(在任:明治6年[1873]-明治13年[1880])となって創立されました。この「本郷教会」(大正3年当時の所在地:東京市本郷區本郷4-43)は,戦災にあい,戦後,杉並の上荻(東京都杉並区上荻4-25-5)に移転し,今日に至っています。献堂式は,昭和25年(1950)8月6日に行われました。木下正中,下瀬謙太郎も,「本郷教会」の会員でした6)。

♪大学南校(現在の東京大学)にも関係したタムソンは,「ちりめん本」を片手に,神田・本郷界隈を歩いていたかも知れません。

♪タムソンが,「日本昔噺」(Japanese fairy tale series)の第1号として「桃太郎」(MOMOTARO : MOMOTARO or Little peachling)を英訳したのは,明治18年(1885)のことでした。「日本昔噺」の英訳出版にタムソンやヘボンが協力した理由が,いろいろ,想像されます。

参考ホームページ:「日本昔噺」(Japanese fairy tale series)のデジタル・アーカイブス:

放送大学附属図書館:ちりめん本コレクション

 

♪所属した教会は違っても,キリスト教伝道のために異国に生きたワイリック女史とタムソン夫妻は,横濱上陸後,それぞれ,どのような人生を横濱居留地,築地居留地,そして本郷・小石川・角筈・赤坂界隈で過ごしたのでしょうか。

♪異国で生涯を終え,3人の宣教師が,染井霊園の外人墓地に葬られた経緯を考えながら,霊園事務所脇の染井門(正門)を出ました。

♪外人墓地の染井吉野桜の大木に咲く桜の季節が思われます。染井霊園に流れる東洋と西洋の時間を感じながら,染井通りを六義園方向に歩き,家路に就きました。

 

参 考 文 献

1)「長老・改革教会来日宣教師事典」中島耕二・辻 直人・大西晴樹共著.新教出版社,2003.(日本キリスト教史双書)

2)「百年の恵み 日本基督教団新榮教会史」本田 清一編.日本基督教団新栄教会,1973.

3)「番地入り信用案内・大日本職業別明細圖之内 本郷區」(東京都文京区立真砂図書館で閲覧可能)

4)喜田 敬:「碌山と小石川の教会」聖学院大学論叢 18(3):211-237, 2006.

5)本郷基督教会.「基督教会(ディサイプル)史」(秋山 操著 基督教会史刊行委員会 1973)pp.416-421.

6)「本郷教会史(1878-1978) 100周年」長尾 史人著.日本基督教団本郷教会,1979.

(平成22年10月10日 記す)(令和元年6月21日 訂正・追加)

68. 日本の昔話を英訳:「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」(縮緬ちりめん絵本)を出版したヘボン(J.C. Hepburn)とタムソン(D. Thompson)


♪ヘボン(Hepburn, James Curtis)(1815-1911)(米国長老派宣教師・医師)(明治学院大学初代総理,1889-1891)1)2)3)が東海道・神奈川宿4)5)(現在の横浜市神奈川区神奈川本町付近)の成佛寺(じょうぶつじ›(飯田町)(横浜市神奈川区神奈川本町10-10)の本堂に住み始めたのは,安政6年(1859),44歳のときのことでした2)6)。

♪神奈川・箱館・長崎・新潟・兵庫の5港が開かれた年にあたります7)8)9)。この年には,シモンズ(Simmons, Duane B.)(1834-1889)(米国改革派教会宣教師・医師)10)も来日して宗興寺(そうこうじ)(青木町)(横浜市神奈川区幸ヶ谷10-6)に居住しました。宗興寺は,文久元年(1861)にヘボンが施療をはじめた場所でもあります11)。

♪成佛寺と宗興寺は,権現山の麓,滝ノ川沿いにあり,成佛寺には,もとオランダ領事館がおかれていました。滝ノ橋を挟んで,神奈川本陣と青木町本陣がありました12)。

♪成佛寺は,東海道から分岐した飯田道に面していました。「神奈川驛中圖會(文政6年[1823])」13)の(飯田町 成佛寺の圖)をみると,本堂と庫裡,そして,その周囲の建物の配置がよくわかります。「神奈川驛中圖會(文政6年[1823])」には,「宗興寺之圖」も描かれています。宗興寺は,東海道を滝ノ川に沿って上がった湊町・青木町にあり,船舶の真水を確保するための大井戸がありました。この井戸水は,ヘボンやシモンズの施療に役立ちました。

♪成佛寺の場所は、『金川砂子』の「神奈川方角圖」でも確認できます。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 神奈川方角圖-1-1024x708.jpg です

『金川砂子』の「神奈川方角圖」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション

参 考:

明治学院歴史資料館:東京都港区白金台1-2-37

横浜開港資料館:横浜市中区日本大通3

♪長い船旅を終え,ヘボンが神奈川湊に到着したのは,安政6年(1859)10月17日の夜。湊にはオランダ,英国,米国,仏国の各国の軍艦が停泊していたそうです。 上陸したのは,18日になってからと言われています2)。

