47. 榊順次郎の墓

墓石の場所:染井霊園(東京都豊島区駒込5-5-1)1種イ5号5側

正 面:榊家墓
裏 面:西暦紀元一千九百十五年(大正4年は、弟順次郎が長兄俶の準[順]養子となった年にあたる)7)8)

♪東京帝國醫科大學(現在の東京大学医学部)の初代精神病学教室教授をつとめた榊俶(さかき・はじめ)には,二人の弟がいました。順次郎と保三郎です。

榊 順次郎(1859-1939)7)
榊 保三郎(1870-1929)8)

♪二人の弟とも東京帝國大學醫科大學を卒業し,順次郎は産婦人科学を保三郎は兄・俶と同じ精神病学を専門として巣鴨癲狂院に勤務したのち,九州帝國大學醫科大學の教授となっています。

♪榊三兄弟の父は,榊綽(ゆたか)(令輔 れいすけ・令一)といい,開成所時代には活字御用をつとめ,明治元年(1868)には駿府に移り,静岡学問所教授から沼津兵学校三等教授方並(図画方)に転じています。和蘭商館長から幕府に贈呈されたスタンホープ印刷機は,沼津に運ばれて,榊綽が操作したといわれています1)2)

♪榊俶の妹で岡田和一郎に嫁した徳子によると,父・榊綽は杉田梅里(成卿)の塾で呉秀三の祖父・箕作阮甫と同門であり,その縁で,呉秀三の姉・りき(のち日高秩父(ひだか・ちちぶ)氏夫人)は榊俶の洋画の弟子であったとのことです3)

♪榊綽の長男・俶が,沼津兵学校附属小学校に通ったことは,「染井霊園:医家の名墓を探る(2) 榊 俶・田口和美」4)のなかで触れましたが,弟の順次郎も,この沼津兵学校附属小学校の出身であり,また杉田玄端の息子の雄(いさお),盛(さかり)も,同附属小学校に在学して医者となったことは木下實氏(東京帝国大学医科大学産婦人科教授木下正中(きのした・せいちゅう)の孫、東京大学名誉教授)からのご教示ではじめて知りました。

♪さらに,宇野朗(ほがら)(帝國大學醫科大學第一醫院・外科学,繃帯学・皮膚病及黴毒學担当)(皮膚病黴毒科講座初代教授)も杉田玄端の塾にいたことが,『宇野朗覚書』(私家版)でわかりました。

♪『宇野朗覚書』は,以前に,宇野朗三上参次(みかみ・さんじ)の子孫である宇野彰男氏から,そのコピーをいただいていたのですが,杉田玄端の事績を調査していて,なぜか,気になって,ファイルを開いてみたのです。すると,そこには,維新後,杉田玄端が江戸の杉田塾をたたんで,塾生の宇野朗とともに三島を経て沼津に移る様子が書かれていました。磁力が働いて文献に引き寄せられた思いがしました。

♪それと,木下家と杉田家の墓所の文献調査の過程で,榊順次郎の墓の所在がわかりました。安西安周(あんざい・やすちか)(医史学者)が,杉野大澤の筆名で『日本医事新報』誌に「東都掃苔記」を長期連載していました。大変な労作で,第1回「土肥家累代之墓・片山家之墓」(昭和29年8月28日発行)5)から第100回「宇野家の墓・清野家の墓」(昭和31年7月21日発行)6)まで続くことになります。

♪その第49回(第1631号)7)と第50回(第1632号)8)で染井霊園にある榊家の墓所が取り上げられ,榊順次郎の墓についても,詳しく書かれていました。安西安周が榊家と姻戚関係にある緒方規雄(おがた・のりお)(千葉医大細菌学教室初代教授)(緒方正規[まさのり]の息子)に話を聞いたものでした。榊俶の姉(長女)である小梅が緒方正規(東京帝國大學醫科大學衛生学教室初代教授)の妻であったため,緒方規雄が情報を提供したものと思われます。(なお千葉医大細菌学教室の第3代教授が,木下正中の六女・弘子(ひろこ)を妻にした川喜田愛郎(よしお)です。)

