♪戦後の『日本醫事新報』誌を,一冊一冊,探索するなかで,「本邦に於けるペスト研究の偉業」(1)(2)(村山達三著)という文献をみつけました。1)2)
♪そのなかに,明治28年(1895)に撮影された「ペスト研究記念撮影(明治廿八年)」と題した集合写真がありました。
♪木下正中(せいちゅう)3)(当時醫科大學4年生)が,ペスト(黒死病)の調査・研究のために青山胤通(たねみち)4)5),北里柴三郎6)7)8)に随行して,香港(英領)に渡ったのは,明治27年(1894)6月のことですから,記念写真は,帰国後,翌年に撮られたものと思われます。明治28年(1895)といえば,陸奥むつ宗光むねみつが外務大臣を務めていた時代にあたります。
♪明治27年(1894)5月末,清国(広東地方)と香港にペストが流行し,船舶の検疫が行われていました。ペストの流行は,外交・軍事上の問題でもありました。(清国及香港ニ於テ流行スル伝染病予防ノ為メ船舶検疫ヲ施行ス)
♪香港でのペスト患者数を,中川香港領事は,内務省に明治27年(1894)5月27日発の電報で次のように報告しています。
[在香港中川領事 一千八百九十四年五月二十七日発]
五月二十一日正午まで患者およそ三百四十名,死亡二百七十一名,爾後二十六日正午まで死亡百十四名,治療中の者七十二名,目下衰況に傾けりと信じらる。
♪記念写真には,青山胤通,北里柴三郎のほかに,木下正中(せいちゅう)(のち東京帝國大学醫科大學・産科学婦人科学教室教授),宮本叔9)10)(のち東京駒込病院長),高田畊安(こうあん)11)(のち茅ヶ崎・南湖院長),石神亨(とおる)12)(海軍軍医・のち大阪濱寺石神研究所[石神医学紀念研究所]),黒井悌次郎(ていじろう)(のち海軍大将),中川恒次郎(つねじろう)(香港領事),岡田義行(内務省事務官)の9名が写っていました。
♪村山達三の論文には,記念写真の出典についての説明はなく,具体的な撮影場所・日時などは不明です。撮影された明治28年(1895)当時の医学雑誌や新聞記事を調査する必要がありそうです。
♪前列に,黒井悌次郎,中川恒次郎を挟む形で,青山胤通,北里柴三郎が和服姿で着席しています。黒井悌次郎は軍服姿です。スタジオ撮影のようにも見えます。
♪記念写真に納まっている9名のうち,香港に派遣されたのは,青山胤通,北里柴三郎,宮本叔,木下正中,石神亨,岡田義行の6名でした。
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♪「黒死病調査トシテ中央衛生會委員派遣ノ件」(明治27年5月28日)と題する公文書が国立公文書館に残っており,デジタルアーカイブスになっていました。
♪この公文書は,内務大臣臨時代理司法大臣の芳川顯正(よしかわ・あきまさ)から内閣総理大臣の伊藤博文宛に出されたもので,ペスト調査のための香港派遣は,内務省の中央衛生會委員であった北里柴三郎(内務技師醫學博士)と青山胤通(醫學教授醫學博士)の2名であったことがわかります。
♪内務省(伝染病研究所)からは,北里柴三郎(病原菌追及)を,文部省(大學)からは,青山胤通(病理・臨床)を派遣したともいえそうです。公文書の最後の部分に,青山胤通の嘱託派遣について,文部大臣に了解を得ているとの記述があります。あくまでも,香港への派遣は,内務省の所管であったことがわかります。
醫科大學教授醫學博士青山胤通派遣嘱託之儀ハ文部大臣ヘ協議済ナリ
♪ドイツ留学から帰国した北里柴三郎が大日本私立衛生會の委嘱により同會設立の伝染病研究所所長となっていたのは,明治25年(1892)11月30日,香港行きの2年前のことでした。