♪安政6年(1859)といえば,「安政の大獄」の年にあたります。米使ペリーが浦賀に来航9)した嘉永6年(1853)から6年目。「安政の大獄」では,小濵おばま藩の梅田うめだ雲濱うんびんも,獄死しています。まさに,幕末の動乱の時代に,ヘボンは,海外伝道のため,強い信仰の心を持って日本にやってきたのです。

♪そのころの神奈川宿の周辺は,田園風景に囲まれていました。歌川広重は,『神奈川 台の景』(東海道五十三次)のなかで,坂道の途中に並んだ茶屋街や神奈川湊に浮かぶ和船を描いています8)。薹街から望む江戸湾の景色は,絶景だったようです。江戸湾の遠浅の白砂,海岸沿いの青松。古きよき時代の日本の湊の風景が,そこには,ありました。「細見神奈川絵図」(天保15年[1844])(神奈川県立歴史博物館)をみると、神奈川湊の沖合に「鯛活ス」とあります5)。

♪ヘボンは,田園風景を好んで,よく散歩をしましたそうです2)。いまでは,横浜に新田があったことなど,想像もできません7)。

♪神奈川宿は,京都から119里(約467㎞),江戸まで7里(約27㎞)の宿場町で,神奈川湊をもっていました。神奈川湊の『横の濱』が横濱村でした4)。神奈川湊(渡船場)と横濱波止場との間には,渡しの船がありました。

参 考:

横浜市歴史博物館:横浜市都筑区中川中央1-18-1

♪ヘボンは,成佛寺について,次のように書いています2)。

 「寺の建物は,本堂と庫裡からなっており,わたしは本堂を選びました。庫裡より小さいですが,よく修理すればこじんまりして,わたしどもの住居の習慣と趣味に適するように内部を改造できるのです。屋根は瓦ふきで地面から四フィートで,柱でささえてあり通気がよく,四十二フィート平方の一つの大きい構えで,天井までは十二フィートの高さに紙の障子で,外側は雨戸がしまるようになっております」

♪文久2年(1862),ヘボンが47歳のとき,神奈川宿から江戸へ向かう街道筋の生麦で薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件が起こります。生麦事件です。ヘボンは,このとき本覚寺(アメリカ領事館)で被害者2名(クラークとマーシャル)を治療しています。翌文久3年(1863)には,横濱居留地39番地(646坪)14)15)に新居を建て転居して,新たに施療活動をはじめています。

ヘボン邸(現・横浜地方合同庁舎)(横浜市中区山下町)は、谷戸橋が架かる谷戸川に面していて、グランドホテル(居留地20番地)(現・横浜人形の家のあたり)に隣接し、対岸には、仏国領事館(現・港の見える丘公園)がありました。

ヘボン邸(画面左手の三角形の屋根の家)

♪ヘボンは,施療活動のほかに,和英辞書(『和英語林集成』)(初版 慶応3年[1867] 再版 明治5年[1872])の編纂,そして聖書の和訳に力を注ぎます。横濱にいたバラ夫妻16)(改革派宣教師)とタムソンも協力しています。

♪ヘボンがブラウン(Brown, Samuel Robbins)(1810-1880)(米国改革派教会宣教師)らと聖書翻訳委員社中を結成したのは,明治7年(1874)3月のことでした17)。

♪その前年の明治6年(1873)2月22日には,切支丹禁制が撤廃されていました。ヘボンも,やっと,自由な気持ちで伝道活動ができたことでしょう。日本人のキリスト教の信者も安心して説教を聴くことができ,ヘボンのもとへも通うことができるようになったことと思われます。

♪タムソン(Thompson, David.)(1835-1915)18)は,ヘボンと同じく米国長老派の宣教師で,文久3年(1863)5月18日に来日。ヘボン塾(英学塾)や日曜学校(安息日学校)を助けることになります。

♪ヘボンは,タムソンについて次のように語っています。

タムソン氏も語学研究に着手し,よくやっています。わたしは同氏に到着後,まもなく日本語の教師を世話してやりました。同氏はあるアメリカの商人の息子を教えております。・・・またその奉仕に対してタムソン氏は年二百ドルの報酬を受けることになるので,その金額はミッションの会計を多少うるおすことになるでしょう。タムソン氏はそのほか,わたしどもの礼拝堂で安息日に説教しております。    [文久3年(1863)6月15日 ラウリー博士宛の書簡]

♪タムソンは,横濱では,運上所の英語教師として働き,明治2年(1869)に東京に転じてからは,築地居留地19)に居住して,大学南校の英語教師に就任しています。

♪明治4年(1871)には,海外視察団の通訳兼案内人として各藩と契約して6月23日にアメリカ号で横濱を出港します。国立公文書館に『香川権大参事外一名海外視察人撰上中並米人タムソン同行等伺』(明治4年1月)の文書が残されています。この件に関しては,ヘボンとタムソンの間にトラブルもあったようです18)。

♪この使節団は,岩倉具視を特命全権大使とする派遣使節団より,半年も前に横濱を出港していたことになります。視察団のなかには,のちに沼津兵学校の設立に加わった江原えばら素そ六ろくも静岡から参加していました18)。

