117.『楽山樵夫夢裡記稿』(宇野朗覚書)(1)誕生から杉田玄端塾まで

 

宇野 朗(1850-1928)

・宇野朗(1850-1928)は,大正8年(1919),70歳を迎えるのを機会に,子孫への記録として『楽山樵夫夢裡記稿』(大正13年1月記, 昭和2年11月追記)を書き遺してします。これは,『宇野朗覚書』とも呼ばれて,宇野家に代々,伝わるものでした。

・宇野彰男氏(宇野朗の曾孫)が,その全文をスキャンした電子化ファイルと,解読したワープロ原稿を,「江戸東京」の参考にと送ってくださいました。

『楽山樵夫夢裡記稿』の1頁目(宇野彰男氏提供)

・宇野朗の伝記的な記述については,宇野朗のあとを継いで皮膚病学・黴毒学講座教授(現在の東京大学医学部)となった土肥慶蔵が著したものなどがありますが1)2)3)4),『楽山樵夫夢裡記稿』は,誕生から父・陶民の遺稿集『静窓自楽』の刊行までを記録した貴重な資料です。時期的には,幕末の安政の大地震から大正の大震災までの期間にあたります。

・この『楽山樵夫夢裡記稿』については,「江戸東京」でも,紹介させていただきたいと思っていました。今回,宇野彰男氏から「資料を利用するのは構わない」との許可をいただきましたので,少しずつ紹介していきます。

 

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生誕地と生年月日

・宇野朗は,宇野陶民(とうみん)(1814-1874)の長子として君澤郡三島驛傳馬坊に,嘉永3年(1850)陰暦10月15日に生まれます。戸籍上の生日が5日となっているのは,役場の誤記とのことです。

宇野朗の家系

・宇野家の家祖は,與惣右衛門といい,伊豆國君澤郡三島驛長谷坊(のちに傳馬町に移住)に土着したのが最初で,五世・新右衛門までは,代々里正を勤めて,六代與三(幼名・逸八または逸八郎)の代になって,はじめて,醫を業としました。

 

與惣右衛門(宇野家・家祖)[伊豆國君澤郡三島驛長谷坊]

與三(6代)(はじめて醫を業とする)

陶民(7代)

(8代)

 

 

・三島宿は,東海道の第11番目の宿場町で,江戸から約28里半(約112㎞)。箱根の山を超えて三嶋大社に着いた旅人にとっては,ほっとして一息ついた宿場であり,江戸に向かう旅人にとっては箱根山の難所に向かう準備をするための宿場でありました。宇野一家が住んだ傳馬町は,三嶋大社の東側にありました。

三嶋大社(Googe earth)

 

安政の大地震

・安政元年(1854)11月4日,5歳のとき,安政の大地震(安政東海大地震)にあいます。朝9時,激烈な震災が三島をおそい,家屋は倒壊。続いて附近の民家より発生した火災により類焼。三嶋明神の石造大鳥居も切断・倒壊し,神池の石橋は池中に墜落して,三重塔だけが残ります。

・この大地震の年の4月10日に妹の千代が生まれています。まだ1歳にもならない千代は,子守に背負われて三嶋明神境内に避難し,三重塔附近で泣いているところを,父・陶民に発見されます。

・陶民一家は,罹災後,一時,金谷坊(今,宮町)の西井右衛門に世話になりました。長く続いた余震がおさまったのち,仮舎を建て,その後,家屋を新築して,旧地にもどることになります。

三島にコロリが流行

・ 安政5年(9歳):6月〜9月にかけて虎列拉(コロリ)流行。

当時病原を知らず又其傳染の恐るべきを識ざる為め蔓延の急劇猛烈なる實に燎原の火の如し。又其原因に就て民間報道する所は甚だ牽強附會(けんきょうふかい)にして或は之を狐狸の所為に帰し或は之を洋人海中に投たる毒を食いし魚類殊に鯖の毒に帰するあり(魚毒と云うは当時印度日支間往来の船舶乗員の本疫にて死せしを水葬せしに因るならんか)

