場 所:新潟県長岡市大黒農村公園内・「北越戊辰戦争伝承館」隣
建立日:平成25年[2013]4月18日
参考地図:
GoogleMap:「長谷川泰先生と新組地区」(「長谷川泰を語る会」提供)
♪長谷川泰の没後,大正5年(1916)4月20日,湯島天神境内(湯島公園)に,長谷川泰を顕彰する銅像(座像)が建てられました。(参考連載:第65回)
♪長谷川泰の唯一の写真集である『柳塘遺影』1)に銅像(図1)と除幕式の写真が残っています。除幕式では,石黒忠悳が祝辞を述べています。
♪銅像は,どこにあったのでしょうか。『柳塘遺影』のなかの説明文には「湯島公園内」とだけ書かれており,公園内の具体的な場所まで記録されていませんでした。
♪それが『湯島公園平面図』の発見で,銅像の場所を特定できました。湯島公園とは,湯島天神境内のことで,銅像は,境内の湯島神社(本殿)の裏手,戸隠神社と稲荷神社の並びにあったことがわかったのです。
♪この長谷川泰の銅像は,戦時中に供出され,戦後は台座のみが遺っていました。その台座も境内の改築によって撤去され,「長谷川泰先生之銅像」の名残は,湯島の地から,消えてしまっていました。・・・
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♪長谷川泰の銅像があった場所を探る:湯島天神境内(湯島公園)]を掲載したあとになって,長岡市の新組(しんくみ)地区に「長谷川泰を語る会」[ブログ(長谷川泰先生と新組地区)]があり,長谷川泰の没後100年(平成24年[2012])を記念して新たに長谷川泰の銅像を建立する計画があることに気付きました。
ブログより
「湯島天神の銅像」
「長谷川泰像の台座」
「長谷川泰翁像の建立が発起」
♪早速「長谷川泰を語る会」に連絡したところ,恩田富太氏が,銅像に関する資料と『長谷川泰ものがたり』(企画:長谷川泰を語る会 漫画:おんだちかこ 2011年刊 第2版])を送ってくださいました。
♪銅像の制作者は,彫刻家の峰村哲也氏(東京藝術大学彫刻科・大学院博士課程卒)で,新しい長谷川泰の銅像は,湯島天神境内にあった旧銅像(以下,湯島像)をモデル(基本的なデザインを継承)に制作されるとのことでした。
♪峰村哲也氏は,母子像「生きる」(長岡戦災資料館),「河井継之助銅像」(河井継之助記念館),「良寛さん,あそぼ」(良寛と幼子二人のブロンズ像)(新潟市美術館前の西大畑公園内)などで知られる長岡市在住の彫刻家です。
♪「湯島像」を制作した武石弘三郎(現在の長岡市中之島出身)は,東京美術学校の一期生ですから東京藝術大学卒業の峰村哲也氏とは同窓ということになります。
♪ブログによると制作は,順調に進んでいるようで,新たな長谷川泰の銅像の出来上がりが待たれました。・・・・・・・
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♪銅像の除幕式が,平成25年[2013]4月18日(木曜日)午後3時より長岡市大黒農村公園内(「北越戊辰戦争伝承館」隣り)で挙行されるとのご案内をいただきました。4月18日は,山本五十六(旧長岡藩)の命日にあたる日です。
♪除幕式には,参加できませんでしたが,恩田富太氏が,除幕された銅像の写真や資料(パンフレット[図2]・新聞記事など)を送ってくださいました。
♪新たに銅像になった長谷川泰先生は,椅子に座り右手に書物を広げています。視線は,書物からは離れて,正面に向けられています。母校の長善館(漢学者・鈴木文薹による私塾)と生家跡を眺めているようです。制作者の峰村哲也氏によると「毅然として先を見据えるたたずまい(気骨・先見性)」を表現したとのことです。(図3)
♪恩田富太氏のお話によると,銅像の後ろに見える建物が「北越戊辰戦争伝承館」とのことです。(図4)(図5)「戊辰戦争最大の激戦といわれる『八丁沖の戦い』を,農民の目線から伝え残す施設で,「長谷川泰翁像」の建立に先駆け,平成24年(2012)4月にオープンしたそうです。内部には,長谷川泰の展示もあるとのこと、一度は、訪ねたいものです。
