71. 森鴎外と染井共同墓地


♪森鴎外は『渋江抽齋』(『鴎外全集』[岩波書店] 第16巻 収載)の中で、染井霊園についてふれています。「抽齋の痘科の師となるべき池田京水(いけだ・けいすい)」の墓を探す経緯が書かれています。

 

青空文庫:『渋江抽齋』

その十七

「わたしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の初になった。・・・嶺松寺(れいしょうじ)の廃せられた時、其事に與った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家が無かったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井共同墓地であった。・・・しかしわたしは念晴しのために、染井へ尋ねて往った。・・・墓にまいる人に樒(しきみ)や線香を売り、足を休めさせて茶を飲ませる家で、三十計の怜悧(かしこ)そうなお上さんがいた。わたくしは此女の口から絶望の答を聞いた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然(せいぜん)たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中うちには池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。

「それでも新聞に、行倒(ゆきだお)れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の往いく所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払とりはらいになって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁はんばくを試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣やる人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは切角(せっかく)尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合うけあい申しますから。」こういって女は笑った。
 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容いれずに引き返した。

♪『大正五年日記』(『鴎外全集』 第35巻 収載)を繰ってみると、鴎外が染井共同墓地を訪ねたのは、大正5年(1916)の1月10日(月)[晴。 白雲。]だったことが、わかりました。『渋江抽齋』を「東京日日新聞」に連載し始めるが、1月13日(木)のことですから、その前に、染井共同墓地を訪ねたことになります。

♬染井霊園の正面入口の横に「山田屋本店」(休憩案内所)と「信照庵本店」(御案内所)があります。鴎外もここに立ち寄っていろいろ訊ねたのでしょうか。

 

染井霊園入口(染井通り)
染井霊園入口にある山田屋本店
染井霊園入口にある信照庵

 

♪その時、鴎外はどの道筋を通って染井共同墓地にきたのでしょう。 当時、鴎外は、本郷千駄木の観潮楼に住んでいましたから、団子坂上から本郷通り(岩槻街道・旧日光御成道)に出て右折、吉祥寺前を通り、上富士前を過ぎ、現在の六義園染井門のある駒込橋交差点から分岐する染井通りに入ったと思います。

♪その日は、前夜からの雨も上がり、暖かい日和だったようですが、どんな仕度をしてやってきたのでしょう。染井植木屋が多くあった染井通り(江戸時代からいまに残る道)には、まだ、お正月の雰囲気が残っていたかもしれません。いろいろと当時のことを想像するだけでも興味がつきません。

♪「江戸東京」の散歩の機会に、森鴎外が探した池田京水のお墓を探索してみたいとおもいます。

染井霊園入口から見た染井通り 画面奥が、六義園の染井門方向で、本郷通り(旧岩槻街道)に繋がる。

本郷通りを歩く(堀江幸司著)

(平成14年7月20日記)(令和元年(2019)8月26日 追記)