113.岡田和一郎(1864-1938)の略歴、病理解剖所見・葬儀

岡田和一郎肖像(1864-1938)

♪岡田和一郎は、幼名を市松といい、元治元年(1864)1月3日に岡田喜惣太、つね子の長男として、伊豫國西條藩(現・愛媛県西条市)の城下町である新居郡西條本町一丁目に生まれました。

♪岡田和一郎が生まれた元治元年(1864)は、緒方洪庵、箕作阮甫(みつくり・げんぽ)が逝去した翌年にあたり、佐久間象山が暗殺された年でもあります。

♪明治11年(1878)松山に赴き、渡邊悌二郎(渡邊洪基の弟)(松山病院長)方に寄宿し、明治12年(1879)上京。本郷臺町の獨逸語学校に入っています。

♪明治17年(1884)東京大学医学部に入学し、翌18年(1885)月謝の値上げが森有札(文相)によって唱えられたとき、総代に選ばれて、濱尾新と会見交渉し、値上げを中止させたといいます。

 (参考:東京大学の歴代総長一覧。濱尾新は明治26年(1893)3月より総長に就任。 濱尾新の墓所も、染井霊園にあります。)

 

岡田先生遺徳碑(染井霊園内)(現在は撤去されています)

♪明治19年(1886)本科2年のとき本郷追分町に刀圭社を設け、済生学舎に対抗して医学生を集め講義を始めました。東京医学会を設立したのも、この年のことでした。

 ♪明治22年(1889)本科4年を卒業し、佐藤三吉教授(外科学・第二醫院)のもとに勤務しています。当時、外科学教授には、佐藤三吉のほかに、宇野朗(うの・ほがら)(第一醫院)がいました。

(平成14年7月31日記)

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♪明治23年(1890)12月28日、榊俶の妹徳子と結婚し、新居を呉秀三夫人の父(三浦千春)が所有していた家屋(旧本郷区森川町)を借り受けて構えました。また、森鴎外の後任として、『東京醫事新誌』の主筆となったのも、この年のことでした。

♪岡田和一郎の妻・徳子の長兄が精神科医の榊俶、次兄が産婦人科医の榊順次郎で、長女の小梅は緒方正規に嫁いでいます。末の弟が、九大の精神科教授となった榊保三郎です。

 ♪明治28年(1895)12月7日、帝国大学医科大学(東京大学医学部)の外科助教授に任じられています。この頃、文部省は、帝国大学に耳鼻咽喉科講座を設けることを決め、小金井良精によって、岡田和一郎が推薦されました。

 ♪明治29年(1896)3月、ドイツへ留学。明治32年(1899)12月19日、郵船土佐丸にて帰朝、耳鼻咽喉科助教授に任じられ、明治35年(1902)3月になって正教授となりました。この年の4月には、大日本耳鼻咽喉科会頭にもなっています。

 ♪また、岡田和一郎は、本務のほかに、顧問となって根岸養生院を経営しています。場所は、旧下谷区中根岸36番地で、もと根岸岡埜菓子舗の所有した所だそうです。

 [岡埜(おかの)の名前は、いまも「竹隆庵岡埜」に残っています。今度、散歩の折にでも、立ち寄ってみたいと思います。]

(平成14年8月2日記)

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♪明治42年(1909)3月21日に「汎(ひろ)く貧困なる病者の為め施療を為すを目的」として東京帝国大学第二醫院跡(旧神田區和泉町1番地)に開院された「三井慈善病院」(現在の三井記念病院)の設立にも協力しました。(註4)この三井(泉橋)慈善病院には、東京帝國大學醫科大學から役員として、岡田和一郎のほかに、青山胤通(醫科大學々長)、佐藤三吉、土肥慶蔵、入澤達吉が参加しています。

♪明治44年(1911)11月21日、長女和子に横田清三郎を迎えて養嗣子としています。媒酌は青山胤通(あおやま・たねみち)(註1、2)が行いました。

♪11月23日に上野精養軒で催された結婚披露宴には、各界から名士が多数参会し、その数は八百数十人に達したといいます。森鴎外も夫妻で出席しました。その日のことを鴎外は日記の中で、次のように記しています。

 「23日(木)妻と上野精養軒の園遊會にゆく。岡田和子が横田清三郎を壻に迎へたる披露宴なり。」

♪大正3年(1914)、聖路加国際病院の設立に参画し、さらに昭和3年(1928)には、昭和医学専門学校(現在の昭和大学)(註3)を設立して、その理事長・校長になっています。

♪大正13年(1924)には新たな定年制の内規により東大を依願免官となります。岡田和一郎にとっては、納得のできない辞令であったようです。

♪昭和4年(1929)には、東京市総選挙に麹町区から立候補して、当選しました。

(平成14年8月5日記)

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病理解剖所見

♪昭和13年(1938)5月12日、いつもの通りに昭和医専の修身の講義を終えますが、翌13日は気分がすぐれず根岸養生院から帰宅してからは、病臥の状態となります。眞鍋喜一郎(東大内科教授)が主治医となって治療にあたりますが、30日午後6時35分逝去。翌31日に東京大学病理が教室で解剖されることになります。

♪この病理解剖を行ったのが、緒方洪庵の孫にあたる緒方知三郎教授でした。解剖所見には、以下のようにあります。

「・・・尚心筋軟化が相次いで起こった為め心臓の機能不全を招来し全身の循環障碍の為め胸水、腹水、下腿水腫、咽頭水腫、諸臓器の鬱血等が現れ遂に逝去せらるるに至ったものである・・・」

葬 儀

♪昭和13年(1938)6月3日に、青山斎場において告別式が挙行されました。このとき葬儀委員長となったのが、入澤達吉(内科教授)でした。

♪東京大学からは、総長の長與又郎が出席し、弔辞を読んでいます。長與又郎は長與専齋の3男にあたります。

♪午後2時から3時までの一般告別式の参弔者は三千数百人を数え、昭和医専生徒一同685名の焼香のあと、3時半に青山斎場を出発、染井墓地に向かい、午後4時に埋葬されています。

♪この岡田和一郎が亡くなった昭和13年(1938)には、葬儀委員長を務めた入澤達吉、さらに三宅秀と相次いで亡くなっています。明治期の医学教育・診療・研究に情熱を傾けた多くの東京大学医学部教授が亡くなった年となりました。

♪翌一周忌にあたる昭和14年5月30日には、芝増上寺において一周忌の法要が営まれ、午後4時から染井墓地の墓前に献碑式が行われたのでした。同門の菊池循一が総代として「顕碑之辞」を述べ、嗣子岡田清三郎の答辞があって、その後上野精養軒において岡田家の招宴が催されています。

(令和3年8月15日 追記)