♪相馬事件では、榊俶とベルツのほかに、スクリバと三宅秀・原田豊も鑑定書(同意書)を書いていました。スクリバ(Julius Karl Scriba, 1845-1905)は、明治14年(1881)に教師として来日し、おもに外科を担当しました。
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★スクリバ(三宅秀・原田豊)の鑑定書・診断名:「狂躁発作を有する鬱憂病と認む可き精神障碍症」:明治18年(1885)1月3日
★榊 俶(ベルツ)の鑑定書・診断名:「時発性躁暴狂」:明治20年(1887)4月19日
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♨ベルツとスクリバの草津温泉での交流
♪スクリバとベルツは私的にも交流があり、明治24年(1891)には草津温泉に旅行して一井旅館(現・ホテル一井)の別荘に滞在したこともありました。
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♪相馬誠胤が、小石川區巣鴨駕町の東京府癲狂院(巣鴨病院)を抜け出したあと、連れ戻されて醫科大學第一醫院(東大・本郷)に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日のことでしたが、それ以前には、、向ヶ丘(本郷彌生町)にあった東京府癲狂院(中井常次郎院長)に入院していました。また、東京府本郷區田町(現・文京区西片町)にあった加藤瘋癲病院に入院していたこともありました。相馬誠胤は、本郷界隈にあった精神病院を転々としたことになります。
♪加藤瘋癲病院に入院したのは、明治17年(1884)3月10日から一週間、東京府癲狂院(向ヶ丘)に入院したのは、明治17年(1884)7月17日から明治18年(1885)7月20日までのことでした。この時、東京大学医学部から、スクリバとともに、三宅秀、原田豊の3名が出張して、病状についての鑑定書を書いています。
相馬誠胤の入院先
(1)加藤瘋癲病院[本郷區田町28番地]
明治17年(1884)3月10日から一週間
(2)東京府癲狂院[向ヶ丘・彌生町 のち第一高等学校となった場所)
明治17年(1884)7月17日ー明治18年(1885)7月20日
11月22日に錦織剛清が乱入する。
明治18年(1885)1月3日 スクリバが鑑定書を作成
明治18年(1885)3月12日 スクリバの鑑定書に三宅秀と 原田豊が同意する
(3)東京府癲狂院(巣鴨病院)(小石川區巣鴨駕町)
明治19年(1886)6月21日 「東京府癲狂院」が小石川区巣鴨駕籠町・本郷区上富士前町(現・文京グリーンコート周辺)に新築・移転、相馬家は特別病室(2室)をつくり、誠胤を入院させる。
明治20年(1887)1月31日 夜半 錦織が誠胤を特別病室から連れ出す。
(4)医科大学第一医院(本郷・東京大学医学部)
明治20年(1887)3月10日 医科大学第一医院(本郷旧加賀藩上屋敷跡 赤門を入って正面にあった)へ入院。
明治20年(1887)3月11日 錦織剛清の公判が午前9時50分より開廷。
明治20年(1887)4月19日 榊俶(主任医)・佐々木政吉によって「時発性躁暴狂」と診断される。ベルツも診断に関わる。
明治25年(1892)2月22日 誠胤逝去。享年40年.
死亡届「時発性躁暴狂兼尿崩兼糖尿病」
(主治医・中井常次郎 医学博士・榊俶)
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♪明治18年(1885)当時、榊俶は、まだ、ドイツ留学中でした。そして、明治19年(1886)帰朝後、精神病学講座の教授となった時は、30歳の若さでした。その若さで、相馬事件に遭遇することになる訳です。
♪榊俶は、大学卒業後、スクリバに、第一醫院で眼科の指導を受けています。眼科当直医として、眼科を専攻し、井上達也(神田駿河台眼科医)の委嘱によって診察をしたこともあったといいます。
♪それが、明治15年(1882)のドイツ留学時に専門が眼科から精神病学に変更になっています。なにが、そうさせたのかわかりませんが、スクリバからの影響もあったと思われます。
♪相馬事件を調査していて、スクリバとともに、三宅秀も同事件に関係していたことを知り、少し長くなりますが、スクリバが書いた鑑定書(明治18年[1885]1月3日作成)と、それに同意した三宅秀と 原田豊の同意書(明治18年[1885]3月12日作成)を引用しておきます。
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鑑 定 書