♪台座には,正面に銘板(長谷川泰翁像 平成二十五年(2013)四月十八日),側面に「済生救民」と題する顕彰文(右側面)と発起人の名前の一覧(左側面)がプレートになって嵌め込まれています。台座の意匠も,「湯島像」の4本柱の雰囲気を継承しています。
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台座に嵌め込まれたプレート
(1)済生救民
済 生 救 民
揮毫 石丸雨虹
この地は長谷川泰先生の生誕した所です。
祖先は開拓者であり,子孫は医術で民を救う家系でした。長谷川泰は良寛の慈愛の心と河合継之助の気概に接し医術をもって済生救民の志をたてます。
風雲に乗じ,泰は官に衛生を説き,医師の数が少ないとみるや済生学舎を建てます。
また,病の根源は貧しさであるとし政治家にもなっています。
先見にみちた下水対策など,その業績は日本近代医学に希望の虹をかけたものでした。
(2)発起人一覧
建立発起人代表 新潟県議会員 星野 伊佐夫
長岡市
長岡市商工会議所
日本医科大学医史学研究会
日本医科大学同窓会新潟県支部
北里柴三郎記念会
野口英世記念会
東京女子医科大学
長岡市医師会
長岡中央総合病院
立川メディカルセンター
新潟県医師会
河合継之助記念館
燕市長善館史料館
新潟県生活衛生同業組合連合会
長岡管工事組合
智徳寺
株式会社高陽社
唐沢 信安
殿崎 正明
山本 鼎
大村 智
川村 賢司
吉岡 博光
太田 裕
吉川 明
渡部 透
高野 春樹
丸山 智
小林 弘昌
室橋 一司
稲川 明雄
吉田 勝
西片 正栄
深滝 純一
吉田 直治
平澤 俊一
長谷川泰先生銅像建立委員会
郷土の偉人 長谷川泰を語る会 理事長 恩田利平太 以下会員一同
銅像制作者 峰村哲也
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♪越後長岡は,池田謙斎,入澤達吉,小金井良精に所縁の地でもあります。「江戸東京」が「峠」を越えて,越後と繋がってきました。
♪東京都立谷中霊園には、長谷川泰(乙1号7側),池田謙斎(乙11号5側 突き当り奥),入澤達吉(乙7号甲1側)など越後長岡に所縁の先生方のお墓が,東京都谷中霊園にあります。長谷川泰と親交のあった石黒忠悳(甲3号8側)のお墓もあります。同郷の人々は,故郷を想い,それぞれに長谷川泰の銅像の完成を喜んでいるのではないでしょうか。
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♪詩人・堀口大學(堀口九萬一くまいち[長岡藩出身の外交官]の息子)は,戦後の4年間を高田(現在の上越市)で過ごしたことがありました。この間,良寛に魅かれたようです。「長谷川泰翁像」の姿は,良寛に通じるものがあるように感じます。
良寛さま
心はまどか
月の輪と
姿は淡し
けむりかと
(詩:堀口大學)
♪堀口九萬一と武石貞松(漢学者・武石弘三郎の兄)の二人の友情を現した「友情の双像」の胸像が,若宮神社(長岡市中之島長呂)に昭和35年(1960)6月に建立されているそうです4)。
♪この「堀口九萬一 武石貞松 友情の双像」は,「湯島像」を制作した武石弘三郎4)注1)の作で,翌昭和36年(1961)10月には,堀口大學によって撰文が付けられています。いつか長岡市を訪ねる機会があったら,峰村哲也氏の「長谷川泰翁像」とともに見てみたいと思っています。
注 記
注1)武石弘三郎:明治10年(1877)7月28日,新潟縣南蒲原郡中之島字長呂で生まれる。昭和38年(1963)5月11日歿。享年87。墓は,東京都雑司ケ谷霊園(1種9号1側)今年,平成25年(2013)年は,武石弘三郎の没後50年にあたる。
参 考 文 献
1) 『柳塘遺影』(長谷川保定撮影 長谷川泰遺稿集刊行會発行 昭和9年)
2) 『虹の館―父・堀口大學の思い出―』(堀口すみれ子著 かまくら春秋社 昭和62年)
3) 『済生救民 長谷川泰翁銅像除幕式 平成25年4月18日[大安]』(パンフレット)
4) 『彫塑家・武石弘三郎ノート』(佐々木嘉朗著 昭和60年)
(平成25年10月31日 堀江 幸司 記す)(平成31年4月25日 追記)