48. 木下實氏からメールをいただく:木下正中と「木下文書」

♪「江戸東京」を読んだ感想を、木下實(きのした・みのる)氏(東京大学名誉教授)からいただきました。木下實氏は、明治33年(1900)4月に濱田玄達のあとを継いで、東京帝國大学醫科大學の産科学・婦人科学教室主任(教授)となった木下正中(きのした・せいちゅう)(1869-1952)の孫にあたられる方です。

木下 正中(出典:「産科と婦人科」5巻7号[巻頭頁]昭和12年)

 

若き日の木下正中

 

♪メールには、木下正中が、スクリバ、ベルツの指導を受け、醫科大學を卒業後、すぐにスクリバの助手となったこと、杉田玄白と同じく若狭國小濱の出身であること、本家には、杉田家(玄白、白玄、立卿、成卿、廉卿)から木下家に宛てた書簡が保管されていたこと、その書簡を、曾祖父の木下煕(きのした・ひろむ)が、三上参次にみせ序文を識してもらっていること、三上参次が、これを「木下文書」と名付けたこと、また、晩年に、木下正中は、医学用語に関心を持ち、日本医学会医学用語整理委員長を務め、「医学用語集」を刊行、「世界医学人名辞典」の編纂にも着手したことなどが書かれてありました。

小濱市街全景(絵葉書)

♪「江戸東京」では、『解體新書』や、その翻訳のもととなった蘭訳本、独逸原本など「ターヘル・アナトミア」に関するすべての原典を慶應義塾図書館に寄贈した杉田鶴子(杉田玄白の子孫)の事績や、東京大学史料編纂所に関係の深い三上参次のことも取り上げていましたので不思議な縁を感じました。

♪その後、木下實氏からは、お忙しい中、何度もメールをいただき、木下正中が、教授を退任した後は、浜町産婦人科病院(日本橋浜町三丁目)を、関東大震災後は、木下産婦人科病院(麹町九段)を開設・経営したことなども、ご教示いただきました。浜町産婦人科病院のすばらしい外観写真も拝借できましたので、「江戸東京」のなかで、紹介させていただけたらと思っております。

♪木下實氏からのメールによって、「江戸東京」が、杉田玄白、緒方洪庵の流れとともに、産婦人科学の歴史の流れをつくり、医学用語を扱うシソーラス研究会とも繋がってきたようにも思われ、不思議な縁を感じます。

♪さらに不思議なのは、木下産婦人科病院の場所を特定しようと思い、現在の市ヶ谷駅周辺や一口坂あたりの古地図をみていて、榊俶(さかき・はじめ)(東京帝國大学醫科大學初代精神病学教室教授)の次弟である榊順次郎が経営していた榊病院(産婦人科)の病院の印をみつけたことです。いままで、不明だった榊順次郎の病院の場所が特定できたのでした。産婦人科医の榊順次郎と木下正中が麹町でつながりました。なにかに導かれているような思いです。

九段坂からニコライ堂を望む

♪木下正中の生まれ故郷である小濱(旧福井県遠敷郡小濱町西津)、小学校時代を過ごした京都、学生・教授時代を過ごした東京本郷台町・森川町、教授退任後、晩年にかけて過ごした日本橋浜町、麹町・九段界隈の風情。そして明治初年から昭和初期にかけての小濱、京都、本郷への思いが、木下實氏のメールで浮き上がってきました。

 

♪小濱藩の侍医であった木下家の事績、そして「木下文書」の調査など、「江戸東京」は、最新のデジタル通信技術を利用し、いろいろな方々の助けを借りながら、原典探索、散歩の範囲を、徐々に広げてゆけたらと思っています。

 

(平成22年1月15日 記)(平成30年6月18日 追加)