Google My Map 東京大学本郷キャンパス構内医史跡案内
東京大学 赤門:Google earth
♪週末の静かな本郷キャンパスを歩きます。三四郎池の周辺の紅葉は,もう終わりに近づき,空気がひんやりと感じられます。それでも,色づいた葉を通り抜ける光には,まだ,秋の気配を感じます。恋人らしい二人連れとすれ違いました。家族連れも歩いています。都会の大学の構内とは思えない,庭園のような場所です。六義園のなかを歩いているような錯覚を覚えました。
♪東大構内にも,「コミュニケーションセンター」などという施設ができ,オリジナルグッズなどを売っています。一昔前の東大では,考えられなかったことです。法人化によって,東大も開かれた大学になっています。書籍も扱っていて『東京大学本郷キャンパス案内』(木下直之/岸田省吾/大場秀章著 東京大学出版会 2005)1)は,ここで買いました。
♪「コミュニケーションセンター」は,赤門(昭和6年[1931]12月14日 重要文化財)を入って左手にあります。史料編纂所の前に位置しています。明治期につくられ図書館製本所として使われた建物を再生したのだそうです。当時の外観は,赤煉瓦造りだったのですが,改修されて,正面は,ガラス張りになってしまいました。正面の外壁も,赤煉瓦を残した方が,レトロな感じで,赤門とともに,歴史ある東大の建築遺産となったと思われるだけに残念です。
♪医学部・附属病院では,平成20年(2008)5月9日,創立150周年の節目の日を迎えました。記念事業の一環として,構内が整備され,青山胤通(内科教授),佐藤三吉(外科教授)の銅像,そしてドイツ医学導入の恩人である相良知安の記念碑なども,場所を移動させられています。新入院棟の周辺は,コンクリートの建物だらけになり,緑が少なく,ちょっと,息苦しい感じがします。
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♪明治9年[1876],東京医学校本館は,富山藩(加賀藩の支藩)の御殿跡に建てられました2)。無縁坂に通じる坂上です。「龍岡町通り」に面していました。現在,病院・南研究棟となっている場所です。ここに鉄門があって,森鴎外や北里柴三郎などが出入りしていたことになります。『雁』(森鴎外)に登場する岡田(モデルは緒方収二郎[緒方洪庵の六男])の下宿もこのあたりでした。鉄門を入って前庭があり,その正面に東京医学校本館(時計台)が建っていたことになります3)。
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♪医学部創立150年の記念事業の一環4)として,鉄門が再建されています。大学構内に新しい門を設けるのは,管理上も,いろいろ問題はあったでしょうが,医学部の方々の鉄門を復活させるという強い意思を感じます。
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♪旧東京医学校本館が,現在の経済学部のある場所,赤門を入って右手の位置に移築されて史料編纂所として使われていた時代がありました。三上参次の史料編纂所です。
♪三上参次は,後年,旧東京医学校の建物について懐旧談5)のなかで,次のように述べています。
・・・・・・・・・・・・・・・ところが,そこへ行ってから二年足らずであったが,私が朝出勤してみると御殿の周囲の枯芝がよほど焼けている。どうしたかと糺すと,宿直の小使が,休みにくる病院の患者が煙草を吸って燃やしたのだと言うのです。これを聞いて実に危いことだ。どうかしてもっと安全な所へ行きたいと思っている間に,医学部の古い建物,これは時計台と言っておって,木造建築の西洋風の建物で,この種の建物としては最も早い。大きいものであったが,これが取り払われるということになった。この建物はちょうど,マッチ箱を二つ集めたようなもので,真中に廊下を挟んで北側と南側に建物があった。それを真中の廊下から二つに割き,一半は赤門の所へ持って来て,たしか今は会計課か営繕課かになっておりますが,他の一半はこの一ツ橋へ持って来て学士会館にしたが,これはその後焼けてしまった。それで我々は赤門の所へ持って来た建物へ引越して,自由にかなり広く使えることになった。この建物と外部の道路は隔たってはありますけれども,よほど近かった。・・・・・・・
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♪この赤門を写した絵葉書は,古書店で,よく見かけるのですが,いずれも正面からのものばかりで,赤門の背景に旧東京医学校が写ったものをみたことがありませんでした。ところが,今回,東京大学の本郷キャンパスを散策するにあたって,絵葉書専門店のポケットブックスのホームページをみていたところ,赤門の背景に旧東京医学校本館が写った絵葉書をみつけました。時計台が写っていました。赤門の絵葉書というと,正面から写したものが多く,背景の建物が写り込んでいる絵葉書は,貴重であると思います。
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三上参次と東京医学校本館の変遷
明治9年(1876):11月,東京医学校を本郷旧加賀藩邸(旧富山藩邸内)に移す。本館竣工。校長は長與専斎。
明治10年(1877):4月12日,「東京大学」設立。東京医学校は東京大学医学部(第一次)となる。この時,綜理となったのが池田謙斎。
明治28年[1895]:4月,文科大学内に史料編纂掛が設けられ,三上参次が史料編纂委員となる。(当時の史料編纂掛の場所は森川町に面した法文学部の建物の二階の半分)
明治32年[1899]:三上参次、東京帝国大学文科大学教授・史料編纂掛主任となる。
明治38年[1905]三上参次、史料編纂掛事務主任[現在の史料編纂所長]になる。(当時の史料編纂掛の場所は山上御殿にあった。)
明治44年(1911):1月14日から7月20日までの期間をかけて解体。前半部が赤門横に移築され,史料編纂掛の建物となる。解体された後半部は,神田錦町の学士会館の建物となる。
昭和30年(1955):東京大学営繕課となる。
昭和40年(1965):用途廃止となる。
昭和44年(1969):3月,明治44年(1911)当時の外観に復元され,小石川植物園内に移築される。
昭和45年(1970):6月8日,重要文化財の指定を受ける。
平成14年(2002):1月12日,東京大学総合博物館小石川分館となる。
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♪この旧東京医学校本館は,現在,東京大学総合研究博物館の小石川分館として利用されています。三宅秀6)(明治7年[1874]東京医学校長心得)の曾孫にあたる中村明男氏(前日本橋・榛原社長)と,小石川分館で,三宅秀に関する展示会が開催されたのを機会に,小石川植物園を訪ねたことを思い出します。東京医学校と小石川療養所の御薬園がマッチしている植物園内を歩きました。
♪旧東京医学校本館(旧史料編纂所)は,実に,よい場所を得て,時代にあった使われ方をしているように思います。春の訪れを待って,また,小石川植物園内を歩いてみたいと思います。天上の人となった中村氏の面影に,どこかで会えるのではないか。周辺の開発も,ほどほどにして,いつまでも,昔の名残が感じられる小石川植物園であってほしいと願っています。
参考文献
1)『東京大学本郷キャンパス案内』(木下直之/岸田省吾/大場秀章著 東京大学出版会 2005)
2)『石黒忠悳 懐舊九十年』(石黒忠悳著 非賣品 昭和十一年)
3) 『東京帝國大學法醫學教室五十三年史』[古畑種基編輯 非賣品 昭和十八年]
4)「東大病院だより」No.54 (平成18年8月31日発行)
p.2-3.医学部附属病院「鉄門」再建記念式典,”90年振りの鉄門の再建”
5)『明治時代の歴史学界 三上参次懐旧談』(三上参次著 吉川弘文館 平成三年)
6)『桔梗 ―三宅秀とその周辺―』(福田雅代編纂 岩波ブックセンター信山社 昭和六十年)
(平成23年12月26日 記す(平成29年6月1日 訂正・追記))(令和4年12月8日 追記)