♪明治4年(1871)といえば,木下凞が,小濵から上京してきた時期にあたります。「江戸東京」の登場人物が,各地から横濱に集まってきています。杉田武(杉田玄白の子孫)と早矢仕有的の塾で,共に勉学に励んだのも,この時期のことでした。

♪明治5年(1872)5月8日には,横濱―品川(桜木町)間に汽車が開通。一日,6往復の発着がありました20)。当時の時刻表をみると,横濱から品川への所要時間は,35分。陸おか蒸気の威力は絶大で,まさに,時代が,文明開化へと突き進む象徴でした。

♪ヘボンとタムソンの事績を追っているなかで,彼らが日本の昔話を英訳してシリーズ化して出版していることを知りました。「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」です。ヘボンは,医者らしく昔話のなかから「こぶとり爺さん」を選んで,英訳していました。

♪「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」の所蔵調査をしたところ,福生市郷土資料室で,原本を所蔵していることがわかりました。縮緬ちりめん紙に挿絵が木版で刷られ,それに英訳が印刷されたものです。和洋折衷本です。閲覧利用には,問い合わせが必要なようですが,日本の昔話が,どのように英訳されたか,縮緬ちりめん紙の風合いとともに,内容を見てみたい衝動にかられました。

福生市郷土資料室(東京都福生市熊川850-1)(電話 042-530-1120)

縮緬ちりめん絵本:「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」

英訳者:ダビット・タムソン 画家:小林 永濯

No.1 MOMOTARO[桃太郎]

No.3 BATTLE OF THE MONKEY AND THE CRAB [猿蟹合戦]

No.4 The Old Man Who Made The Dead Trees Blossom[花咲爺]

No.5 KACHI-KACHI MOUNTAIN[勝々山]

英訳者:ダビット・タムソン 画家:鈴木 華邨

No.6 THE MOUSE’S WEDDING[鼠嫁嫁入]

英訳者:ドクトル・ヘボン

『瘤取』(OLO MAN & THE DEVILS)

♪縮緬ちりめん本の原本を,一冊くらい持っていたいと思い,古書店のサイトをみてみました。高価すぎました。それに代わる本はないものか,もう少し,Google検索を続けました。

♪宮尾與男氏らが蒐集した「JAPANESE FAIRY TALE SERIES」(全21冊)を底本として『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(全3巻)21)22)23)と題して,平成21年(2009)に彩流社から出版されていることが,わかりました。対訳として日本語訳も,あわせて載せられているようです。

♪自宅近くの図書館で,その所蔵がないかを検索したところ,東京都文京区立本駒込図書館にありました。早速,平成22年(2010)9月16日の午後,借りに行ってきました。

♪『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(は,挿絵の印刷も,大変,綺麗なものでした。装丁も素敵で,見返し用紙も凝っています。ちりめん紙がみを想像しました。ちょっと,久しぶりに,感動的な紙の書籍との出会いでした。

♪『和英語林集成』や聖書の和訳とは違ったヘボンの翻訳の別の側面を知ることができ,医学図書館や病院図書室にも,所蔵しておくべき貴重な絵本だと感じました。

♪デジタル・アーカイブスの時代にあってこそ,紙の印刷物を複製し,後世に残してゆくことも,大切なことです。小学校時代に,絵本がいっぱい置いてある木の香りのする小さな図書室で,先生に読み聞かせてもらった昔話や童話のことを思い出しました。絵本には,記憶に残る色と匂いがあるのです。

♪第1巻に収載されている「舌切雀」は,福生市郷土資料館では,ド-トロミエルの訳述となっていますが,こちらものは,タムソンが翻訳したものでした。

『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(第1巻)(宮尾與男編 彩流社 2009)

  1. 桃太郎 MOMOTARO

(小さな桃の子) MOMOTARO OR LITTLE PEACHLING

  1. 舌切雀 THE TONGUE CUT SPARROW

(舌を切られた雀)THE TONGUE CUT SPARROW

  1. 猿蟹合戦 BATTLE OF THE MONKEY AND THE CRAB

(猿と蟹の戦い)BATTLE OF THE MONKEY & THE CRAB

  1. 花咲爺 THE OLD MAN WHO MADE THE DEAD TREES BLOSSOM

(枯れた木に花を咲かせたお爺さん)THE OLD MAN WHO MADE THE DEAD TREES BLOSSOM

  1. 勝々山 KACHI-KACHI MOUNTAIN

(カチカチ山)KACHI-KACHI MOUNTAI

  1. 鼠嫁入 THE MOUSE’S WEDDING

(ねずみの結婚式)THE MOUSE’S WEDDING

  1. 瘤取 THE OLD MAN & THE DEVILS

(お爺さんと瘤)THE OLD MAN & THE DEVILS

OLO MAN & THE DEVILS

A LONG time ago there was an old man who had a big lump on the right side of face. One day he went into the mountain to cut wood, when the rain began to pour and the wind to blow so very hard, that finding impossible to return home, and filled with fear, he took refuge in the hollow of an old tree.

