♪錦織剛清が、相馬誠胤(ともたね)を、東京府癲狂院(巣鴨駕籠町)の特別室(相馬室)から連れ出したのは、明治20年(1887)1月30日夜のことでした。
♪相馬室は、相馬家が東京府癲狂院が明治19年(1886)6月20日に移転新築される際に東京府に出願(転院の翌日)して誠胤のために自費で建築した別棟の病室です。10畳、8畳の2室に廊下・便所・玄関などからなる離れとして設計されました。長引くであろう入院生活を配慮してのものでした。本棟とは渡り廊下で繋がっていました。8月7日に落成しています。
♪図面1(文献1)の左手に位置する縦一列に並ぶ隔離病棟の一番上の隔離室の右手に見える、本棟から斜めに突き出した建物が、相馬室にあたります。図面2が相馬室の拡大図です。ピッタリと一致します。(文献2)2つの文献を付き合わせることによって、相馬室の構造と位置関係を特定できました。
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♪相馬室の上に見える細い道を左に進むと岩槻街道(現在の本郷通り)の富士前町(富士神社)注)に出られます。夜の八時ごろだったといいます。裏門(非常門)から暗闇のなかを錦織ほか数名と街道筋に向かい、人力車に押し込められることになります。
注)「ふじ神社」の漢字表記:ふじ・神社の「ふじ」は、境内の石碑では、「冨士」とあり、鳥居の額には、「富士」とあります。
♪この時の誠胤の心持ちを想像してみます。やっと狭い病室から抜け出せたという開放感とともに、深々とした闇夜のなかを人力車でひた走り、これからどこに向かうのかという不安が広がっていたのではないでしょうか。本当に自由になれたという気持ちは、なかったのかも知れません。
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♪『相馬実伝』(文献1)から、病室から脱出した誠胤の足取りを探ってみます。本郷富士前町から人力車(車夫・小島重蔵)で九段坂の堀留まで向かい、鈴木写真館(横浜の支店・鈴木眞一)に立ち寄ります。そこから馬車をしたてて後藤新平邸(東京府麻布)へ急行、診察を受けることになります。その後、川崎(會津屋で一泊)、小田原(幸町仲松旅亭に投宿)、熱海温泉(澤兵之助方に寓居)、沼津(元問屋方に止宿)へと逃走。そして、一週間後、2月8日、静岡(井筒屋方)で捕縛され、誠胤は、東京へ連れ戻されることになります。
♪この一週間ほどの誠胤の症状がどうであったのか気になるところではあります。平穏であったのでしょうか。連れ歩いた家臣も大変な思いをしたことは確かではないでしょうか。
♪熱海温泉行を強行したのには、誠胤の環境を変え、温泉湯治的なことも考えての錦織や家臣の行動ではなかったのか、そんな一面も感じます。向ヶ丘時代の東京府癲狂院に入院していた頃の誠胤は、家臣と連れだって、上野公園周辺を院外散歩、鶯谷伊香保温泉(伊香保楼)に行ったこともあったようです。
(1月30日夜)東京府癲狂院(巣鴨駕籠町)→[人力車(本郷富士前町の車夫小松重蔵)]→九段下堀留→[徒歩]→鈴木写真館→[馬車]→後藤新平邸(麻布)→川崎(會津屋)→小田原(仲松旅亭)→[駕籠]→熱海温泉(2,3日逗留)→沼津(元問屋方)→静岡(井筒屋方)(2月8日朝)
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♪のち明治27年(1894)2月12日午前10時15分から開廷された相馬事件の裁判で、長森藤吉郎検事は、錦織剛清が相馬誠胤を連れ出した経緯について、以下のように申し立てています。(『相馬事件裁判明細録』[国立国会図書館デジタル])(文献3)この裁判には、後藤新平も出廷していました。
[検事の申し立て]
1) 誠胤を奪い取って拾養して見ようと考へて、明治廿年一月三十日に或る2、3の同志を語らひまして、東京府癲狂院に夜中侵入して、私に誠胤を誘出して同夜被告後藤新平方に連れて参りました。