華族相馬誠胤齢三十年身体の発育及栄養共に良全にして且強健なり 自を云ふ幼時小児病を患ふるの外曾て重病に罹りしことなし 母は幼年の時死亡し父は今尚ほ健存し既に齢六旬に達せり 又一妹一弟あり 皆健存し伯父一人及伯母二人は既に死亡せり 其他数多く親戚ありと雖も其健否を詳にする能はず 近来悄々記臆力を減し至要の事件と雖も屡々之を遺忘するに至る 且つ宗族中曾て狂病に罹りしものなしと 然れども癲狂院醫員の説述する所に拠れは実母叔母祖父及伯父は数々精神病を発せしことあり 相馬氏自ら陳述する所は余は久しく東京に住し夙に外國語を學ひ后ち明治四年まて武術に従事し曾て政事上に関せしことなし 明治十年西南の役に際し故岩倉公の委嘱に因て兵士募集の為め郷里に帰りしことあり 同氏は十五歳にして戸主と為り 明治三年妻を迎へしに伉儷和せす室を同ふすること甚た罕なり 偶々對語するときは動もすれは喧争をなせり 明治十二年まては常に強壮なりしか此年初めて精神病に罹りたるにや禁錮の身となりしか 本年七月千八百八十四年に至り僅に数日の自由を得たるも此間尚本郷區田町瘋癲病院に在り 幾もなく又本院に投したりと依て何を以て精神病に罹れりと思考せしやと問へは答曰数々憤怒に堪る能はさると殊に一室に閉居せられたるとを以てなりと 又曰く同年中従来居住せし家屋破壊せしを以て更に粗悪の矮屋に移轉せさるへからさるの時に際し 甚た不満に堪へさるの余り不忠の家人を罰せんかため鎗劒刀等の凶器を以て家扶等を脅迫せしこと数回之れあり 就中家令富田某なるものは二年以来頗る情誼不和にて日を送りしか故に尤も之を嫌忌せり 其後尚ほ斯く如き憤怒を発すること屡々之れありしも既に脅迫するの器なく又脅迫すへきの人なきか為めに啻に憤怒を座右の器具に漏せしのみ 而して斯く如き憤怒は毫も前兆なくして突然発するを常とせり 然れとも后に至ては却て不快を覚ゆること屡々之あり
癲狂院醫員の説述する所に據れは斯の如き発作は入院以来絶てなく唯時として睡眠中高聲を発することあるのみと 依て何故自家に在りてのみ斯の如く卒然憤怒することありやと問うに答曰他家にては自ら怒気を抑制することを知るも自家に在ては家長なるか故に他に配慮する者なけれはなりと 又曰時として窓外娼妓の喧噪せるか如き或は笑ふへく或は楽む可き愉快なる語聲を聞くことあり 又は色蒼白にして顔面膨張せる婦人黒色の衣服を着け之に梅花を挿みて行歩するを見しこと屡々なりしか 近来は絶えて之を見す 又斯の如き娼妓の語聲を聞くときは自を笑ひ或は時として唱歌することあり 然れとも渠れと共に談話することなかりしと
相馬氏は元来酒量大ならす 唯愉快なる宴会に臨ては好んて之を飲みしか 明治十年家令滋賀某の諌に従ひ断酒せり 夜中は能く安眠せり 唯夏時は炎熱と蚊の為め快寝を得さりしと
同氏は曾て外傷を受けしことなし 又時としては書翰を認め古人の詩を記する等のことあれども直に之を裂き破れり云ふ
顔貌は沈鬱して愁嘆心痛の状を呈し其言笑するや恰も羞を帯るものの如く且顔面及眼瞼圍の時々肉膕するを見る 其音聲は低調にして沈滞するか如しと雖とも能く之を聴取するを得へく答弁の如きは甚た鋭利にして且明瞭なり 唯遺忘の為めに往々老衰せるか如き状あり
右千八百八十四年(明治十七年)十一月十二日三宅原田の二氏と共に癲狂院に於て記載する所なり 然して余の親しく視問診査せる要領に據れは余は亳も判官の記録及其他の證據に係はらす単に左の如く決定するを以て至當なりと信するなり
抑々相馬誠胤氏は往時に在ては則一の諸侯たるへきの人にして當時同氏は発病の前日及ひ今日の状態と全く相異なる所の生育を享け其地位を占有せり 然るに漸次世の変遷に由り其権力を失してより身体と精神に不和を生するに至りしなり 是其病源の一なり 又同氏の配偶宜を得す且不幸にして曾て一子を擧けす 是其病原の二なり 此二事は則ち遺傳の素因之れなきも實に精神病を発する原因を作すに足るものなり况んや其状態は単に憤怒のみに止らすして数様の音聲を聞き或は異形の現象を視るか如き精神病の主徴たる視聴の錯誤あるに於てをや 故に同氏は醫學上に於て狂躁発作を有する鬱憂病と認む可き精神障碍症に罹れるものと断定す 但近来稍々快復に趣きたるか故に適應の療養を加ふれは全然治癒するの目的あるものとす
千八百八十五年[明治18年]一月三日
ドクトル、スクリバ
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華族相馬誠胤氏精神病の有無鑑定のため下に記名する両人は「ドクトル、スクリバ」氏と共に本郷弥生町癲狂院に行きて親く誠胤氏の状況事歴を検査し爾来同氏の滞院中に発顯する症状は同癲狂院長中井常次郎氏の報告を得彼是参互し果して「ドクトル、スクリバ」氏の断定せる狂躁発作を有する鬱憂病なりとの鑑定に同意し茲に其意見なきを證明す
明治十八年三月十二日
東京大學教授 三宅 秀
同 原田 豊
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(平成14年8月25日 記)(平成14年8月27日 記)平成30年1月14日 追記)