♪木下實氏(東京大学名誉教授)(木下凞の曾孫)より『先徳遺芳』」と題した冊子を贈っていただきました。(図1)
♪この冊子は,「『先徳遺芳』(木下文書)」の巻物が,国立国会図書館に寄贈されることになったのを機会に木下實氏によって編集されたものです。
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前書きに代えて
『先徳遺芳』は,曽祖父木下凞が残したもので,杉田玄白とその子孫から木下家の代々に宛てられた書翰などを集めた四巻の巻物である。三上参次先生(元東京帝国大学文科大学教授兼史料編纂)によって「木下文書」と命名された。ここでは巻物を開いて個々の文書に分けて収録した。
平成廿三年七月
木下 實
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♪冊子は第一部,第二部,第三部に分けて編集されています。原文と解読文とから構成されているのですが,木下實氏による補足説明もあり,巻末には,「木下凞・正中・東作の略年譜」も作成されています。『先徳遺芳』(木下文書)」(巻物)の全容を知る上で大変,貴重な冊子となっています。
第一部:原文[奉先記事][源淵寶墨][立卿・成卿先生遺墨][名士墨蹟][貴重書翰]
第二部:原文と解読文
第三部:収録資料目録(主に木下恭二保存の資料と文献から集めた資料)
付録一 木下家・杉田家系譜
付録二 木下家関係参考書
付録三 木下凞翁懐舊談(京都医事衛生誌,明治四十年)(文献1参照, 文献2参照)1)2)
補足資料集
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♪「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物は,昭和55年(1980)に木下正一(せいいつ)(木下正中の長男・木下實氏の伯父)から講談社の野間科学医学研究資料館(当時の責任者は緒方富雄,理事は川喜田愛郎(よしお)[木下正中の娘婿・元千葉大学学長])に寄贈されました3)が、その後,野間科学医学研究資料館が平成15年(2003)に閉館され,その所在が確認できないでいました。
♪『先徳遺芳』の行方について木下實氏による継続的な探索の結果,巻物は,講談社内に,別置して大切に保管されていたことが確認されました。探索にあたっては、「江戸東京」でも、所在調査に必要な文献検索に協力させていただきました。
♪国際日本文化研究センター(京都)の「西洋医学史古典文献」(野間文庫)に行ったと思われていた巻物が東京に残されていたことがわかったのです。幸い保存状態が良く,痛みもなかったそうです。巻物が,眼前に現れたときの感激は如何ばかりであったでしょう。巻物と対面されたとお知らせをいただいたときは,発見できた喜びとともに、古文書の香りが,こちらまで伝わってくるようでした。
第一軸(題簽 「奉先記事」) [自序(明治卅七年八月 木下凞ひろむ謹識, 鐡齋富岡百錬代書)]
第二軸(題簽 「源淵寶墨」) [男爵石黒忠悳書簡翰(木下凞ひろむ宛 明治四十年五月二日):三上参次序 (明治四十年十一月念八日)・杉田玄白五世孫 武・杉田玄白翼書翰(木下宗伯宛)など]
第三軸(題簽 「立卿・成卿先生遺墨」 [杉田立卿・杉田成卿書翰]
第四軸(題簽 「名士墨蹟」) [川本幸民の書翰など]
♪「『先徳遺芳』(木下文書)」は,木下實氏からの依頼で講談社から木下家に返却(平成23年[2011]8月29日)されることになりました。その後,木下家での話し合いの結果,国立国会図書館に寄贈(平成23年[2011]9月16日)されることになったとのこと,川喜田愛郎先生も,さぞかし安心されたことと思います。
♪講談社からの返却時に,現物からの写真撮影が行われています。その結果,「『先徳遺芳』(木下文書)」の現物(巻物)は国立国会図書館に,影写本が東京大学史料編纂所に,そしてデジタルデータが木下實氏の手元に,保管されることとなりました。文化財的な史料の永久保存,安全保管としては,万全の方策がとられたことになります。
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♪巻物は,二重の桐函(図2・図3)に収められているのですが,富岡鐡齋の筆による書(題字・函裏の書)(図4)も鮮明に読み取れます。木下正一によると,もともと,内函だけがあったものを,富岡画伯がその貴重さを思い,表函を作らせ,友人である木下凞のために,筆をとったとのことです3)。(文献3参照)
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杉田玄白先生は,若狭小濵の藩,従って京都に住み,始めて西洋医学を唱えて海内を騒動す。偉人と言うべし。その子成卿業を襲え,連綿の盛,世の賞嘆するところなり。わが家の祖先,同藩の故を以て業を杉田家に受くる數世,故に子弟親密の交,朱陳も啻ただならず。これを以て平生質問往復書の夥き數うべからず,豈あに寶愛せざるべけんや。余その散佚を恐れ,整理して巻となし,以て子孫に伝う。蓋し胎厥孫謀(いけつそんぼう)の意,またこれに外ならず,是に於てか識す
