5.幕末の江戸で活躍する緒方洪庵:TBS 日曜劇場 「JIN -仁ー」

♪TBS系で「JIN ー仁ー」(全11話)という時代劇(ドラマ)が始まりました。

[原 作/村上もとか 脚 本/森下佳子 演 出/平川雄一朗・山室大輔・川嶋龍太郎 プロジュース/石丸彰彦・津留正明  時代考証/山田順子 主題歌/「逢いたくていま」MISIA(アリオラジャパン)

♪原作は、「スーパージャンプ」(集英社)に連載されているコミックだそうです。(全13巻のコミック文庫として完結しています)

 

♪大学付属病院の優秀な脳外科医である南方仁[みんかた・じん](大沢たかお)は、病にたおれた恋人の未来(中谷美紀)を現代に残したまま、文久2年(1862)の江戸の町にタイムスリップしてしまいます。

♪文久2年(1862)といえば、寺田屋事件や生麦事件が起こった幕末の動乱期。そこで、仁は、大坂から江戸へ幕府の侍医(医学所頭取)となるために出てきていた緒方洪庵(武田鉄矢)と知り合い、江戸で流行していたコロリ(コレラ)に、共に立ち向かうことになります。ドラマの第2話と第3話を見ました。

♪大坂で仕事は終わったとされる洪庵の元気な姿を、江戸の町中に見ることができるのは、SFエンタテインメントのよさであり、楽しいことです。

♪番組のタイトルバックは、現在と昔を対比させ、芝の増上寺、御茶ノ水周辺と思われる場所や、大川の橋や舟などを写し出しています。医療の精神は過去から現在に繋がっていることを表現しているようにも見えます。

♪洪庵のほかに、伊東玄朴や松本良順なども登場します。医史学監修は酒井シヅ先生(順天堂大学・医学部医史学・名誉教授)。医療指導・監修は冨田泰彦先生(杏林大学医学部・医学教育学・講師)。医学ドラマとしても、本格的です。

♪時代考証(山田順子)・歴史監修(大庭邦彦 聖徳大学・人文学部・日本文化学科・教授)も、しっかりしていて、コミックが本格的な時代劇に姿を変え、映像的にも、大変、美しい出来になっています。江戸の町並み、そして、通りの店の前には、箱看板を置くなど、美術にも力を入れているようです。

♪第3話:仁(大沢たかお)は、コロリ患者のために、洪庵に助力を請い、点滴の道具をつくり、治療にあたる決心をします。水に塩と砂糖を配合した点滴液を静脈に入れる。注射針や点滴瓶は、職人につくらせる。患者の救護所の野外設営と救急処置。医療的な設定も、本格的です。

♪仁は、患者を隔離して治療に専念するのですが、その仁自身がコロリに罹ってしまう。仁に好意を寄せる武家の娘である咲さき(綾瀬はるか)は、危篤状態に陥った仁を救おうと、仁に教えてもらっていた点滴の方法を、緒方洪庵が見ている前で、自分の手でやってみることにします。当時の女性としては、大変、勇気のある行動です。大腿静脈から、点滴を入れるシーンでの綾瀬さんの演技は、緊迫感のなかにも、落ち着きが感じられ、感動的でありました。咲の涙が仁の頬に落ち、命の点滴となって、仁を、あの世から呼び戻すことになるのでした。

♪ほかに、女優陣には麻生祐未さん(咲の母親、栄えい)、中谷美紀さん(仁の恋人・未来と花魁・野風[のかぜ]の二役)、男優陣には武田鉄矢さん(緒方洪庵)、小日向文世さん(勝海舟)、内野聖陽さん(坂本竜馬)など、個性的で実力派の俳優がそろっています。

♪次回のドラマの展開(脚本)と、それぞれの俳優の演技、そして、その舞台背景を観るのが楽しみになってきました。

♪心に残る台詞がありました。仁が、過去の時代のなかで、現代的な医療行為を行ない、人を救ってよいのか、歴史を変えてしまうことになるのではないかと、悩み、咲に、その思いをぶつける場面。
仁と咲の、長いセリフの、その一つひとつが生きていて、心に響きます。