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♪安西安周(医史学者)は,「東都掃苔記」の連載記事13)で「木下家の墓」を取り上げるとき,木下正一(せいいつ)(正中の長男)を訪ねて,木下正中の日記のなかに,香港行きの記述をみつけています。
青山氏香港行ノ事ヲ聞キ随行を許サルルヤヲ問フ,自費ナラ可ナラントノ答ヲ聞ク 直チニ京都ニ書状ヲ発ス
♪息子・正中(せいちゅう)からの香港行きについて書状を,父・凞(ひろむ)は,どのような気持ちで読んだのでしょうか。後年,凞が記した「木下凞翁懐旧談」14)15)のなかに,その思いの一端が記されていました。
正中香港行に際し恰あたかも卒業の期に達したれば程なく一医学士の資格を得るものなり。殊に遠航をもなす身なれば余の身体自覚に煩ふ所なきも不知しらず不識しらずの中に内臓の疾病あるや図るべからず。一応診察を這げ置くは汝の業務上将た孝養上の本意なるべしとて診察せしめたるに思ひきや心臓に疾患あらんとは即大動脈口及僧房弁に噪鳴を聴取するとて正中の驚愕痛心一方ならざりしも自覚に今何の苦悩なき以上は急に障害を起すに至らざるべし。此病を認めたる以上は十分攝養を探るべし。躊躇せず旅装を整ふべしとて其行を奨めました。航路は横濱より解かい䌫らん[とも綱を解くこと]するとならば見送の為め東上の次でを以て「ベルツ」教師に診ひ大動脈口硬變の診断を受け猶軽症なれば善く攝生をなせ急變はあるべからずと懇癒せられ其意を諒して帰西せり。
♪凞は,正中の香港行きにあたって,健康診断を受けさせていました。その結果,大動脈口および僧房弁に心雑音があることわかります。とくに日常生活に障害はないことがわかりましたが,念のためベルツにも診察を受けています。
♪ベルツの診断は,「大動脈弁口硬變」。軽症とのことで,旅装を整え,香港に向かわせることになるのです。正中のペスト調査に対する真摯な思い,なにより父の子に対する慈しみの心,そして,患者さんに対する慈愛の精神が,正中の香港行きを実現させたのではないでしょうか。
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♪新橋停車場,横濱港からの出発の様子を新聞は,次のように報じています。
北里,青山両博士が香港へ出発[明治27年6月6日 時事]
黒死病調査のため,香港へ派遣の命を受けたる内務技師北里柴三郎,医科大学教授青山胤通の二氏は,随行四名とともに,昨日午前八時五十分新橋発の汽車にて出発したり。同停車場まで二氏に行を見送りたるものは,長與宮中顧問官,三浦東京府知事,帝国大学の博士,学士,芝区衛生會員等を始めとして,朝野の人士無慮三百名。二氏の一行は横浜に赴き,同港を昨午後三時に出帆する仏国郵船に乗り込むはずにて,同船は神戸へちょっと立ち寄るのみにて,香港へ直行するものなりという。
♪一行は,6月12日に香港着。14日から英医ラウソン(Lowson, James Alfred [1866-1935])らと協力して,調査・研究に取り掛かることになるのですが,その1週間後の6月20日午後,日本では,地震(明治東京地震)が起こりました。そのときの模様をベルツは日記のなかで次のよう記しています16)。
六月二十二日(東京)[日付は原文のママ]
午後二時半強震。もう一揺れ揺れたら東京の過半は崩壊した事であらう。・・・余が家は幸にして何事も無かった。木材の骨組を有する日本家屋と和洋折衷の家屋とは損害最も軽微なることが明かにされた。これは家屋構造に対する一教訓であろう。
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♪香港で,調査・研究にあたっていた青山胤通と石神亨がペストに感染して死線を彷徨するという事態が発生します。6月28日の夜,香港ホテルで開催された晩餐會の席上で青山胤通は体調を崩します。木下正中と宮本叔は,その前から,なんとなく,青山の体調の変化に気づいていました。
