116.徳川慶喜が騒音を嫌った豊島線:山手線の成立(駒込駅の歴史)

●現在、環状線となっている東京の「JR山手線」(やまのてせん)は、はじめから環状線として計画された訳ではありませんでした。

●環状となっている東側部分(下町部分)は、東海道本線、東北本線の幹線の一部として計画され、武蔵野台地上を走る山手線という線路の名称は、当初、品川・赤羽間(品川線)をいいました。つまり、現在の環状線の西半分の「山手」(やまのて)の部分のみを山手線と称しました。(参考図)

(1)新 橋(汐 留) – 品 川 官設鉄道(東海道本線)明治5年(1872)6月12日

(2)上 野 – 田 端 日本鉄道(東北本線)明治16年(1883)7月26日

(3)品 川 – 赤 羽 日本鉄道品川線(山手線)明治18年(1885)3月1日

(4)池 袋 – 田 端 日本鉄道品川線豊島支線(豊島線)(山手線)明治36年(1903)4月1日

(5)東 京 – 上 野 (東北本線)大正14年(1925)11月1日

●のちに山手線の一部になる豊島線の工事の様子を当時の新聞(東京日日 明治35年9月19日)は、次のように報じています。

「日本鉄道の事業拡張 同会社にては、昨年来諸般設備の拡張方針を執り、既に工事に着手したるもの、もしくは着手せんとするものあまたあるが、目下工事中なる豊島線、すなわち田端より池袋に至る新線路は、本年十一が竣成期限なれど、用地買収の思わしく進行せざりしと、工事着手後天候の不良なりし等にて、兎角工事捗取らず、ようやく土工の六分通りを竣えたるに過ぎざれば、その完成は来年三月頃となるべく、四月頃より運転開始に至らんか。」

●徳川慶喜は、この豊島線の鉄道開通の騒音を嫌って、明治30年(1897)11月19日から明治34年(1901)12月24日までの4年間住んだ巣鴨の「梅屋敷」(北豊島郡巣鴨町一丁目十七番地)(現・豊島区巣鴨一丁目)から、小石川區小日向第六天町五四番地(現・文京区春日二丁目7-4)の小日向邸(徳川慶喜終焉の地)(現・国際仏教学大学院大学の場所) に転居することになります。

●明治39年(1906)11月1日に日本鉄道が鉄道国有法によって国有化された後の明治42年(1909)10月12日になって、品川線と豊島線とがまとめて山手線と呼ばれるようになります。

●自宅のある豊島区駒込四丁目の最寄り駅であるJR駒込駅から山手線に乗ってJR田端駅へ行く途中に山手線でもめずらしい踏切(第二中里踏切)(滝野川・円勝寺近隣)があります。この踏切を過ぎたあたりから、電車は右にカーブをとりながら勾配を下ります。左手にコンクリートで固められた半島の先端のようにみえる土手を過ぎると、突然、視界が開けます。山道を下って海岸の崖下へでた感じがします。一瞬、太古はこのあたりも海だったのではないかと思わせますが、いまでは新幹線の高架が視界を遮っています。

 

駒込駅前の本郷通り

注)第一中里踏切は、すでに廃止されています。この踏切の近くにあったのが、東京養老院です。養育院とは別の施設です。「東京養老院鳥観図」でみると踏切との位置関係がわかります。

東京養老院鳥観図 画面右手が田端駅方面、左手が駒込駅 中央に第一中里踏切がみえる

 

第一中里踏切跡付近

昭和14年当時の踏切風景

●逆にJR田端駅からJR駒込駅に向かうと、今度は、右手に見える土手のあたりから、掘り割りを進むように勾配を登り、山手(やまのて)に入って行く感じがします。土手の右手の崖下(中里トンネル)(文献2)には、王子・赤羽方面に向かう京浜東北線が走っています。

●豊島線の工事は、駒込から大塚あたりまでは、武蔵野台地の一部を削りながらの工事であったようですから、巣鴨あたりの静けさのなかでは、自然を愛し、田端・駒込あたりで狩猟を楽しんだ慶喜にとっては、工事の騒音が趣味を奪う、自然破壊のように思われたのかもしれません。

