♪ 染井霊園は,明治5年(1871)11月28日に染井墓地として開設された神葬地で, 明治7年(1873)9月1日,共葬墓地となりました。神葬地としては,染井のほかに,青山,雑司ヶ谷,深川がありました。昭和10年(1935)5月に名称が染井墓地から染井霊園に改められ,現在は東京都公園協会(TOKYO霊園さんぽ)によって管理されています。
♪染井霊園は,もと播州(ばんしゅう)林田藩主・建部(たけるべ)内匠頭の下屋敷跡で、面積67,911㎡,都営霊園の中では最も規模が小さい霊園です。春になると、園内には,江戸時代,この辺りにあった染井植木屋によって品種改良された染井吉野桜が咲き乱れます。染井霊園があった染井村は、染井吉野桜の発祥地です。
♪都立霊園の墓地には墓域毎に「住所」がついています。東京都染井霊園事務所で入手できる「染井霊園案内図」(東京都公園協会発行)にも、この「住所」が載っています。
♪有名人のお墓の場所は、霊園内の案内図に載っているのですが、医家のお墓の掲載はありません。そこで拙宅が近くにあることもあり、医家のお墓をお参りさせていただきながら、染井霊園に眠る医家達の墓石の位置を特定してみることにしました。
♪以下に記載してある墓石の位置は、実地調査をして、霊園内の各所に建っている「住所」を示す標柱をもとに作成しました。
♪染井霊園に眠る医家達は、そのほとんどが東京帝国大学医学部の出身です。地方から東京に出て帝国大学に入学、のち教授となり、お墓を染井の地に求めた方も多かったようです。その方々が、名古屋帝国大学医学部(名古屋大学医学部)、千葉医科大学(千葉大学医学部)、昭和医学専門学校(昭和大学医学部)などとも関係しています。
♪また染井霊園には、東京大学医学部の草創期に活躍した人物だけでなく、順天堂医院の創立に貢献した人々のお墓もあります。
参考文献
(1)染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.
(2)染井霊園:医家の名簿を探る② 榊俶・田口和美.医学図書館 1996:43(3):361-368.
(3)『東京掃苔録』(藤浪和子著 八木書店 1973)(本書は昭和15年刊行された図書が再刊されたもの)
(「東都掃苔記」は、漢方医で医史学者であった安西安周(あんざい・やすちか)(筆名・杉野大澤)が昭和29年(1954)から昭和31年(1956)にかけて週刊誌『日本醫事新報』に連載したものです。)
染井霊園に眠る医家の方々(名前の50音順)
(医家ではありませんが、 今村有隣、濱尾新、古市公威、三上参次は、東京帝国大学関係者として収録しました。)
[あ]
(1) 阿久津資生(あくつ・しせい)(1846-1915)(軍医)
(2) 井上元章(いのうえ・もとあき) (1834-1878)(軍医)
(3) 今村有隣(いまむら・ゆうりん)(1845-1924)(東京高等学校教授・フランス語学者)
(4) 大瀧富三(おおたき・とみぞう)(1841-1902)(順天堂設立)・潤家(おおたき・ますえ)(1876-1948)(内科)
(5) 岡田和一郎(おかだ・わいちろう)(1864-1938)(耳鼻咽喉科)
(6) 岡田清三郎(おかだ・せいさぶろう)(1885-1946)(内科)
(7) 緒方正規(おがた・まさのり)(1853-1919)(衛生学)
(8) 緒方規雄(おがた・のりお)(1887-1970)(細菌学)
(9) 尾澤主一(おざわ・しゅいち)(1858-1889)(小児科)
[か]
(10) 勝沼精蔵(かつぬま・せいぞう)(1886-1963)(血液学)・晴雄(1916-1985)(衛生学)
(11) 高 良齋(こう・りょうさい)(1799-1846) (蘭学者 シーボルト門下)
(12) 小峰茂之(こみね・しげゆき)(1883-1942)(精神医学)
[さ]
(13) 榊俶(さかき・はじめ)(1857-1897)(精神医学)
(14) 榊保三郎(さかき・ほさぶろう)(1870-1929)(精神医学)
