千駄木林町:「東叡山御林」
場所:現在の団子坂上から動坂上に繋がる道(保健所通り)と駒込大観音通りに挟まれた本郷台地上の区域。谷をこえて田端、道灌山、不忍池、遠くには品川湊がみえたような自然豊かな、空気清らかな土地。周囲には、寺院も多く、畑ではお茶なども作られたことがあったようです。
(1)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)
🌲今は亡き父君に従ひて、我が居を駒込千駄木林町の片ほとりにトせしより、早や二十年を過ぎたり。
🌲一夢茫々、隙行く駒の足のいと疾きを覚ゆれども、顧みれば、二十年は二タ昔の事なれば、その間の林町の変化は、実に驚かるるなり。
🌲我がはじめてここに住ひし頃は、げに林町と名に負へるに背かず、樹木生ひ茂り、空気清く、桃紅李白の眺めもまた、ここかしこにありて、閑静なる境なりき。
🌲日毎に我が大学に通ふに、門を出でて二町ばかり、途すがらに太田の原といふがあり。
🌲千駄木町の五十番地といへるにてもとは懸川の城主太田氏の下邸なりき。
(注)千駄木町50番地:現在の光源寺(駒込大観音)前の駒込学園前交差点を日本医科大学病院方面に向かって、「日医大つつじ通り」に抜ける道の両側一帯
(注)太田氏:太田摂津守
周辺地図:(旧千駄木50番地附近)
🌲さすがに江戸の開祖たる人の後とて、邸地いと広く、十年許りの前までは、雑木茂り、青草の氈を敷き詰めたる如き原にて、朝夕の往来にここにさしかかれば、自から、心舒び気爽かなるを覚ゆるばかりなりき。
(注)舒(じょ):舒暢(じょちょう):こころがのびのびする。楽しくなる。
🌲されば、過ぐる日清戦役の折には、この原に、幾棟の厩舎建て連ねられて、馬匹の徴発せられたるもの幾百頭、ここに繋がれて、之を扱ふ兵士の操練なども、行はれたるほどなりき。
🌲さるに、いつしか人家稠密の巷となりて、今は殆んど立錐の余地だになく、土地人の、尚、太田の原と呼ぶのみぞ、可笑しきながら、尚、昔忍ばるる心地す。
(注)稠密(ちゅうみつ):多く集まる。こみ合う。
🌲芝、麻布、青山さては本所、深川などの場末と同じように、この窮北の地も次第に開かれて、都会は何処まで膨張するにやと打ち驚かれ、滄桑の変といふもかくやと思はるる事多し。
(注)滄桑の変(そうそうのへん):滄海(あおうなばら)が変じて桑畑(くわばたけ)となる意。世の中の移り変わりの激しいこと。
🌲都市のみかく急速に発達するは、如何なる現象ぞや、国民思想は健全なりや、否やとまでも疑うはるるなり。
🌲我が茅屋も、昨年は、火災保険の契約を締ぶべき必要に迫られぬ。
🌲あはれ、四十五年の大博覧会の敷地ともならば、何地にか移り行かんなど、一時は心苦しう思ひたり。
🌲それは幸に青山の方へ逸(そ)れたれど、今にして、この林町の過去をたづね、また今を記して、将来の変遷を占はばやと思ひ立ちぬ。
(次回に続く)
(平成15年1月29日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)
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🌲江戸太郎重長、太田道灌持資などの頃には、我が林町は如何なる状態にかありけん。
🌲猫額大のところの事なれは詳かならず。
🌲菅原孝標朝臣の女の更科日記、道興准后の迴國雑記、さては堯恵法印の北國紀行などにも、この林らしきところは見えず。
🌲小田原北條の分限帳に、駒込卅六貫文、屋中卅九貫文、新堀四十五貫文、合せて百廿貫文の地、遠山孫九郎の所領たる旨記されたれは、千駄木林町も、その卅六貫文のうちなるべけれど、尚、その名は見えず。
🐎さて、駒込は、駒の飼はれたりし区域なるべしとの説、信ずべきが如くなれば、その一小部分なる林町も、雑木生ひ立ち、萱草など茂り合ひて、武蔵野の片端なる面影をとどめ、勇める駒の四つ三つ二つ、ここかしこに遊牧せるさまなりけんかし。
🌲明治七年の東京地図にも、ここは市区の外として、全く記載せられざるほどなれは、「権現様御入国」の時代には、もとより、人の注意にも上らざるところなりしと見ゆ。
(次回に続く)
(平成15年1月30日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)