2) 同所に於て相馬誠胤の錦織剛清に対する総代理人の委任状と云うものを署名拇印せしめる。
3) 翌日誠胤と共に熱海に参った。熱海に参りまして5,6日滞留して居ますと、丁度相馬家より誠胤が熱海に居ると云うことを嗅ぎ附けて追手を向けたと云うことが剛清の方に報知があった。そこで、剛清は誠胤を連れたまま静岡の方へ参りました。
4) 静岡に於て予て相馬家からの通知に依りて警察官の捕押へる所となって、誠胤は其儘取戻され、被告剛清は、また拘留されました。
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♪静岡から連れ戻された相馬誠胤が、医科大学第一医院に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日までの41日間でした。また、息苦しい病棟生活がはじまります。
♪その主任医となったのが、榊俶で、ベルツ(帝国大学医科大学教師)と佐々木政吉(帝国大学医科大学教授)が、その「診断書」に同意しています。
♪「診断書」の全文が、「国家医学」誌に載っていました。(文献4)その時代の診断書の形式や医学用語を知る手がかりともなると思いますので、少し長くなりますが、書き写しておきます。
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診 断 書
麹町区内幸町一丁目六番地
東京府華族 従四位 相 馬 誠 胤
嘉永五年八月生
右は明治二十年三月十日帝国大学医科大学第一医院に入院し同年四月十九日に至る在院中の症状並に既往症に依り左の如く診定す
(遺伝歴)遺伝歴は青田綱三より出さしめ猶ほ誠胤へも訊問して定むる所なり 即ち誠胤の血族中殊に母方には精神及脳病の系統あり 父方の祖父は弘化二年に於て中風症に罹り五十歳にして卒す 又母方にては誠胤の祖父母共に卒中症にて死し 母は二十六歳の時より発狂して治せす終に四十歳に至り卒中症にて死し 其弟(即ち誠胤の叔父)は平素狂人に齋しき所行ありて明治十七年六月より発狂し十八年九月本郷癲狂院に於て死し 其妹(叔母)は明治七年発狂し後癒へ同十一年肺炎症にて死去すと
(既往症)幼児の際数回痙攣を発せしことあり 又性来癇癖の気質ありて小事に付き憤怒し易すしと云ふ 其他脚気及背癰を除くの外曾て重症に罹りしことなし 明治九年頃より些事に疑心を起して憤怒し往々乱行あり 愛憎喜怒常に定らす 侍士侍女を呵責し憤怒すること枚挙に遑あらす 若年の時頻りに飲酒せしも此時より禁酒せりと云ふ 十二年春以来病状大に増進し其四月一室に鎖錮するに到れり
檻内にては平時は沈黙して人と接するを忌避するか如しと雖も発作時に至れは器具を擲ち高声に朗吟し仏経を誦する等総て躁狂状を呈す 十七年中頻りに独語し人を殺さんとするの状ありと云ふ 明治二十年三月十日医科大学第一医院に入院す
(現在症)三月十日検査する所にして只其要点を擧く 体格中等栄養佳良にして皮下脂質良く発育し顔面は稍や蒼白にして容貌少しく怒気を含むものの如し 頭蓋は稍や屋背形を為し膝蓋腱反射機全く消失す 又精神の異常を擧れは記臆力の僅に減衰すると感情の遅鈍なるとの他別に病状なし
(入院中経過)自最初六日間は別に癲狂状のことなし 只夜間安眠せさると便秘あるとを訴ふるのみ 午前は主に臥床に在りて新聞等を読み 或は何事をもなさす獨り安臥し 午後は遊歩沐浴等をなす 十六日に至り擧動活発となり音声悄々高く多弁となる加之夜間往々幻聴を起す 例之天井に男女の声ありて雑話せりと云うか如きあり 身体の擧動甚た不安となり 或は廊下に走出して急に便所に至り 或は室に帰りて足踏す 若し其故を問へは今日は空気濃厚となり咽喉部に苦悶を覚ゆ故に此行をなすと云へり 顔面は紅を潮し眼光鋭くして濕潤せる如く 脈は百二十博を数ふに到れり 