(15) 榊順次郎(さかき・じゅんじろう)(1859-1939)(産婦人科)
(16) 下條通春(しもじょう・みちはる)(1827-1885)(漢方医)
(17) 下瀬謙太郎(しもせ・けんたろう)(1868-1944)(軍医)
(18) 須田卓爾(すだ・たくじ)(1869-1910)(眼科)
[た]
(19) 田口和美(たぐち・かずよし)(1839-1904)(解剖学)
(20) 田口碩臣(たぐち・ひろとみ)(1880-1923)(解剖学)
(21) 高階経徳(たかしな・つねのり)(1834-1889) (明治天皇の侍医)
(22) 高山正雄(たかやま・まさお) (1871-1944) (法医学)
(23) 田中苗太郎(たなか・なえたろう)(1869-1910)(外科)
(24) 坪井信道(誠軒)(つぼい・しんどう)(1795-1848)(蘭方医)・信良(しんりょう)(1825-1904)(静岡病院(藩立駿府病院))
[は]
(25) 濱尾 新(はまお・あらた)(1849-1925)(東京帝國大學総長)
(26) 古市公威(ふるいち・こうい)(1854-1934)(工科)
[ま]
(27) 三上参次(みかみ・さんじ)(1865-1939)(史料編纂)
(28) 水原豊(秋桜子)(みずはら・ゆたか<しゅうおうし>(産婦人科)
[や]
(29) 山内豊城(やまうち・とよき)(佐藤泰然と関係)
🌸🌸🌸🌸🌸
(1) 阿久津資生(あくつ・しせい)(1846-1915)
墓石の位置:1種ロ6号5側
順天堂医院創立功労者のひとり。阿久津家は下野大田原藩の藩医。弘化3年10月20日生。大正4年9月20日没。軍医として活躍したあと、順天堂の佐藤進院長を補佐。
文献:「東都掃苔記(54)」:阿久津資生翁の墓・阿久津三郎博士の墓. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/be19ea20-8fd2-4c1f-9475-a85f6425f420/328747ce8f8e3008fbe4cf8221f365fa)
(2) 井上元章(いのうえ・もとあき)(1834-1878)
墓石の位置:1種イ5号1側
陸軍軍医 旧土佐藩士
碑文のなか:明治十一年十月十一日 四十有四年
記念碑の正面:正七位勳五等井上元章君碑
(3) 今村有隣(いまむら・ゆうりん)(1845-1924)(第一高等学校教授・フランス語学者)
墓石の位置:一種イ2号7側
(今村有隣の息子の今村新吉は、京都帝国大学京都医科大学精神医学講座の初代教授)
(4) 大瀧富三(おおたき・とみぞう)(1841-1902)・潤家(おおたき・ますえ) (1876-1948)
墓石の位置:1種イ8号3側
大瀧潤家(おおたき・ますえ)は佐藤尚中の五男で大瀧富三の養子、駒込病院、順天堂医院内科に務めました。
文献:「東都掃苔記(55)」:大瀧家の墓・大瀧潤家博士の墓. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/72fe2aa8-c632-48bd-8ebb-f52cc32c5174/4a4589cd647412ad33b818ddf44cf634)
(5) 岡田和一郎(おかだ・わいちろう) (1864-1938)
墓石の位置:1種イ4号8側
正 面:岡田家之墓
右側面:昭和二十二年三月改造建立 岡田徳子 登
墓 誌:東京帝國大學名譽教授 正三位勲二等醫學博士 天祥院殿名譽昭和鐵山大居士 岡田和一郎 昭和十三年五月三十日薨去 行年七十五才
東京帝国大学医学部教授・耳鼻咽喉科学
墓域内に「岡田先生遺徳碑」があります。(題額は若槻禮次郎)
(6) 岡田清三郎(おかだ・せいさぶろう)(1885-1946)
墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:岡田家之墓
右側面:昭和二十二年三月 改造建立 岡田徳子 登
