記念碑の場所:相生橋中島公園(昭和6年)から神田橋公園に移転(昭和30年)
♪隅田川の東京湾への出口に位置する相生橋は,詩人・木下杢太郎(本名・太田正雄・東京大学医学部皮膚科学教授)の兄にあたる太田圓三(帝都復興院土木局長)が,関東大震災後の復興橋梁のひとつとして設計した橋です。永代橋の下流(隅田川の派川)に架かる橋です。
♪昭和6年(1931),相生橋が完成したのを機会に,小橋(越中島との間)と大橋(月島との間)の中継地となった中之島に太田圓三を顕彰する彫像が建立されました。復興橋梁に命をかけた太田圓三の没後,5年目のことでした。
♪終戦後,彫像は,災禍で損傷した部分を修復の上,昭和30年(1955)春,神田橋公園内に移設されています。
♪相生橋が建設された当時の小橋と大橋とが,どのような位置関係で繋がっていたのか,気になっていました。相生橋の側面や橋上を走る路面電車と中之島の一部をとらえた写真(絵葉書)はあるのですが,全景がわかりませんでした。
♪絵葉書古書店のリストのなかに相生橋を上空から撮影した絵葉書「機上ヨリ見タル月島相生橋及商船學校附近」を見つけ,幸い入手することができました。
♪隅田川のなかの中之島,大橋と小橋,そして商船學校(現在の東京海洋大学越中島キャンパス)も写っています。帆船(画面下・中央)も見えます。
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♪梅が咲き,雪柳(ユキヤナギ),杏の花が咲きはじめています。まだ,朝は冷え込みますが,それでも春が,確かに,訪れてきています。染井吉野桜も,そろそろ開花しそうな気配を感じさせています。越中島キャンパス内には,いろいろな史跡が残っているようです。
♪中の島公園から,いまの永代橋は,どのように見えるのでしょうか。太田正雄(木下杢太郎)が兄を想う気持ちは,相生橋・中之島から見た江戸情緒の残る永代橋の風景のなかにあったのかもしれません。
(平成25年3月12日 追記)
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♪太田圓三の記念碑が,神田橋畔の神田橋公園のなかにあることを,伊東市のホームページに記載されている「木下杢太郎の兄・太田圓三」のなかの写真で知りました。
♪その写真は,記念碑を遠景で捉えていて,太田圓三の彫像や碑文がよくわかりません。そこで,この太田圓三の記念碑を確認しに行くことにしました。
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♪平成23年(2011)1月16日(日),今日は,大学入試センター試験の二日目。三重,新潟,鳥取などでは雪ため交通機関が混乱して,試験開始時間が繰り下げられるなどの対策がとられたと新聞・テレビは報じていました。東京は,朝から曇り空で,寒さが身に沁みる一日のはじまりとなりました。
♪寒さの中,愛車のカローラ・フィルダーを走らせ本郷通りをまっすぐ神田橋に向かいました。駒込方面から東京大学本郷キャンパスの前を通って,「本郷丁三丁目」交差点を直進,蔵前橋通りの起点となる「サッカーミュージアム入口」交差点を過ぎて「湯島聖堂前」交差点を右折すると,聖橋にでます。聖橋は,神田川の深い堀割をわたって本郷と神田を連絡する橋です。震災後に架橋された復興橋梁のひとつです。
♪聖橋(復興局土木部橋梁課設計)(大正13年 [1924] 9月着手)1) 2)は,復興局橋梁課長補佐を務めた成瀬勝武(のち日大教授)も構造設計に関係したそうですが,隅田川に架かる鉄橋とは,趣を異にします。橋脚などの橋のデザインは,近隣の湯島聖堂やニコライ堂の建物とも調和しています。
♪神田川の断崖から現れた地下鉄が地上を走り,JR総武線・中央本線とも交差するなど,聖橋,御茶ノ水橋界隈は,石橋と鉄橋が美しい景観をつくり出しています。江戸から東京への移り変わりを,空間のなかに感じられる不思議な場所です。聖橋は,そのなかの中心的な存在となっています。聖橋からの眺めは,鉄道のジオラマを見るようでもあります。
♪右手にニコライ堂を見ながら駿河台の坂を下ると低地の小川町,神田美土代町にでます。以前,神田美土代町には,東京基督教青年会館(東京YMCA)があり,明治30年(1897)には,そのなかに神田衛生会を中心にして「日本医学図書館」3)が置かれました。コンドルによって設計された東京基督教青年会館の建物も,残念ながら,いまでは見ることができません。