:歴史は、おれのやっていることを、帳消しにするかもしれない。なにも変えないかもしれない。

:先生は、わたくしの運命を変えましたよ。脈打つ心の、音を感じます。咲は生きておりますよ。

♪今年のお正月には、NHKでも緒方洪庵をテーマにした「浪花の華―緒方洪庵事件帳―」が放映され、ドラマで、洪庵が注目された年であるようです。来年、平成22年(2010)は、緒方洪庵の生誕200年にあたります。

(平成21年10月30日 記)(平成29年4月9日 追記)

(令和4年12月29日 画像を追加)

4.緒方洪庵の13人の子供たち

♪緒方洪庵(1810-1863)は、妻八重(1822-1886)との間に、七男六女、13人の子供をもうけました。(第五子、第六子は夭折)

♪洪庵に13人の子供がいたことは、高林寺(本郷・駒込)にある洪庵の墓石(侍醫兼學法眼緒方洪庵之墓)の裏に刻まれている墓誌(茶渓古賀増撰 三澤精確書)のなかにも、記されています。(写真参照

緒方洪庵墓の碑文の一部(平成21年3月 堀江幸司撮影)

「家娶億川氏生六男七女嫡夭次洪哉承後次名四郎其三幼女嫡大槻玄俊次配養子拙齋」

侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」墓誌全文(緒方富雄著 「中外醫事新報」1239号別刷 昭和12年1月28日発行)

高林寺・緒方洪庵墓域(1993.3.28 堀江幸司撮影)

♪洪庵の没後、家長となったのが、次男の惟準(これよし)(1843-1909)。今年、平成21年(2009)は、惟準の没後、100年にあたります。

緒方惟準 (出典:『医譚』第17号:pp.45-66. 1944.)(緒方銈次郎著:東京に在りし適々斎塾)
緒方惟準(出典:「中外医事新報」 第704号 pp.1070-1072 明治42年7月20日刊行

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♪緒方富雄先生は、「緒方洪庵の子、緒方惟直のこと(未定稿)」と題して(「蘭学資料研究会 研究報告」(第274号))、以下のように書かれています。(文献4)

洪庵の子

緒方洪庵(1810-63)と夫人八重(1822-86)とのあいだに13人の子がうまれた。そのうち男の子5人と女の子4人が成人した。その男の子はつぎの5人である。

惟準(これよし)幼名平三、洪哉。第三子、次男(1843-1909)

惟孝(これたか)幼名四郎、城次郎。第四子、三男(1844-1905)

惟直(これなお)幼名十郎。第十子、五男(1853-78)

収二郎(しゅうじろう)第十二子、六男(1857-1943)

重三郎(じゅうざぶろう)第十三子、七男(1858-85)

 

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♪緒方家の家系図については、『故大熊房太郎先生寄贈図書目録』(聖マリアンナ医科大学附属図書館、1983)のなかに『緒方氏系図』(緒方富雄編、1966)があり、一度、実見したいと思っていましたが、実現できないままになっています。(国立国会図書館にも所蔵があるようです)

♪西岡まさ子氏の小説『緒方洪庵の息子たち』(河出書房新社、1992)は、洪庵没後の息子たちの足跡を追って、豊富な資料と取材に基づき、描かれています。また、西岡まさ子氏には、洪庵の妻(八重)を描いた『緒方洪庵の妻』(河出書房新社、1988)という小説もあり、こちらも、史実に基づいて、丹念に書かれています。

♪この2册の歴史小説は、緒方富雄先生が著された『緒方洪庵傳』(初版)『緒方洪庵伝』(第2版)とともに、洪庵を知るための、貴重な資料となっています。

♪『緒方洪庵の息子たち』の巻末に参考文献として『緒方氏系図』の記載があり、「緒方家・億川家系図」が収録されていました。

♪この「緒方家・億川家系図」と『緒方洪庵伝』(第2版)の巻末の年表から、洪庵の子供たちの名前と生誕年月日の一覧を作成してみました。

 