●JR駒込駅の構造は、わたしが山手線を使いはじめた昭和30年代のはじめ頃から、ほとんど変わっていません。巣鴨よりの改札口へは階段を上がり、田端よりの改札口へは階段を下ります。駅のホームは土手に面していますが、ツツジが植えられ「植木の里・染井」を印象づけています。

駒込駅にホームドアがついたのは2013年(堀江幸司撮影)
線路の向こう側の建物はHOTEL METS(堀江幸司撮影)
駒込駅(1977年9月3日に撮影された写真)
巣鴨駅(1977年7月16日に撮影された写真)

 

駒込巣鴨間 画面奥に駒込駅の駅舎がみえる 橋は染井橋(この線路が露天掘りで明治期につくられた)

JR駒込駅巣鴨よりの改札口(南口・北口)からは、台地上の本郷通りに出られます。六義園旧古河庭園へは、この改札口を使うことになります。田端よりの改札口(東口)(中里・田端方面)からは、今は暗渠となっていますが、染井墓地(霊園)から上野不忍池に向かって流れていた藍染川があった低地に出ることができます。この藍染川の暗渠に沿って芥川龍之介が晩年を過ごした田端に抜けるよい散歩道があります。

田端文士村記念館

●駒込は、地形的に山手の入口ともいえる場所で、また、営団地下鉄南北線の開通で、山手散歩と下町散歩にはうってつけの場所となりました。

 

開業当時の品川線(山手線):品川・赤羽間の途中駅
明治18年(1885)3月1日、[16日開業]

品 川 ⇔ [目 黒] ⇔ 渋 谷 ⇔ 新 宿 ⇔ [目 白] ⇔ 板 橋 ⇔ 赤 羽

(列車は、一日、四往復で新橋駅に乗り入れた)

(参考図)

現在、一般的に山手線というと1周34.5キロ(29駅)の環状線をさしますが、正確には、これは運転系統の名称で、線路名称(路線)としての山手線は、品川・大崎・五反田・目黒・恵比寿・渋谷・原宿・代々木・新宿・新大久保・高田馬場・目白・池袋・大塚・巣鴨・駒込・田端の17駅の間をいうそうです。また、池袋・赤羽間が赤羽線と呼ばれるようになったのは、昭和47年(1972)7月15日のことでした。

京浜東北線
↓↑
↓↑
(赤 羽) ⇔ ⇔ (東十条) ⇔ ⇔ (王 子)
↓↑                         ↓↑
(十 条)                        ↓↑
↓↑                       (上中里)
(板 橋)                         ↓↑
↓↑                          ↓↑
池 袋 ⇔ 大 塚 ⇔ 巣 鴨 ⇔ 駒 込 ⇔ 田 端
↓↑                          ↓↑
目 白                      西日暮里
↓↑                          ↓↑
高田馬場                      日暮里
↓↑                          ↓↑
新大久保                      鴬 谷
↓↑                          ↓↑
新 宿                       上 野

↓↑                          ↓↑
代々木                       御徒町

↓↑                          ↓↑
原 宿                       秋葉原
↓↑                          ↓↑
渋 谷                       神 田
↓↑                          ↓↑
恵比寿                       東 京
↓↑                          ↓↑
目 黒                       有楽町
↓↑                          ↓↑
五反田                       新 橋
↓↑                          ↓↑
大 崎 ⇔ ⇔ 品 川 ⇔ ⇔ 田 町 ⇔ ⇔ 浜松町

 

駒込駅の歴史(駒込駅70周年記念入場券より)

 

駒込・巣鴨間(染井付近)を走る電車

🌸土手の下を走る電車が写っています。説明文によると、駒込巣鴨間の染井のあたりとあります。画面の左側が大和郷のある旧本郷区で、右側が旧豊島郡染井です。電車は、ちょうど私の自宅の土手下を通過しています。

🌸小学生の頃の土手は、のどかなもので、線路側まで降りていって、ザリガニ取りなどができ、菜の花が咲き、染井吉野桜とのコントラストが見事なものでした。

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地下鉄・南北線の開通

駒込駅に通じる地下鉄・南北線の駒込・赤羽岩淵間の開通記念切符(平成3年11月29日)を追加しました。

わたしは、平成7年から約2年間、尾久にあった東京女子医科大学第二病院の図書室に勤務していましたので、この南北線を使って王子経由で通勤していました。王子からは、都電で熊野前まで行って、商店街のなかを抜けて、病院に隣接する医局棟の一階の図書室で執務していたのです。昼休みには、荒川散歩など楽しい時代でした。