・・・・

The old man replied, “I have had this lump many years and would not without good reason part with it; but you may have it, or an eye or my nose either if you wish”. So the devils laid hold of it, twisting and pulling, and took it off without giving him any pain, and put it away as a pledge that he would come back.

♪さらに,タムソンの文献を探っていると,タムソン夫妻の墓が,染井霊園にあることがわかりました24)25)。横濱に関係深い榊順次郎の墓(第47回)のある染井霊園に,タムソンの墓もあるとは思ってもいないことでした。

♪木下凞ひろむとヘボンの関係で,調べはじめた横濱26)27)が,染井霊園と繋がってきました。タムソンが亡くなったのは,大正4年(1915)のことですから,同じ年に,榊順次郎は,自家の墓を建てたことになります。

♪染井霊園の外人墓地には,ワイリックの墓があり,その独特な聖書の形をした墓標については,「江戸東京」(第66回第67回)のなかでも紹介しましたが,タムソンの墓石についても,現地調査しておきたいと思います。

♪平成22年(2010)の夏は,東京でも記録的に真夏日が続く厳しい夏でした。今日は,秋のお彼岸の中日。朝から激しく雨が降り,前線からの北風が入って,気温がぐっと下がり,一気に,秋らしくなってきました。秋というより肌寒いくらいです。久しぶりに,染井霊園内を散策してみようと思います。

参考文献

1) 「ヘボン書簡集」高谷道男編訳.岩波書店,1959.

2) 「ヘボン」高谷道男著.吉川弘文館,1986.(人物叢書 新装版)

3) 「ヘボン博士の愛した日本」杉田幸子著.改定新版.いのちのことば社2006.

4) 神奈川宿(街道を行く 東海道 3) pp.14-15.「週刊江戸」No.3 (2010年2月16日発行)通巻第3号,デアゴスティーニ・ジャパン.

5) 「企画展 東海道と神奈川宿」横浜市歴史博物館,1996.

6) 石川 潔:ドクトル・ヘボン神奈川宿での1169日.「明治学院大学キリスト教研究所紀要」第38号,pp.301-350.(2006)

7) 「企画展 江戸時代の横浜の姿 絵図・地誌などにみる」横浜市歴史博物館,1997.

8) 「絵地図・浮世絵にみる開港場・横浜の風景(横浜市歴史博物館 平成二十一年企画展)」横浜市歴史博物館,2009.(横浜開港150周年記念―Part 1)

9) 「瓦版・絵巻にみるペリー来航と横浜開港」横浜市歴史博物館,2009. (横浜開港150周年記念―Part 2)

10)「ドクトル・シモンズ」荒井保雄著.有隣堂,2004.

11)「市民グラフヨコハマ」No.31(特集 ヘボンと横浜)1979.

 第7章 仁術の医師 ヘボンの施療事業(大滝紀雄著)pp.31-35.

 第8章 ヘボンの鼓動を伝える横浜の二教会pp.36-39.

   ヘボンが帰国直前に建てた横浜指路教会(森田恭一郎著)

   日本最初のプロテスタント教会 横浜海岸教会(友野宏弥著)

12)「御開港横濱之全図でみる御開港横浜めぐり」(めぐりシリーズ 10)人文社.(基図「御開港横濱之全圖」安政六年[1859])

13)「横浜市歴史博物館特別展 横浜開港150周年記念 陸の道と海の道の交差点 -江戸時代の神奈川」横浜市歴史博物館,2009.

14)石川 潔:横濱居留地39番でのヘボン.「明治学院大学キリスト教研究所紀要」第39号,pp.247-290.(2006)

15)「図説横浜外国人居留地」横浜開港資料館編.有隣堂,2007.

16)「古き日本の瞥見 -Glimpses of Old Japan 1861-1866」マーガレット・バラ著.川久保とくお訳.有隣堂,1992.(有隣新書)

17)石川 潔:聖書和訳事業で活躍する『医師・ヘボン』.「明治学院大学キリスト教研究所紀要」第40号,pp.95-144.(2007)

18)中島耕二:宣教師デビット・タムソンの生涯 ―誕生から日本基督一致協会の創立までを中心として―.「明治学院大学キリスト教研究所紀要」第35号pp.225-275.(2003)

19)『築地の外国人住宅 -聖路加国際病院の付属外人住宅「ポラバ・バンガロ―」に関する調査報告―』.(中央区文化財調査報告書 第1集)中央区教育委員会,1992.

20)横浜―品川間汽車が開通(5月9日):「『横浜毎日新聞』が語る明治の横浜 第一集(三年~五年)」横浜開港資料館,1987.

21)『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(宮尾與男編)<第1巻> [1.桃太郎 2.舌切雀 3.猿蟹合戦 4.花咲爺 5.勝々山 6.鼠嫁入 7.瘤取](彩流社,2009)

22) 『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(宮尾與男編)<第2巻> [内 容:8.浦島 9.八頭の大蛇 10.松山鏡 11. 因幡の白兎 12.野干の手柄 13.海月 14.海幸彦山幸彦](彩流社,2009)

23)『対訳日本昔噺集 JAPANESE FAIRY TALE SERIES 明治期の彩色縮緬絵本』(宮尾與男編)<第3巻> [内 容:15.俵藤太 16.鉢かづき 17.竹箆太郎18.羅生門 19.大江山 20.養老瀧 21.文福茶釜](彩流社,2009)

24) 「来日西洋人名事典」武内 博編著.日外アソシエーツ,1983.

