51. 永利満雄氏からのメール:「京都駆黴院図」の発見

♪京都の永利満雄氏(京都府立医科大学臨床検査部・元京都府立洛東病院臨床検査室勤務)より,「江戸東京」の木下凞(ひろむ)に関する項を読んで,感想などのメールをいただきました。

♪永利満雄氏は,木下凞(ひろむ)が初代院長になった京都駆黴院(のちの京都府八坂病院)から発展した京都府立洛東病院(平成17年閉院)に勤務する傍ら,病院の歴史を調査1)2)。京都医学史研究会にも参加して,木下凞(ひろむ)に関する資料は,杉立義一先生(産婦人科医・故人)より得ていたそうです。

♪杉立義一先生は,『京の医史跡探訪』(思文閣出版)の著者です。わたしも京都の光悦寺や玉樹寺へ水原秋桜子の歌碑などを探しに行った折には参考にさせていただきました。

♪7年前の7月,夕立を避けながら木屋町通りを歩き,お洒落な喫茶店に飛び込んで,ひとり雨宿りした情景を思い出しながらメールを読ませていただきました。

♪メールには,昨年,青山霊園に木下凞(ひろむ)の墓所を探したが,あいにく見つからなかったこと,「江戸東京」の記事をみて,その場所を知ったことなども記されていました。「江戸東京」が,少しは,お役に立ったようです。

♪3枚の画像が添付されていました。貴重なものばかりでした。3枚目の写真は,『京の医史跡探訪』に「京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門」として掲載されていた写真と同じものでしたが,永利満雄氏が送ってくださったものは,そのオリジナル・プリントから作成されたファイルのようにも思えました。

1枚目:京都駆黴院を描いた日本画(部分)(京都国立近代美術館蔵)
2枚目:検査室内の様子を写したもの(部分)(永利満雄氏提供)
3枚目:京都八坂病院・京都娼妓検査所の正門(永利満雄氏提供)

♪一枚目の日本画は,永利満雄氏が洛東病院の歴史調査の過程で病院の倉庫のなかで発見されたもので,その後,この日本画は,洛東病院の職員の方々の努力と,当時,兵庫県立近代美術館(現在・兵庫県立美術館の王子分館「原田の森ギャラリー」)の学芸員であった山野英嗣氏(現在・京都国立近代美術館・学芸課長)と木下直之氏(現在・東京大学文学部文化経営学教授),末中哲夫氏(当時・京都教育大学教授),杉田博明氏(京都新聞社),大橋乗保氏(田村宗立の研究家,当時・京都工芸繊維大学助教授),そして田村宗立の子孫である田村泰隆氏を紹介した原田平作氏(京都市美術館学芸員・のち大阪大学文学部教授)など,多くの方々の意志ある熱意と協力を得て,京都国立近代美術館に寄贈されることになったとのことでした。

京都国立近代美術館

場 所:〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町

電 話:  (075) 761-4111

♪「京都駆黴院図」は,国立近代美術館(東京国立近代美術館京都国立近代美術館国立西洋美術館国立国際美術館)のサイトに登録されており,作品全体をみることができるとありました。早速,国立美術館が管理・運営する「所蔵作品総合目録検索システム」を検索してみました。

♪「京都駆黴院図」は,田村宗立(たむら・そうりゅう)(1846-1918)の描いた絹本墨画で明治18年(1885)の作品であることがわかりました。背景には,東山の山並みが描かれ,八坂の塔もみえます。駆黴院全体も,診察室・病室まで非常に丁寧に描かれています。当時の京都駆黴院の規模,建築の様式などを知ることができるように思われました。

京都・八坂の塔(絵葉書)(平成26年6月29日 追加)

♪永利満雄氏に,この「京都駆黴院図」を洛東病院で発見してから,京都国立近代美術館に寄贈されるまでの経緯を書いた文献などがないか,お尋ねしてみました。すぐに返信をいただきました。メールとともに,発見した当時の新聞記事を送ってくださいました。

♪昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)3)は,永利満雄氏と宗立(そうりゅう)の孫・田村泰隆氏を取材して,次のように報じていました。

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府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に

