24. 「解躰新書」を出版した「須原屋」の場所(室町二丁目と室町三丁目)

♪杉田玄白(1733-1817)の『解體新書』が出版されたのは、安永3年(1774)のことで、その板元は、江戸日本橋の書肆(本屋)の「須原屋市兵衛(すはらや・いちべえ)」(申椒堂[しんしょうどう])でした1-6)。

♪市兵衛は、江戸の書物問屋の大店である「須原屋茂兵衛」の店で修行し、その後、分家して、店を持ったようです。

♪寶暦10年(1760)『寒葉斎画譜』(全部五冊)(寶暦十年十二月写本留)の願入板元となり、寶暦12年(1762)11月に、その『寒葉斎画譜』(全三冊)の売出板元となっています5)。

♪寶暦12年(1762)といえば、日本最初の解剖書である『蔵志』(寶暦9年<1760>刊)を著した山脇東洋(1705-1762)が亡くなった年にあたります。

♪『享保以後江戸出版書目 新訂版』5)によると、『蔵志』(全二冊)(東京薬科大学情報センター図書館・電子稀覯本所蔵)の板元は、「京 丸谷市兵衛」、 売出しは、「須原や茂兵衛」とあります。『蔵志』と『解體新書』は、「須原屋茂兵衛」で繋がっているようです。

♪さて、本稿の主題は、日本橋にあったという「須原屋市兵衛」の店の住所のことです。

日本橋から室町方向を望む(絵葉書)

♪『近世書林板元總覧』1)によると、市兵衛の住所は、「江戸本石町四丁目、日本橋二丁目(安永三年『解體新書』)、日本橋北室町三丁目西側(同四年『會席料理帳』)となっています。

♪安永3年(1774)は、十代将軍・德川家治(いえはる)の御代(田沼時代)で、市兵衛の歿年は、文化8年(1811)。墓は、浅草善龍寺にあるとのことです1)3)。

♪『享保以後板元別書籍目録』2)によると、市兵衛の店は、宝暦10年(1760)12月から文化10年(1813)12月までの54年間にわたって江戸で店を構えたとあります。同時期に活躍した「須原屋」には、須原屋伊八がおり、安永元年(1772)12月から文化11年(1814)12月までの43年間、店を出しています。

♪今田洋三氏は、著書『江戸の本屋さん』5)のなかで、『解體新書』の原稿を「須原屋」に持ち込んだ杉田玄白の様子をつぎのように書いています。

「安永三年(一七七四)春のある日、杉田玄白が、日本橋室町二丁目の申椒堂須原屋と看板をあげている土蔵造りの本屋にはいった。玄白は、ふろ敷づつみを大事そうにかかえている。玄白は、時どき医学書や和漢書、あるいは小説のたぐいを、この本屋で買っていたし、奥州の片田舎からでてきた医学生の若者を、ここの主人から紹介され面会したりした。玄白の親しい店だったのである。申椒堂の主人は、須原屋市兵衛といった。日本橋を南に渡った通一丁目の江戸一の大書商、須原屋茂兵衛の分家であった。さっそく玄白は奥の座敷に招じ入れられる。ようやくできましたぞと、ふろ敷をほどいて出したのが『解體新書』と題をつけた五冊の原稿であった。」

♪浅野秀剛氏は、著書『大江戸日本橋絵巻「熈代勝覧」の世界』7)のなかで、「須原屋市兵衛」の店の住所について、つぎのように書いています。

「『寒葉斎画譜』を出したときの、市兵衛の住所は、「通本町三町目」で、その後、市兵衛の店は、室町三丁目に移り、さらに、寛政前期に室町二丁目に移転する」

通本町三町目:『寒葉斎画譜』(宝暦12年)

室町三丁目:『安永撰要類集』(寛政元年)

室町二丁目:『明日も見よ』(寛政3年)

本石町四丁目:『外題作者画工書肆名目集』(文化4、5年頃)

♪『熈代勝覧(きだい・しょうらん)』(天)(ベルリン東洋美術館蔵)は、ドイツで発見された絵巻で、文化2年(1805)の日本橋から神田今川橋までの大通り(中山道・日光御成道のはじまり)の町並みを東側から俯瞰する構図で描かれています。この道筋の「室町二町目」に、市兵衛が箱看板を出して店を構えています。この絵巻は、『解體新書』が出版されてから、30年後の「室町二町目」の市兵衛の店の位置を示す、大変、貴重な史料だと思われます。稿を改めて、「須原屋」「すはらや」と水引暖簾が掛けられた店の界隈を見てみることにします7)8)。