此の頃毎夜西方の天空に大彗星出現せり。これ亦疫病に関係ありと看做したり。当時田舎人(否日本人一般然りしならん)の知識の低劣なりしは想像も及ばざる程なりしは慨嘆すべし余儀なき次第と謂うべし。都人士否医師も多くは傳染の猛劇なるを理解せざりしならん。当時医たる老父等も恐くは彼数珠に連りしならん呵々。

桜田門外の変

・安政7年(1860)(11歳):3月3日桜田門外の変。

井伊大老の遺骸は途中菩提所玉沢山に宿し次いで我驛を通過せり。其の行列粛々として藩士は白脚絆の様に覚えし。

三島に麻疹が流行

・文久2年(1862)(13歳):6月頃より,三島に麻疹が流行。

俳優であれ,足袋職であれ,或は帳簿職であれ,皆医師の真似をなし本職より多忙を極めしは滑稽と言わんか危険と言わんか実に言語道断の次第なりし。然れども病症が病症なれば薬剤といえば烏う犀角(さいかく),鹿角(ろっかく),セメンシーナ等に限られたれば格別の過失も出来ずして終了したる如きは不幸中の幸いと言うべし。

宇野朗が通った学塾

 千之塾[福井雪水]

・文久3年(1863),14歳のとき福井雪水(通称・亨作)の千之塾に入塾し,経書の講義を聴きます。16歳のころ,親友の河合浦太郎(のち博と改名)と計って,洋学の勉強を志して江戸への脱出をこころみますが,失敗に終ります。

 小林塾[小林伍堂]

・慶應3年(1867)5月31日:沼津宿の水野出羽守医師・深澤雄甫方に寄寓。養子・要橘に学びます。9月,雄甫の江戸屋敷勤番に同行。10月16日丹後宮津の城主・松平伯耆守医師・小林伍堂に入塾することになります。小林伍堂は,前には木村宗俊といい,米国に幕府使節を派遣の際に船医として随行した人で,杉田玄端の門弟でした。

 杉田塾[杉田玄端]

・慶應4年(1868)5月26日:維新に際して,小林伍堂は旧地に帰ることとなり,宇野朗は,杉田玄端塾に転じることになります。杉田塾は,山伏井戸にあり,塾中には小山内建(おさない・たけし)(津軽藩)(文学士・小山内薫の父),神戸文哉(かんべ・ぶんさい)(小諸藩)がいました。

・山伏井戸の近くには,津軽藩と小諸藩の屋敷がありました。いまの久松警察署前交差点・久松町交差点の周辺です。隅田川に繋がる濱町川が流れていたのも,この辺りです。『日本橋北内神田両國濱町明細絵圖』(部分)によると,濱町川に架かる小川橋の畔に「山伏井戸」「杉田玄丹」の文字が見えます。「玄丹」は「玄端」の誤記と思われます。

久松警察署周辺地図(Google earth)

 

・小山内建は代診方,神戸文哉は調剤方を専門として,宇野朗は神戸文哉の補助をして英書の講読を受けています。小山内建は,のちに陸軍軍醫正となっています。

・宇野朗 −− 杉田玄端 −− 杉田武(玄端の息子)−− 木下凞(ひろむ),そして,沼津兵学校の榊綽(ゆたか)との繋がりが見えて来ました。

 

参考文献

1) 黴毒學者としての宇野博士(1)體性 12(2):49,1929.

2) 黴毒學者としての宇野博士(2)體性 12(3):46-47,1929.

3) 黴毒學者としての宇野博士(3)體性 12(4):44-46,1929.

4) 宇野先生の追憶 皮膚科泌尿器科雑誌 29(1):99-103,1929.

(続く)

 

(平成23年2月3日 節分 記す)(令和4年3月30日 追記)