「見つけたのは,府立洛東病院臨床検査室の永利満雄さん(33)。きっかけは京都医学史研究会の会員であり,たまたま,洛東病院の歴史を調べているうちに,病院の倉庫にホコリをかぶった絵をみつけて調査,病院の前身の駆黴院を描いた絵とわかった。」「制作年は明治十八年。ちょうど療病院から独立した時期で,これを記念に,当時,京都府画学校で,わが国に導入されたばかりの西洋画の教鞭をとっていた田村宗立(そうりゅう)に依頼されたらしい。山や木立などには,日本画の描法がうかがえるが,建物は百年前とは合理的な溝引きを使った建築設計図のような透視図の手法がとられている。」『京都の医学史』の編さんにあたった京都医史学研究会の杉立義一さんの話「駆黴院についてはこれまで,どういう規模でどういう活動をしていたかわからなかった。この絵で病院の規模もよく分かり,当時の医療活動をしのぶことができる貴重な資料だと思う。」

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♪なにしろ,永利満雄氏の「京都駆黴院図」を後世に残したいという強い思いが,兵庫・京都の美術館を中心とした田村宗立に関わる人々を動かし,医史学的にも貴重な日本画が京都国立近代美術館に残ったことは確かなことです。

♪明治14年(1881)1月19日,仮駆黴院にはじめて院長を置くことになり,このとき院長になったのが,木下凞ひろむ先生。祇園花見小路の4400坪の土地が京都府に寄付され,駆黴院が新築されることになり,翌年,明治15年(1882)11月24日に竣工・開院しています。

♪花見小路は,建仁寺の近くです。今年も祇園祭(八坂神社の夏祭り)の時期となり,「京都の動く美術館」4)といわれる絢爛豪華な様子がニュースで流れています。125年前の京都花見小路。病に苦しむ女性たち,そして,医師,看病婦たちは,どのような思いのなかで,八坂の祇園祭を迎えていたのでしょうか。

♪永利満雄氏からは,別便で,駆黴院に関する文献や明治期の病院の様子を写した写真などを送っていただいています。また,こちらでも東京から京都府八坂病院に派遣された医師についての調査を進めた結果,大正4年(1915)10月には,東京醫科大學皮膚科教室醫局(土肥慶蔵教授)から京都府八坂病院長として,三戸雄輔(みと・ゆうすけ)醫學士が赴任5)したことなどが,わかってきました。当時の皮膚科教室醫局には,太田正雄醫學士(木下杢太郎)が在籍していました。

♪宇野朗の関係で求めておいた『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』6)のなかの「思い出の写真」には,皮膚科醫局内で撮影された「大正4年10月 三戸雄輔 京都八坂病院長 赴任送別会」の集合写真が掲載されていることもわかりました。この集合写真には,土肥慶蔵教授と三戸雄輔醫學士が並んですわり,太田正雄醫學士も右端の出入り口付近に立って写っています。独特の雰囲気を感じさせる白衣姿です。

♪「江戸東京」は,いろいろなご縁で,京都と繋がりをみせはじめています。

参 考 文 献

1)    永利満雄,藤本文朗,渋谷光美. 京都東山の洛東病院の歴史を探る ―語られなかった歴史的事実にせまる―.「いのちとくらし研究所報」第28号,pp.38-47. 2009年9月.

2)    永利満雄.京都駆黴院の変遷について.「啓迪」第5号,pp.14-19. 昭和62年4月.

3)    ―府立病院・府立洛東病院の前身 駆黴院 田村宗立が描いていた 洋画界の先駆 透視図法で精密に―.昭和61年(1986)6月9日の「京都新聞」(夕刊)

4)    八坂神社と祇園祭.「京」(日本新薬の広報誌) no.164. pp.14-19.(日本新薬「京」編集委員会編 平成22年7月23日発行)

5)    三戸學士の赴任(雑報記事).「皮膚科及泌尿器科雑誌」15(10):p.76.(大正4年10月)

6)    「思い出の写真」「同窓会々員名簿(東京大学医学部皮膚科教室泌尿器科教室[明治26年頃作成])」:『東京大学医学部泌尿器科学講座七十五年史』(東京大学医学部泌尿器科学教室編 平成14年)

(平成22年8月1日 記す 平成30年8月11日 追記)