♪『解體新書』は、本文4冊(巻之一、巻之二、巻之三、巻之四)と、序圖1冊の全5冊からなる木版本で、「巻之四」の最終頁に奥付があり、「須原屋市兵衛」の店の住所が載っています。「室町二町目」のものと「室町三町目」ものと2通りの住所があることが知られています。どちらも、刊行年は安永3年(1774)です。

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♪各地の図書館でデジタル化(一般公開)されている『解體新書』から、「巻之四」奥付頁の「須原屋市兵衛」の住所を見比べてみることにしました。

「須原屋市兵衛」の住所・広告頁(有無)

(1)東北大学附属図書館医学分館

室町二町目(無)

(2)内藤記念くすり博物館

室町二町目(無)

(3)東京大学医学図書館デジタル史料室

室町二町目(無)

(5)慶應義塾図書館

室町二町目(無)

(6)早稲田大学古典籍総合データベース

室町三町目(有)

(7)国立国会図書館

室町二町目(無)

♪これまでの調査では、市兵衛の店の住所は、早稲田大学蔵本だけが「室町三町目」で、残りのものは、「室町二町目」となっています。また、早稲田大学蔵本には、奥付頁のあとに、広告頁がついています。

♪早稲田大学古典籍のなかでは、「室町三町目」のものが、2冊デジタル化されています。どちらにも広告頁が付いていますが、その広告している書籍が違います。『解體新書』巻末の広告頁の比較と、そこに掲載されている書籍の刊行年などを調べることも「江戸東京」の課題となりそうです。

♪森銑三の著作に『平秩東作の生涯』9)があります。平秩へづつ東作とうさく(1726-1789)は、狂歌師、漢詩人で、平賀源内(1728-1780)とも親交があった人物です。第8章の最後につぎのような記載があります。

「安永四年乙未、東作五十歳。寶暦十二年に生れた総領桃次郎やや長じて、室町三丁目須原屋市兵衛方より奉公へ出てゐたのであるが、この年十四歳になつたので、主家から暇を取って帰って来た。」

♪『平秩東作の生涯』9)でみる限り、安永4年(1775)に、市兵衛の店は、「室町三町目」にあったようです。

♪さらに『享保以後江戸出版書目 新訂版』によると、市兵衛が『解體新書』の出版を、江戸書物問屋仲間行事に発行許可願を出したのは、安永4年(1775)9月27日(板元売出)のことでした5)。このときから、正式に『解體新書』は、広告頁が付いてものが出版され、出回るようになったのではないか。玄白と市兵衛にとっては、広告頁付の『解體新書』を出版できたことは、夢のようなことだったのかもしれません。

♪蘭学者の出版に理解のある市兵衛も、腑分け(解體)の、それも圖入りの翻訳本を出版するわけですから、各方面への気配りも必要で、板木の打ち壊しや処罰の危険にあわないように、それを世に出すためには、慎重を期して、準備を進めたことでしょう。

♪原稿の写本も何部かつくり、奥付の板木も「室町二町目」と「室町三町目」の2種類彫って万一のときに、備えていたのかもしれません。もちろん、本家筋の須原屋茂兵衛にも、相談していたものと考えられます。

♪『解體新書』の板木は、緊張のなかで、彫られ、刷られ、製本されて、厳重に保管されたと想像されます。玄白とともに、板元となる市兵衛も命をかけた仕事であったことは確かなことであったでしょう。

♪玄白は、出版のためには、政治的な動きもしたようです。序文は、幕府の大通詞の吉雄永章(耕牛)(1724-1800)に依頼し、官醫・桂川甫周の名前も入れています。甫周の父は、法眼ほうげんの地位にあった桂川甫三かつらがわほさん(1728-1783)で、その推挙によって、十代将軍家いえ治はるに『解體新書』が献上されます。さらに、京都に住む従弟の吉村辰碩よしむらしんせきを通して、近衛内前このえうちさき(関白太政大臣)、九条くじょう尚実なおざね(左大臣)、広橋ひろはし兼胤かねたね(武家伝奏)にも、献納しています10-11)。

♪後年、『蘭学事始』(文化12年・83歳)のなかで、玄白は、『解體新書』の翻訳・出版の当時を、つぎのように回顧しています10)。

「『解體約図』はすでにできあがり、いよいよ本篇の『解體新書』の方も出版になったが前にも言ったように、『紅毛おらんだ談ばなし』のような本でさえ絶版を命じられた時世である。・・・もしことわりなく出版したら禁令を犯したと罰をこうむるかもしれない。この一点だけはたいへん恐れ、気をもんだ。・・・とにかく翻訳というものを公にする先駆けになってやろうとひそかに覚悟して、決断したのであった。」

