♪昭和11年(1936)12月7日(月),青山胤通の没後20年にあたって座談会が開かれました。主催したのは,日本醫事新報社長の梅澤彦太郎。池之端(下谷茅町)の「濱のや」(割烹・濱乃家)を会場として,午後5時から開始されています。
♪この座談会には,明治27年(1894)に,ペスト研究のために青山胤通に同行して香港へ渡った木下正中も出席しています。東京帝大(医学部)から,錚々たる面々が,出席しています。そのなかに岡田和一郎もいました。
♪岡田和一郎(耳鼻咽喉科)は,青山内科門下生ではないのですが,第二醫院で佐藤三吉(外科)の助手をしていた当時,青山内科と佐藤外科の医局が向かいあっていた関係から,青山胤通と近付きになっていたのでした。
青山胤通先生 没後20年の座談会
開催年月日:昭和11年12月7日(月)午後5時より。池之端「濱の家や」にて。
出席者:青山徹蔵(東京帝大教授),入澤達吉(東大名誉教授),稲田達吉(東大名誉教授),岡田和一郎(東大名誉教授),木下正中(前東京帝大教授),坂口康蔵(東京帝大教授),長與又郎(東京帝大教授),永井 潜(東大医学部長),林 春雄(東大名誉教授),林 曄はじめ(東京府医師会長),眞鍋嘉一郎(東京帝大教授),梅澤彦太郎(日本醫事新報社社長)
♪この座談会の出席者に長與又郎(東京帝国大学総長・第12代)がいました。長與は,その日の日記1)2)に次のように記しています。
[昭和十一年十二月七日]月 晴 六時 池の端浜の家。青山[胤通]先生座談会(日本醫事新報社主催)入澤(座長),岡田,林(春雄),木下,稲田,林曄,眞鍋,坂口,永井,及び青山徹蔵諸氏。 既に伝記あり。この夕は主に人としての青山先生を物語る。逸話,行跡に就て話し合えり。徹蔵君 青山家保存せる楷書遺墨を示さる。 玩物喪志 師者傳道 気韻高き書風なり。木下氏香港ペスト研究当時のことを語る。小冊子を頒つ。
♪『長與又郎日記(上)(下)』1)2)には,参考文献や註が丁寧についています。この青山胤通の座談会の参考文献に,『近代名醫一夕話』(日本醫事新報社 昭和十二年)とありました。
♪『近代名醫一夕話』3)は,以前,古書店で入手しておいたはずです。書棚を探してみました。ありました。青山胤通の座談会は,冒頭に載っていました。座談会の集合写真や,長與又郎が日記に書いた墨跡(玩物喪志)も口絵に掲載されていました。村山論文4)5),中瀬論文6)のなかにも掲載されている「香港ペスト研究当時の記念撮影」もありました。
♪座談会のなかで,木下正中が配った小冊子も転載・収録され,香港でのペスト解剖室の見取図も添付されていました。
♪木下正中が,当日,配布した資料の実物は,みつかっていませんので,小冊子そのものの体裁などは,わかりませんが,この転載記事から,その内容を知ることができました。
『香港「ペスト」研究當時の追憶』 醫學博士 木下 正中 出かけたのは明治二十七年六月五日横濱解䌫の米船「リオ・デ・ヂャネイロ」號に乗り,その日,日清戦争が始まるならんと云ふ確かな報告をきいた。直行して十二日,目的地の香港に着いた。同地には「ペスト」が猖獗しょうけつ註)を極めて居ったから,その研究の為め青山,北里両先生が我国政府から派遣せられたのであるが,その随行として助手宮本叔君及わたくし(当時大学四年生)又海軍軍医石神亨(後大阪濱寺研究所長),内務屬岡田義行君が一行に加った。 偖さて六月十三日には香港政廰,英ゼネラルホスピタル,日本領事館,病院船(Hygeia)等を歴訪し,十四日より「ケネデー・タウン・ホスピタル」Kennedy Town Hospitalにて愈々いよいよ研究を開始した。