♪青山胤通の追悼会に出席した木下正中は,資料を配布したのち,香港でのペスト調査研究の当時を振り返って,入澤達吉,長與又郎らの質問にこたえています。
(1)英語の通訳
入澤達吉:では,木下君一つ。
木下正中:私は御手元へ差上げて置いた印刷物が代弁するのですから,茲ここで申上げる事は何も考へて居りませんが,ただ香港のペスト研究にお供した時一番困ったのは,青山先生も英語を話されない事でした。それで始終通辯に引っ張り出されたのですが,困った事には,私の英語は高等学校の一年半,毎週一二時間の第二外国語で学んだだけで甚だ薄弱なものでありました。
入澤:誰に対して英語を使うのか。
木下:買物に行っても,また第一に病院でも,病歴を誌しるそうと思うのだが病人の容体を訊くのに困っちゃったのです。腹が痛いか?と聞いても日本語は勿論解らず,独逸語も判らず,英語でも我々の英語は判らず,初めは日本人の通辯を頼んだが,通辯は逃げてしまった。ペストが怖いというのでしょう。それから漸ようやく印度人の巡査か兵隊が僅わずかに一人来た。それが英語を解する。私が高等学校で使っていたウィリアムのポケット・ディクショナリ―などを持って行き,先生が何か言はれると私がそれを英語に直して云う。すると,その印度人の看護人が支那語にして病人に訊くわけです。それを再び英語に直したのを聞いて独逸語にして病歴に書き付けると云う順序で,漸くやっていた。然し終には再び日本人の通譯が出来て少し便利でしたが,そんなわけで,街へ買物に行かれる時でも,私に一寸来てくれと云はれて,一緒に行く。随分困った事もある。単語を並べて辛かろうじて話をする。先生は初め胸の固いYシャツに固いカラーを着けて居られたが,とても暑い。その上,汗が出てグチャグチャになる。私は現今のソフトシャツと同じものを着ていたのですが,それがよい,その通りのものを造らせようというので,製造している店へ行った。が,何と言って注文してよいか判らない。それで私のシャツを見せて,これと同じ型のものをと注文した事があります。こんな様な事情で,あちらでは一ばん英語で苦労しました。併しかし先生は,時に依ると日本語で済まされた場合も沢山あります。
♪青山胤通は,英語ができなかったので,病歴を聞くのも困ったようです。学生の木下正中が,通訳として教授を助けました。英語の辞書を持参するなど,用意もよかったようです。
香港:The Peak(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
♪実用的なソフトシャツを着た木下正中を見て,それと同じものをつくりたいという。異国の地で,教授のわがままを聞く学生の困った顔が浮かんでくるようです。香港は,北回帰線の南に位置しており,一年を通して暑い所でした。
独逸留学当時の木下正中(明治30年7月10日)(木下實氏提供)
♪独逸医学のメッカである帝国大学医科大学(東京)から香港(英国領)に来て,ラウソン医師(労森 James Alfred Lowson,1866-1935)(スコットランド出身)の世話になる。英語で通訳しながら独逸語でカルテを作る。語学で苦労したことが,晩年,下瀬謙太郎(木下正中の義兄)と協力して編纂した『医学用語集』に繋がってくるようにも思えます。
♪北里柴三郎・青山胤通ら一行,六名が香港に上陸したのは,明治27年(1894)6月12日のことでした。ラウソン医師の歓迎を受けています。その三日後の6月15日には,エルザン医師(葉赫森 Alexandre Yersin, 1863-1943)がフランスを代表して,ベトナム・サイゴン[從越南 西貢]{現・ホーチミン}から船に乗り到着しています1)。
♪明治期の香港は,どのような所だったのでしょうか。岩倉使節団は,帰航日程のなかで,明治6年(1873)8月27日に香港に寄港しています。当時の香港を次のように記録しています2)。
夜明け方,香港沖の群島の間を走った。どの島も山で,大小の島が不規則に海上に散らばっている。どの山も草は青々しているが,樹木はない。だいたい広東地方の山々は,その形がみな秀でており,細かい山襞の間の方々に岩石が露出し,まるで中国絵画の「点苔法」のようである。・・・