墓 誌:名古屋帝國大學教授 正三位勲二等醫學博士 眞性院清譽覺月淨光居士 岡田清三郎 昭和二十一年三月十日薨去 行年六十二才
千葉医科大学第二内科教授・名古屋帝国大学教授・昭和医科大学理事・消化器内科。墓域内に「岡田清三郎先生記念碑」があります。
(7) 緒方正規(おがた・まさのり)(1853-1919)
墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:東京帝國大學教授正三位勲一等醫學博士緒方正規墓
背 面:法号顕正院釈規眞居士 嘉永六年十一月五日於熊本縣八代郡川俣村生 大正八年七月三十日於東京薨去 行年六十七歳
東京帝国大学医学部教授・衛生学
8) 緒方規雄(おがた・のりお)(1887-1970)
墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:緒方家之墓
右側面:覚證院釋仁信居士昭和四十五年二月六日俗名規雄
千葉医科大学教授・帝国女子医学専門学校教授・日本歯科大学教授・細菌学
第7回[仙台・昭和8年]と第8回[大阪・昭和9年]の日本医学図書館協会総会に千葉医科大学の附属図書館長として参加。
(9) 尾澤主一(おざわ・しゅいち) (1858-1889)
墓石の位置:1種イ5号32側正面:醫學士尾澤主一之墓
裏面:明治廿二年六月廿一日
尾澤主一は、同じ染井霊園に眠る田口和美(解剖学)らと独逸伯林に衛生制度見学ため派遣されたことがありました。その時の集合写真が、『石黒忠悳 懐旧九十年』(昭和十一年 石黒忠悳著)に載っています。尾澤主一の隣りには隈川宗雄、後ろには江口襄、北里柴三郎が写っています。森林太郎、中濱東一郎、河本重次郎、山根正次、片山國嘉、濱田玄達の顔を見えます。
尾澤主一は、帝国大学医科大学で小児科を担当していましたが、任を辞してまで留学するのですが、この独逸留学の帰途、病を得て、清国上海の旅館で亡くなります。明治22年(1889)6月21日のことでした。32歳の若さでした。(参考図書:『明治二十一年六月三日 鴎外「ベルリン写真」の謎を解く』(山田光夫著 講談社 2012))
(10) 勝沼精蔵(かつぬま・せいぞう) (1886-1963)
墓石の位置:1種イ4号19側
正 面:勝沼家之墓
背 面:昭和三十一年十月建之
息子の勝沼晴雄<1916-1985>は東京大学医学部公衆衛生学教授・医学部長、杏林大学副学長
(11) 高 良齋(こう・りょうさい)(1799-1846)
墓石の場所:1種イ3号1側
蘭学者。寛政11年(1898)5月19日、徳島城下助任村(現在の徳島県常三島町)に生まれる。シーボルトについて医学(眼科)を学ぶ。
(12) 小峰茂之(こみね・しげゆき)(1883-1942)(精神医学)
墓石の位置:1種イ4号20側
幣原喜重郎の墓の裏手にあたります。墓域には、「保證責任東京醫師建築信用購買利用組合」の献燈が一対、置かれています。
小峰茂之:明治16年(1883)生れ。昭和17年(1942)1月10日没。王子脳病院院長。小峰病院院長。
王子脳病院 (東京府北豊島郡滝ノ川西ヶ原899)は、現在の北区立飛鳥中学校(北区西ヶ原3-5-12)の辺りにありました。
(13) 榊俶(さかき・はじめ)(1857-1897)
墓石の位置:1種イ5号8側
正 面:東京帝國醫科大學教授従五位醫學博士榊俶墓
右側面:高樹院顕譽光徳俶睿居士
左側面:明治三十年二月六日歿 享年四十一
東京帝国大学医学部教授・精神医学
(14) 榊保三郎(1870-1929)(さかき・ほさぶろう)
墓石の位置:1種イ4号8側
正 面:榊家之墓
右側面:従四位勲三等醫學博士文學博士昭和四年三月十九日歿 栴檀院殿精譽不撓永保居士 榊保三郎 享年六拾歳
九州帝国大学医科大学教授・精神医学
(15) 榊順次郎 (さかき・じゅんじろう)(1859-1939)
墓石の位置:榊俶のお墓に入る墓道の手前(二葉亭四迷のお墓と墓道を挟んで斜め前)