南北線は、その後、市谷方向に延長されましたので、本館に戻ってからも、南北線と大江戸線を乗り継いで、新宿河田町に通うことになりました。

いまでは、南北線は、いろいろな線と接続されていますので、駒込から横浜まで乗り換えなしに行くことできるようになっています。

 

参考文献:
(1) 原田勝正:井上勝と山手線建設計画.『江戸・東京を造った人々I』(『東京人』編集室編 筑摩書房 2003)(ちくま文芸文庫)pp.237-256.

(2)小野田滋:「山手線にもトンネルがあった!」(『東京人』2012.No.314 pp.56-61)

(平成15年11月24日記)(令和4年2月24日 追記)

115.「鶚軒文庫」:東京医科歯科大学図書館へわたった経緯

♪鶚軒(がっけん)は、東京帝國大學醫科大學の皮膚科梅毒学講座主任教授を務めた土肥慶蔵(どひ・けいぞう)の号です。土肥慶蔵は、鶚軒先生と呼ばれていました。昭和6年(1931)11月6日に、麹町の自邸において、肝臓癌のため逝去。享年66歳。戒名は「智德院殿譽光鶚軒大居士」といい、鶚軒の文字が入っています。

Google earth 東京大学医学部(本郷キャンパス)

東京帝國大學一覧(昭和12年度)平面図(国立国会図書館デジタルコレクション)

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♪土肥慶蔵は、慶應2年(1866)6月9日、越前武生(たけふ)藩医であった石渡宗伯の二男として福井県越前府中松原(旧武生市(たけふし)・現越前市)に生まれ、明治22年(1889)24歳のとき、叔父土肥淳朴の養嗣子として入籍しています。

♪土肥慶蔵は、安政の大獄で処刑された橋本左内(はしもと・さない)(1834-1859)と同郷(越前国)の人です。左内の実弟は、陸軍軍医総監となり、東京大学醫科大學教授(外科)も務めた橋本綱常(はしもと・つなつね)(1845-1909)でした。

♪明治35年(1902)3月6日、土肥慶蔵が37歳のとき、結婚して妻となった多越子は、三井財閥の三井元之助の妹でした。のちに土肥慶蔵の蔵書が「三井文庫」に寄贈された所以です。

♪土肥慶蔵の歿後、どういう経緯で、「鶚軒文庫」の一部が、「三井文庫」の手を離れて、母校の東京大学だけでなく、東京医科歯科大学にもわたることになったのか、気になっていました。その手がかりを求めて、東京医科歯科大学図書館の石井保志氏に連絡してみました。石井氏とは、『医学図書館』誌の編集で、ご一緒したことがありました。

♪早速、調べてくださり、『東京医科歯科大学図書館報』のなかに、次の記事をみつけて、そのコピーを送ってくださいました。

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『東京医科歯科大学図書館報』(No.22 Oct. 1980)

「鶚軒文庫」の由来について 「鶚軒文庫」は約1年6カ月の年月を要して整理が完了し、目録を刊行することができた。しかし同文庫の由来については、何分にも戦時中の古いことで、現在の図書館職員のなかでその由来を承知している者がいない。このたびの整理を完了した機会に、萬年図書館長から当時のことをご存知の初代図書館長であった岡田正弘名誉教授にご照会したところ、鄭重なご返事をいただきその経緯が明らかとなった。それによれば「鶚軒文庫」の購入は終戦前の藤田恒太郎第2代図書課長時代(昭和16年から同20年)のことで、東京の爆撃が激しくなり、土肥家の疎開がはじまり、蔵書を売払うこととなった。和漢書及び洋書の稀覯書は天理大学東京大学で買い、後の残りを全部本学の前進である東京医学歯学専門学校で購入したものである。

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♪昭和55年(1980)2月に刊行された『鶚軒文庫目録』(東京医科歯科大学図書館)の序文に、図書館長の萬年甫(昭和22年東大卒・神経解剖学)は、次のような序文を寄せています。

