場 所:湯島天神境内の社務所から戸隠神社に続く回廊の辺り。
住 所:〒113-0034 東京都文京区湯島3-30-1
■『柳塘遺影』(長谷川泰遺稿集刊行會)の銅像写真
♪長谷川泰の銅像については,『柳塘遺影』1)(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和九年)に写真があり,その存在についてはわかっていましたが,どこにあるのか,場所については,写真の説明に「ゆかりの地湯島薹上緑深きほとり」とあるだけで,具体的な記載はなく,はっきりしていませんでした。
♪説明文からは,銅像が武石弘三郎の作で台座の設計が岡田信一郎によることもわかります。武石弘三郎は,東京大学本郷キャンパス内にある教授たちの銅像の制作者でもありました。
♪『柳塘遺影』には,銅像の除幕式(大正5年[1916]4月20日)の写真もあり,その説明には,「湯島公園に於ける銅像除幕式」との記載があります。この「湯島公園」が,どこなのか,わからないでいました。「湯島公園」と長谷川泰の銅像の場所の調査が進んでいませんでした。
■雑誌論文の別刷をみる
♪文京区立真砂図書館に行った時のことでした。真砂図書館には,地域資料がよく収集されているのですが,そこに「湯島の長谷川泰銅像の顛末(上)(下)」2)というタイトルの別刷が,ファイルされて書棚にありました。雑誌の論文ですから,数頁のものです。このような資料まで収集・整理しておくのかと感心したものです。長谷川泰に関係の深い日本医科大学が文京区内にあり,タイトルに湯島とあるためではないかとも思われました。
♪文献によると長谷川泰の銅像は,湯島天神(湯島神社)の境内にあり,戦時中(昭和19年[1944])に強制供出されて台座だけが残っていたが,その台座も昭和61年(1986)年の夏に神社の回廊が新築されたときに撤去されたとありました。「湯島公園」が湯島神社の境内であったこともわかりました。
♪「湯島公園」の地図でもあれば,もう少し,はっきりと,長谷川泰の銅像の場所を特定できるのではないかと思って探していたのですが,その地図が見つかりました。・・・・・
■「湯島公園平面圖」を発見
♪古書店のサイト(「日本の古本屋」)を検索していたところ「湯島公園平面圖」がヒットしました。早速,問い合わせたところ,本郷の「湯島公園」の平面図だとのこと,興奮して注文しました。
♪はやる気持ちを抑えて,入手した「湯島公園平面圖」3)をみると,「長谷川泰銅像」の位置が,はっきりと,記載されていました。長年の疑問が,氷解した思いでした。銅像と本殿・社務所との位置関係も,確認できました。
♪長谷川泰の銅像は,湯島天神社境内の切通電車通(現在の春日通り)に沿った台地上(崖上)に建っていたのでした。末社である戸隠神社と稲荷神社の並びの社務所寄りにありました。本郷台地へと繋がる湯島台上の見晴しのよい場所にありました。
■『湯島天神誌』(湯島神社編):付図(湯島神社見取圖 明治十八年)
♪文京区立本駒込図書館も,よく利用するのですが,郷土資料の書棚をみていたら『湯島天神誌』4)(湯島神社編 昭和53年)という資料がありました。そのなかに「湯島公園」についての記述がありました。
♪湯島神社の境内は,江戸時代から物見遊山の盛り場で,「飲食店・矢場・見晴し掛茶屋,見世物小屋などがあって,昼夜を問わず,非常に繁昌していたのを,明治23年(1890)2月7日,境内の約三千坪(崖地を含む)を公園地とした」とありました。
♪国立公文書館のデジタルアーカイブスにも資料がありました。「湯島公園」が正式に東京市の所属となったのは,明治23年(1890)8月12日のことでした。
♪湯島神社が,公園地となったときに,境内にあった飲食店などの建物は撤去され,そこに梅樹・雑木の数百株が植えられたとのことです。戦災後に境内が荒れ果てたときにも,復興を願って植えたのも梅樹でした。
♪長谷川泰の銅像の場所の調査から,湯島天神の梅園の由来がわかってきました。男坂と女坂の間には,楓樹もあったようです。湯島台地・本郷台地からの田園風景が想像されます。不忍池も見通せたのでしょう。
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♪本駒込図書館から借りてきた『湯島天神誌』には付録の付図が付いていません。欠落してしまったようです。やはり,付図(境内図)(明治十八年)の付いた完全な『湯島天神誌』も入手しておくことにしました。
♪平成24年(2012)9月19日,『湯島天神誌』を本郷の文生書院から入手しました。付図は,一枚ものの見取図(境内図)でした。明治18年(1885)に本社・拝殿・神饌所が落成した際に作成された境内図のようです。
♪当時の雰囲気が,十分に伝わってきます。やはり,資料の探索は,散歩と同様に,よいものです。とくに絵地図からは,想像をかき立てられます。
♪戸隠山(地主),末社(イナリ),拝殿・本社の裏手には筆塚も描かれています。当時の拝殿と社務所は渡り廊下で繋がっていませんでした。社殿と社務所との間に廻廊(渡殿)が新築されたのは,明治25年(1892)になってからのことでした。
♪湯島神社境内が「湯島公園」となり,梅園となった経過をみておきます。
明治23年(1890):本社境内飲食店・矢場・見晴シ掛茶屋,其他各種ノ見世物等有之。昼夜ノ繁盛ナリシガ,上申ニ依リ市参事会ノ決議ヲ以テ公園地ニ編入セラレ,右建物悉皆取払ヒトナリ,梅樹・雑木数百株植附ケ,旧裏石坂ヲ更ニ現今ノ地ニ改築シ,又裏廻リ石垣ヲ改築ス,是ニ於テ永続資金トシテ金弐千五百円下渡サル。
明治23年[1890]8月12日:「湯島公園」が東京市の所属となる。
明治27年(1894):総代会及び世話係会の決定により,永続資金で軍事公債(額面弐千五百円)を買入れ,さらに日本銀行へ預け入れられる。
昭和24年(1949):公園地は,湯島神社に返還される。
昭和32年(1957):古梅樹数百本を植え,樹間に芝生を配して大梅園となる。
♪『湯島天神誌』の第51図(p.206)によると,長谷川泰の銅像が置かれていた場所は,見晴台となったようです。いま,その跡地は,回廊となり,春日通り沿いは,マンションだらけで,切通坂にも,昔の景色は感じられません。
♪湯島天神には,子どもの頃,初詣に行っていました。正面の鳥居から続く静かな境内と木造の拝殿,そして渡り廊下の雰囲気が好きでした。
♪男坂・女坂も,ゆっくり,上り下りしたことがありません。今度は,切通坂の方から,夫婦坂を,ひとり,登って,戸隠神社の前に出てみたいと思います。
参考文献・資料
1)『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會 昭和9年)
2)「湯島の長谷川泰銅像の顛末(上)(下)」(小関恒雄・尾崎邦雄共著)(「日本医事新報」No.3362[昭和63年10月1日]pp.63-65. : No.3363[昭和63年10月8日]pp.62-63.)
3)「湯島公園平面圖」(一枚もの)(古書店から入手)
4)『湯島天神誌』(湯島神社編 昭和53年)および付図(湯島神社見取圖 明治十八年)(注:付図は一枚もの)
(平成24年9月21日 記す)(平成31年3月17日 追記)