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♪前方に「神田橋」の交差点が見えてきました。本郷通りから逸れて,裏道に入り,路上バーキングを探しました。山川書店の前に駐車できました。若い女性3人が,iPadで地図を表示しながら,歩いています。「江戸東京」もiPadに対応できるだろうか,そんなことを考えながら車外にでました。(現在(2019)、「改訂版・江戸東京」ではiPadに対応しています)
♪カメラを担いで,風が冷たく感じられる日陰を,ひとり,神田橋の畔に向かいました。太田圓三の記念碑は,本郷通りの交差点の方を向いて,神田橋の親柱(北詰東側)の脇に建っていました。
♪「かんだばし」の橋名鈑がつけられた灯籠風の親柱は,太田圓三らが復興橋梁4)のために設計したデザインを模しているようです。
♪神田橋は,外濠(御堀)に架かる江戸時代のはじめからある橋で,「大炊殿橋」「神田口橋」とも呼ばれ,大手町側から神田の町へ通じる重要な橋でした。
♪震災後,神田橋は,復興局によって架け替えられることになります。大正13年(1924)8月10日に起工,本小松石を使用した本格的な石橋でした。大正14年(1925)11月15日に開通式が行われています。この神田橋については,復興局技師時代の成瀬勝武が「神田橋改築工事」5)と題して報告しています。
♪土木図書館では「震災復興橋梁工事写真」として復興橋梁の工事の様子を写した写真を約1000点デジタル化して公開しています。隅田川六大橋は,もちろんのこと,聖橋,神田橋の工事過程も写真で詳しく記録に残しています。神田橋や聖橋の工事写真には,神田橋上を走る路面電車や神田川の土手の様子なども写り込んでいて,大変,貴重な史料となっています。
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♪日本橋の榛原(はいばら)に向かうときなどは,いつも,この神田橋を渡っていたのですが,この太田圓三の記念碑には,気がつきませんでした。
♪太田圓三の彫像に対面して感激しました。隅田川六大橋に命をかけた太田圓三の顔がそこには,ありました。
★ 隅田川六大橋(創設年)
1.永代橋:元禄11年(1698)[大正15年(1926)復興]
2.相生橋:明治36年(1903)[大正15年(1926)復興]
3.駒形橋:昭和2年(1927)
4.蔵前橋:昭和2年(1927)
5.言問橋:昭和3年(1928)
6.清洲橋:昭和3年(1928)
♪彫像には,太田圓三の姿と,その背景に淸洲橋の一部が描かれていました。太田圓三のやさしい眼と,きりっとした口元が印象的です。家族を想った顔です。彫像の下には,「太田圓三君像」の文字が刻まれていました。
♪「太田圓三君像」は,昭和6年(1931)に相生橋の中島公園内に建てられていたものを,戦後,昭和30年(1955)に修理して移したものでした。相生橋は,隅田川六大橋のなかで,一番目に竣工した橋で,太田圓三が永代橋附近からの眺めと将来の架け替えの簡便さを考えて設計した橋でもありました4)。
相生橋は突桁式の鈑桁を連続して架設するものであります。相生橋は御承知の通り海岸近くのことでありますから,一部錆びた場合とか将来改築する場合に便利の様に,又永代橋附近から見て廣い天空の眺を邪魔しない様にと云ふ考へから,此の様な構造を撰んだ次第であります。
♪太田圓三は,隅田川の橋の設計にあたっては,橋のデザインのなかに風景も取り入れていたことがわかります。さらに,鉄橋は,塩害によって,万全なものでもないことを知っての設計だったことがわかります。太田圓三は,隅田川の風景そのものを愛していたのでしょう。その想いは,永代橋の畔で,「パンの会」に参加していた弟の木下杢太郎(太田正雄)にも通じるものでした。
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♪当時の,相生橋6) 7)は,中之島を挟んで,越中島との間に架かる小橋と月島との間に架かる大橋との2つの橋からなっていました。復興橋梁の完成後,その中之島に,太田圓三の功績を顕彰する彫像が置かれることになります。昭和6年(1931),太田圓三の死8) 9) 10)から5年目のことでした。