これは元警察であったのを臨時病院とせるものである。病人は上下にて四十人許り居り英醫ラウソン氏Dr.Lawsonが治療あたり居ったのである。其病院の「ベランダ」に急造の「テーブル」をおき,青山,北里両先生は共に研究を始められた。 第一に困りたるは言葉の通ぜぬ事であった。患者の病歴や訴を聞くにしても先づ最初には日本人の通譯を傭ひたるが,恐ろしがりて直ちに逃れ去った。次には男の看護人にて印度人であったか,マニラ人であったか,其男は支那語及英語が出来たから先生の質問を先づわたしがきゝそれを看護人に話し,更に患者に傳へると云ふ方法をとった。又その時ウィリアムス獨英字書をも利用したのを記憶して居る。その男は暫くやって居ったが,その中に廣東に居れる日本人が来り,日本人だけにて通ずる様になり便利を得たのである。短時日ではあたが朝は早くから午後は遅く迄勉強したので解剖は十九體か,二十體出来た。解剖につきては相當人知れぬ苦心を経験したのであった。解剖室は實にひどきものにて物置か小使室を臨時使用したものである。(見取圖末頁掲載) 一間半四方位の處は板間,たたきの所にて青山先生が解剖せられ,上の間より宮本君かわたくしが踞しゃがんで手助けをなしたのである。どちらか一人は筆記をした。又窻からの監視者を兼ね,もし人が通れば窻を急ぎ締める役をつとめた。と云ふのは土地の人は解剖を極度に嫌忌けんきしてそれを知つたら大騒動が起りそうであったから,人目を極度に恐れたのであった。 解剖器機は一具だけしか持ち行かずメスは宿に持ち帰りて日本砥其他皮砥などを用ゐて砥ぎ,又鋸は直ちに切れなくなり困ったから,土地で一挺の外科用弓鋸を辛うじて探し当てて買求めた。脛骨を縦にひき切る事二本に及びたるがその為に宮本君と共に困難を感じたのであった。血の交りたる水の捨て處に困り考案の末「タール」を交えて色を變へ又悪臭を誤魔化して捨てる事にした。 解剖は上記の如く禁制であったから解剖するのは消毒すると云ふ名目の下に上記の部屋に持ち來り,解剖を行ったあとは看護人が充分始末して,釘附にしておくり出されたのである。 かゝる事は約二週間つゞきたるが二十八日より青山先生には終に「ペスト」に罹られ大心配をしたのであるが幸ひにして九死に一生を得られ「ペスト」研究上の立派な業績を貽のこされたのである。その日は先ず大體仕事も進行したから両先生が主人役となり香港「ホテル」に主として英国側の人々の招待會を催したのであった。 即ち政廰の関係者,市内の外人,醫師等にて研究の為に世話になった人々を招き一行は六人,客側は十二三人,全體にて二十人以内であった。所が其會が始まる前から青山先生の顔色がわるく少し熱があったので一同心配の種となり,先生がやられたのではないかと眉をひそめた。其前には日本人にて感染せるものがなかったのである。「ホテル」では,わたくしと石神氏は同室,その部屋は西と北をうけ,先生の部屋は西向きで暑かったから先づ部屋を換へる事となり先生はわたくしの「ベット」に就褥しょうじゅく註)せられわたくしは先生の「ベット」に移った。 その晩先生には苦痛を忍耐して主人の役目をはたされたが果して高熱となってそのまゝ就褥せられ,翌朝に至るも下熱しない。宴會の晩にも,カントリー氏,Dr.Cantleyは「ペスト」にあらずとした。この人は「ピーク」の上に病院を有せる有力な醫師であった。自分の病院にて治療せんと申し出たが,ラウソン氏が自分の病院船「ハイジア」號Hygeiaにて治療することになった。即ち二十九日夕刻同病院にひき移らるゝ事になった。然るにその時石神氏まだ熱なかりしが既に腋窩腺が腫れ居り,自らも違和を覚えられたと見え同時に入院を希望したが,同船へ乗る迄の気艇の中で既に悪寒あり次で発熱し,つまり同時に二人が病気となったのである。 