(はじめ向島の嶺松寺(れいしょうじ)に葬られたが、のち染井墓地を経て雑司ヶ谷墓地に遷された[森鴎外による調査])
♪少し医学図書館員らしいことを考えてみました。森鴎外が情熱を傾けて探した池田京水のお墓の所在についての調査です。
♪まず、鴎外が探索した年は、大正のはじめのことですから、昭和15年(1940)に発刊された『東京掃苔録』(藤波和子著 八木書店 昭和48年再刊)には、収載されているのではないかと思い調べてみました。載っていました。それによると池田京水のお墓は雑司ヶ谷墓地(豊島区)にあるとありました。
♪『東京掃苔録』の雑司ヶ谷墓地の池田京水の項には、以下のように記述されています。
「池田京水(醫家)名大淵、通稱瑞英。瑞仙の男。種痘を以て知らる。著書痘科學要、痘科曾通等あり。天保七年十一月十四日歿。年五十一。宗經軒京水瑞英居士。」
♪次にインターネット上でも、調べてみました。『ルーツを訪ねて 江戸の疱瘡醫 池田京水とその一族』(中尾英雄著 平成7年)という書籍がありました。
♪自費出版図書館(2016年閉館)で所蔵しており、郵送での借り出しが可能なことがわかりました。送られてきた図書によると、著者の中尾英雄氏は、池田京水の子孫にあたる方で、父方の祖母(中尾喜代氏)が、京水の孫であるとのことです。
♪中尾英雄氏は、文藝春秋に連載された松本清張の「二医官伝」を読んで、祖母の実家「池田家」について書かれていることを知り、池田家ルーツの探究をスタートさせ、ついに、池田分家の墓と円柱状の石碑(四世痘科京水池田瑞英先生門人誓書埋蔵之表)が、雑司ヶ谷霊園の1種10号1側(後掲写真参照)にあることを突き止めています。
♪実際に池田京水の墓域を発見したのは、探募の調査に協力していた中尾氏の友人(出版社勤務)であったそうです。雑司ヶ谷霊園を散策していて偶然に円柱の形をした石碑が目に入り、それが池田京水に関係するものであることに気づいたとのことです。
♪また、のちに長尾氏は、池田本家のお墓を谷中霊園(乙9-14)に発見しています。これには、東京大学総合図書館の「鴎外文庫」に収載されている「池田氏事蹟」(森鴎外が執筆のために調査したことをまとめた手稿)のなかに「谷中墓地管理者茶屋金子」と記載があったのが手がかりとなったとのことです。
池田分家の墓を発見 pp.109-112. 池田本家の墓見つかる pp.113-115.
(平成14年(2002)7月23日記)(令和元年[2019]8月16日 追記)
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♪平成14年[2002]7月21日(日)に豊島区立中央図書館に雑司ヶ谷霊園関係の資料を探すために行ってきました。『豊島の墓(著名人の墓 その2 雑司が谷霊園)(豊島あちらこちら 第9集)』(東京都豊島区教育委員会 昭和58年)をみつけたあと、中尾英雄氏が参考にした「二医官伝」[『松本清張全集 64 両像・森鴎外』(文藝春秋刊)]を見てみることにしました。(「ニ医官傳」は、雑誌「文藝春秋」に連載されたあと「両像・森鴎外」と題して出版された。)
♪いろいろ探索しているうちに『伊澤蘭軒』(『鴎外全集』 第17巻 収載)の「その二百十八」以降に池田京水のお墓の所在の手がかりとなる記述があることがわかりました。「その二百二十」に二世全安の話しとして、次ぎのようにあります。