 

緒方家家系図

 

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♪久しぶりに東京大学医学図書館(本郷)を訪ねて、2階閲覧室に置かれている明治に刊行された和雑誌をブラウジングしていたら、「東京医事新誌」の第1624号(明治42年7月24日刊行)に「洪庵先生略傳」という記事を見つけました。そのなかに「故洪庵先生夫人八重子並緒方一家の寫眞」があって、緒方準一先生、緒方安雄先生、緒方富雄先生の子供のころの顔がありました。(令和元年[2019年10月23日 追記]

故洪庵先生夫人八重子並緒方一家の寫眞(出典:「東京医事新誌」1624:28-35[1508-1515] 明治42年7月24刊行)

 

参考文献

1)『緒方洪庵傳』(初版)(緒方富雄著 岩波書店 1942)

2)『緒方洪庵伝』(第2版)(緒方富雄著 岩波書店 1963)

3)『医の系譜 緒方家五代 洪庵・惟準・銈次郎・準一・惟之』(緒方惟之著 燃焼社 2007)

4)「緒方洪庵の子、緒方惟直のこと(未定稿)」(緒方富雄著):蘭学資料研究会研究報告 第274号 pp.4-23. 1973,

 

5)洪庵先生略傳 「東京医事新誌」第1624号 28-35[1508-1515] 明治42年7月24日刊行

 

6)緒方惟準翁小傳 「中外醫事新報」第704号 1070-1072 明治42年7月20日刊行

7)『医譚』第17号:pp.45-66. 1944. 緒方銈次郎著:東京に在りし適々斎塾

8)『日本醫事新報』第1366号(昭和25年7月1日 発行)p.1742.

 

3. 緒方洪庵墓:高林寺内の移転と甕棺

 

♪現在、緒方洪庵の墓は、高林寺(こうりんじ)(東京都文京区向丘2丁目37番5号)の本堂に向かって左側に広がる墓地の中央部分に位置しています。(関連連載第1回)

♪洪庵の墓所は、以前から、この場所にあったのではありません。埋葬当初(文久3年[1863]6月22日)は、寺門に近い水はけの悪い場所にありました。

♪昭和11年(1936)、高林寺(当時の住所は東京市本郷区駒込蓬莱町68番地)に隣接する道路が拡幅されることになり、それに伴い洪庵の墓も、高林寺内の別の場所に移転することになりました。

♪墓の掘り起こしと移転作業が、高林寺住職、府当局、親戚一同立会いの下、6月22日の午前9時から行われました。洪庵の歿後、73年目のことです。昭和11年(1936)といえば、二・二六事件が起こり、世情が不安定な時代でした。

♪洪庵の墓の移転については、洪庵の曾孫にあたる緒方富雄先生(日本医学図書館協会第2代会長)が『中外醫事新報』(第1239号)(1937年)の中で、詳しく記述されています。

♪その記録の中には、高林寺内の洪庵墓の旧墓所と新墓所の全景写真とともに、洪庵の遺骸が納められた甕の写真も載っていました。土中から掘り出された甕棺と思われます。大変、貴重な記録写真ですので、転載しておきます。

第1図 洪庵の遺骸を納めた甕
第2図 甕を新墓所に納めたところ(写真の右方が前面に当る)
第3図 旧墓所 向って右洪庵墓、左洪庵夫人墓、中央後追賁碑
第4図 新墓所 向って右洪庵墓、左洪庵夫人墓、右端追賁碑、これと洪庵との間の後に重三郎墓が見えている

(図の説明文は、緒方富雄先生の文献のまま。また、現在の墓所の写真は、連載第1回に掲載してあります)

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緒方洪庵墓 (平成20年6月15日撮影)