石神氏は更衣の際二十八日夜腋窩腺に疼痛を覚えそれから注意しだしたのである。 病院船には宮本君とわたしと泊り込み,先生の看護には普通の看護人の外パアマーMiss pa’mar嬢と云ふ人が居った。それは横濱の港などをつくりたるパアマー氏の令嬢であると云ふことであった。大に親切に看護せられた。其他に英国,マニラの看護婦や支那人の看護人も居った。 青山先生及石神氏は各単独の部屋にて治療を受けられた。宮本君と私とは其の向側の室に同室して交代しつゝ看護につとめたが,顔を見せると先生には興奮されるゝ故顔をなるべく見せずして番をするやり方をとったのであった。 石神君は病勢の盛んな時に譫せん語ご注)状態になった。其頃には支那人の看護人を見れば「スパイ」と思ひ込み之を殺さゞるべからずとしたから宮本君と相談の上石神君の短刀を「カバン」の中より取り出した事を覚えて居る。石神君の方は病気が割合に軽く七月十九日わたくしが帰朝注)の途につく時は同君は神識じんしき注)既に明かになり,青山先生は熱もなく予後は確かに良きを認めたるも,大層感動性となって居られたからそれとなく暇を告げ,言葉に現はしたる挨拶はわざと避けたのである。 わたくしは卒業の試験を控へて居り,もう大丈夫なれば帰れと云ふ宮本君の言葉に従ったのである。標本は半分を持ち帰りたるが,夫は大きな缶が九つか十個あり,第二醫院におきたる故焼けたるならん。尚看護中はラウソンが八釜しく忠告しくれたるにより後には隔日に交代にて上陸した。 蠅は病院に沢山居り,陸の方は大変でケネデータウン病院には砂糖をおけば真黒になる程であった。蚊は余り気がつかず,ケネデータウン病院にお茶によばれる時は蠅が砂糖につく故,誰も砂糖は用ゐなかった。蚤もひどいことがなかった。 先生の病気と同時に,日本人の医師にて中原氏と云ふ人も「ペスト」に罹った。最後の解剖の手伝いをし宮本君かわたくしが筆記をなし,その人に臓器を洗はせる位の事をなさしめ石神氏が解剖の助手をした。その時の解剖は,あるひは肺「ペスト」ならざりしかと思ふ。その例が三人の伝染原ならざりしかと思ふ。 中原氏も感染し「ハイジア」號にて治療を受けたりしもこれは不幸にして死亡せられた。 先生は「ハイジア」號に入りてよりはわたくしと宮本氏と代りあひて材料及「プロトコル」の整理をなした。あの報告(大学紀要をさす)には先生の病気の後に代りてわたくしが記載せる為わたくしの名も残って居るのである。 北里博士は青山先生の発病後は,急造「バラック」にてその後研究を続けられた。見舞には始終来られて心配せられた。 エールサン氏はケネデータウン病院の下方にある急造「バラック」にて研究し居り,我々とは交通が殆どなかった様に思ふ。 黒井大尉(のち大将)は我々の行きたる当時一,二日彼地に居られ非常に世話になったが中川領事は北里博士の親戚の関係もあり大層よく世話をせられた。政廰及英国医師も優遇して呉れた。彼地にては既に肉眼的の所見にて種々発見する所があったが,例へば臨床上の方では譫せん語ごが患者にあるのか無いのか解らなかった。それは言葉が不通の為で青山先生などの病気で始めて譫せん語ごが解った様な次第である。万事その通りで実に隔靴掻痒かっかそうよう注)の感があった。主な研究は内地に帰られてから出来たのである。 解剖には勿論大に緊張して行ひ,又「コロヂウム」を用ひ,「ゴム」の手袋等は無かった。昇汞水にて洗ふ丈であったがその中に稀鹽酸註)を加へて使った。 × × × 青山先生は当時三十六歳,北里博士は三十九か四十,宮本君は二十九歳位,わたくしは二十六歳,岡田氏は三十三四歳,石神君は北里氏と同年か上位ならん。 