♪石川啄木が、東京で文学で身を立てることを夢みて、故郷の渋民村(しぶたみむら)(現・玉山区渋民)から「好摩ケ原」を抜け、向かった先が好摩(こうま)ステーションでした。明治35年(1902)10月30日のことです。まだ、16歳の少年でした。
♪啄木は、その日の朝のことを、次のように記しています。
明治35年10月30日
「朝。故山は今揺落の秋あはたゞしう枯葉の音に埋もれつゝあり。霜凋の野草を踏み泝瀝の風に咽んで九時故家の閾を出づ。愛妹と双親とに涙なき涙にわかれて老僕元吉は好摩ステーションまで従へたり。
かくて我が進路は開きぬ。かくして我が希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ。」
♪当時、啄木が生活していた渋民には停車場はなく、渋民駅ができたのは、昭和25年(1950)になってからのことです。戦前の「好摩ヶ原」の様子を写した絵葉書によると、「好摩ヶ原」には、鈴蘭が群生し、白樺の林もあったようです。
好摩ヶ原
鈴蘭と白樺の林
霜ふかき好摩の原の
停車場の
朝の蟲こそすずろなりけり
ふるさとの停車場路の
川ばたの
胡桃の下に小石拾へり
千萬世のむかし、天の穂の
露ひと雫野に落ちて
うるほひ沁みし惠まれの、
さは、花穂のくはし芽の
花とし咲くや、世々に、また
今もよ咲ぬ。野はひろく、
空蒼き世に、朽ちぬ日の
常磐心のときめきに。
「野の花」の一節 啄 木
♪白樺林を抜ける風。陽の光。鈴蘭などの花々。岩手山。春には、花々のなかを何千何万もの蝶が舞う。そして爽やかな夏が過ぎ、秋も終りの頃の季節。啄木は、ひたすら、東京への道を、決意を持って、霧の深いなか、好摩ステーションへと向かったのでしょう。上り汽車を待ちながら、蟲の声を聴き、歌を詠んでいた16歳の少年の姿が想像されます。
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♪盛岡行きの上り列車が来るまでに40分ほど、待ち時間があるので、駅周辺を歩いてみました。駅のまわりは、住宅街となっていて、「好摩ヶ原」の面影は感じられませんでした。
♪好摩駅から盛岡へ帰る途中の車窓からは、雑木林などが見え、ゆっくり、散策すれば、まだまだ、この辺りでは、啄木の時代の自然を肌で感じることが、できるのではないか、と思いました。車中、おばあさんたちが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本対アメリカ戦のことを、東北弁で話しているのが印象的でした。
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♪東日本大震災後(平成23年3月)、5月15日には好摩駅舎が整備され、以前、駅構内にあった啄木歌碑は新駅舎2階の切符購入室内に移されているとのことです。(参考:「たかしの啄木歌碑礼賛」)
参考文献
『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』 筑摩書房、1980.
(平成21年3月24日 記)(平成30年9月19日 追記)