25)「キリスト教人名辞典」日本基督教団出版局,1986.

26)「写真集 明治の横浜・東京 残されていたガラス乾板から」岩崎与四郎育英会著作.神奈川新聞社/かなしん出版,1989.

27)「横浜と医学の歴史」三杉和章,杉田暉道 編.横浜市立大学一般教育委員会,1997.

(平成22年9月23日 秋彼岸の中日)(令和元年(2019)5月2日 追記)

67. 「長谷川泰翁像」建立される:新潟県長岡市新組地区・大黒農村公園内

 
場 所:新潟県長岡市大黒農村公園内・「北越戊辰戦争伝承館」隣
建立日:平成25年[2013]4月18日

参考地図
GoogleMap:「長谷川泰先生と新組地区」(「長谷川泰を語る会」提供)

♪長谷川泰の没後,大正5年(1916)4月20日,湯島天神境内(湯島公園)に,長谷川泰を顕彰する銅像(座像)が建てられました。(参考連載:第65回

図1.湯島天神境内にあった「長谷川泰先生之像」
(大正5年[1916] 武石弘三郎制作)
(出 典:『柳塘遺影』)1)

♪長谷川泰の唯一の写真集である『柳塘遺影』1)に銅像(図1)と除幕式の写真が残っています。除幕式では,石黒忠悳が祝辞を述べています。

♪銅像は,どこにあったのでしょうか。『柳塘遺影』のなかの説明文には「湯島公園内」とだけ書かれており,公園内の具体的な場所まで記録されていませんでした。

♪それが『湯島公園平面図』の発見で,銅像の場所を特定できました。湯島公園とは,湯島天神境内のことで,銅像は,境内の湯島神社(本殿)の裏手,戸隠神社と稲荷神社の並びにあったことがわかったのです。

♪この長谷川泰の銅像は,戦時中に供出され,戦後は台座のみが遺っていました。その台座も境内の改築によって撤去され,「長谷川泰先生之銅像」の名残は,湯島の地から,消えてしまっていました。・・・

♪長谷川泰の銅像があった場所を探る:湯島天神境内(湯島公園)]を掲載したあとになって,長岡市の新組(しんくみ)地区に「長谷川泰を語る会」[ブログ(長谷川泰先生と新組地区)]があり,長谷川泰の没後100年(平成24年[2012])を記念して新たに長谷川泰の銅像を建立する計画があることに気付きました。

ブログより
湯島天神の銅像
長谷川泰像の台座
長谷川泰翁像の建立が発起

♪早速「長谷川泰を語る会」に連絡したところ,恩田富太氏が,銅像に関する資料と『長谷川泰ものがたり』(企画:長谷川泰を語る会 漫画:おんだちかこ 2011年刊 第2版])を送ってくださいました。

♪銅像の制作者は,彫刻家の峰村哲也氏(東京藝術大学彫刻科・大学院博士課程卒)で,新しい長谷川泰の銅像は,湯島天神境内にあった旧銅像(以下,湯島像)をモデル(基本的なデザインを継承)に制作されるとのことでした。

♪峰村哲也氏は,母子像「生きる」(長岡戦災資料館),「河井継之助銅像」(河井継之助記念館),「良寛さん,あそぼ」(良寛と幼子二人のブロンズ像)(新潟市美術館前の西大畑公園内)などで知られる長岡市在住の彫刻家です。

♪「湯島像」を制作した武石弘三郎(現在の長岡市中之島出身)は,東京美術学校の一期生ですから東京藝術大学卒業の峰村哲也氏とは同窓ということになります。

♪ブログによると制作は,順調に進んでいるようで,新たな長谷川泰の銅像の出来上がりが待たれました。・・・・・・・

[制作進む]長谷川泰先生銅像

♪銅像の除幕式が,平成25年[2013]4月18日(木曜日)午後3時より長岡市大黒農村公園内(「北越戊辰戦争伝承館」隣り)で挙行されるとのご案内をいただきました。4月18日は,山本五十六(旧長岡藩)の命日にあたる日です。

♪除幕式には,参加できませんでしたが,恩田富太氏が,除幕された銅像の写真や資料(パンフレット[図2]・新聞記事など)を送ってくださいました。

図2.「済生救民(長谷川泰翁像除幕式)」のパンフレット
(「長谷川泰を語る会」提供)3)

♪新たに銅像になった長谷川泰先生は,椅子に座り右手に書物を広げています。視線は,書物からは離れて,正面に向けられています。母校の長善館(漢学者・鈴木文薹による私塾)と生家跡を眺めているようです。制作者の峰村哲也氏によると「毅然として先を見据えるたたずまい(気骨・先見性)」を表現したとのことです。(図3)