此症状漸々増進し廿二日の夜卒然看護人(大学の小使)の両耳を捕へ爪を以て外傷を負はしめ甚しく出血せしむ 又暫時にして再ひ顔面に負傷せしむ 其故を問へは曰彼の小使は顔貌狸の如くにして時々室内を窺ふを以て如此處置せり 別に原因あることなしと 二十五日諸症減退し彼の暴行を悔悟せり 四月二日頃再ひ幻聴を発し精神活発となる 四日夜起て暴行せんと欲す 依て投薬し種々説解を加へて漸く安静ならしむ 夫れより病勢悄々減退せりと雖も十日の夕刻に至り一の原因なくして飯杓子を以て看護人(患者方より附添へ)の頭部を打ち負傷せしめ出血甚たしく終に外科施療を行ふに到れり 其后精神常に復し大に悔悟し状を呈はし今日迄暴行なし
(診断)以上掲載する者を総括するは誠胤は神経病家の血統に屬し齢二十六歳の時より発病し今猶ほ精神病に罹る者とす 之に医学上の名称を附すれは時発性躁暴狂なる者とす 而して遠因は遺伝歴に依り明瞭なれも近因は不明なり
右之通診断仕候也
明治二十年四月十九日
主任医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶 印
右は拙者共に於ても同意に候也
帝国大学医科大学教師 ベルツ
帝国大学医科大学教授 従六位 佐々木政吉 印
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「退院後の取扱心得」
麹町区内幸町一丁目六番地
東京府華族
従四位 相 馬 誠 胤
右者別紙診断書に掲載せる如く時発性躁暴狂に罹るを以て今后時々発作あるものとす 依で左に其取扱方法を告示す
第一 癲狂院に入るを要せす 盖し病勢亢盛するときは此の限にあらす
第二 自宅療養を可とす
第三 居室は平常の造構にして快闊なるを良しとす
第四 室内には刃物類縄類等の如き凡て人を害する懼れある器具を一切置くへ からす
第五 檻鎖するを許さす 若し暴行発作あるときは看護人静かに之を取押ゆへし 而して可成く患者に抵抗する取扱をなささる様注意すへし 但し暴行甚くして不徳巳るときは其発作間縛衣を着用せしむ可し
第六 看護人は温和懇切にして筋力あるものを撰み絶えす患者を守護せしむへし 若し暴行発作あるときは不寝番をなさしむるは勿論たるへし
第七 遊歩は患者の隋意に任すと雖も暴風大雨等の節は見合する方を良しとす
第八 在宅中読書唱歌書画等をなすは患者の随意に任す
第九 食料は滋養品を撰み適宜の量を與ふへし
第十 入浴は其度数及ひ温度等常習に従ふへし 夏季は全冷水拭法を施すを良しとす 又時々頭部を冷却すべし
第十一 夜間安眠を要す故に就寝前に茶コーヒー類を喫するを禁す 而して遊歩或は入浴を以て安眠を催進すへし然れども猶ほ安眠せさるときは薬用す可し
第十二 薬用は必す医士の命に従ふへし 売薬等を濫用す可らす 又患者は便秘の癖あるを以て宜しく此に注意し医士に乞ひ適当の療法を受く可し
第十三 頭痛あるときは氷罨法を頭部に施すへし
第十四 患者他人と面会するは随意たるへしと雖ども家事或は国政談等の如き神思を労する談話を為すを許さす
第十五 酷暑中は日光等の如き山地に於て避暑を兼ね遊歩するを良しとす
右に掲載したる條々の外猶ほ詳細の方法は口授す
明治二十年四月十八日
主任医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶
参 考 文 献
1)『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(呉秀三著 創造出版 2003)
2)『相馬実伝:晴天白日』(相馬旧臣事務所編 明治26.11)
3)『相馬事件裁判明細録 第1巻』(西脇今太郎編 日本書行 明治27.3)
4)山谷徳治郎 故相馬誠胤子の病症を論す 「国家医学」1:3-30、1892.
(平成14年7月17日 記)(平成29年11月15日 追加)(令和元年[2019]7月17日 東京府巣鴨病院 絵葉書追加)