♪青山胤通は,その時のことを次のように,記しています2)。
解剖を終り予は午後二時半頃頗る著明に食事の美ならざるに気付きたり。食後階段を登る際或る腕の運動に際して左腋窩に於いて軽度の疼痛を覚えたれば,・・・食事は味なく衰弱疲労を覚え屡々帰宿せんと思惟せりき。
♪正中の明治27年(1894)6月28日と29日の日記には,次のように記されています。医学生が教授を診ている緊迫した様子が伝わってきます13)。
明治27年6月28日
青山博士本日午後来左腋窩ニ疼痛腺腫ヲ覚エ,尋テ夜少シク発熱ス。キニーネ1.0頓服
明治27年6月29日
青山博士解熱セズ
♪青山胤通の伝記4)のなかにも,ペスト研究・発病時の木下正中の活躍が描かれています。
・さて先生が作業を進めるに当って第一の困難は言語の点で,初め日本人の通弁を傭ふたが,伝染を恐れて逃げ出してしまうた。幸ひ男の看護人で英語と支那語の解るものがあったから,先生の質問を木下氏が聴き,それを看護人に話し,更に看護者に伝へるといふ方法を取った。
・先生はラウソン氏の勧めを容れ,二十九日の夕刻汽艇に乗って同氏所有の病院船ハイジア号に移ることとなり,同船に石神氏も希望に依って同船に入院した。病院船では宮本,木下両氏が同室して代る代る先生と石神氏を看護し,其の傍ら材料及びプロトコールの整理や報告書等の仕事もしなければならぬので,夜もおちおち眠れぬ程忙しかった。
・病院の物置部屋と小使室を臨時解剖室に使用し,一間半四方位の板の間に屍體を横たへ,其の傍らに棺を置き,先生がタタキに立って解剖するのを上の板の間から宮本氏若くは木下氏が踞んで助手を勤め,そして何方か一人は日誌を書くのであった。
♪青山胤通,石神亨がペストに罹患したことは,日本国内でも,大きく取り上げられる事態となります。
青山博士,石神助手がペストに感染,重態[明治27年7月3日 時事]
黒死病取調べのため先般北里博士と共に香港に赴きたる医学博士青山胤通氏並びに海軍大軍医研究所助手石神亨氏は,黒死病に罹りたる旨,一昨日,北里博士より内務省へ電報ありしよし。
青山博士,危篤状態に[明治27年7月8日]
北里博士より昨七日午前八時二十二分香港発にて,高田衛生局長に達したる電報は,左のごとし。
青山,昨夜より心臓の働きはなはだ悪し。一昨六日午後発の電報は,二人とも快方に赴くとあり。かつ北里博士は,日を期して帰朝の途に上るとまで決心するほどなれば,快復の見込み充分なりしものと見えたるに,わずか一夜の中に容体一変したるこそ,誠に歎わしき次第なれ。しかし治療,看護ともに怠りなければ,快方に赴くその望みなきにあらざるへし。
♪大學(東京醫學會,國家醫學會,學士會)からは高田畊安11)を,伝染病研究所からは高木友枝17)を,急遽,現地に向わせることになります。
♪高田畊安と石神亨が知り合ったのは,このときのことで,病院船ハイジア内のことでした。
♪高田畊安は,京都府醫學校を明治17年に卒業(第1回生)し,その後,さらに東京大学医学部に進んだ人物です11)18)。香港のペスト流行に際して『黒死病論』(高田耕注)安編述 医海時報社,明治27年7月6日発行)を著しています。
注)畊安と耕安:「こうあん」名前の漢字表記:戸籍上は,「畊安」ですが,「畊」には,新字体の「耕」をあてることもあり,本人自身も「耕安」の文字を使うことがあったそうです11)。
♪高田畊安は,重症の脚気を患ったとき,同志社に新島襄にいじまじょうを訪ねて,同志社教会に通い,明治15年(1882)7月にラーネッド牧師より洗礼を受けています。
♪東京に出た高田畊安は,下谷教会伝道師・東京YMCA幹事であった木村熊二(西片町10番地)が明治21年(1888)5月13日に組織した「大学基督教青年会」に参加しています。この会員には,のちに各方面に活躍した人々が多く,木下正中,下瀬謙太郎,藤浪鑑の名前もみえます19)。