♪洪庵が納められた甕は、地下七尺のところからあらわれ、水を含んだ泥土で充ちていたとのこと。遊離した一枚の肩胛骨や、脊椎の上端、左右数本の肋骨、大腿骨の一部が見えたとのことです。

♪甕の掘り出しに立会った親族の中には、「この機会に遺骨を清掃して納め直したらどうか」との意見もあったようですが、洪庵の第十二子である緒方収二郎氏の意見に従って、甕の中には手をつけず、そのままの形で新墓所に埋葬されることになったとのことです。

緒方収二郎氏は、昭和3年(1928)5月27日に、岡山市足守で行われた「洪庵緒方先生碑」の除幕式にも、緒方銈次郎氏とともに、遺族総代として参加しています。

♪甕の大きさは直径一尺九寸、内径一尺五寸五分、高さ約二尺五寸。暗褐色の焼色。この中に仏様になった洪庵が納められ埋葬されました。

♪月日は流れ、今年、平成21年(2009)は、墓所移転の時から、また、73年目の年となりました。そして、来年、平成22年(2010)は洪庵の生誕200年、4年後の平成25年(2013)は、洪庵の歿後、150年の節目の年となります。

♪高林寺の緒方洪庵墓は、江戸からの時の流れを、確実に、今に伝える史跡のひとつとなっています。

 

参考文献

1)緒方富雄:緒方洪庵墓の移轉 『中外醫事新報』(第1239号)(1937年)pp.10-17.

2)堀江幸司:緒方洪庵誕生地 『医学図書館』33(2):204-205,1986.
(平成21年2月7日 記)

 

駒込市場(原稿付図)(昭和7年頃作成されたもの)

(明治34年9月(市場取締規則制定)、本郷浅嘉町の岩槻街道の両側にあった駒込市場(土物店駒込辻の市場)(やっちゃば)が、高林寺寺中に移転したことを示す略図)

この駒込市場が、中央卸売市場豊島分場(現・東京都中央卸売市場豊島市場)として、巣鴨の地に移転したのが、高林寺内で緒方洪庵の墓の移転が行われた翌年の昭和12年3月のことでした。

(平成31年3月19日 追加)

2. 緒方洪庵と岡節斎の碑:谷中の石屋(御碑銘彫刻師)廣瀬群鶴

場 所:東京都文京区向丘2丁目37-5(高林寺)

交 通:地下鉄・南北線(本駒込下車)


Google My Map:本郷界隈:医史跡案内

参考文献:本郷・駒籠髙林寺:緒方洪庵追賁碑と節齋岡先生碑 堀江幸司 『医学図書館』

♪緒方洪庵の墓域には、中央に「侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」、左に「緒方洪庵先生夫人億川氏之墓」の墓碑があり、右に「追賁碑」が建っています。また、墓域の左手の隅に、「緒方洪庵」の説明板(石板)が置かれています。

♪「追賁碑」の碑文は、明治42年(1909)6月8日に、森林太郎(鴎外)によって書かれたもので、明治45年(1912)7月10日に建立されています。その50回忌には、万延元年(1860)大坂の適塾に学んだ今村有隣(蘭学者・フランス語学者 1844-1924)も参会しています。今村有隣の墓は、染井霊園にあります。水原秋桜子の墓の近くです。

参考:Google My Map : 東京都染井霊園:医家墓所案内

「追賁碑」

♪「侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」の墓碑は、慶應3年(1867)3月に建てられました。その墓石を刻んだのが、谷中の石屋(御碑銘彫刻師)であった廣瀬群鶴(ひろせ・ぐんかく)(号は廣群鶴 こう・ぐんかく)です。

♪この廣群鶴は、同じく高林寺にある岡節斎(侍医 明和元年<1764>-弘化5年<1848>)の碑(節斎岡先生碑)も刻んでいます。明治12年(1879)に建てられた碑は、墓道を挟んで、緒方洪庵の墓の反対側にあります。碑文の中に「駒籠里高林寺」の文字も見えます。

