♪東京都文京区千駄木5丁目(旧駒込林町)に高村光太郎旧居跡を訪ねたあたりから、木下杢太郎を「江戸東京」で取り上げたいと思っていました。
♪神田神保町の古本屋(誠心堂書店)に、『ニ本榎保存碑』(三上参次撰)の拓本を見つけて、買いに行った折り、偶然「すかんぽ」の拓本に出会ったのにも、木下杢太郎に導かれている感じがしていました。
「ふるき仲間も遠く去れば、また日頃
顏合せねば、知らぬ昔と かはりなき は
かなさよ。春になれば草の雨。三月、櫻。
四月、すかんぽの花のくれなゐ。また五月にはかきつばた。花とりどり、人ちりぢりの
眺め。窓の外の入日雲。」
木下杢太郎
(木下杢太郎の歌碑が東北大学医学部構内にあります。)
参考文献:「県立宮城病院の正門(右)と木下杢太郎の文学碑(左)」
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♪木下杢太郎(詩人・劇作家)は、本名を太田正雄(1885-1945)といい東京帝國大學医学部の皮膚科教授であった昭和18年(1943)の10月19日(水)、20日(木)の両日、館長として現在の「日本医学図書館協会(JMLA)」の前身である「医科大學附属図書館協議会」の第15回協議会(会場:東京帝國大學醫學部會議室)を主催しました。ちょうど今から60年前のことになります。
♪この第15回協議会の二日目となる10月20日の午前の議長を太田正雄が、午後の議長を木原玉汝(新潟・薬理学)が務めています。当時、木原玉汝は昭和大学医学部第一薬理学教室から新潟医科大学教授に転じていました。
♪10月20日の日記に太田正雄は「午前9時より医科大學図書館会議。午後講義及び回診。5時半より雨月荘にて図書館会議懇親会」と書いています。
♪戦時下の東京大学に全国から集まった館長には、次の人々がいました。
赤野 六郎(京都府立醫科大學中央図書館)
津崎 孝道(京城帝國大學醫學部図書室)
木原 玉汝(新潟醫科大學附属図書館)
高木 耕三(大阪帝國大學附属図書館)
大谷佐重郎(金澤醫科大學附属図書館)
寺坂 源雄(長崎醫科大學附属図書館)
草間 良男(慶應義塾大學醫學部図書館)
鈴木 重武(千葉醫科大學附属図書館)
三輪 誠(名古屋帝國大學附属図書館)
関 正次(岡山醫科大學附属図書館)
本川 弘一(東北帝國大學附属図書館醫科分館)
太田 正雄(東京帝國大學醫學部図書室)
♪第15回協議会の記念写真には、太田正雄のほか、医学部長代理として出席し開会の挨拶を行った西成甫(東京帝国大学医学部解剖学教授)の顔もみえます。撮影は、本館前の階段を使用して行われたようです。
撮影された場所:
現在の東京大学本郷キャンパス医学部本館(2号館):赤門を入って突き当りの建物。
♪このときの協議事項には、次のようなものがありました。
(午前)午前9時開会 議長:太田正雄
1. 近時不定期に到着する雑誌の目次を各加盟館に送附する件(京城)
2. 南方醫學に関する文献目録編纂の件(新潟・東大)
3. 戦争の為未着の外国雑誌バックナンバーを後日補充する場合、対策あらば承りたし(金澤)
4. 共同図書目録編纂の件(慶應)
5. 学校図書館に対する新刊図書の優先配給を速かに実施さらるるよう、関係当局に要請するの件(慶應)
6. 皇漢醫學共同目録編纂の件(千葉)
7. 常任幹事校設置の可否(千葉)
(午後)午後2時再開 議長:木原玉汝
8. インフォーメーション・ビューローに関する件(名古屋)
南方醫學の協議事項のなかで、太田正雄は議長として次のように述べています。
「要するに南方醫學と云ひましても文献的に見て一つはヨーロッパにて出版したものと他は現地に於て出したものですね、前者に就いては東北が一番多く持って居るのですが之に就いては私の方から出掛まして十種類許りの文献を集めて見ましたが・・・・・・で問題は後者ですね、例へばジャワの「GeneesKundig Tijdschrift voor Nederlandsch lndie」の様な本は現在一冊も無いのですから・・・・」
♪太田正雄は協議会を開催した昭和18年(1943)3月から雑草を写生し『百花譜』の画稿とし、二年後の昭和20年(1945)6月には『すかんぽ』(注)を発表しています。この6月中旬より胃腸疾患のため故郷の伊東に静養しますが、胃癌の疑いで東大柿沼内科に入院し、10月15日未明に逝去しました。
♪太田正雄は土肥慶蔵(東大・初代皮膚科講座教授)を恩師としており、宇野朗(うの・ほがら)とも繋がることになります。また、東京での住まいも、本郷西片町や白山御殿町などの本郷界隈であり、しばらく木下杢太郎の足跡を辿ってみたいと思います。
(注)すかんぽ:伊東では「ととぐさ」という草。木下杢太郎は随筆『すかんぽ』のなかで、晩年、東大農学部の構内の一角にすかんぽを見つけて食べた経緯を書いています。「大學構内の公開の場所には今やどこにもすかんぽは見つからなかった。恐らくは大震災後根が絶えたのであらう。所が農學部の裏門からはひる小径のわきの地面に其聚落の有ることを見付けたのである。」
(平成15年9月1日 記)(令和2年1月21日 追記)