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(3)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)
🌲千駄木とは、何時如何なる縁由ありての唱へなるにや、定かならず、或は、その昔太田道灌が植ゑ附けたりし林にて、栴檀の木特に多かりしが故になどともいひ、或は、東叡山へ千駄の護摩の木を納めしによるなどとも、口碑には傳へたれども、信用しがたし。
(注)栴檀(せんだん):庭に植える落葉高木。夏の初め、薄紫の花を開く。皮・実は薬用。「栴檀(センダン)は双葉(ふたば)より芳し(かんばし)[大きくなってから立派になる人は、小さい時分からすぐれた所が有るものだ]」 このセンダンは、正確にはビャクダン(白檀)を指すようです。
🌲青山近くの千駄が谷も、もとは千駄萱と書き、萱の多く出でしよりの名なるべければ、ここの林も、薪材を伐出ししよりの唱へにて、千駄とはただ数の多きをいへるなるべし。
🌲新編武蔵風土記の編者も、この説に従へり。
🌲寛永年間となり、上野に東照宮の建立せられ、ついで三代将軍の靈屋の建てらるるに及んで、その宮靈屋の薪材として、この地を附属せられし事と見えて、元禄、享保頃の江戸図には、明かに「日光御門跡御やしき」としるせり。
🌲延享三年に至りて、林は開発せられて、段高の場所となり、そのうち、六町八反は上野の寒松院の、四町八段は同じく東漸院の預ることとなりにき。
🌲されど、尚、天保の地図などを見れば、上野などと同じに、木立多かりし様に書けり。
🌲嘉永五年の江戸図にも、尚、御林とあれども、団子坂筋の表通りのみは、駒込御林跡地としるし、但し町家なりと注せり。
(注)「東都駒込邊絵図」(安政4年<1857>)で確認してみると、現在の大観音通り沿いの駒込学園横から稲荷社(御林稲荷社)の前に駒込御林跡地との記載があります。また、その奥の都立駒込病院の方向に、上野東漸院御林、上野寒松院御林と記載されています。
🌲ついで間もなく、米艦渡来の頃よりして、林もおひおひに開かれて、畠地となり、宅地と変りしこと、古老も語るところなり。
(注)米艦渡来:アメリカ使節ペリーが浦賀に来航したのは嘉永6年(1853)。
🌲表通りより林への入口には、二カ所に黒木の総門ありて、無用の者入るべからずとの、厳かなる榜示は、御一新の頃まで掲げられたりしと云ふ。
(注)門の位置:「東都駒込邊絵図」と現在の地図を並べてみると、門は大観音通りから千駄木5丁目を突っ切って文京区立千駄木幼稚園に通じる道の入口付近にあったようです。この道の途中に、千駄木児童遊園があります。番地でいうと文京区千駄木5丁目4番地と5番地をわける道の大観音通り沿いに御林に入る門があり、4番地側(15番地・16番地・17番地・26番地、28番地、29番地あたり)が上野寒松院の御林で、5番地側(11番地・12番地・13番地・14番地・30番地あたり)が上野東漸院の御林であったようです。現在、かつての門のあたりは、まちづくりのための用地(文京区役所都市計画部・地域整備課)となっています。
🌲是れまた、古の荘園の一種、守護不入の禁の遺例にて、我はその地の民なりと、思はるるも可笑し。
(次回に続く)
(平成15年2月2日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)
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(4)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)
🌲さて、お林地といふは、東西二町強、南北は四町余りもありぬべし。北の方、下駒込村に接するところ、則ち今の動坂、駒込病院の方面には、御林なりし頃の境界の堤、百五十間の長きにも亘りたりけるが、文政の頃には、はやわづかに三十間ばかりとなり、今となりては、全くその痕跡をも見るべからず。
(注)御林境界の堤:『分間江戸大絵図』(文政11年<1828>)および『御江戸大絵図』(天保14年<1843>)と現代の地図を比較してみると、「千駄木御林」を囲む堤は、大保福寺(現在の駒込学園の地)と養源寺、大保福寺に沿って、北へ御鷹部屋(現在の都立駒込病院の地)方向に、現在の文京区立千駄木小学校あたりまで延びていました。そこから堤は、南へ円を描くように現在の本郷保健所通りあたりに沿って、団子坂方向に築かれていたようです。