♪相生橋中島公園で4月21日に太田圓三の記念建造物の序幕式が挙行されたときの写真が,雑誌「土木建築工事画報」(第7巻6号)(1931)に載っています8)。ちょうど,80年前のこととなります。そこには,未亡人と嗣子・陽三の姿がありました。ここでも,記録を,写真で残す大切さが伝わってきます。
♪相生橋中島公園内の記念碑の周りには,休憩所もできました。遺族や友人たちは,相生橋から永代橋を眺めて,その橋上に自分たちをみている太田圓三の姿を感じていたのかも知れません。
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♪「太田圓三君像」の彫像の下に相生橋畔から,この神田橋畔に記念碑が移された経緯を書いた碑文がありました。隅田川六大橋(復興橋梁)の完成を見ずに亡くなってしまった太田圓三の想いを後世に伝えようとする方々の気持ちが伝わってきます。
大正十二年関東大震災の直後,氏は選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ,復興事業の根幹で然も極めて難事業であった區画整理,および,これに基く土木工事の計画遂行に直面して,献身的努力をなすこと二年余,事業の基礎漸くなった大正十五年春,心身疲勞の極 事業の犠牲として,惜しくもその生命を絶ったのであります。
昭和六年復興事業の完成に當り,先輩知友相寄り,氏の功績を偲び記念としてこの彫像を,深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが,太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので,昭和三十年春それを修復の上,この地に移設したのであります。
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♪「太田圓三君像」の彫像と神田橋の橋名鈑などを撮影して,神田橋公園をでました。寒桜が咲いているのに気がつきました。太田圓三に会いに来て,一本の寒桜をみる。本格的な春の訪れが待たれる桜との出会いでした。
♪神田橋の方を振り返ると,日本橋の方向の空は高速道路で狭くなっています。太田圓三の記念碑の周りは,高層ビルや高速道路ばかりで,夕陽もすぐにビルの陰に隠れてしまいました。
♪東京の下町を愛した太田圓三。風が渡たり,川面に陽が輝く,眺望のよい隅田川沿いを,桜やすかんぽが咲く頃,歩いてみたいと思いながら,神田橋の交差点を渡って,帰路につきました。
むかしの仲間
むかしの仲間も遠く去ればまた日ごろ顔あはせねば知らぬ昔と変りなきはかなさよ春になれば草の雨三月桜四月すかんぽの花のくれなゐまた五月には杜若花とりどり人ちりぢりの眺め窗の外の入日雲
(木下杢太郎)
参 考 文 献
1) 聖橋工事(二圖).土木建築工事画報 第1巻 第2号 p.22.(1925)
2) 聖橋設計側面図(一圖).土木建築工事画報 第1巻 第2号 p.23.(1925)
3) 「日本医学図書館」-神田駿河台周辺と明治35年以降の「日本医学図書館」-.医学図書館 32(3):290-7, 1985.
4) 「六. 橋梁」 :太田圓三著:『帝都復興事業に就て』(復興局土木部 大正13年)
5) 成瀬勝武:復興型橋梁・神田橋改築工事.土木建築工事画報 第2巻 第1号 p.24-25.(1926)
6) 釘宮 盤:三種の工法を用ひたる相生橋橋脚工事.土木建築工事画報 第2巻 第2号 p.30-39.(1926)
7) 復興局:相生橋締切工事(二圖).土木建築工事画報 第1巻 第1号 p.10-11.(1925)
8) 太田円三氏記念像.土木建築工事画報 第7巻 第6号 p46.(1931)
9) 故太田円三氏を悼む.土木建築工事画報 第2巻 第5号 p.2-3.(1926)
10) 太田円三氏を想う.土木建築工事画報 第2巻 第5号 p.4.(1926)
参考ホームページ:土木学会附属土木図書館・デジタルアーカイブス・「土木建築工事画報」
(平成23年1月21日 記す