「嶺松寺(れいしょうじ)の廢せらるるに當つて、二世全安は祖父京水の卑屬(ひぞく)たる池田分家並に又分家の両家の諸墓を処分せしめ、一石を巣鴨共同墓地に立てて「池田家累世之墓」と題した。・・・・・然らばわたくしが巣鴨に尋ねて往つた時、亳も得る所なくして帰つたのは何故であつたか。墓地の管理をする家の女は、わたくしに墓には皆檀家あり、檀家に池田氏なきを以て答へたのであった。そして女はわたくしを欺かなかった。二世全安は嘗て一たび池田両分家の合墓を巣鴨に立て、後又これを雑司谷共同墓地に徙(うつ)した。わたくしの巣鴨に往つたのは此遷徙(せんし)の後であった」
♪この鴎外の記述を読んで、疑問に思ったことがあります。まず、鴎外は『渋江抽齋』(『鴎外全集 第16巻 収載』)のなかでは「染井共同墓地」と表記をしているのに、なぜ、ここでは「巣鴨共同墓地」として染井ではなく巣鴨の地名を使っているのか。これは、染井共同墓地の住所(場所)が、北豊島郡巣鴨町であったためと思われますが、ちょっと不自然に感じました。鴎外は、谷中共同墓地のことを上野共同墓地とも書いています。
♪さらに二世全安(まさやす)(池田分家入婿・京水の孫あぐりの夫)が、嶺松寺(れいしょうじ)(向島)にあった池田京水のお墓を、「染井共同墓地」に遷したあと、どのような理由で、再度、お墓を「雑司谷共同墓地」に遷したのかという疑問です。「染井共同墓地」と「雑司谷共同墓地」とは、距離的にも、そんなには離れている訳ではありません。鴎外が大正5年(1916)の正月に「染井共同墓地」を訪ねて、お墓が発見できなかった時に、他の共同墓地(谷中・雑司ヶ谷・青山など)は、調査の対象にならなかったのか・・・。そんな疑問も浮かびました。
♪幸い、雑司ヶ谷霊園は、職場からの帰り道にあたります。資料も揃いましたので、近々、池田京水の墓域を確認しに行ってこようと思います。
(平成14[2002]年7月23日 記)(令和元年[2019]8月18日 追記)
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♪雑司ヶ谷霊園は、おおまかにいうと首都高速の護国寺の出入口がある交差点の池袋寄りの所にあります。霊園からは、サンシャインビルがよく見えます。
♪都電荒川線(三ノ輪橋―早稲田)の「雑司ヶ谷」駅で降りて行くことができます。霊園に入ってみて、騒々しい霊園だと感じました。霊園の中には、車道が走り、空には高速道路が丸見えです。墓道にも、雑草が生え、霊園全体の手入れもあまり行き届いていないようにも思いました。
♪中尾英雄氏の著書にあった池田京水のお墓(池田分家のお墓)の住所(1種10号1側4)を頼りに、霊園内を歩きました。途中、「塩田家之墓」の墓石が、なぜか目に入り、たぶん塩田広重先生(東京帝国大学教授・附属医院長・日本医科大学長・外科学)のお墓ではないかと思いました。墓域内をみると東京大学医学部塩田外科門下生が昭和41年(1966)5月に建てた顕彰碑が建っていました。
♪池田分家のお墓と「四世痘科京水池田瑞英先生門人誓書埋蔵之表」の石碑は、霊園の中を走る「いちょう通り」に面してありました。ブロック塀に囲まれて墓域が整備されています。それぞれの墓石は、湮滅が激しく墓石に刻まれた文字がよく確認できないところもありました。石碑の右隣に「池田家代々墓」がありましたが、二世全安が「巣鴨共同墓地」に建てたという「池田家累世之墓」との関係はわかりませんでした。
♪雑司ヶ谷霊園には、竹久夢二、夏目漱石、永井荷風、泉鏡花、小泉八雲、成島柳北、島村抱月などのお墓のほかに、医家のお墓も点在しています。少し涼しくなったら、雑司ヶ谷、鬼子母神界隈を散策して美味しい珈琲店を探したいと思います。
(平成14年[2002]7月30日 記)(令和元年[2019]8月18日 追記)