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♪『解體新書』の初版本が出版されたとき、「須原屋市兵衛」の店はどこにあったのか。「須原屋市兵衛」の住所について考えてきて、玄白が『解體新書』の出版の前に、前宣伝と反応をみるために、報帖(ひきふだ)として『解體約圖』(解剖圖3枚〔臓腑・脈絡・骨節〕・文章2枚〔序説・人体生理大要〕)を著していること、それを、東京大学がデジタル展示していたことを思い出しました。デジタル化された『解體約圖』の板元の住所は、どうなっているのか。見てみることにしました。

♪『解體約圖』(展示ケース16)の、「須原屋市兵衛」の住所は、「江戸室町二町目」」となっていました。

安永二年癸巳春正月

書肆 江戸室町二町目

須原屋市兵衛板

♪また、『解體約圖』については、調査の結果、『日本の名著 22 杉田玄白 平賀源内 司馬江漢』8)のなかにも、収録されていることが、わかりました。これによると、「須原屋市兵衛」の住所は、「江戸室町三丁目」となっていました。明らかに、東京大学所蔵の『解體約圖』とは、「須原屋市兵衛」の住所が違っています。

安永二年癸巳春正月

書肆 江戸室町三丁目

須原屋市兵衛板

♪『日本の名著』のなかにある『解體約圖』は、緒方富雄編 『解體約図』(複製版 医学書院 1965)からの採録のようです。

♪「江戸室町三丁目」が誤植でないとすると、『解體約圖』にも、「室町二町目」と「室町三町目」の2種類の須原屋市兵衛板があったことになります。

♪この複製版の『解體約圖』の現物を確認する必要を感じました。所蔵調査をしたところ、幸い東邦大学医学メディアセンターで所蔵していることがわかりました。連絡したところ、閲覧を許可してくださるとのご返事。後日、東邦大学を訪問させていただくことにしました。

♪『解體新書』と、その前年に出版された『解體約圖』をみてくると、「須原屋市兵衛」の住所には、双方ともに、「室町二町目」と「室町三町目」の2カ所あることがわかりました。安永2年(1773)には、板元となった「須原屋市兵衛」の店は、「室町三町目」と「室町二町目」に、二店あったとも考えられます。

♪『解體約圖』や『解體新書』が出版された安永の時代から、「須原屋市兵衛」の店は、「室町三町目」と「室町二町目」に、住まいや店舗、あるいは板木を彫ったり摺ったりする関係場所を、数カ所、持っていたのではないか。「須原屋茂兵衛」や「須原屋佐助」(金花堂)との関係はどうであったのか。いろいろな推測が浮かびます。

♪そういえば、須原屋佐助を祖とする和紙の老舗「榛原」が創業したのが、文化3年(1806)。『解體約圖』では3枚の解剖圖(臓腑・脈絡・骨節)を重ねて、透かして見られるようにしたようですが、では、どんな和紙が使われていたのでしょうか。江戸文化の香り漂う日本橋室町界隈を想像します。

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参 考 文 献

1)『近世書林板元總覧』 井上隆明著 (日本書誌學大系 14) 青裳堂書店、1981.(東京都立日比谷図書館所蔵)

2)『享保以後板元別書籍目録』 坂本宗子編 清文堂 1982.(東京都立多摩図書館所蔵)

3)「『解體新書』の板元・市兵衛のこと」 今田洋三著 『歴史地理教育』 247号 pp.46-51.1976.

4)「蔦屋重三郎と須原屋市兵衛:江戸文化を牽引した二大出版社」(竹内 誠)

『東京人』(都市出版)(2007年11月号 no.246 〔特集〕大江戸出版繁盛記)pp.52-57.

5)『享保以後江戸出版書目 新訂版』 朝倉治彦・大和博幸編 臨川書店、1993.(東京都足立区立中央図書館所蔵)

6)『江戸の本屋さん』 今田洋三著 (NHKブックス 299) 日本放送協会、1977.pp.95-108.「二 世界に目をむけた須原屋市兵衛」.

7)『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』 浅野秀剛・吉田信之編.講談社、2003. pp.66-67.「須原屋市兵衛」(浅野秀剛解説)

8)『「熈代勝覧(きだい・しょうらん)」の日本橋 活気にあふれた江戸の町』 小澤 弘/小林 忠著 小学館、2006.

9)『平秩東作の生涯』(『森銑三著作集 第一巻』に収録 中央公論社、1988.)(豊島区立中央図書館所蔵)

10)『日本の名著 22 杉田玄白 平賀源内 司馬江漢』(芳賀徹 責任編集)中央公論社、1984.

11)「日本の医学を一新させた『解體新書』の翻訳」 鈴木由紀子著 田沼時代を生きた先駆者たち. (NHK カルチャーアワー 歴史再発見 2008 10月~12月) pp.86-99.

 

(平成20年11月3日 記) (平成22年6月5日 改訂)(平成29年8月3日 訂正追加)(令和5年1月10日 訂正追加)