榊順次郎(榊病院長・産婦人科) は榊俶の弟。別家。(関連:第47回参照)
(16) 下條通春(しもじょう・みちはる)(1827-1885)
墓石の位置:1種ロ2号4側
下條通春は、松本藩御殿医。下條康麿は、政治家・統計学者。
(17) 下瀬謙太郎(しもせ・けんたろう)(1868-1944)
墓石の位置:1種ロ12号
墓石の正面:下瀬家之墓
墓石の裏面:昭和五年五月二十一日改修 豊後高田下瀬氏
このお墓は、昭和5年(1930)、下瀬謙太郎自身によって改修されたものです。
墓誌:下瀬謙太郎 昭和十九年三月二十九日 行年 七十六才
陸軍軍医監、陸軍軍医学校長(19代)。
文献:「東都掃苔記(66)」:下瀬家の墓. https://www.evernote.com/l/ALRk6ECCBTdFbpxQHC605tX7vO73eZSXxys/
(18) 須田卓爾(すだ・たくじ)(1869-1910)(眼科)
墓石の位置:1種イ1号11側
明々堂眼科として知られた春日町の須田家の墓。「須田卓爾先生墓誌」の冒頭には、以下のように刻まれています。
先生ハ信州高遠内田文皐ノ長男明治二年九月廿九日生ル、同廿二年第二高等中学校醫學部卒業 須田哲造ノ養嫡子トナル 同年独逸國ニ留學シ「ドクトルメディチーネ」ノ學位ヲ得 同廿九年帰朝シ家業を継承シテ明々堂眼科醫院長トナル
墓道を挟んで、ちょうど田口和美の墓と向かい合っています。染井通りにつながる霊園の正面から入り、霊園事務所横の墓道を進むと左手に階段のついた墓域があります。そこが、須田家の墓域です。生垣が、きれいに整備されていました。
文献:「東都掃苔記(53)」:須田氏の墓 (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/a288b009-c48c-49b4-a6c3-53a68bc85b83/1da011f87ee4f40f98538f2598607b2d)
(19) 田口和美(たぐち・かずよし)(1839-1904)(解剖学)
墓石の位置:1種イ1号12側
正 面:正四位勳二等醫學博士田口和美墓
東京帝国大学医学部教授・解剖学教授
(20) 田口碩臣(たぐち・ひろとみ)(1880-1923)(解剖学)
墓石の位置:1種イ1号12側(田口和美と同じ墓域)
正 面:正四位勳四等醫學博士田口碩臣墓 室 田口ツル墓
右側面:皎月院殿淨誉碩臣大居士 大正十四年九月三十日歿 行年四十六歳
左側面:貞照院慈光妙鶴大姉 昭和二十六年五月廿八日歿 行年六十歳
千葉医科大学(千葉大学医学部)・解剖学教授
(21) 高階経徳(たかしな・つねのり)(1834-1889)
墓石の位置:1種イ3号1側
墓石の正面:高階家之墓
墓石の裏面:昭和六十二年十一月吉日 施主 高階経和建之
京都出身。明治天皇の侍医。
(22) 高山正雄(たかやま・まさお) (1871-1944) (法医学)
墓石の位置:1種イ12号3側
墓石の正面: 高山家累代之墓
墓石の裏面: 明治四十五年七月八日建立 醫學博士 高山正雄
右側: 高山正雄 昭和十九年十月十日歿 行年七十四歳
明治32年(1899)、東大助教授となり、同36年(1903)独逸に留学し、同39年(1906)に帰朝。京都帝國大学福岡醫科大學教授(現在の九州大学医学部)(法医学を担任)。夫人は中濱東一郎の長女。九州帝国大学医科大学教授総長 長崎医科大学学長
文献:「東都掃苔記(58)」:高山正雄博士の墓・菅野徹三氏の墓・田中苗太郎博士の墓. https://www.evernote.com/l/ALR4DRWyexVF7Jqg0_TnG6JHSelIMgGpVCs/
(23) 田中苗太郎(たなか・なえたろう)(1869-1910)
墓石の位置:1種イ12号1側
永楽病院外科医長を務め、明治39年(1906)には、鹿児島病院長兼外科医長嘱託。病を得て、明治42年(1909)に鹿児島病院長を辞し兵庫県西宮で療養後、明治43年(1910)に上京。同年12月15日、本郷千駄木町で逝去。享年42歳。