ここは広東省恵州新安県に属する島で,マカオから東へランタオ島,香港島と並ぶ諸島のひとつである。・・・海岸から山裾に向って階段状に街が開かれている。・・・ここから西へランタオ島との海峡を通って西北に六〇キロほど航行するとマカオに達する。早くからポルトガルが占領し,天正・慶長のころから東洋貿易の中継地とした。また湾を北に航行して川(珠江しゅこう)を一九二キロ遡ると広東に達する。・・・英国人は石の家を建てて中国人に貸して住まわせている。したがってこの街は中国人が多いけれども清潔である。・・・
欧州人の多くは山手に住居を建て,明るく伸び伸びした建物である。庭をめぐらし,木々を植え,清潔で優雅である。ここは北回帰線の南で,四季を通じて暑く,寒い季節はない。市街地は南面しているし,島の北側には海峡を隔てて本土側の高い山が屹立しているので,南北とも風が通らず,暑さはとりわけ厳しい。・・・
公園の前に総督邸があるが,これも花崗岩造りの美しい建物である。近くに兵営があり,英国から派遣された常備の兵士が八〇〇人いる。
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♪ラウソン医師は,香港でペストに罹った青山胤通と石神亨を救うことになるのですが,そのラウソン医師自身も九死に一生を得る経験をしていました。3)。
♪明治25年(1892)10月8日に上海でのクリケットの試合のあと,香港への帰路,ボカラ(Bokhara)号(蒸気船)に乗船します。当時,ラウソン医師は,香港のクリケットチームのメンバーでもありました3)。
♪10月10日,澎湖(ほうこ)諸島の砂礁で嵐(台風)にあって遭難し,砂浜に打ち上げられていたところを地元の漁師に救われます。助かった乗客は,ラウソン医師とマーカム中尉(軽歩兵師団)の2名だけだったそうです。
♪このボカラ号遭難のとき,ラウソン医師が助からなかったら,香港での青山胤通と北里柴三郎のペスト調査研究も,どのような方向に進んでいたかわかりません。人々の出会いには,運命の導きといったことを感じます。
(2)帰路,一時,長崎女神消毒所に留まる
林 春雄:・・・青山先生が例のペスト研究に香港へ行かれてペスト病に罹られた時(明治27年),あの頃は今の若い方は知らないかも知れませんが,新聞の号外を大きな字で新聞社の前へ貼り出したものだが,「青山氏脈拍悪し,熱度何度何分」などと書いてあったのを覚えて居る。私は,先生が出発される時にも新橋に一行を送って行ったのですが,どれが先生か知らなかった。それから7月10日,卒業式,濱尾(新)先生が総長でしたが演説された。本学の卒業生が年々各方面で活動して行くのは喜ばしい。青山,北里両氏が今香港でペスト病の研究をやっている事は世界的に有名で本学の誇とする處である。而しこうして青山氏がその病気に罹かられたことは,真に憂慮に堪えないと言われたのです。それから病気が癒って帰って来られたのは・・・何日でしたかね。
木下正中:8月下旬か,9月上旬です。
林 春雄:兎に角,日清戦争が始まってから後だ。まだ学校が始まらぬ間で,新橋のステーションへ僕等が迎えに行ったのです。大へんな人出で,停車場へ縄を張って通路を作った。あの時は,君は一緒だったかしら。
木下正中:僕は先へ帰ったのです。一緒に帰ったのは宮本叔君に高田畊安君でした。
長與又郎:此間高木友枝さんの話では,あれはペストではないという事だが・・・。
木下正中:十九體か,二十體かの解剖をやって,一ばん終の解剖のときに伝染したらしいのです。其時は宮本君も僕も関係せず,ちょうど手隙てすきだからというので石神君が解剖の手伝いをしたのでした。・・・
長與又郎:石神さんは何処から入ったのですか。
木下正中:やはり傷があったのでしょうが,青山先生の悪くなられた晩は,先ず両先生の研究も一段落ついたから此辺で切上げて広東へ立寄って其上で帰朝しようというので,香港で世話になった人々を御馳走した。政庁の書記長だの,病院長だの,有力な開業医だのが集まった。会を開く少し前に,先生に少し熱が出て来たので心配して居った。宮本君と僕と二人で会のときに先生を見ると,顔色が悪いから,二人で心配して居ったが,宴会が済むと,先生は熱が出て苦しいといわれた。そのときに先生の部屋は風通しが悪い。僕と石神君は同じ部屋にいたのですが,風通しのよい部屋ですから,代わりしましょうというので部屋を代へて,先生は私のベットへ寝られ,私は先生のベットへ寝た。