わたくしの同行した理由は野次馬的であった。研究の方式などを実際に見せて貰へれば将来の参考になると云ふ事を単純に考へ先生に懇願したのであるが,父は喜んで承諾してくれた。 その時下瀬氏(謙太郎氏)と共に同じ下宿に住み居りしが,自分は行って見ることを先づ相談し,次で先生に伺ひに行くと同時に父に電報にて返事をして貰った。 × × × 後の事であるが看病の余暇に散歩の時上陸して見ると青山先生と石神氏の棺が用意せられてあった。立派な棺は急には間にあわぬためである。先生及石神氏は,死は免れぬものと思はれたからであった。 今から考へれば実に感慨無量で,死生の間に出入りして,それでこはいと云ふ様な感がなく,先生の病気を看病しても別に恐ろしいとは思はなかった。 尚顧みれば今日現存するのは北里男爵とわたくしのみとなったが,更に当時の事を追懐して故人のことを思ふの情洵に切なるものがある。(了)
注)
猖獗(しょうけつ):わるいものの勢いが盛んなこと。
就褥(しょうじゅく):病床に就くこと。
譫語(せんご):うわごと。神識(じんしき):意識
隔靴掻痒(かっか・そうよう):靴の外部から足のかゆい所をかくように,はがゆく,もどかしいことをいう。[広辞苑]
稀鹽酸(きえんさん):希塩酸
注)木下正中が帰京したのは、7月23日7)。
♪木下正中が下瀬謙太郎の妹・泰子やすこと結婚したのは,明治26(1893)のことで,香港へ向かう一年前のことでした8)。香港へペスト研究に向った夫の帰りを信じて待つ,妻の気持ちはいかばかりであったでしょう。強い気持ちを感じます。長女の篤子(とくこ)をさずかったのは,明治28年(1895)になってからのことでした。
♪下瀬謙太郎は,『近代名醫一夕話』の北里柴三郎の座談会(昭和12年[1937]6月1日)に参加して,木下正中とのペスト時代のことを述べていますが,このことについては,稿をあらためます。
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♪座談なかで,木下正中は,長與又郎や林春雄の質問にこたえ,青山胤通と石神亨に対して,どのような治療をしたかなどについても,述べています。
♪座談会の記録は,香港で、青山胤通と行動を共にした木下正中自身が語る「香港ペスト研究」の貴重な史料となっています。 (続く)
参考文献
1) 『長與又郎日記(上)』(小高 健編 学会出版センター 2001)
2) 『長與又郎日記(下)』(小高 健編 学会出版センター 2002)
3) 『近代名醫一夕話』(日本醫事新報臨時増刊)(梅澤彦太郎編 日本醫事新報社 昭和12年)
4) 村山達三:本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本医事新報 第1369号, pp.1928-1930. 昭和25年.
5) 村山達三:本邦に於けるペスト研究の偉業(2). 日本医事新報 第1370号, pp.1995-1998. 昭和25年.
6) 中瀬安清. 北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺:ペスト菌発見百年に因んで. 日本細菌学雑誌 50(3):637-650, 1995.
7) 木下氏の帰京. 東京醫學會雑誌 8(15):707.8) 『先徳遺芳』(木下文書)(木下 實編)(私家版・平成23年7月):第三部(附録)「木下凞ひろむ・正中・東作の略年譜」.
(平成24年6月10日 入梅の日 記す)(平成31年2月28日 追記)