図3.「長谷川泰翁像」(平成25年[2013] 峰村哲也制作)
(写真「長谷川泰を語る会」提供)

図4.「長谷川泰翁像」(平成25年[2013] 峰村哲也制作)
(写真「長谷川泰を語る会」提供)

♪恩田富太氏のお話によると,銅像の後ろに見える建物が「北越戊辰戦争伝承館」とのことです。(図4)(図5)「戊辰戦争最大の激戦といわれる『八丁沖の戦い』を,農民の目線から伝え残す施設で,「長谷川泰翁像」の建立に先駆け,平成24年(2012)4月にオープンしたそうです。内部には,長谷川泰の展示もあるとのこと、一度は、訪ねたいものです。

図5.「北越戊辰戦争伝承館」(写真「長谷川泰を語る会」提供)
画面の左奥に長谷川泰翁像がある

♪台座には,正面に銘板(長谷川泰翁像 平成二十五年(2013)四月十八日),側面に「済生救民」と題する顕彰文(右側面)と発起人の名前の一覧(左側面)がプレートになって嵌め込まれています。台座の意匠も,「湯島像」の4本柱の雰囲気を継承しています。

台座に嵌め込まれたプレート

(1)済生救民

図6.台座の右側面:「済生救民」(写真「長谷川泰を語る会」提供)

済 生 救 民

  揮毫 石丸雨虹

この地は長谷川泰先生の生誕した所です。
祖先は開拓者であり,子孫は医術で民を救う家系でした。長谷川泰は良寛の慈愛の心と河合継之助の気概に接し医術をもって済生救民の志をたてます。
風雲に乗じ,泰は官に衛生を説き,医師の数が少ないとみるや済生学舎を建てます。
また,病の根源は貧しさであるとし政治家にもなっています。
先見にみちた下水対策など,その業績は日本近代医学に希望の虹をかけたものでした。

(2)発起人一覧

図7.台座の左側面(建立発起人名が刻まれている)(写真「長谷川泰を語る会」提供)

建立発起人代表 新潟県議会員 星野 伊佐夫

長岡市
長岡市商工会議所
日本医科大学医史学研究会
日本医科大学同窓会新潟県支部
北里柴三郎記念会
野口英世記念会
東京女子医科大学
長岡市医師会
長岡中央総合病院
立川メディカルセンター
新潟県医師会
河合継之助記念館
燕市長善館史料館
新潟県生活衛生同業組合連合会
長岡管工事組合
智徳寺
株式会社高陽社


唐沢 信安
殿崎 正明
山本 鼎
大村 智
川村 賢司
吉岡 博光
太田  裕
吉川  明
渡部  透
高野 春樹

丸山  智
小林 弘昌
室橋 一司
稲川 明雄
吉田  勝
西片 正栄
深滝 純一
吉田 直治
平澤 俊一


長谷川泰先生銅像建立委員会
郷土の偉人 長谷川泰を語る会 理事長 恩田利平太 以下会員一同
銅像制作者 峰村哲也

♪越後長岡は,池田謙斎,入澤達吉,小金井良精に所縁の地でもあります。「江戸東京」が「峠」を越えて,越後と繋がってきました。

♪東京都立谷中霊園には、長谷川泰(乙1号7側),池田謙斎(乙11号5側 突き当り奥),入澤達吉(乙7号甲1側)など越後長岡に所縁の先生方のお墓が,東京都谷中霊園にあります。長谷川泰と親交のあった石黒忠悳(甲3号8側)のお墓もあります。同郷の人々は,故郷を想い,それぞれに長谷川泰の銅像の完成を喜んでいるのではないでしょうか。

長谷川泰の墓(1)
長谷川泰の墓
長谷川泰の墓(3)

◇◇

♪詩人・堀口大學(堀口九萬一くまいち[長岡藩出身の外交官]の息子)は,戦後の4年間を高田(現在の上越市)で過ごしたことがありました。この間,良寛に魅かれたようです。「長谷川泰翁像」の姿は,良寛に通じるものがあるように感じます。

良寛さま

心はまどか
 月の輪と

姿は淡し
 けむりかと

(詩:堀口大學)

♪堀口九萬一と武石貞松(漢学者・武石弘三郎の兄)の二人の友情を現した「友情の双像」の胸像が,若宮神社(長岡市中之島長呂)に昭和35年(1960)6月に建立されているそうです4)。

♪この「堀口九萬一 武石貞松 友情の双像」は,「湯島像」を制作した武石弘三郎4)注1)の作で,翌昭和36年(1961)10月には,堀口大學によって撰文が付けられています。いつか長岡市を訪ねる機会があったら,峰村哲也氏の「長谷川泰翁像」とともに見てみたいと思っています。

注 記

注1)武石弘三郎:明治10年(1877)7月28日,新潟縣南蒲原郡中之島字長呂で生まれる。昭和38年(1963)5月11日歿。享年87。墓は,東京都雑司ケ谷霊園(1種9号1側)今年,平成25年(2013)年は,武石弘三郎の没後50年にあたる。

