♪太田正雄が、木下杢太郎の筆名を使いはじめたのは、明治42年(1909)の頃のことでした。永井荷風、小山内薫、高村光太郎、黒田清輝らとの「パンの会」が全盛期を迎えた時期にあたります。
♪「パンの会」が行われた場所について高村光太郎は、「ヒウザン会とパンの会」のなかで次のように書いています。
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パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。
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♪この明治42年(1909)には、『スバル』が啄木を編集発行人として創刊され、杢太郎は、創刊号に『荒布橋』、二月号に『南蛮寺門前』、そして、明治44年(1911)の二月には、『和泉屋染物店』を発表しています。
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♪啄木が、慢性腹膜炎を患ったのは明治44年(1911)2月のことです。その当時、杢太郎(太田正雄)は、東京帝國大學醫科大學の医学生で、卒業する年のことでした。医者になるべきか、文芸活動を続けるべきか、悩んでいた時期でもありました。啄木が、病や金で苦労していたとのは、また、別の苦しみでありました。
♪結局、太田正雄は、明治44年(1911)12月に東京帝國大學醫科大學を卒業して、明治45年・大正元年(1912)1月、衛生学教室(緒方正規教授)の研究生となります。森鴎外の勧めで、皮膚科教室(土肥慶蔵教授)に入室するのは、7月になってからのことでした。
♪杢太郎も同世代の啄木の病は、気掛かりで、卒業する前で、まだ一人前の医者とはいえないまでも、求めに応じて、診察したのでしょう。
♪啄木の「明治四十四年当用日記」の2月3日、4日には、啄木が杢太郎に診察して貰い、入院する経緯が次ぎのように記されています。
二月三日 晴 温
午前に太田正雄君が久しぶりでやつて来た。診察して貰ふと、矢張入院しなければならぬが、胸には異常がないと言つてゐた。そのうちに丸谷君が来、土岐君が来た。雑誌のことはすべて予の入院後の経過によつて発行日その他を決することになった。夜、若山牧水君が初めて訪ねて来た。予は一種シニツクな心を以て予の時世観を話した。声のさびたこの歌人は、「今は実際みンなお先真暗でござんすよ。」と癖のある言葉で二度言つた。
二月四日 晴 温
今日以後、病院生活の日記を赤いインキで書いておく。どうせ入院するなら、一日も早い方がいい。そう思つた。早朝妻が俥で又木、太田二君を訪ねたが要領を得なかつた。更に予自身病院に青柳学士、太田君を訪ねたが、何方も不在。午後に再び青柳学士を訪ねてその好意を得た。早速入院することにして、一旦家へかへり、手廻りの物をあつめて二時半にこの大學病院青山内科十八号室の人となつた。同室の人二人。夕方有馬学士の診察。夕食は普通の飯。病院の第一夜は淋しいものだつた。何だかもう世の中から遠く離れて了つたやうで、今迄うるさかつたあの床屋の二階の生活が急に恋しいものになつた。長い廊下に足音が起つては消えた。本を読むには電燈が暗すぎた。そのうちにいつしか寝入つた。入院のしらせの葉書を十枚出した。
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♪入院当時、啄木が住んでいたのは、本郷區弓町二―十八新井(喜之床)方の二階で、杢太郎は、小石川の白山御殿町一〇九番地に住んでいました。いまの「本郷通り」を、啄木と杢太郎は、行き来していたのかもしれません。それにしても、普段、俥など使ったことがないと思われる啄木の妻が、夫の一大事に入院を頼み廻る気持ちは、どんなものであったのでしょうか。医薬料の工面もあって、さぞかし、辛いものがあったと思われます。
(平成17年4月24日 記)(平成30年8月29日 追記)