長男・正一[後列左から二人目],次男・恭二[後列右から3人目],三男・謹三[後列右端学生服姿] (前列中央が木下正中、左が妻の素子)(昭和7年撮影)(木下實氏提供)
♪木下正中(せいちゅう)(若狭小濱藩医・木下家五代目)と妻・泰子(やすこ)との間には,三男七女という大勢の子供がいました1) 。お正月,三月の雛祭り,端午の節句,夏休みの葉山海岸や畑毛の別荘行きなど,華やかで,にぎやかな,日々であったことでしょう。
長女・篤子(あつこ)(木下益雄室)
次女・道子(みちこ)(7歳で病没)
三女・直子(なおこ)(石川正臣(まさおみ)室)
長男・正一(せいいつ)
四女・宣子(よしこ)(栗原純一室)
次男・恭二(きょうじ)
五女・定子(さだこ)(楠 隆光室)
三男・謹三(きんぞう)(戦没)
六女・弘子(ひろこ)(川喜田愛郎(よしお)室)
七女・静子(しずこ)
♪木下正中の三人の息子(長男・正一,次男・恭二,三男・謹三)は,いずれも東京帝國大學を卒業しています。正一は医学部,恭二は理学部(化学科),謹三は農学部(農芸化学科)と,それぞれ,自然科学系の別分野を学びます。医学部だけに拘らない正中の学問に対する視野の広さと息子たちに対する信頼が感じられます。
♪長男・正一(1901-1987)
明治34年(1901):6月24日 本郷森川町に生まれる。
昭和2年(1927):東京帝國大學医学部を卒業。九州大学産婦人科教室に入局。父・正中の弟子であった白木正博教授に学ぶ。
昭和7年(1932):木下産婦人科病院長となる。
昭和32年(1957):賛育会病院長となる。
昭和42年(1967):11月15日 婦人関係の諸問題に関する懇談会委員を委嘱される。
昭和62年(1987):3月8日逝去。享年85歳。
♪次男・恭二(1906-1995)
明治39年(1906):5月22日 本郷森川町に生まれる。
大正13年(1924):府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校 )卒業。
昭和2年(1927):静岡高等学校卒業。
昭和5年(1930):鮫島実三郎教授の指導で卒業研究を行ない,東京帝國大學理学部(化学科)を卒業。
昭和15年(1940):横浜高等工業学校(のち横浜高等工業専門学校)教授となる。
昭和24年(1949):横浜国立大学工学部 教授となる。図書館長・評議員をつとめる。
昭和38年(1963)文部省海外化学研究施設調査に派遣。
昭和47年(1972)横浜国立大学退官,名誉教授となる。新設の埼玉医科大学教授 となり,正中の弟・東作の長男で,東大を定年退官した木下治雄教授とともに大学創設に尽力する。
昭和51年(1976):勲二等瑞宝章を授与される。
平成7年(1995):10月12日逝去。享年90歳。
♪三男・謹三(1911-1945)
明治44年(1911):7月1日,本郷森川町に生まれる。東京高等師範附属小学校・中学校卒業。静岡高等学校卒業。
昭和10年(1935):東京帝國大學農学部(農芸化学科)卒業。昭和産業株式会社に入社。麻布第三連隊に入隊。千葉陸軍通信学校卒業。
昭和13年(1938):藤井よし枝と結婚。
昭和19年(1944):北方派遣部隊に所属して,千島最北端の幌筵島 (ほろむしろとう)・占守島(しゅむしゅとう)へ転属。
昭和20年(1945):4月19日,大誠丸で沖縄へむかう途中,北海道日高郡門別 村沖合で,米国潜水艦の攻撃を受け沈没。戦死。享年34歳。
♪この家族写真は,昭和7年(1932)に撮られています。この年,正一は,父・正中が経営する九段・一口坂の木下産婦人科病院を引き継ぎ,院長になるため,九州大学の産婦人科教室(白木正博教授)のから呼び戻され,東京に家族を連れて帰ってきました。
♪正中は,前列中央に座り,博多からやってきた孫娘・恵子を大事に抱きかかえています。恵子を挟んで,泰子も,やさしく微笑んでいます。泰子の後ろには,定子(五女),弘子(六女),そして正中の横には,静子(七女)が寄り添っています。
♪次男の恭二にとっても,この昭和7年(1932)は,節目の年でした。山本陽子と結婚。恭二の右手側に陽子が立っています。