先生が悪いという事を聞いて,前夜のお客さんたちが見舞いに来た。ピークの病院をやって居るカントリーは,之はペストとじゃない,自分の病院へ預かろうという。市の病院長のラウソンはペストだから病院船へ預かうという。すると青山先生は,病院船の方へ行こうといわれたので,その順序に運んで行くと,今度は石神君が,どうも僕も昨夜から変だという。淋巴腺が腫れて何だか気分が悪い。僕も一緒に行くよという事になった。それでランチで一緒に行ったのですが,船の上で石神君は『やっぱり予定の通りやって来たよ,寒気がして来た』と言い始めた。・・・
林 春雄:木下君は試験があるので早く帰ったのだね。
木下正中:宮本君が心配してくれて,大丈夫だから帰ってよかろう。卒業試験も大切であるから,帰って支度をした方がよい。高田君が見舞いに来るというのだから,というので帰って来ました。それで船へ乗って帰ったのですが,長崎で僕の扱い方に困った。ゼクチオンの材料を大きな壜に入れて八,九個持っていたのです。その材料は宮本君と僕と半分宛持ったのです。それをどうするか?どこまで消毒するかという事が問題になったようです。香港出帆の後九日になるまで,長崎の女神消毒所で暮して,その後に漸ようやく神戸へ帰って来ました。
長與又郎:長崎へは上陸したのですか。
木下正中:いや長崎は消毒所まで上っただけで,市街へは上らなかった。神戸で上陸して,すぐに東京へ直行した。
♪木下正中が,帰京したのは,7月23日とあります4)。高田畊安が香港に到着したのが7月24日5)。その夜,高田畊安は,急ぎ小金井良精宛の書簡を認め,翌日出帆の廣島丸に託しています6)。
♪高田畊安は,中川恒次郎領事,高木友枝に面会しています。このとき高木友枝は,カントリー医師(Dr.Cantley)の病院の隔離病室にいたのですが,ハイジア号にいた青山胤通のところへ向かうための渡船の手配をしています。高木友枝自身は,ペストではなかったようです。
♪北里柴三郎が香港を出発したのは,7月21日のことでした7)。(長崎に到着したのは,7月25日の夜)この頃になると,青山胤通の病勢も治っていました。木下正中も,卒業試験のこともあり,宮本叔のすすめに従って帰途に就いたのでした。
♪高田畊安の電報は,「石神亨が,香港を発ったのは8月3日,青山胤通の出発は,8月20日頃」8)と,伝えています。
♪青山胤通が帰朝したのは,8月31日のことでした。当時の新聞は,「香港黒死病戦地より凱旋」と報じました9)。さながら凱旋将軍のような扱いでした。
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♪木下正中は,香港からの帰途,一時,長崎の「女神消毒所」(女神検疫所)(長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ データベース収蔵)に留め置かれました。ペスト研究のための病理解剖の材料を持っていたのですから,検疫所でも,その扱いについては苦慮したのではないでしょうか。
長崎港女神検疫所(絵葉書)(堀江幸司所蔵)
♪木下正中が,東京での研究報告のことを思い,家族のことを思いながら,何日かを過ごした女神消毒所(長崎台場跡)の周辺は,いま,どうなっているのでしょうか。「江戸東京」でも,いつか散策できる日が来ればと思います。
参考文献
1) 王道還著:科學史上的這個月 一八九四年七月葉赫森,北里柴三郎公布黑死病病原.張貼日期:2003/7/11.
2) 『特命全権大使 米欧回覧実記 第5巻 ヨーロッパ大陸編(下) 附 帰航日程』(久米邦武編著 慶應義塾大学出版会 2005)第100章 香港及び上海の記.pp.362-381.
3) 木下 實著:「ラウソン博士について(Dr. James Alfred Lowson)」(私家版)
9) 青山博士も全治,帰国.『明治ニュース事典 第五巻[明治26年―明治30年]』(毎日コミュニケーションズ 1985)
(平成24年8月22日 記す)(平成31年3月13日 追記)