節斎岡先生碑(中央の低い碑)(1993年 撮影)

節斎岡先生碑(1993年3月撮影)

♪岡節斎は、岡麓(おか・ふもと 1877-1951 アララギの歌人)の先祖で、幕府医官であった岡家歴代の墓碑が、墓地の右手の一番奥まった所に、まとめられています。数が多いので、墓域は、ちょっと窮屈な感じもしました。

岡家歴代の墓(1993年7月 撮影)

本郷・駒込髙林寺の岡家墓域見取図(1993年1月 堀江幸司作成)

♪岡麓は、明治32年(1899)、本郷金助町(現在の文京区本郷3丁目12、13番あたり)に家を新築した際に正岡子規を招いています。子規庵歌会(根岸短歌会)に参加してのことでした。

♪高林寺墓地には、蘭学と漢方の大家が同居していることになります。墓地の上は遮るものがありません。雲の浮かぶ青い空を見ていると、なにか東洋的な時間の流れを感じます。

(平成14年7月7日 記)(令和元年10月5日 図追加)(令和3年2月14日 写真を追加)

1. 緒方洪庵の墓(本郷駒込高林寺と大阪龍海寺)

🍂緒方洪庵のお墓は、本郷駒込高林寺(遺骨)と大阪龍海寺(遺髪)の2か所にあります。本稿では、本郷駒込高林寺の洪庵のお墓を紹介します。

航空写真

 本郷駒込高林寺(Google earth)

 大坂の龍海寺(Google earth)

 

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場 所:東京都文京区向丘2丁目37-5(高林寺

交 通:地下鉄・南北線(本駒込下車)

 

高林寺内見取り図(図をクリックするとGoogle earthにリンクします)

 

高林寺門(1993年3月28日 撮影)

緒方洪庵の墓域(1993年3月28日 撮影)

♪図書館情報サービス研究大会(現・医学情報サービス研究大会)の第2回大会(大阪・1985)(会場:大阪歯科大学 )で野村謙さん(当時・神奈川歯科大学)が、シソーラス研究会(代表・板橋瑞夫氏)を代表して発表された折り、その帰りに皆で適塾に寄った記憶があります。もう17年も前のことになります。

 

 

 

適塾・緒方洪庵旧宅   (クリックするとGoogle earthにリンクします)

左から関(昭和)、木野内(東大)、和田(日歯)、野村(神奈川歯科)、堀江(東女) シソーラス研究会メンバー(大阪適塾前にて 阿部(慈恵)撮影)

♪その時のわたしの演題は、「明治30年代各地における「医学図書館」設立の動き」でした。

♪当時、わたしは日本医学図書館協会の歴史に興味があり研究大会が全国で開催される折りに、各地の医学図書館を訪ねて古い写真などをお借りしたり、医史跡を探訪したりしていました。倉敷で研究会が開催された時には、足守にある緒方洪庵の生誕地を取材し、長崎の大村市にまで足をのばして、長與専斎の史跡を回ったりしたこともありました。今思うと、重いビデオカメラなどを担いで、よく歩いたものだと思います。

参考文献:「緒方洪庵誕生地」(堀江幸司 文・写真 『医学図書館』33(2):204-205, 1986)

♪先日のシソーラス研究会の懇親会の席で、野村さんから、シソーラス研究会のHP「医学用語を歩く」のコンテンツのひとつとして「堀江さんの医史学のエッセイも面白いのではないか」という言葉を本気にして、自宅の近くの医史跡を探訪して、少しずつ文章にまとめていこうと思いました。「江戸東京医史学散歩」のはじまりです。

