(1) 「長崎醫科大学・正門門柱」
♪今年(2007)の第24回医学情報サービス研究大会は、8月25日(土)~26日(日)の2日間、長崎市の活水女子大学4号館で開催されるそうです。その案内をいただき、「長崎医学史巡り」が、研究会の合間にオプションとして企画されることを知りました。
♪案内役は、唐通事東海氏の子孫である東海安興氏とありました。東海さんとは、昭和62年(1987)6月6日(土)~7日(日)の2日間にわたって岡山県倉敷(川崎医科大学現代医学教育博物館)で開催された第4回の研究大会を抜け出して、長崎に行った折に、長崎大学附属図書館医学分館でお会いしたことがありました。懐かしくなりました。
♪古いアルバムを出してみました。長崎大学附属図書館医学分館をお訪ねしたときの写真が残っていました。東海安興さんや末田博さんなどが、快く迎えてくださった記憶が甦ってきます。ちょうど、20年前のことです。
♪現在、東海さんは、長崎市の「さるく観光 」のガイドをされておられるそうです。
♪このとき長崎に行ったのは、長崎から急行で39分かかる大村市にある長與専齋の生誕地を取材するためでした。長崎市は、通過地点でしたが、やはり、長崎に行ったら、長崎大学附属図書館医学分館、鳴滝塾(シーボルト宅跡)、小島養生所・精得館跡、医学伝習所跡などの医史跡は、可能な限り確認したいと思っていました。
鳴滝塾跡:シーボルト記念館
♪長崎大学医学部に伺ったのは、6月8日(月)のことで、その日は、朝から雨がしとしとと降り、タクシーで向かいました。その途中で、昭和20年(1945)8月9日の原爆投下で、片足になったまま立っているという片足鳥居を見た記憶があります。
♪長崎大学医学部は、もと長崎醫科大学といいましたが、現在の日本医学図書館協会(昭和2年・1927)の創立メンバー(新潟・岡山・金沢・長崎)である官立医科大学のひとつでした。その長崎醫科大学の正門の門柱が、原爆の投下で傾いたまま、残されていたのです。この門柱を見たときの興奮は、いまだに、忘れることができません。
♪この長崎醫科大学の門柱の横は、なだらかな階段になっていました。門柱の横には、プレートがはめ込んであり、次のように書かれていました。
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一九四五年昭和二十年八月九日よく晴れし日の午前十一時二分世界第二発目の原子爆弾により一瞬にしてわが師わが友八百五十有餘名が死に果てし長崎医科大学の正門門柱にして被爆当時の儘の状態を生々しく此処に見る。
一九五五年 昭和三十年八月九日
誌 之
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♪今年も、また、尊い医学生らの命を奪った原爆投下の8月9日が、近づいています。
(平成19年7月28日記)(令和4年10月10日 追記)
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「医学伝習所趾」の石碑
場所:長崎市万才町:長崎グランドホテル前
♪今年、平成19年(2007)は、長崎大学医学部の創立150年の節目の年にあたります。安政4年(1857)11月12日にオランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォルト(Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)により長崎奉行所西役所医学伝習所がはじめられ、この日が、現在の長崎大学医学部の創立記念日となっています。創立150周年として、いろいろな、記念行事・事業が企画されているようです。
♪ポンペは、日本政府が雇った最初の外人教師で、文久元年(1861)年、小島に養生所と医学所(現在の長崎市立佐古小学校構内*)(長崎県長崎市西小島1丁目7番1号)を設立することになり、この養生所は日本で最初の洋式病院で、のち慶應元年(1865)、長崎奉行により精得館と改称されます。
*長崎市立佐古小学校は、平成28年仁田小学校と統合され長崎市立仁田佐古小学校(長崎県長崎市西小島1丁目7番25号)となっています。
*長崎小島養生所跡資料館:仁田佐古小学校の新校舎建築に合わせて、体育館横に、令和2年(2020)4月6日に開館されています。
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♪ポンペは、幕府医官の松本良順(佐藤泰然の二男)をはじめ、佐藤尚中(しょうちゅう)(佐藤泰然の養子)、司馬凌海(りょうかい)などに洋式医学を伝習し、その後、長與専齋、緒方惟準(これよし)(緒方洪庵の二男)がポンペの教えを受けることになります。
♪この医学伝習所は、現在の長崎県庁所在地に位置しており、20年前に長崎を訪ねたとき、事前の調査で県庁周辺にあるはずの「医学伝習所趾」の石碑を探しました。
♪長崎は、日本最初のキリシタン大名になった大村純忠(すみただ)(第18代領主)が、元亀2年(1571)に開港し、長崎県の最古の町である外浦町を開きました。外浦町は、昭和38年(1963)の町制変更により、万才町と江戸町となり、農林中央金庫長崎支店前に「旧外浦町由来」の石碑がありました。
♪県庁の裏手が出島です。県庁の前庭に「イエズス会本部・奉行所西役所・海軍伝習所」の石碑はあるのですが、肝心な「医学伝習所趾」の石碑は、いくら探し回っても、見つかりません。それが、長崎大学附属図書館医学分館の貴重図書室(史料室)を案内していただいて、なぜ、県庁付近にないのか。その理由がわかりました。
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♪貴重図書室では、「出島オランダ商館模型 設計石原明 日本医史学会寄贈 1960」、「松本良順・長與専齋遺墨」、「小島養生所(1861.8.6落成 9.6開院) ポンペ滞日五年 下絵」、「Bauduin肖像写真」など貴重な史料を見せていただきました。
♪貴重図書室内を一巡していて、「医学伝習所趾」の石碑が、部屋の片隅に置かれているのに気がつきました。県庁前で探し回った、目当ての石碑でした。まさに、目に飛び込んできたという感じでした。
♪お話によると、「県庁前で石碑が、車にぶつけられて折れたので、それを修繕してここに保存している」とのことでした。さすがに、古いものを大切にする長崎大学だと感心せずには、いられませんでした。
♪今回、調べてみると、貴重図書室の史料は、電子化され「医学は長崎から」(長崎大学電子化コレクション)となっていることが分かりました。シーボルトの『日本植物誌』もデジタル化されています。それも、ただ、デジタル化するのではなく、画面展開が、利用者が見やすいように工夫されています。一部の史料は、FLASHプレイヤーを使って、画面を横スクロールさせて、ページを移動させるようにしてあります。
♪貴重図書室に保管されている石碑に変わって、長崎グランドホテル前に「医学伝習所跡」の新しい石碑が建てられているようです。古いものを大切に扱い、新しいことがわかる長崎を、また、いつか、是非、訪ねたいと思っています。
(平成19年7月29日記)(令和4年10月9日 写真追加)