♪三男の謹三は,東京帝國大學農学部の学生でした。後列,右端に学生服姿で立っています。謹三の隣に並んでいるのが,正一の妻・綾子(あやこ)です。
♪恭二が通った府立第五中学校は,大正7年(1918)の創立で,初代の校長には,伊藤長七が就任しています。この府立第五中学校が開校した巣鴨駕籠町あたり一帯には,かつて榊俶はじめ(東京帝國大學医科大学精神病学初代教授)が医長をつとめた東京府巣鴨病院がありました。現在の日本医師会館や文京グリーンコート・科研製薬(旧理化学研究所跡)があるあたりです。多くの樹木が繁った広大な敷地を有しました。
♪正中が,嫁の綾子に,「日本医師会館だよ。東京医師会館ではない。駿河台の方だよ。連雀町の方ではないよ」といって出かけたという日本医師会館 は,駿河台から駒込の地に移ってきています。本郷通りと不忍通りが交差する上富士前交差点の近くです。不忍通りをはさんだ向こう側には,六義園(柳沢吉保下屋敷庭園跡 )があります。
♪東京帝國大學を目指すような優秀な人材を多数輩出した歴史ある都立小石川高等学校(旧府立第五中学校)も,平成23年(2011)には,閉校される予定とのことです。(現在は東京都立小石川中等教育学校 に完全移行されています。)
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♪正一(木下家六代目)には,木下産婦人科病院の経営とともに,長男として,木下家の家宝である巻物「先徳遺芳(傳家寶墨)」(明治四十二年五月)(木下家四代目 木下凞作成)を子孫に伝える役目がありました2)3) 。
♪「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,木下家(若狭小濱藩医・初代・木下宗白)に代々伝わる杉田家(若狭小濱藩医・初代・杉田元伯)注 ) からの書簡や遺墨などを,表装して巻物にまとめたものです4)5)6) 。
注) 杉田家の第三代目が蘭書を翻訳して『解體新書』を刊行した杉田玄白(名翼,号 齋又九幸,享保18年(1733)9月13日生,文化14年(1817)4月17日卒,85歳)。
♪この「先徳遺芳(傳家寶墨) 」は,全4巻からなります。第1巻「奉先記事」,第2巻「源淵寶墨」,第3巻「立卿成卿先生遺墨」,第4巻「名士墨蹟」の4巻です。
講談社内で発見された「先徳遺芳」
♪その一部を影写したものが『木下文書 』(影写本)(65丁 文書27点 1906年作成大きさ37cm)として東京大学史料編纂所 に残っています。『木下文書』という題は,杉田家からの書簡類を,東京大学史料編纂掛に保存するため影写したときに,三上参次がつけたものです。
♪「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,二重の桐箱に収められ,表箱(外箱)の表題である「先徳遺芳」と内箱の表題である「傳家寶墨」の題字は,いずれも,木下凞と親交のあった富岡鐡齋画伯の書によるものです。
講談社内で発見された「先徳遺芳」
♪また,内箱に裏書された外史(明治四十二年五月),そして,「奉先記事」に収められている自序も富岡鐡齋が筆をとりました。それほどに,木下凞と富岡鐡齋との友情は深かったと思われます。「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,その内容とともに,富岡鐡齋画伯の書風を知る貴重な資料となりました。
♪このような,医史学的,文化遺産として貴重な資料である「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,戦時中,安全に,保管することは,正中(木下家五代目)はもちろん,正一も,大変,神経を使ったと思われます。
♪戦災により,一口坂の木下産婦人科病院や正中が独逸から多数収集していた蔵書類などは,全て焼失してしまいます。そして,戦争で,なによりも,三男の謹三を亡くします。木下家にとって,たくさんの大切なものを失いましたが,「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,残りました。
