♪木下實氏から,本郷森川町の木下正中邸の玄関前で撮られた正中(せいちゅう)一家の家族写真をお借りしました。写真は,正中の父・凞(ひろむ)と母・準子(じゅんこ)を囲む形で撮られています。当時の正中は,東京帝國大學醫科大學・産科學婦人科學教授でした。
♪木下凞(ひろむ)(木下宗伯)(1844-1914)は,若狭國小濱(現在の福井県小浜市)の藩医・木下家の第四代目(「樹恵堂 じゅけいどう」)にあたります。同じく小濱藩医であった杉田玄白(1733-1817)をはじめとする杉田家とは,親交があり,木下家には,杉田家との往復書簡類などが,代々,伝わっていたそうです。
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♪安政5年(1858),小濱から江戸に出て川本幸民(かわもと・こうみん)(1810-1871)に入門。川本幸民は,坪井信道(つぼい・しんどう)(1795-1848)とともに,青地林宗(あおち・りんそう)(1775-1833)の女婿の一人でした。木下凞(ひろむ)は,川本幸民のもとで,3年間,学んでいます。
♪その後,京都の広瀬元恭(ひろせ・げんきょう)(1821-1870)の私塾(時習堂)に転じます。元恭の死後,明治4年(1871),横濱で,杉田玄白の子孫である杉田武(杉田つる伯父・玄白五世)と居を共にしながら,ヘボン(James Curtis Hepburn)(1815-1911)やシモンズ(Duane B. Simmons)(1834-1889)から,英書および西洋医学の実地指導を受けています。また,藩命により長崎にも赴き,英書を学びました。木下凞(ひろむ)は,英学を中心に医術を学び,学問に生きた人であったようです。
♪明治6年(1873),京都療病院(現在の京都府立医科大学)に採用されたときから,京都に住み,明治9年(1876)6月3日,建仁寺内福聚院に仮駆黴院(駆梅院)が開かれたときには,検梅医員になっています。
♪明治10年(1877),医務取締,産婆取締となり,明治14年(1881)1月19日,駆黴院に院長が置かれることになったとき,木下凞(ひろむ)が,初代院長に任じられました。
♪明治18年(1885)以来,自宅(上京区麩屋町通り御池下る中白山町六番戸)で開業し,京都の産婦人科の中心人物として,京都医会に多大の功績をのこしました。
♪京都での診療を休止したのが明治44年(1911)3月,廃業したのが大正2年(1913)2月のことで、家族写真は,その後,東京へ移ってきた頃の写真だそうです。
♪洋間から運んだのでしょうか,椅子が3脚,庭先に間隔をおいて置かれます。その中央には,正中(木下家五代目)の父・凞(ひろむ),右手側に母・準子が座ります。そして,左手側に,明治44年(1911)生まれの謹三(きんぞう)(三男)を抱いた妻・泰子(やすこ)(下瀬謙太郎の妹)が座ります。
♪正中自身は,後列に,学生服姿の正一(せいいつ)(長男・木下家六代目)の右肩に手をかけて,立っています。
♪正中は,明治27年(1894),醫科大學4年生のとき,ペストが流行している香港へ調査・研究のため,青山胤通(あおやま・たねみち)(1859-1917)(内科学教授)に同行,助手・通訳として活躍しました。
♪正中の妻・泰子は,正中と東京帝國大學醫科大學で同級生の親友・下瀬謙太郎の妹でした。下瀬謙太郎は,陸軍軍医学校校長をつとめた人物で,東京帝國大學では,北島多一とも同級でした。
♪泰子が,学生生活を過ごした明治女学校は,麹町にありましたが,その後,巣鴨に移転しています。現在,巣鴨の明治女学校跡には,特別養護老人ホーム「菊かおる園」が建っています。
♪左端に着物姿に学生帽を被っているのが,恭二(次男)。お人形を持って,祖母(準子)に身を寄せているのが,定子(五女)。後列の篤子(長女)の前に立つのが,宣子(よしこ)(四女)。右端に立つ直子(三女)と同じように,頭にかわいらしくリボンをのせています。
♪足元には,門から本玄関へと続く飛び石がみえます。門構えといい,庭木といい,大正初期の古きよき時代の日本家屋がみえます。この写真が撮られた本郷森川町界隈には,まだ,江戸の風景が残り,映世神社の境内は,樹木で鬱蒼としていたのでしょうか。
♪画面には,自然のやわらかい光が溢れ,正中の家族に対する愛情が感じられます。
♪写真が撮られた本郷森川町の木下正中邸跡は、現在、「旅館・鳳明館森川別館」(東京都文京区本郷6-23-5)となっています。
参考文献
1.「木下文書」(東京大学史料編纂所蔵):自序(木下凞ひろむ)
2.「木下家三代電子版」(石川純・栗原純夫編集の私家版を木下實が電子化したもの)
3.「木下凞(ひろむ)について」「木下正中」「木下文書について」(木下實著)
4.「京都の医学史」(京都府医師会医学史編纂室,1980)
5.「青山胤通」(青山内科同窓会,1930)
(平成22年2月7日 記す)(平成23年8月9日 訂正)(平成30年6月18日 追記訂正)