81. 「新東京・醫學きまぐれ散歩」(3)(最終回)(「日本医事新報」 No.1463-No.1475)

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1):「日本医事新報」No.1434-N.1445

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(2):「日本医事新報」No.1446-No.1462

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♪ 今回は、「新東京・醫學きまぐれ散歩」第3回(最終回)として下記の「日本医事新報」のなかから、第1463号から第1475号を紹介します。

新東京・医学きまぐれ散歩(PDF)

S.M.氏が見た戦後の復興風景

九段界隈

電車通りは一面の焼け跡で,復興はしているものの實に哀れな復興ぶりだ。靖國神社の外部の植込も焼けてしまって,参道の銀杏並木や露店がジカに見えるので,何だか空白ができたようで,賑わいを呈していながら,うら寂しい感がある。濠端の方へと辿ると,もう人影もなく,向う岸は青草の土手の上に石垣をめぐらせた江戸城の面影を残し,ひっそりと美しい景観をなしている。

僕が一口坂の停留所から市ヶ谷見附までぶらついたのは,四月廿七日の日曜日で,逓信病院の方面を歩いたついでだったが,その後,番町を歩いて見て,昔のブルジョア住宅地帯が如何にサンタンたる有様であるかを初めて知った。それに比べると,一口坂から市ヶ谷見附に至る電車通りは,先ず先ずこの辺りで復興の早い部分だと云えるかも知れぬ。

麹町・番町界隈

飯田橋から牛込方面を望む

番町は戦災で丸焼けになったと云ってよい。どうにか残ったのはコンクリートの大建築ばかりだ。大邸宅は門と塀だけを残して,中に焼土蔵がツッ立っているのもある。空地には雑草が茂って白い花をつけ,牛込台地の新緑がヂカに眺められる所があったり,建築工事にとり掛っている所もある。そうした中に,応急バラック群が屋根のトタンも錆び,板張りの壁に隙間が生じたりして,わびしくうずくまっている。かと思うと,やけにモダンな住宅があったり,工場か寮かといったような木造ペンキ塗の二階家が不愛想にツッ立っていたりする。人影もなくひっそりしているのに,五月幟がふらふらしている。                                           

築地界隈

築地新富座
築地精養軒

築地へやって来て,東京劇場を前に眺める橋――萬年橋といったように思うが,橋名を彫んだ銅版が剥ぎとられているので,はっきりわからないのも戦後風景だ。東劇・郵便局と続く一画は焼残りだが,反対側や橋の手前は歌舞伎座方面にかけて一帯の焼け跡だ。が,すっかり復興して元のような繁昌振りを呈している。橋を渡って,河岸にそって東劇の前を過ぎると,堀割が屈折する対岸に新橋演舞場が立っている。堀割はそこで真直ぐに大河に向って下る。一方わかれて濱離宮方面に向い,そこで大河にそそぐ堀割に合流している。

 築地は,縦横に流れる堀割によって處々に面白い景観を作っているが,演舞場と堀割を隔てて相対しているところに築地病院と元の海軍々醫學校があって,河岸の此方は純日本式の花柳街だが,そこばかりは外人居留地といった風景だ。・・・堀割にそった並木道は綺麗で静かで,全体がアンリ・ルウソーの風景畫みたいに落着いている。

聖路加旧館裏の並木街に出ると,大河を背にして立ち並んでいる住宅街は,たぶん焼けなかったのだろうと僕は思っているが,或は焼けた所もあるのかなと思われる跡も残っている。・・・とにかく昔は,東に佃島から木場・洲崎を眺め,南方遥かに台場から品川・羽田方面を眺め,前面には東京湾を一望におさめていたものだ。今では前に月島が出来,その沖に晴海町などの埋立地が出来て,大河の一部になり,河風は昔のように涼しかろうが,並木街もまだ荒れたままで,ここに大きな丸太ん棒を積み上げたりしている。それに続いて,東京都築地産院なるものがあって,その先に聖路加國際病院の新館が出来ている。