その第1回として、緒方洪庵の墓を取り上げます。

「故緒方洪庵氏」(『醫師寫眞帖』の巻頭口絵)出典『醫師寫真帖』〔醫事衛生研究會発行 杉 謙二編 明治42年〕

♪わたしの自宅は、駒込にあります。六義園の近くです。高林寺には自転車で行くことにしました。本郷通りを東京大学本郷キャンパス方面へ向かうと左側に駒込吉祥寺があります。ここには、佐藤進(東京大学医学部講師兼院長 順天堂医院長 大正10年7月25日没)の墓があります。吉祥寺には、ほかにも著名人の墓がありますので、別の機会に取り上げます。

「東都駒込邊絵圖」(堀江幸司蔵)

♪吉祥寺を過ぎ、しばらく行くと本駒込1丁目の交差点(駒本小学校前)にでます。この交差点を左折して、すぐ右側に高林寺はあります。駒本小学校の隣になります。高林寺は数年前に建て替えられ、木造で趣のある昔の面影はなくなりました。墓地は昔のままですが、一部整備されて新規墓地として売り出していました。緒方洪庵と同じお寺にお墓があったらどんな気持ちだろうと思ったりしました。

♪緒方洪庵の墓は、すこし奥まったところにあります。さすがによく整備されています。墓域の配置などについては次回、少し詳しく述べます。

♪高林寺をでて、本駒込1丁目交差点(駒本小学校前)の交番横の路地を白山上に抜け、右折すると東洋大学前です。この通りには、以前は都電が走っていました。子供の頃、この都電に乗って神田神保町方面へ、また、駒込駅前を通る都電で日本橋の三越に行ったりしました。しばらくこないうちに東洋大学は、立派な校舎になっていてアプローチの木立の若葉が素敵でした。

♪東洋大学前から路地を通って、旧理化学研究所跡に建つ「文京グリーンコート」にでました。日本医師会館の隣です。この辺りには買い物でよくくるのですが、一部昔の木立が残されていて、可憐なランが咲いているのにはじめて気付きました。ところで、緒方富雄先生の発案で日本医学図書館協会の総会の毎に各地の医学図書館に移植された適塾蘭はどうなっているのでしょうか。もう適塾蘭のことなど知る人も少なくなっているのかもしれません。

緒方洪庵 医学者 蘭学者 教育者
奥医師 法眼 医学所頭取
文化七年七月十四日(1810)備中足守に生る
天保九年(1838)より文久二年(1862)まで
大阪に適々斎塾を開く
文久三年六月十日(1863)江戸にて没五十四才
花陰院殿前法眼公哉文粛大居士
文久三年六月十二日(1863)髙林寺に埋葬
明治四十五年七月十日(1912)追賁碑建立
大正十三年二月五日(1924)東京府史蹟指定
昭和十一年六月二十二日(1936)
道路拡張のため現在位置へ移転
昭和四十三年六月十日(1968)
追賁碑移転整備

昭和四十三年 建之

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(平成14年4月29日[初稿日] 記す)

★★★🚙🚙

♪昨日、平成20年6月14日(土)の朝、午前8時43分に「岩手・宮城内陸地震」が発生。東京でも、船酔いを起こしたような揺れを感じました。どこかで、地震があったのではないか。テレビをつけてみると、すでに、大地震の発生が、速報で、流されていました。

♪宮城県栗原市周辺の山々(くりこま高原)では、広範囲に斜面崩壊や土石流が起こり、山が動き、割れた様子は、地球内部の地殻変動の激しさを現しているようです。

♪墓地の墓石が倒れている様子も報じられていました。もうすぐ、お盆の季節ですが、倒壊した墓石の前で、先祖を思い、泣き崩れている婦人の姿が印象的でした。

♪久しぶりに、緒方洪庵のお墓のある髙林寺を詣でてみようと思い、「駒込駅」から南北線に乗りました。南北線は、いつも、通勤に利用しているので、通勤定期券を使い「本駒込駅」で下車。地上へのエレベータに乗ると、そこが、本郷通りの駒本小学校前交差点で、髙林寺のすぐ傍にでました。