♪記事7)8)によると,大正4年(1915),榊保三郎は,長兄・榊俶の準[順]養子となり,榊順次郎は別家をたてて,墓所も別地に設けたとありました。

♪杉野大澤は,榊順次郎について,つぎのように書いています7)。

「順次郎博士は綽翁の次男として安政六年六月十三日生,初め横須賀の造船学校に学んだが,その廃校によって東大醫學部の別科生となり,荒木[寅三郎]・遠山[椿吉]・金杉[英五郎]諸博士と同期に卒業した。」注)

「婦人科千葉稔次郎教授の助手となり,教授の死後私費を以て獨乙に遊学,帰朝後は四谷、次に市ヶ谷見附に産科婦人科病院を開設し,併せて半蔵門に産婆学校を設けた。」

(注)荒木は荒木寅三郎(京都帝國大學総長・学習院院長),遠山は遠山椿吉(東京市衛生試験所長・東京顕微鏡院院長),金杉は金杉英五郎(東京慈恵会医科大学初代学長)

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♪すっかり,葉桜となった平成22年(2010)4月25日(日)に染井霊園を訪ねました。染井霊園には,染井通りの突き当りの正面入口から入り,巣鴨方面へ抜ける広い墓道(南そめいよしの通り)を進みました。三上参次の墓(1種イ13号1側)をお参りしてから,二葉亭四迷(1種イ5号37側)の墓への案内標柱がある細い墓道へ入りました。

♪二葉亭四迷の墓を左手にみて,やや進むと右手に「榊家墓」と刻まれた立派な墓石があらわれます(1種イ5号5側)。そこが,榊順次郎の墓でした。いつも,この墓所の前を通るときに,榊俶の榊家とは,どのような関係にある墓なのだろうかと思っていました。墓石の裏面には「西暦紀元一千九百十五年」と刻まれていました。西暦1915年は大正4年にあたります。この榊家の墓は,大正4年(1915)に榊順次郎が分家した時期に建てられたものと思われます。

♪榊順次郎は,昭和14年(1939)11月16日に狭心症で亡くなっています。享年80歳でした。

♪榊順次郎が市ヶ谷見附(九段)に開業した榊病院の場所9)は,木下正中が経営した木下産婦人科病院を調べていて確認できました。さらに業績については,緒方正清が著した『日本産科學史』10)のなかに,木下正中と並んで掲載されていることもわかりました。

♪榊順次郎は,『脚気病ト穀物トノ原因上関係』(明治25年12月出版)(丸屋善七発売)を著し,脚気論争にも関係した人物です。

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♪緒方洪庵の墓所からはじまった「江戸東京」の散歩は,点が線になりつつあります。

参 考 文 献

1)『沼津兵學校及其人材 -附属小學校並沼津病院-』(大野虎雄著 昭和14年刊 田中屋印刷所)

2)『旧幕臣の明治維新 -沼津兵学校とその群像』(樋口雄彦著)(歴史文化ライブラリ― 201)(吉川弘文館 2005)

3)岡田 徳子:岡田和一郎の思い出(5)-結婚の媒酌‐.『日本医事新報』 第1466号,p.36-37. 1952.

4)堀江 幸司:「染井霊園:医家の名墓を探る(2) 榊 俶・田口和美」医学図書館 43(3):361-368. 1996.

5)杉野大澤:東都掃苔記 [1] 土肥家累代之墓・片山家之墓. 『日本医事新報』第1583号,p.34. 1954.

6)杉野大澤:東都掃苔記 [100] 宇野家の墓・清野の墓. 『日本医事新報』 第1682号,p.52. 1956.

7)杉野大澤:東都掃苔記[49] 榊俶の墓,榊順次郎博士の墓.『日本医事新報』第1631号,p.52. 1955.

8)杉野大澤:東都掃苔記[50] 榊保三郎博士の墓,緒方正規先生の墓.『日本医事新報』第1632号,p.114. 1955.

9)九段上の電車通り(新東京・医学きまぐれ散歩).『日本医事新報』 第1466号,p.37-38. 1952.

10)『日本産科學史』(緒方正清著 大正8年刊 丸善)

(平成22年5月15日 記す)(平成30年6月9日 訂正)