文献:「東都掃苔記(58)」:高山正雄博士の墓・菅野徹三氏の墓・田中苗太郎博士の墓. https://www.evernote.com/l/ALR4DRWyexVF7Jqg0_TnG6JHSelIMgGpVCs/
(24) 坪井信道(誠軒)(つぼい・しんどう)(1795-1848)(蘭方医) ・信良(しんりょう)(1825-1904)(静岡病院[藩立駿府病院])
坪井信道墓
墓石の位置:1種イ8号6側
正 面:誠軒先生之墓
左側面:墓誌
裏 面:墓誌
没年月日:嘉永元年(1848)11月8日(54歳) 緒方洪庵の師。
坪井信道が、はじめ葬られた浅草誓願寺は,田島山快樂院と号し,浄土宗江戸4ケ寺の一つで天正18年(1590)相模小田原に創建されたお寺です。のち江戸に移り,神田白銀町(須田町)を経て,明暦大火後,寛文元年(1661)浅草田島町に移っています。
誓願寺の子院には,坪井信道の墓のほかに,小野蘭山,宇田川榛斎などの著名人の墓が数多くありました。のち誓願寺は多磨霊園近くに移転し,坪井信道,宇田川榛斎の墓も多摩霊園(府中市多磨町4丁目)に移されています。
『東京掃苔録』(昭和15年刊)によると,坪井信道の墓は,多摩霊園の第五区乙三側と記載されていますが,その後,現在の染井霊園に改葬されたようです。
坪井信良墓(墓域の正面)
墓石の位置:1種イ8号6側
正 面:坪井信良・與能子之墓
側 面:坪井信良略歴・墓誌
背 面:後妻與能子墓誌
坪井信良は、坪井信道の養子で、静岡病院(藩立駿府病院)では、戸塚文海とともに副院長を務めた人物です。
染井霊園:医家の名墓を探る① 坪井信道・坪井信良・緒方正規.医学図書館 1995:42(3):338-346.
(25) 濱尾 新(はまお・あらた)
墓石の位置:1種イ4号1側
墓石の正面:従一位勳一等子壽濱尾新墓 室作子
没年月日:大正14年(1925)9月25日(77歳)
「濱尾子爵略歴・葬儀概況」(学士会月報)第451号. (http://www.evernote.com/shard/s180/sh/a20065f4-02cf-4a81-b188-37e10a48faff/8da0b07cf9c3699cc25e3bfe17d89624)
東京帝國大學総長(明治26年)、枢密院議長(大正13年)
濱尾新の銅像が東京大学本郷構内にあります。
(26) 古市公威(ふるいち・こうい)(1854-1934)
墓石の位置:1種ロ6号8側
墓石の表面:工學博士男爵古市公威墓 室 幸子墓
帝国大学工科大学初代学長:東京大学本郷構内に銅像があります。
(27) 三上参次(みかみ・さんじ)(1865-1939)
墓石の位置:1種イ13号1側
墓石の正面:三上参次 室晴子 墓
墓石の側面:崇文院殿三長明観大居士 昭和十四年六月七日薨 享年七十五
史料編纂所掛事務主任、東京帝國大學文科大學教授。「明治天皇記」を編纂。貴族院議員。 医科大学で皮膚泌尿器科教授をつとめた宇野朗とは姻戚関係。
(28) 水原豊(秋桜子)(みずはら・ゆたか<しゅうおうし>)(1892-1981)
墓石の位置:1種イ3号1側
正 面:水原秋桜子 妻しづ之墓
裏 面:昭和五十六年十月 水原春郎建之
昭和医学専門学校教授・産婦人科学・俳人「ホトトギス」で活躍、「馬酔木(あしび)」を主宰
(墓石には水原秋桜子と刻まれていますが、墓域内にある墓誌には、水原豊<昭和五十六年七月十七日八十八才>と本名が刻まれています)
(29) 山内豊城(やまうち・とよき)
墓石(五輪塔)の位置:1種イ1号19側
山内豊城(やまうち・とよき)の妻(河端清子)の妹が、佐藤泰然の妻。山内豊城と佐藤泰然は、義兄弟の関係。山内堤雲(ていうん)(六三郎)(箱館戦争、のち開拓使)は豊城の3男。山内恭彦(たかひこ)(東京帝国大学理学部)は孫。
(平成14年7月28日 記) (令和元年[2019]9月6日 追記)(令和2年[2020]9月6日 追記)