明治から昭和初期にかけての医学者で、皮膚科学、性病学および泌尿器科学の大家である土肥慶蔵(号は鶚軒)先生が生前に収集された御蔵書の一部が本学の図書館に保存されていた。この蔵書には医学以外の他の分野のものもいくらか含まれているが、主として皮膚科学および黴毒学に関する洋書(主にドイツ語)で、洋書1,340冊、和書232冊である。この中には土肥先生御自身の手で表紙の裏に「珍本」と書き込まれたものが49冊あり、また先生がその名著「世界黴毒史」を執筆されるに当って、収集し参考とされた貴重な文献もいくつか含まれている。

♪また、平成元年(1989)2月には、『鶚軒文庫目録 雑誌編』が刊行されています。この中には、雑誌のほかに、皮膚疾患および性病関係の写真をまとめて製本したものも含まれています。

♪土肥慶蔵は、大正初期から、古本漁りをしていたようです。当時の古本の展覧即売会は、神田明神境内の旗亭、開化樓、のちに江東両国橋畔の美術倶楽部で行われていて、黴毒史関係、詩集類、および性病予防に関する古本を求めたようです。これらの古本の蒐集が、「鶚軒文庫」のもととなるわけです。

鶚軒文庫の所在

1.東京大学附属図書館総合図書館

2.東京医科歯科大学図書館

3.天理図書館

4.国立国会図書館「鶚軒文庫蔵書目録. 和漢書分類之部」「鶚軒文庫日本詩文書目録

5.CA607 – カリフォルニア大学バークレー校「三井プロジェクト」終了 / 中井万知子

5.カリフォルニア大学東アジア図書館所蔵 日本関連特殊コレクション

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♪神田明神や両国橋で目的の古本を入手した土肥慶蔵の気持ちは、どんなだったのだろうか。古本に染み付いた時代の香りとともに、すぐそこにあった「江戸時代」を感じていたのかもしれません。皮膚科泌尿器科教授として土肥慶蔵のあとを継いだ太田正雄(木下杢太郎)の両国の詩が浮かんできます。

♪「鶚軒文庫」が東京医科歯科大学附属図書館にあるのは、当時の図書課長で、戦後、東京大学の解剖学教授となった藤田恒太郎によるところが大きかったようですが、終戦前の東京大学の館長(医院図書室)が太田正雄(皮膚科教授)、医学部長代理をつとめた西成甫が解剖学教授であったことも、記録に留めておく必要がありそうです。

(平成19年10月27日 記)(令和4年2月16日 追記)

114.岡田和一郎の邸宅跡:日大会館(日本大学本部)

周辺地図

♪JR市ヶ谷駅近くの靖国通り沿いに日大会館(日本大学本部)があります。「第5回国際医学図書館会議」(1985.10)の会場となった場所です。ここに岡田和一郎の邸宅がありました。

岡田邸(麹町)(出典:『岡田和一郎先生傳』

 

第5回医学図書館会議(日大会館本部 1983年10月4日)

嶋井和世(慶應)(写真中央)、西川滇八(日大)(左から2番目)、津田良成(慶應)(右端)(堀江幸司撮影)
Brodmanさんと札幌医大から参加された野口迪子さん(堀江幸司撮影)

♪岡田和一郎の邸宅があった場所は、住所でいうと旧麹町三番町36番地(現在の千代田区九段南4丁目)にあたり、明治34年(1901)から昭和13年(1938)5月30日に逝去するまで、この地に住みました。

♪また、この邸宅を構えた明治34年(1901)は、「時計臺」(東京大学医学部)(旧東京医学校本館・元大学本部)に耳鼻咽喉科學講座の教室を移し、病室を設けた年でもありました。

♪維新前の番町・麹町周辺には、武家屋敷が多くあり、江戸時代を通じて旗本集団の宅地でした。幕末の元治元年(1864)につくられた『切絵図(東都番町大絵図)』をみると、岡田和一郎の邸宅があった辺りにも、多くの屋敷があったことがわかります。

♪大正元年(1912)起工、大正3年(1914)竣工した灰色タイル張り三層の重厚な洋館は、後にデンマーク公使館として使われたこともあったそうです。

(平成14年8月12日 記)(令和4年2月12日 追記)