場 所:小樽公園:北海道小樽市花園5丁目
建 立:昭和26年11月3日(小樽啄木歌碑建設期成會)
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思ふ
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♪北海道へ行った折,小樽に立寄り石川啄木の歌碑を探してみることにしました。小樽には,いくつか啄木の歌碑が点在するようですが,今回は,そのなかで小樽公園の歌碑を見ることにしました。
♪何年振りでしょうか。羽田空港から空路,北海道に渡りました。新千歳空港に降り,すぐに空港ビルの地下からJR北海道の快速エアポートに乗り継ぎで,小樽に向かいました。
♪エアポートは,千歳線の新千歳空港駅から北広島駅,札幌駅を経由して,函館本線に進入する快速電車です。銭函ぜにばこ駅から浅里駅間は石狩湾を望む波打ち際を走ります。車窓からみる海岸線の風景は素晴らしいものでした。啄木がみた風景です。銭函駅は,映画「駅/STATION」のロケ地としても有名な駅です。
♪小樽駅の一つ手前の南小樽駅で下車、駅前からタクシーで小樽公園に向かいました。小樽の町を,ゆっくり散策しながら,歩いて公園まで向かえばよかったのですが,陽が落ちないうちに,歌碑をみつけたいと思い,タクシーを利用しました。
♪はじめての土地へ行って,時間の制約のなかで,目的の歌碑や石碑をみつけるのは,そう簡単なことではありません。最近では,ネット上に,いろいろな方が,歌碑の訪問記を書かれていますので,それを頼りに探すことができるようになりました。
♪小樽公園内の啄木の歌碑は,公園入口左手の広場の奥に建てられていました。自然石(仙台石)の立派な歌碑でした。歌碑の背景には,黄葉の木々がみえ,午後の柔らかな日差しを浴びて,静かに建っていました。
♪碑陰に回ってみました。次のような説明文が刻まれた石版がはめ込まれていました。
明治四十年九月末小樽日報創業に招
かれ詩人石川啄木は来樽した 在社
三ヶ月志望の記者生活を快よく働い
て独特の健筆を揮った 其頃を追想
した「かなしきは小樽の町よ歌ふこ
となき人人の声の荒さよ」は今も市
民に愛誦されて居る 翌年一月漂遊
を続け釧路新聞に轉じたが四月素志
を遂げ上京し困窮の生活を闘ひなが
ら不朽の彼の文學を築き上げた 明
治四十五年四月十三日薄倖不遇の生
涯を終ったのは二十八歳である
彼が愛し懐しんだ小樽の市民はこの
永遠に若い詩人を讃頌して記念の歌
碑を建立した
昭和二十六年十月
小樽啄木歌碑建設期成會
撰文 小樽啄木會
放書 宇野 靜山
施工 田村 孝雄
♪説明文のなかには,啄木が「小樽」を読み込んだ歌が,市民に愛誦されているとあります。啄木を愛する小樽の方々のかなしい思いが伝わってくるようです。
かなしきは小樽をたるの町よ
歌ふことなき人人ひとびとの
声の荒あらさよ
♪啄木が小樽に滞在したのは,明治40年(1907)9月27日から明治41年(1908)1月19日までの3か月ほどのことでした。その間「小樽日報」の記者として活躍しています。その後,「釧路新聞」での記者の仕事を得ますが,そこでの生活も長くは続きませんでした。上京を決心するのは,その年の4月23日のことです。旭川経由の釧路行は,啄木にとって,最果ての地への旅と感じられたようです。
♪啄木は,冬の暗く,寒い時期を小樽で過ごしたことになります。函館,札幌,小樽,釧路での北海道の生活は,啄木にとって,経済的に余裕のあるものではなく,精神的にも快いものではなかったようです。
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♪啄木の日誌(日記)4)5)を見てみます。
明治40年 (1907) 22歳
9月27日:札幌―小樽:社の方より給料まだ出来ざれど,西堀君に立かへて貰つて小樽に向ふこととせり。午后四時十分諸友に送られて俥を飛ばし,汽車に乗る。雨中の石狩平野は趣味殊に深し,銭函をすぎて千丈の崖下を走る,・・・潮みちなば車をひたさむかと思はる。海を見て札幌を忘れぬ。
なつかしき友の多き函館の裏浜を思出でて,それこれを過ぎし日を数へゆくうちに中央小樽に着す。
姉が家に入れば母あり妻子あり妹あり。
10月2日:小樽:出社す。夕方五円だけ前借し黄昏時となりて,荷物をばステーションの駅夫に運び貰ひて,花園町十四西沢善太郎方に移転したり。室は二階の六畳と四畳半の二間にて思ひしよりよき室なり。ランプ,火鉢など買物し来れば雨ふり出でぬ。
11月6日:小樽:花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る。
12月26日:小樽:日報社は未だ予にこの月の給料を支払はざりき。
明治41年 (1908) 23歳
1月18日(釧路への旅立ち):小樽に於ける最後の一夜は,今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つて行くべき手廻りの物や本など行李に収めて,四時就床。明日は母と妻と愛児とを此地に残して,自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ!!
