♪水原秋櫻子の本名は水原豊といい、明治25年(1892)10月9日、旧神田区猿楽町12番地に生まれました。芥川龍之介と同年です。生家は産婦人科医院を経営し、「二流どころの医院で、門内に桜の木があり、その落花が往来を敷いていた」といいます。
♪「家のあった場所は、現今の都電停留所の神保町と三崎町との中間で、東側である。往来はまだ電車が通っていなかったので幅五メートルほどであったろうか。町名は猿楽町というのであった。」
♪水道橋駅から神保町交差点に向かう白山通りの左側の一帯は、明治のはじめから猿楽町と呼ばれていました。猿楽(さるがく)(のちの能楽)の家元・観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷がこの辺りにあったことから、猿楽町の名が起こったそうです。
♪父の岩橋熊三郎は和歌山の出身で、郷里で代用教員を務めたあと上京、本郷の済生学舎に入って医者になった人物です。産科医・水原実の養子となって漸(すすむ)と改名し猿楽町で産婦人科医院を開業していました。
♪水原豊は、「後年私が俳句を作るようになった萌芽は、祖父(母方・大谷木一(おおやぎ・はじめ))の方から授けられた」と書いています。父の漸(熊三郎)は「一生医師として働きつづけた人で、文芸その他芸術的なことには全く興味を持たなかった」そうです。
父・岩橋熊三郎(水原実の養子となり水原漸と改名)
母・治子(大谷木一の娘)ーーー祖父(旗本・大谷木一[安左衛門])・祖母(みか)
兄弟姉妹
姉:道子
姉:早世
長男:豊(秋櫻子)
弟:滋(しげし)
♪独逸中学(独逸学協会学校中学)で独逸語を学び、二浪して一高に進学、大正3年(1914)、東京帝国大学医科大学に入学しています。卒業後、大正8年(1919)1月、血清化学教室に入り、助手であった緒方益雄(緒方正規の息子 墓は染井霊園)の勧めで「木の芽会」(医学部出身者だけの俳句会)に入会し、俳句をはじめます。この年の4月には、東京師範学校教授・吉田彌平の長女・しづと結婚しています。
♪当時の血清化学教室教授は三田定則で、教室には古畑種基(のち法医学教授)、緒方富雄もいました。
♪大正10年(1921)4月、「ホトトギス」の雑詠欄(虚子選)に投稿した4句が入選し、5月には例会に出席するようになりました。
♪大正11年(1922)、東京大学俳句会を復活し、大正13年(1924)、血清化学教室から産婦人科学教室に移ります。
♪入局した当時の産婦人科教室の主任教授は、磐瀬(いわせ)雄一でした。はじめ分娩病棟に配属され、のち医局長として活躍します。
♪昭和3年(1928)の秋、医局を辞し、震災後に建てた猿楽町のバラックの医院から神田三崎町の都電停留所前に新病院(西神田1-6)を開院することになります。その時、三田教授、磐瀬教授の推薦によって、上条秀介(青山内科出身)と石井吉五郎(佐藤外科出身)によって設立された昭和医学専門学校の産婦人科教授に就任、水原産婦人科病院は、京大で産婦人科講師をしていた弟の滋が手伝うことになりました。
参考文献
(1)「私の履歴書」:『水原秋櫻子全集 第十九巻 自伝回想』pp.245-294. 講談社、1978.
(2)「神田區勢要覧 昭和十年」(東京市神田區役所編)(国立国会図書館デジタルコレクション)
(3)「古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩」(人文社、2004)
(4)「明治生まれの町 神田三崎町」(鈴木理生著 青蛙房、1978)
(平成14年6月27日 記)(平成29年8月13日 追記)