♪石神亨(熊本医学校出身)もクリスチャンになった人で京都の佐伯理一郎(熊本医学校出身・同志社病院長・京都看病婦学校長)と親交がありました12)。
♪高田畊安の実父は,増山守正(丹波・綾部藩の典医)20)で,維新後,畊安が学んだ京都府医学校の事務取扱を務め,その後,上京して帝室博物館歴史部勤務となった人物です。漢文の基督教解説書『天道溯原』を畊安に勧めたといわれています11)。
東京帝室博物館正面之圖(絵葉書):コンドル設計(明治14年)の旧東京帝室博物館(震災で倒壊)
♪高田畊安は,明治25年(1892),勝海舟の孫・疋田輝子と結婚し,ペスト騒動が起こった明治27年(1894)の12月には,海老名えびな弾正だんじょう(熊本洋学校出身)が関係した本郷教会の婦人部の要請により,看護法学習会を開催しています11)。
♪高木友枝17)は,伝染病研究所に勤務したのち,台湾総督府医院長兼台湾総督府医学校長となった人物です。
◇
♪木下正中は,卒業試験を控えていた関係で,研究標本の一部を携えて,香港を単身で出発,長崎経由で,無事に東京に戻りました。卒業試験に合格後,正中は,スクリバの弟子になりました3)4)。
♪軽症であった石神亨は,発病後,3週間を経ると意識も快復して痛みも減じます。帰国後,京都に佐伯理一郎を訪ねて,木下正中への感謝の気持ちを次のように述べています21)。
石神氏は帰朝の後具さに当時の模様を私に話して曰く,あの時若もしも木下さんが居なかったら,看護は皆英語の人而已のみなりし故,我々の不自由は実に言語に盡つくされませんでした。
♪佐伯理一郎と正中の父・木下凞とは,半井澄の紹介で親交を持ち,杉田家や木下家の屋敷跡がある若狭小濵へも,避暑に行っていたそうです21)。
◇
♪青山胤通も,腺腫の切開を27か所も行い,神経衰弱になるなど,重態だったのですが,九死に一生を得て,無事に快復。病後の衰弱をおして8月21日香港を出発,8月31日に帰国しています。帰国後は,佐藤三吉(外科)の助手(久保郁蔵)をつれて,箱根塔ノ澤に2週間静養しています。
青山博士も全治,帰国[明治27年9月1日 東京日日]
医科大学教授正六位勳四等賜旭日小綬章医学博士青山胤通氏は,昨日を以って香港黒死病戦地より凱旋したり。
◇
♪木下正中の同期に北島多一(のち北里研究所長・慶應義塾大学医学部長)がいます。北島は,木下が亡くなったとき,その追悼記事のなかで,香港行きについて触れています。同級生の北島の木下への思いが伝わってきます22)。
君は卒業の前年,青山先生が北里先生と共に香港のペスト研究に行かるゝを聞くや,奮然随行を志願し許されて同行したが,青山先生の罹病となり其の報告の為に早く帰られた。然し此の研究に学生として参加する如き一寸驚くべき行動も,学生も其位の元気がなくてはいかぬと,吾々は大いに敬意を表したので
あった。
◇
♪北里柴三郎と北島多一の伝染病研究所が内務省から文部省に移管されたのは,記念写真が撮られた明治28年(1895)から19年後の大正3年(1914)のことです。(勅令 第二百二十一号)北里柴三郎は,北里研究所を創設し,青山胤通が第2代所長となった伝染病研究所は,のちに東京大学医科学研究所へと形を変えていくことになります。
♪木下正中の長男・正一(せいいつ】の長女・恵子の夫は,内田清二郎(東大伝研教授・予研部長)です。さらに,正中の六女・弘子(ひろこ)の夫となる川喜田愛郎(よしお)23)が,東京帝国大学を卒業して,長與又郎が所長(第4代)を務める「東京帝国大学附属伝染病研究所」に入ったのは,昭和7年(1932)のことでした。
♪川喜田愛郎は,昭和24年(1949)12月には,千葉大学へ移り,細菌学教室を主宰して,のちに千葉大学学長(第5代)を務めました。正中の伝染病への思いは,娘婿たちに引き継がれていくことになります。