♪『分間江戸大絵図』(須原屋茂兵衛蔵版)によると、明和9年(1772)頃の御林は「東叡山御林」と呼ばれていました。明和といえば、杉田玄白が解体新書を出版したころです。この東叡山(とうえいざん)とは、京都の比叡山に擬してつけられた上野寛永寺の号です。
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♪今回、御林の場所を確認するために、参考文献のなかに収録されている何種類かの本郷界隈の『江戸切絵図』をみました。色彩が美しく、まるで「花のお江戸」が目に浮んでくるようでした。
♪人文社の「古地図目録」によると、各地の絵図の復刻版がでているようです。古地図や絵図は、ほとんどジュンク堂書店2階の地図の売場(http://www.junkudo.co.jp)に揃っています。また、神田神保町界隈にも古地図を扱っている古書店があるようです。文献収集の範囲が広がって「江戸東京」の楽しみがますます増えそうです。
(注)養源寺(ようげんじ)(文京区千駄木5-38-3)には、安井息軒(やすい・そっけん)の墓があります。安井息軒(1799-1876)は日向国(宮崎県)の出身で、幕末・維新期に儒学者となり、昌平黌(しょうへいこう)の儒官を務めました。養源寺の隣は、連光寺です。連光寺には、最上徳内、青山景通(東大内科教授青山胤通の兄)の墓があります。
周辺地図(養源寺・連光寺周辺)
🌲林の中には、人家稀疎にして、東漸院預りの方には纔かに十五軒、寒松院の方には廿五軒ばかりもありしにや。
(注)駒込林町の町会は、江戸時代の上野寛永寺の東漸院持と寒松院持によって、東林会と西林会とにわかれていました。
🌲いづれも、百姓、植木屋、黒鍬の者、さては商家の隠宅などにて、杉、桐、椚の類或は竹薮などの間に、茅葺、梯葺の平家を構へ、畠には大根、葱などの野菜を栽培したりき。
(注)黒鍬の者:江戸時代、江戸城内の警備や掃除、荷物の運搬などに従った者。黒鍬組丁:『小石川谷中本郷繪圖』(萬延2年<1861>)によると、現在の本郷通りの向丘二丁目交差点を大観音通りに入った角の左側の三井住友銀行の周辺一帯は黒鍬組丁と呼ばれていました。江戸時代にこのあたりに住んだ黒鍬者は、御城(江戸城)になにかことがあると、中山道を御城に向かって駆け付けたのかもしれません。
🌲幕府の末頃にていへば、この林に住へる人は、年貢として、一反毎に金二分を、名主の許に持ち行き、名主は之を取纏めて、上野なる東漸院、又は寒松院へ納むるの習ひなりき。
🌲若し上野に非常の事あれば、林の民は皆駆けつくべき掟にて、その為めに、平生より、御靈屋御用と、いかめしく銘打つたる提灯を渡され居たりとぞ。
🌲我が始めに住ひたりし百七十番地も、今住へる百六十九番地も、ともに東漸院預りの方なるが、維新前には、その組合十五軒より、毎年正月の五日といふに、手作りの菜五十把を、東漸院へ納むる例なりき。
(注)三上参次が、はじめに住んだ駒込千駄木林町170番地は、現在の文京区千駄木5丁目13番地、次に住んだ169番地は、文京区千駄木5丁目12番地あたりと思われます。なお、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(参考文献4)では、三上参次の住んだ住所を林町167番地としています。
🌲之を齎し行くものは、この時のみは、たとひ百姓の身分なりとも、靈屋の参拝を許されて、面目を施したりしは、また、非常のとき、駆けつくる習ひのありしに基いてなりとぞ。
(注)齎(もたらす):持って行くこと
(次回に続く)
(参考文献)
1. 『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』人文社、2002.
2. 『江戸東京名士の墓碑めぐり』人文社、2002.
3. 『嘉永・慶応 江戸切絵図で見る幕末人物・事件散歩』 第3版. 人文社、2002.
4. 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(季刊)其の二十八. 谷根千工房、1991.(みんなでつくる林町事典 p.4-23.)