参 考 文 献

1) 『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會発行 昭和9年)

2) 『虹の館―父・堀口大學の思い出―』(堀口すみれ子著 かまくら春秋社 昭和62年)


3) 『済生救民 長谷川泰翁銅像除幕式 平成25年4月18日[大安]』(パンフレット)


4) 『彫塑家・武石弘三郎ノート』(佐々木嘉朗著 昭和60年)

(平成25年10月31日 堀江 幸司 記す)(平成31年4月25日 追記)

66.<余滴>長谷川泰の真影と塑像

♪長谷川泰が亡くなったのは、明治45年(1912)3月11日のことでしたが、百か日にあたり「長谷川泰翁塑像」が彫塑家・牧野國助(当時の住所は東京市本郷區千駄木町272番地)によって製作され頒布(3円50銭)されることになります。

♪雑誌『日本之醫界』(第36号 明治45年7月15日)に「醫傑長谷川泰翁塑像成る!」の広告があり、長谷川泰の真影をもとに作られる石膏塑像の完成イメージ図が載っていました。

♪長谷川泰の真影(最後の写真)は、明治44年(1911)4月に同門の人々270余名が上野公園常盤華壇に長谷川泰を招いて謝恩の宴を催した折、来会者に記念品として贈るために撮影された写真です。長谷川泰の写真集『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和9年)に収載されています。

長谷川泰「最後の真影」(出典:『柳塘遺影』)

「長谷川泰を語る会」のブログによると、この塑像は、新潟県長岡の黒条地区で開業医を務められていた織田さん宅(医院)にも所蔵されていたそうです。

◆◆◆

長谷川泰石膏塑像(胸像)の裏側

♪「長谷川泰を語る会」(新潟県長岡市)の恩田富太さんから長谷川泰の石膏塑像の裏側の写真を送っていただきました。
そこには、「故長谷川泰先生像 牧野國助作」と刻まれていました。現在、この塑像の実物は、織田家(医院)より寄贈され「長谷川泰を語る会」で保管されているとのことです。

長谷川泰石膏塑像の裏面(「長谷川泰を語る会」提供)

(平成31年3月26日 追記)(平成31年3月27日 追記)

65.長谷川泰の銅像があった場所を探る:湯島天神境内(湯島公園)

   
場 所:湯島天神境内の社務所から戸隠神社に続く回廊の辺り。

住 所:〒113-0034 東京都文京区湯島3-30-1

Googleマイマップ:「本郷界隈」

湯島天神(絵葉書)
島公園内の長谷川泰の銅像(絵葉書)(平成26年2月2日 追加)

■『柳塘遺影』(長谷川泰遺稿集刊行會)の銅像写真

♪長谷川泰の銅像については,『柳塘遺影』1)(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和九年)に写真があり,その存在についてはわかっていましたが,どこにあるのか,場所については,写真の説明に「ゆかりの地湯島薹上緑深きほとり」とあるだけで,具体的な記載はなく,はっきりしていませんでした。

♪説明文からは,銅像が武石弘三郎の作で台座の設計が岡田信一郎によることもわかります。武石弘三郎は,東京大学本郷キャンパス内にある教授たちの銅像の制作者でもありました。

出典:『柳塘遺影』:長谷川泰の銅像と説明文


♪『柳塘遺影』には,銅像の除幕式(大正5年[1916]4月20日)の写真もあり,その説明には,「湯島公園に於ける銅像除幕式」との記載があります。この「湯島公園」が,どこなのか,わからないでいました。「湯島公園」と長谷川泰の銅像の場所の調査が進んでいませんでした。

■雑誌論文の別刷をみる

♪文京区立真砂図書館に行った時のことでした。真砂図書館には,地域資料がよく収集されているのですが,そこに「湯島の長谷川泰銅像の顛末(上)(下)」2)というタイトルの別刷が,ファイルされて書棚にありました。雑誌の論文ですから,数頁のものです。このような資料まで収集・整理しておくのかと感心したものです。長谷川泰に関係の深い日本医科大学が文京区内にあり,タイトルに湯島とあるためではないかとも思われました。

♪文献によると長谷川泰の銅像は,湯島天神(湯島神社)の境内にあり,戦時中(昭和19年[1944])に強制供出されて台座だけが残っていたが,その台座も昭和61年(1986)年の夏に神社の回廊が新築されたときに撤去されたとありました。「湯島公園」が湯島神社の境内であったこともわかりました。

♪「湯島公園」の地図でもあれば,もう少し,はっきりと,長谷川泰の銅像の場所を特定できるのではないかと思って探していたのですが,その地図が見つかりました。・・・・・

■「湯島公園平面圖」を発見

♪古書店のサイト(「日本の古本屋」)を検索していたところ「湯島公園平面圖」がヒットしました。早速,問い合わせたところ,本郷の「湯島公園」の平面図だとのこと,興奮して注文しました。

♪はやる気持ちを抑えて,入手した「湯島公園平面圖」3)をみると,「長谷川泰銅像」の位置が,はっきりと,記載されていました。長年の疑問が,氷解した思いでした。銅像と本殿・社務所との位置関係も,確認できました。

