♪相馬誠胤(そうま・ともたね)(1852-1892)(陸奥国中村藩六万石第13代藩主)は、明治25年(1892)2月22日の朝6時、「心臓麻痺」によって死去しました。
♪榊俶の病床日誌(手記)と相馬家が書いた[日誌]には、次のように記録(抜粋)されています。
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明治25年(1892)2月19日
[相馬家日誌]
大雪 午前6時半御起床 時々放歌あり 再三度看護室の處まで御出ありたり
8時頃に至り甘酒を飲して呉れよとて看護室に御出2杯斗召し上り
舌運動も充分ならさる如ら尿利増加して1時間に6、7回ありたり
2月20日
(榊手記)
診する時午後5時 患者安静に仰臥し精神少々興奮 頭部に充血の徴あり 眼光鋭くして言語活発なり。
訴えて曰く一週間前より咽喉大いに渇し飲を引くこと一回に一桝余尿量も亦甚だしく増加し一時間に6回の尿利をみる
四肢「チアイーゼ」を呈し皮膚乾燥、体温36度5分 脉博弱小にして108
又弱視を訴ふるに由り眼底を検す 静脈性鬱血あり 瞳孔は中等大にして反応なし 膝蓋腱反射機亢進(前日は消失せり)尿は透明淡黄色(蛋白・糖分)
[相馬家日誌]
午前7時30分御起床 午前8時中井[常次郎]氏来診 午後4時榊医学博士・中井医士来診
2月21日
(榊手記)
午後7時「ベルツ」氏と共に診 独語 言語応答不明 脉博百至心動き極めて微弱且不正[整] 体温36度2分 四肢の「チアイノーゼ」 口内乾燥舌苔あり 瞳孔は昨日に比して少し狭小なり 諸極めて不良
[相馬家日誌]
午前9時片山・中井両氏来診 中井医に向ひ便秘を訴へ「ひまし油」を請求せられたり 中井氏曰く御食事少料なれば随て便通なきは当然
2月22日
(榊・手記)
今朝6時心臓麻痺に由て逝く 今朝最後に得たる尿を検するに渾濁不透明にして亜児加里性の反応を呈し葡萄糖を含む但し蛋白質なし
[死の状態]
今朝4時 脉125 意識朦朧 時々反側し四肢の肉振 右側顔面神経の不全麻痺あり 遂に眠るが如くにして逝く
[相馬家日誌]
龍脳油を注射し稍々復蘇するも午前6時遂に終息す
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♪相馬誠胤が死去する前に診察した医師には次の人々がいました。
♪検視は山根正次(警察醫長)によっておこなわれました。山根は、明治15年(1882)医科大学を卒業して、明治20年(1887)司法省の命によりドイツ、フランス、オーストラリア、イタリア、イギリスの各国をまわり法医学を修めました。
♪『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)に、「明治二十一年於伯林醫學関係者」と題する写真が掲載されていますが、このなかに山根正次のほか、江口襄、森林太郎、隈川宗雄、片山國嘉の顔がみえます。前列左から二人目が山根正次、中央が片山國嘉 右から二人目が隈川宗雄、二列目左端が森林太郎、右端が江口襄です。相馬事件に関わった多くの医学者の顔があります。
♪主治医の中井常次郎が榊俶と連名で麹町区長宛に出された死亡届は、以下のようなものでした。
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死 亡 届
麹町區内幸町一丁目六番地 華族
相 馬 誠 胤 四十年
一 時発性躁狂兼尿崩及糖尿病
一 経過 十五年
一 心臓麻痺に由り当月廿二日午前六時死す
右拙者等施治患者に候處頭書之通死去候に付此段及御届候也
明治廿五年二月
芝區櫻川町九番地
主任醫 中井常次郎
本郷區西片町十番地
醫學博士 榊 俶
麹町區長宛
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♪この死亡届に疑義を持つものがありました。錦織剛清(にしごり・たけきよ)(旧中村藩士)です。誠胤の死が毒殺ではないかとして、順胤(よりたね)(異母弟)と家令志賀直道(志賀直哉の祖父)らを明治26年(1893)7月17日に告発します。
♪誠胤が死亡したときに臨検が行われ、その際に口中より流出した血液が警視庁に保管されており、その血液が証拠として分析されることになります。その分析に、相馬家では、当時、帝国大学医科大学で病理化学を担当していた隈川宗雄(くまかわ・むねお 福島藩出身)を立ち会わせたいと予審判事に申請するのですが、認められることはありませんでした。
♪9月8日朝7時、青山墓地に葬られていた誠胤の遺骸が発掘され、江口襄(えぐち・のぼる)が、胃部、心臓部などの局部を解剖し、毒殺の真偽を調べるための標本があつめられることになります。
♪解剖した江口襄は、明治24年(1891)6月に陸軍軍医学校において裁判医学(精神科)を講義していました。明治20年(1887)10月8日には、陸軍省より裁判医学および精神医学研究のためドイツに留学しています。東京医学校では森鴎外と同期で陸軍一等軍医正・警視廰御用掛(警察医長)を務めました。
♪次回に当時の新聞から墳墓発掘の様子をみてみることにします。
(平成14年10月5日 記)(平成30年2月13日 追記)
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♪明治26年(1893)9月14日付けの『郵便報知』は、青山墓地における相馬誠胤の墓の発掘の模様を以下のように報じています。
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[発掘着手]
準備整いて、午前七時に発掘に着手せり。午後四時に至り全く発掘を終え、棺蓋を開く。憲兵、巡査を遠ぞけ、総立ち会いにて棺の蓋を開けば、故誠胤氏は宛然(えんぜん)眠れるがごとく、ただ顔色蒼然たるを見るのみなりしという。
[局部解剖]
江口軍医及び田原技師は徐々に刀を取り、遺骸の要部なる胃部、心臓部等の局部を解剖し、分析に必要なる部分を取り、これを茶筒大の硝子瓶と長さ二尺五寸、高さ一尺位の厳重なる箱とにおさめ、その他棺中に流動したる濃液のごときものをもことごとく瓶中におさめ、しかして後、遺骸は元のごとく棺中に安臥せしめ、仮に蓋を覆い、立会人に引き渡し、墓地周囲の警戒を解きて、掛り官等は一同青山を引きあげたり。これが午後八時十分頃なりし。解剖に着手したるは四時三十分にして、これを了したるは午後七時なり。
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♪当時の青山墓地周辺(青山大膳亮:美濃郡上藩4万8千石下屋敷跡)は、田畑のほか樹木も多く、鬱蒼としていました。そんな中で、夕暮れ時から日が落ちてまでも解剖が続けられた模様です。
♪棺から遺骸を引きずり出し、異臭を放つ胃・心臓を摘出した江口の心境はどんなものだったのでしょうか。また、真相解明の裁判のためとはいえ、殿様の遺骸を掘り起こされた親族・家臣たちの思いを考えると胸がつまります。法医学の厳しさ、難しさを感じます。
(平成14年10月 6日 記)(平成30年2月13日 追記)
参考文献
1)『相馬実伝 晴天白日』
2)『石黒忠悳懐舊九十年』(東京 博文館蔵版)(石黒忠悳著 昭和11年)