♪啄木は,小樽について次のように書いています。(「小樽日報」第1号 明治40年10月15日)
「予は飽くまでも風の如き漂流者である。天下の流浪人である。小樽人と共に朝から晩まで突貫し,小樽人と共に根限りの活動をする事は,足の弱い予に到底出来ぬ事である。予は唯此自由と活動の小樽に来て,目に強烈な活動の海の色を見,心の儘に筆を動かせば満足なのである。・・・予が計らずも此小樽の人となって,日本一の悪道路を駆け廻る身となったのは,唯気持ちが可いのである。」
♪「小樽日報」には,野口雨情とともに入社します。三面を担当することになるのですが,小樽に来る前の札幌で,北門新聞社の校正係の仕事を紹介したのは,雨情でした。「札幌時代の石川啄木」と題して,啄木の印象を次のように書いています。啄木の様子をよく著していますので,少し長くなりますが,引用しておきます6)。
ある朝,夜が明けて間もない頃と思ふ。
『お客さんだ,お客さんだ』と女中が私を揺り起す。
『知つてる人かい,きたない着物を着てる坊さんだよ』と名刺を枕元へ置いていつてしまつた。見ると古ぼけた名刺の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある,啄木とは東京にゐるうち会つたことはないが,与謝野氏の明星で知つてゐる。顔を洗つて会はうと急いで夜具をたたんでゐると啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持つて洗ひ晒しの浴衣ゆかたに色のさめかかつたよれよれの絹の黒つぽい夏羽織を着てはいって来た。時は十月に近い九月の末だから,内地でも朝夕は涼し過ぎて浴衣や夏羽織では見すぼらしくて仕方がない,殊に札幌となると内地よりも寒さが早く来る,頭の刈方は普通と違つて一分の丸刈である,女中がどこかの寺の坊さんと思つたのも無理はない。
『私は石川啄木です』と挨拶をする。
『さうですか』
私は大急ぎに顔を洗つて,戻つて来ると,
『煙草を頂戴しました』と言つて私の巻煙草を甘うまさうに吹かしてゐる。
『実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました』
『煙草を売つてませんか』
『いや売つてはゐますが,買ふ金が無くて買はれなかつたんです』と,大きな声で笑つた。かうした場合に啄木は何時も大きな声で笑ふのだ,この笑ふのも啄木の特徴の一つであつたらう。
♪釧路には,小奴こやつこがいました。雨情は釧路時代の啄木について「石川啄木と小奴」のなかで,次のように書いています7)。
石川は人も知る如く,その一生は貧苦と戦って来て,ちょっとの落付いた心もなく一生を終ってしまったが,私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であったやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽くしてくれたからである。・・・いはば石川の釧路時代は,石川の一生中一番興味ある時代で,そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感じるのである。
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♪小樽は詩集『雪明りの路』で知られる伊藤整の故郷でもあります。その伊藤整が『日本の詩歌 5 石川啄木』1)の巻末に「詩人の肖像」と題して,啄木について語っています。伊藤整の小樽への想いが,重なります。
「函館に渡り,その町の弥生小学校の教員となった。間もなく函館の大火にあい,札幌に移り,さらに小樽,釧路と新聞記者としての生活を一年ほどした。その間彼は,ほとんど詩歌の制作から離れ,新聞に雑文を書き,田舎新聞記者としての粗暴な生活をつづけ,筆は荒れた。」
「正岡子規は啄木より二十年前に,歌を写生という真実に結びつけることで甦らせた。啄木は,歌をその時その人の心の短いつぶやきたらしめることによって,もっと大きな生命を与えたのである」
♪その後、啄木は、釧路から岩手県宮古浜むかう帆前船に乗って上京。その様子は、雨情によると、「おおきな声ではいはれませんが、こつそりと夜だちしてしまつたのです。」経済的に苦しかったは、啄木は、あちこちで、不義理を重ねていたようです。