◇
♪「木下正中の香港行き:「ペスト研究記念撮影」(明治廿八年)」と題する一枚の写真は,後世のわれわれに,いろいろなことを,語りかけてくれます。香港でともにペスト菌と戦った医家達は,その後,それぞれの道を,それぞれの信念を持って歩み,医療・研究に携わることになります。
(敬称は省略させていただきました。)
(平成23年8月28日 記す)(平成31年2月20日 追記)
参考文献
1) 村山達三著. 本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本醫事新報 第1369号 PP.32[1928]-34[1930] 昭和25年7月22発行
2) 村山達三著. 本邦に於けるペスト研究の偉業(2). 日本醫事新報 第1370号 PP.31[1995]-34[1998] 昭和25年7月29発行
3) 木下實著:「木下正中」(私家版・電子版)
4) 「青山胤通」鵜崎熊吉著. 青山内科同窓会,昭和5年発行(非売品)
5) わが師わが友(1):青山胤通先生(稲田龍吉著). 日本醫事新報 第1242号 pp.22[22]-23[23]. 昭和23年1月1日.
6) 「北里柴三郎伝」宮島幹之助編輯. 北里研究所,昭和7年発行(非売品)
7) 「北里柴三郎と緒方正規 日本近代医学の黎明期」野村 茂著. 熊本日日新聞社,平成15年.
8) わが師わが友(2):北里柴三郎博士(中山壽彦著). 日本醫事新報 第1243号 pp.14[66]-15[67]. 昭和23年1月21日.
9) わが師わが友(14):宮本叔先生(村山達三著). 日本醫事新報 第1256号 p.13[545]. 昭和23年5月22日.
10)東都掃苔記(61):宮本 叔博士の墓. 日本醫事新報 第1643号,p.48.(昭和30年10月22日)
11)「南湖院 高田畊安と湘南のサナトリウム」(茅ヶ崎市史ブックレット 第5集)茅ヶ崎市史編集委員会編. 大島英夫著. 茅ヶ崎市発行,平成22年(3刷).[入手先:茅ヶ崎市史ブックレット]
12)「故石神亨紀念誌」石神研究所同窓會発行編輯. 大正10年12月15日発行.
13)東都掃苔記(77):木下家の墓. 日本醫事新報 第1659号 p.60. 昭和31年2月11日発行.
14)木下凞ひろむ翁懐旧談. 京都醫事衛生誌 第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)
15)木下凞ひろむ翁懐旧談. 京都醫事衛生誌 第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)
16)「ベルツの『日記』」濱邊正彦譯. 岩波書店刊,昭和14年.
17)わが師わが友(58):高木友枝さんの思出(荒井 恵著). 日本醫事新報 第1301号 p.19[615]. 昭和24年4月2日.
18)「京都府立醫科大學八十年史」京都府立醫科大學創立八十周年記念事業委員會編輯. 昭和30年8月1日発行.
19)「日本YMCA史」奈良常五郎著. 日本YMACA同盟,1959.
20)東都掃苔記(69):増山守正翁の墓. 日本醫事新報 第1651号 p.66. 昭和30年12月17日発行.
21)木下正中君を悼む. 佐伯理一郎著. 産婦人科の世界 3(3):17-19, 1952(昭和27年3月)
22)木下正中博士の想い出(その一)北島多一著. 日本醫事新報 第1446号 pp.63[179]-64[180]. 昭和27年1月12日発行.
23)人-153-:川喜多愛郎氏. 日本醫事新報 第1342号, p.72[148].(昭和25年1月14日)(川喜多の「多」の字は「田」の誤記。川喜田が正しい)