「湯島公園平面圖」(縮尺六百分之一 所在地 東京市本郷區湯島天神社境内)

♪長谷川泰の銅像は,湯島天神社境内の切通電車通(現在の春日通り)に沿った台地上(崖上)に建っていたのでした。末社である戸隠神社と稲荷神社の並びの社務所寄りにありました。本郷台地へと繋がる湯島台上の見晴しのよい場所にありました。

■『湯島天神誌』(湯島神社編):付図(湯島神社見取圖 明治十八年)

♪文京区立本駒込図書館も,よく利用するのですが,郷土資料の書棚をみていたら『湯島天神誌』4)(湯島神社編 昭和53年)という資料がありました。そのなかに「湯島公園」についての記述がありました。

♪湯島神社の境内は,江戸時代から物見遊山の盛り場で,「飲食店・矢場・見晴し掛茶屋,見世物小屋などがあって,昼夜を問わず,非常に繁昌していたのを,明治23年(1890)2月7日,境内の約三千坪(崖地を含む)を公園地とした」とありました。

♪国立公文書館のデジタルアーカイブスにも資料がありました。「湯島公園」が正式に東京市の所属となったのは,明治23年(1890)8月12日のことでした。

♪湯島神社が,公園地となったときに,境内にあった飲食店などの建物は撤去され,そこに梅樹・雑木の数百株が植えられたとのことです。戦災後に境内が荒れ果てたときにも,復興を願って植えたのも梅樹でした。

♪長谷川泰の銅像の場所の調査から,湯島天神の梅園の由来がわかってきました。男坂と女坂の間には,楓樹もあったようです。湯島台地・本郷台地からの田園風景が想像されます。不忍池も見通せたのでしょう。

♪本駒込図書館から借りてきた『湯島天神誌』には付録の付図が付いていません。欠落してしまったようです。やはり,付図(境内図)(明治十八年)の付いた完全な『湯島天神誌』も入手しておくことにしました。

♪平成24年(2012)9月19日,『湯島天神誌』を本郷の文生書院から入手しました。付図は,一枚ものの見取図(境内図)でした。明治18年(1885)に本社・拝殿・神饌所が落成した際に作成された境内図のようです。

湯島神社見取圖(明治18年)(出典:『湯島天神誌付図の一部)

♪当時の雰囲気が,十分に伝わってきます。やはり,資料の探索は,散歩と同様に,よいものです。とくに絵地図からは,想像をかき立てられます。

♪戸隠山(地主),末社(イナリ),拝殿・本社の裏手には筆塚も描かれています。当時の拝殿と社務所は渡り廊下で繋がっていませんでした。社殿と社務所との間に廻廊(渡殿)が新築されたのは,明治25年(1892)になってからのことでした。

♪湯島神社境内が「湯島公園」となり,梅園となった経過をみておきます。

明治23年(1890):本社境内飲食店・矢場・見晴シ掛茶屋,其他各種ノ見世物等有之。昼夜ノ繁盛ナリシガ,上申ニ依リ市参事会ノ決議ヲ以テ公園地ニ編入セラレ,右建物悉皆取払ヒトナリ,梅樹・雑木数百株植附ケ,旧裏石坂ヲ更ニ現今ノ地ニ改築シ,又裏廻リ石垣ヲ改築ス,是ニ於テ永続資金トシテ金弐千五百円下渡サル。

明治23年[1890]8月12日:「湯島公園」が東京市の所属となる。

明治27年(1894):総代会及び世話係会の決定により,永続資金で軍事公債(額面弐千五百円)を買入れ,さらに日本銀行へ預け入れられる。

昭和24年(1949):公園地は,湯島神社に返還される。

昭和32年(1957):古梅樹数百本を植え,樹間に芝生を配して大梅園となる。

♪『湯島天神誌』の第51図(p.206)によると,長谷川泰の銅像が置かれていた場所は,見晴台となったようです。いま,その跡地は,回廊となり,春日通り沿いは,マンションだらけで,切通坂にも,昔の景色は感じられません。

♪湯島天神には,子どもの頃,初詣に行っていました。正面の鳥居から続く静かな境内と木造の拝殿,そして渡り廊下の雰囲気が好きでした。

♪男坂・女坂も,ゆっくり,上り下りしたことがありません。今度は,切通坂の方から,夫婦坂を,ひとり,登って,戸隠神社の前に出てみたいと思います。

参考文献・資料

1)『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和9年)

2)「湯島の長谷川泰銅像の顛末(上)(下)」(小関恒雄・尾崎邦雄共著)(「日本医事新報」No.3362[昭和63年10月1日]pp.63-65. : No.3363[昭和63年10月8日]pp.62-63.)

3)「湯島公園平面圖」(一枚もの)(古書店から入手)

4)『湯島天神誌』(湯島神社編 昭和53年)および付図(湯島神社見取圖 明治十八年)(注:付図は一枚もの)

(平成24年9月21日 記す)(平成31年3月17日 追記)