(注)旧都立築地病院(海軍醫學校跡地):現在、この場所には、国立がん研究センター中央病院が建っています。

濱町・両國橋界隈

元の日本橋區は京橋と合併して中央區となっているが,昔から東京の中心として榮えていたので,醫家も昔から名家が多かった。その中でも,濱町から矢の倉にかけて多かったが,殊に聞えた花街であったから気風が派手だった。大正の震災はそうした名家を焼きつくしたが,今とは違って醫家華やかな時代だったので,銀行がどしどし金を貸し,そこで競争的な復興となって豪華な病院がぞくぞくと出来た。何と云っても,いい時代だったなあと懐旧の情にそそられる。ところが今度の戦災で,濱町から矢の倉にかけて一面の焼野原となり,醫家も全滅の形になったが,さてその跡はどうなっているだろう?僕は戦後はじめて足を踏みこんで見たが,震災後の復興と,何て甚だしい差であろう。日本の頂点期は震災後にあったように思われ,今度の復興が,そこまで達するには,どれだけの年月を要するだろうかを考えさせられる。

昔,杉田玄白が濱町の辺りに住んでいたことがある。その邸跡は道路になったが,裏庭にあった山伏井戸が公園のどこかに残っているということを聞いていたので,行ってみた。新大橋から両國橋に続く河岸に桟敷の木組が出来つつある。川開きが近いことを思わせる。・・・打ち続く待合の間の空間にも高桟敷が出来つつある。河の中からドンドン花火が打ち上げられ,成金族や特権族で賑わうことだろう。戦前には醫家連中も桟敷の真ん中に陣取って顔を利かしたことだろうが,今では昔の夢になってしまった。対岸には國技館の圓蓋がどっしりと見える。

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(28) 日本医事新報(1463)(昭和27年5月10日)

九段上から飯田町(1)大村益次郎の像
 九段坂病院
 警察病院

(29) 日本医事新報(1464)(昭和27年5月17日)

九段上から飯田町(2)眞鍋邸の跡
 飯田町一巡
 帰途の道草
飯田橋から牛込方面を望む

(30) 日本医事新報(1465)(昭和27年5月24日)

麹町富士見町朝倉病院の跡
 東京逓信病院
 陸軍々醫學校の跡
 北島・河本・木下邸

(31) 日本医事新報(1466)(昭和27年5月31日)

九段上の電車通り 概観した情景
通りの醫院
岡田・榊・室橋
東亜醫學校の事

(32) 日本医事新報(1467)(昭和27年6月7日)

麹町番町今昔(1)寂れた風景
 三番町の邊り
 東郷公園附近

(33) 日本医事新報(1468)(昭和27年6月14日)

麹町番町今昔(2)二番町舊住の醫家

(34) 日本医事新報(1469)(昭和27年6月21日)

内幸町から丸の内胃腸病院前にて
 漱石の入院日記
 内幸町一ノ三
 宮島博士遭難地
 永樂病院の跡
長与胃腸病院

(35) 日本医事新報(1470)(昭和27年6月30日)

銀座東西(1)癌研と保坂
 大野と古宇田
 加藤と菊地
築地三吉橋と南胃腸病院(のちの癌研
癌研

(36) 日本医事新報(1471)(昭和27年7月5日)

銀座東西(2)大日本衛生會の跡長與専斎、北里柴三郎
  山根正次、緒方正規
  高木友枝、大澤謙二
  三宅秀、金杉英五郎
  青山胤通、片山國嘉
  弘田長、三島通良
 川上と本田川上元治郎、金杉英五郎
  坂口勇、本田雄五郎、
  岡田和一郎
 林と中泉林春雄、中泉行正
  中泉行徳、中泉正徳
 高木と醫學講習所高木兼寛、高木喜寛

(37) 日本医事新報(1472)(昭和27年7月12日)

築地界隈(1)海軍々醫學校跡 
 高杉博士を思う 
 林・山田の病院跡 
 戸塚氏について 
築地海軍参考館
築地病院

(38) 日本医事新報(1473)(昭和27年7月19日)

築地界隈(2)トイスラーの遺業
 中央保健所
 聖路加國際病院
 東京都職員病院
 京橋から越前堀

(39) 日本医事新報(1474)(昭和27年7月26日)

濱町と矢の倉(1)長尾と濱町病院
 中洲病院の跡

(40) 日本医事新報(1475)(昭和27年8月2日)

濱町と矢の倉(2)山村病院の跡
 濱町公園
 明治座附近
 河岸のあたり

(平成23年7月14日 記す)(令和元年[2019]11月1日 追記)