(平成15年2月8日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)
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(5)我が住へる番地の歴史:(三上参次著)
雑誌「歴史地理」第11巻第1号:79-84(明治40年12月)
🌲百六十九番地の方は、亡き父君が、淺川某といふ挿花の師匠より、買ひ受けられしものなるが、淺川の前には、もと舊幕の御坊主たりし吉田某その前には、御家人たりし大羽某、またその前には、御普請方なりし某、尚その以前には、或る紀州の人地主たりしにて、その人は、この地に小屋掛けして、「ドンドル」の製造を試みたりしといふ恐ろしき話もあり。
🌲これ恰も、御一新直ぐ後の事なるが、それより以前の持主の事は未だ分らず。
(注)恰(あたかも):ちょうど
(注)御一新:慶応4年(1868)4月、江戸城が無血開城。徳川慶喜(よしのぶ)(15代将軍)は水戸に退去して、9月に明治と改元されました。
🌲さて百七十番地の方は、これもまた亡き父君が、小島某なる人より購はれしなり。
🌲小島氏は、或る名家の後なるが、慶應の初年に、この地三百廿坪強を、金二十五両にて、或る神田の質商より求めしなりといふ。
🌲この老人、今は古稀を過ぐること、はや四五歳なるべきが、語りていふ、老人幼年の頃には、この邊りの土地は、殆ど價なかりしときけりと。
🌲地主は、僅かばかりなりとも、年貢を上野へ納めずばならず、非常の節に駆つけの義務はあり、組合の交際はあり、かたかた煩はしきがために、或は一樽の醤油、或は一升の酒などを引出物として、土地を遺り取りしたる時ありといふは、この頃なるべし。
🌲老人また曰ふ、その後嘉永の頃とか、今の或る大地主は、九百坪の地を金廿両にて購ひ得て、やがて今の身代の基をなしたり。
🌲下つて上野戦争の前には、繁華なる巷の人の、かかる邊鄙の地を望めるもありて、一時は俄に、二倍にも三倍にも、地価の騰貴せし事ありしが、やがてかの瓦解となりて、大名、旗本、家人の邸地の、多く廃虚となり、原と化したる時には、また暴落して、千坪拾五両ならば、可なりの土地を手にし得たりけりと。
(注)瓦解(がかい):江戸時代の終わり。明治維新。
🌲物価如何に低廉にして、天保通寶の一枚だにあれば、銭湯に積もる垢を去りて、六枚を佛ひ、床店に髪を結ひ髯を剃りて、廿六文を遣はし、次に卅二文にて二八蕎麦のをかはりを命じ、三十文を酒一合に投じ、尚、六文の残余ありしと云へる時代の事とは云へ、九百坪廿両といひ、千坪拾五両といふは、その格別に廉なりしに驚かるるなり。
(注)天保通寶(てんぽうつうほう):天保6年(1835)に江戸幕府がはじめて作った銅銭で、楕円の形をしており、四角穴がある。
🌲その頃、このあたりの畠地一反を、金五六両にて購へるものは、之に栽培せる大根の一両年の収穫、若しくはその葱を、四五回も青物市場に運び出だせば、やがて、畠地の原価を回収し得たりしとぞ。
🌲能く時変を観て富を成せる、昔の白圭の如き人、孰れの世にも乏しからず、かかる機に乗じて、江戸の一時の空閑地を買占めて、巨富を致ししもの頗る多しと云ふ。
(注)孰れ:いずれ。頗る:すこぶる。
🌲明治五六年の頃よりは、さる土地に、茶を植うる事しきりに行はれたりといへるが、我がここにト居せし頃も、かしこここに、雑木の老幹の亭々たる外は、家を環りて皆茶にして、その小さく、白く、清楚愛すべき花の盛り、又は茶摘み時の歌の調子など、いと興ある事に思ひたりしなり。
🌲その茶も、今は殆んど残りなく抜き棄てられて、人の住居とかはりぬ。
🌲昔はかかる鄙にても、住めば都と思ひたりしに、今はまことの都となりぬ。
(注)鄙(ひな):田舎。郊外。城外の田野の地。「辺鄙」
🌲我が庭の片隅には、尚、木立多く、むかしの名残見えて、わざとならぬ鶯の春の初聲を、人よりも早く聞くは嬉しけれども、四十五年の大博覧会は逸れたるものの、ここもまた、何時までかこのままにてあるべき。
🌲谷一つ隔てたる田端の高臺も、今は家屋多くなりぬ。
🌲この谷も、幾年ならずして、家もて埋もるるに至るべし。
🌲大なる日本。大なる東京。
🌲林町の名のみ優に聞かる時は來ぬべし。
(明治四十年十二月)
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(平成15年2月10日記)(令和2年(2020)7月5日 追記)