♪森鴎外が中心となって発刊された新雑誌「スバル」で,木下杢太郎(太田正雄),吉井勇とともに同人となったのは,明治42年(1909)1月のことでした8)。
♪生涯,経済的に恵まれずに,あこがれの東京で,病に倒れ,才能ある啄木の未来が断ち切られたのが,惜しまれます。啄木が,小石川(現・東京都文京区5-11-7)で亡くなったのは,明治45年(1912)4月13日のことでした。27歳の若さでした。
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♪小樽駅から小樽運河へつながる大通り(中央通)に面したお寿司屋さん(おたる大和家)に入って,昼食のランチの握り寿司を注文しました。ご主人が秋刀魚の握りを食べさせてくれました。やはり,港町小樽の新鮮な魚介類のお寿司は,一味,違いました。
♪小樽と言えば,硝子工芸が有名です。中学生のころ,しなびた温泉宿でみたランプの明かりが,蘇ります。しずかに舞い落ちる雪の降る寒い朝の廊下の隅を,ぼんやりとしたランプの光りが照らしていました。
♪小樽駅から小樽運河へと続く中央通りを下って,色内2丁目の交差点を右折。境町本通りに入り,北一硝子に向かいました。通り沿いには,北一硝子の各店舗のほかに,小樽オルゴール堂など,お洒落な店々が立ち並んでいます。昔の街道筋の面影が残ります。お目当ての硝子細工の品はありませんでしたが,硝子の持つロマンチックな温もりを感じることができました。
♪メルヘン交差点から坂道を上りつめると,海が見えてきます。冬になると雪の嵐がくるのでしょうか。海から山がせりあがる小樽の港町を感じられる風景です。
♪盛岡・滝沢村での雪のある生活に慣れていた啄木でも,冬にこの坂道をのぼるのは辛かったのではないでしょうか。小樽の浜から風に舞い上がる雪は,身に沁み入るものだったことでしょう。
♪南小樽駅から千歳空港にもどりました。備後屋民藝店の岡田弘(ひろむ)さんに教えてもらっていた札幌に本店のある青盤舎(せいばんしゃ)の空港内の売店(千歳店)に寄ってみました。手作りの優佳良織のキーホルダー(北海道伝統美術工芸村)とアイヌ木彫の靴ベラを購入しました。
♪空港内の売店を,いろいろ見て歩いていると,小樽硝子を扱う「小樽工藝舎」のお店があることに気づきました。この売店に,小樽で探し回っていた硝子細工の小物がありました。「小樽工藝舎」の本店は,小樽運河のほとりにあるそうです。次回は,札幌の青盤舎とともに,小樽運河工藝館も,是非,訪ねてみたいと思います。(小樽運河工藝館は、東日本大震災後の平成23年11月に閉館。青盤舎は平成24年閉店。)
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♪帰途、雨が降り始めました。雲の上にでると,茜色の夕陽のなかに富士山が黒く浮かんでいました。羽田上空,トワイライトの夕暮れのなかを,飛行機は,暗闇で明るさを増した誘導灯を目標に降下しはじめました。誘導路が,小樽の雪明りの路のようにもみえました。
♪新鮮な作物,そして自然が豊かな小樽。いずれは,生まれ育った駒込を離れて,水と空気が綺麗で,食べ物の美味しい,静かな北海道の地方都市で暮らしてみたい,そんな贅沢な幻想を持った小樽行となりました。
参 考 文 献
1)『日本の詩歌 5 石川啄木』. 中央公論社,1967.
2)『石川啄木歌集(日本詩人選 04)』. 久保田正文編. 小沢書店,1996.
3)『石川啄木』 新潮社,2002.(新潮日本文学アルバム 6)
4)『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』. 筑摩書房,1980.
5)『石川啄木全集 第六巻 日記Ⅱ』. 筑摩書房,1980.
6) 野口雨情著:「札幌時代の石川啄木」:『定本 野口雨情 第六巻』.未来社,1886. pp.420-425,
7) 野口雨情著:「石川啄木と小奴」:『定本 野口雨情 第六巻』.未来社,1886. pp.329-336,
8)『石川啄木全集 第八巻 啄木研究』. 筑摩書房,1980.
9) 『啄木文学碑のすべて』(株式会社白ゆり学習社出版部編 1986.)
(平成22年11月27日 記す)(平成30年9月26日 追記)(令和4年6月4日 リンク更新)