明治四十二年五月 木下凞
友人鐡齋外史代書
注)胎厥孫謀(いけつそんぼう):父祖が子孫に遺すはかりごと
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「『先徳遺芳』(木下文書)」全四巻(巻物)国立国会図書館寄贈までの流れを下記にまとめておきます。
明治37年(1904)8月:木下凞「自序」(富岡鐡齋代書)
明治39年(1906)9月:三上参次により影写本「木下文書」が作成される(影写本は東京大学史料編纂所が所蔵)
明治40年(1907)11月28日:三上参次「序文」
明治41年(1908)春:杉田武「書翰」
明治42年(1909)5月:友人の富岡鐡齋 表函・内函の表題・裏書の筆をとる
昭和31年(1956)3月4日:「木下文書」の一部が医家先哲追薦会4)5)(場所:日本医師会館大講堂・大食堂)で展覧・陳列される
[安西安周の求めによって木下正一が提供する]6)(文献6参照)
昭和55年(1980):木下正一から野間科学医学研究資料館(講談社)へ寄贈(委託)される(文献3参照)
平成15年(2003):野間科学医学研究資料館が閉館、資料は国際日本文化研究センター(京都)に寄贈(西洋医学史古典文献・野間文庫)されることとなる
(一時、行方不明)
平成22年(2010)12月:講談社(野間佐和子社長・当時)で発見される
平成23年(2011)8月29日:木下實氏の依頼により木下家に返却されることとなる(このとき講談社で現物からの写真撮影が行われる)
平成23年(2011)9月16日:国立国会図書館に寄贈される。その後,国立国会図書館のOPAC(「木下文書」で検索)に登録,古典籍資料室に保管される。
平成26年(2014):国立国会図書館の企画展「あの人の直筆」で展示される。
その後、「木下文書」は、国立国会図書館でもデジタルコレクションに登録され、インターネット上で閲覧可能となる。
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♪第二軸(題簽 「源淵寶墨」)に,杉田武(1852-1920)(杉田玄端の長男,杉田本家7代)(杉田玄白五世孫)7)8)9)の書翰が収められています。(図5)
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余曽て凞木下君と同窓の友なり,君の家世々余の家と師弟の交あり,君其家祖と余の家祖との間に往復せる書簡数通を秘蔵す,頃日君表装して永く家寶とせらる。啻ただに君の家の宝のみならむ,實に醫界の寶なり,謹みて誌す。
杉田玄白五世孫
武
明治四十一年春
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♪木下凞は,横濱時代(木下實著)(文献10)の明治4年[1871]から明治6年[1873]まで丸屋薬局(丸善の前身)に杉田武と同宿して,早矢仕有的の塾(靜々舎診察所)で勉学を共にしていました。このころから,木下凞は,木下家に伝わる杉田玄白や川本幸民などからの貴重な文書類を,後世に伝える方策を考えていたように思えます。立派な表装と二重の桐函によって,貴重な文書が,確かに,後世に伝えられることになるのです。
♪さらに「『先徳遺芳』(木下文書)」は,国立国会図書館に寄贈されたことによって,杉田武のいう「木下家の家寶」が「醫界の寶」となったともいえるでしょう。
♪杉田家にとっても寶といえる文書類が,国立国会図書館に収まったことを,木下凞と杉田武は,共に喜びあっているのではないでしょうか。
(平成24年9月3日 記す 平成30年8月18日 追記)
参考文献
1) 「木下凞翁懐舊談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)
2) 「木下凞翁懐舊談 [承前]」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)
3) 「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)
4) 「醫家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)
5) 「醫家先哲祭盛況―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)
6) 安西安周著:「蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註」.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)
7) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)
8) 「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)