♪今回、髙林寺にきたのは、平成5年3月28日に撮影した髙林寺の門前の様子が、現在、どうのように変化しているか、記録しておきたいと思ったからです。

♪本堂とともに、門の周辺も改築され、墓地の敷地内も、一部、区画整備がされており、新規墓地売り出しの案内が置いてあります。

改築された高林寺門(平成20年6月20日 撮影)

♪緒方洪庵のお墓、節齋岡先生碑、岡麓のお墓は、昔の位置にあり、ちょっと、ほっとしました。

画面中央の低い石碑が「節斎岡先生碑」

♪緒方洪庵の墓前には、花が供えられ、空には、梅雨の晴れ間の青空も見えて、天空とのつながりを感じる時間を過ごすことができました。

(平成20年6月15日 本文・写真追加)

★★★

♪平成21年(2009)1月10日(土)(午後7時30分)よりNHK土曜時代劇「浪花の華~緒方洪庵事件帳」の放送が開始されています。(全9回)(緒方章[のちの洪庵]:窪田正孝、 男装の麗人・左近:栗山千明)

♪この時代劇に合せるように、NHK番組「その時歴史が動いた」(1月21日(水) 午後10:00)で、平成19年(2007)11月28日(水)に放送された「緒方洪庵・天然痘との闘い」の再放送がありました。

♪この番組の最後で、大阪の龍海寺(大阪府大阪市北区)にある「緒方洪庵の墓」が紹介されていました。墓石(「洪庵緒方先生之墓」)の映像とともに、松平定知キャスターのナレーションが流れます。

(ナレーションの一部)
「大阪の繁華街の一角にある寺。緒方洪庵の墓は、彼が愛したこの町で、彼を慕った人々の手で建てられました。」

♪洪庵は、文久3年(1863)6月10日、江戸下谷御徒町医学所頭取屋敷で突然の大喀血により急逝。(享年五十四)。伊東玄朴(1800-1871)らの勧めで、奥醫師・西洋醫學所頭取となるため、大坂から江戸へ出てから、10カ月後のことでした1)2)。

♪伊東玄朴、福沢諭吉、村田蔵六(のちの大村益次郎)ら先輩、門人30-50名によって通夜が営まれ3)、遺体は、6月12日の早朝より甕に納められて、本郷駒込高林寺(東京都文京区向丘2丁目37-5)に埋葬されることになります。そして、遺髪が、大坂の龍海寺(大阪市北区同心1-3-1)に葬られたのでした。

本郷駒込高林寺(Google earth)

大坂の龍海寺(Google earth)

 

 

♪司馬遼太郎氏も著書『本郷界隈』(街道をゆく)4)のなかで、洪庵の墓についてふれ、次ぎのように書かれています。

「洪庵の主題は大坂でおわっていて、江戸ゆきはむだだった。ただ奥御医師としての墓碑だけが残った。」

♪大阪大学医学部の源流である「適塾」を創設した洪庵が、あまり丈夫でない身体をおして、江戸に出てくれたお陰で、西洋醫學所(現在の東京大学医学部のはじまり)も実現できたのではないのか。江戸と大坂に「緒方洪庵の墓」があることが、蘭学者・医学者・教育者としての偉大さを示しているのではないか。本郷駒込高林寺の「侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」の墓碑の前に立つと、そんな思いが、身体のなかに湧いてくるのを感じます。

参考文献

1)『緒方洪庵伝 第2版』 緒方富雄著 岩波書店 1963.
2)『伊東玄朴傳』(伊東 榮著 玄文社 大正5年発行の復刻版) 八潮書店 1978.
3)『福翁自伝』(新訂) 福沢諭吉著 富田正文校訂 岩波書店 2008(第58刷改版発行)(岩波文庫33-102-2)
4)『本郷界隈』(街道をゆく 37) 司馬遼太郎著 朝日新聞社 1992.

(平成21年1月26日 追記)(平成29年3月4日 訂正・追記)(令和3年2月13日 写真追加)