♪第二次大戦後,10年を過ぎた昭和31年(1956)3月4日(午後2時から午後4時),正一は,「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,安西あんざい安周やすちか(日本医史学会理事)(筆名:杉野大澤)の求めに応じて,医家先哲祭に出品しています7) 。
♪医家先哲祭8) の主催は,日本医師会で,後援は,日本医史学会,日本医事新報社。会場は,日本医師会館の大会議室。遺墨などの陳列は,大食堂で行われました。このとき,緒方富雄が「蘭学の流れ」,安西安周が「杉田家系譜について」と題して,記念講演を行っています9) 。
♪「木下文書」を公開するのは,木下凞自身が,明治40年(1907)に京都医学会総会の医史料展覧会で一部を展覧して以来のことでした。
♪このような貴重な資料である「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,どのような形で,後世へ伝えるかについて,正一は,次弟の恭二とも,相談していたのではないか,と思われます。
♪恭二の次男にあたる木下實氏によると,恭二は写真が趣味で,正中から贈られたローライフレックスのカメラで旅行写真や孫などを撮影。その腕前はなかなかだったとのことです。晩年を過ごした鎌倉のお邸には,そのアルバムが書斎に沢山あるとのことでした。
♪木下實氏よりメールをいただきました。その内容は,次のようなものでした。
「鎌倉で父のアルバムの一部を調べていて,発見したことがあります。野間科学医学研究資料館が『木下文書』を受け入れたときのことを,同館が発行している『科学医学資料研究』第75号(昭和55年7月)に記載しています。ここに,木下文書全4巻の写真も載っているようです。また,この文書を受け入れたときの理事が川喜田愛郎 であったようです。 」
♪早速,文献を取り寄せました。まさしく,探索していた文献でした。正一が,「先徳遺芳(傳家寶墨)」(いわゆる「木下文書」)を野間科学医学研究資料館に寄贈したいきさつが,詳しく書かれていました。全4巻の巻物を桐の内箱に収めた写真,富岡鐡齋の手による内箱の表題と裏書の写真が掲載されていました。探し求めていた巻物が眼前に現れた思いでした10) 。
傳家寶墨 (出 典:『科学医学資料研究』第75号 昭和55年7月15日発行)
♪昭和55年(1980),正一,恭二,川喜田愛郎(六女弘子の夫)らが協力して,「先徳遺芳(傳家寶墨)」を,「安全で,なお学究の徒がいかなる時でも閲覧可能な場所10) 」に,寄贈したのでした。
♪ここに,「先徳遺芳(傳家寶墨)」は,木下家の手をはなれて,公的な文化遺産として,後世に受け継がれることになりました。当時の,野間科学医学研究資料館の責任者は緒方富雄で,正一,恭二,謹三の義弟にあたる川喜田愛郎(元千葉大学学長)が理事をつとめていました。緒方富雄は,『医学用語集(第一次選定)』で,正中のもとで働いたこともありました。
♪講談社の支援を受けた野間科学医学研究資料館は,平成15年(2003)に閉館。その全資料が国際日本文化研究所 (京都 )に譲られることになります11) 。
(その後の調査で、『先徳遺芳』は、講談社に保管されていることがわかり、木下家に返却され、現在は国立国会図書館内に寄贈されています。この経緯については後述します)
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♪謹三のすぐ下の妹が弘子(六女)です。弘子と川喜田愛郎との結婚は昭和11年(1936)のことで,その2年後の昭和13年(1938)に,兄の謹三が,藤井よし枝と結婚しています。謹三と弘子は,年が近いせいか仲がよかったようです。弘子は,兄謹三を「きんちゃん」と呼び,その思い出を次のように書いています1) 。
「サッカーが好きで,畑毛に行くと広い芝庭があったのでよくドリブルの練習をしていた。転げて芝だらけになって私も遊んだ。」
「謹ちゃんのおはなれの部屋と母屋の十帖の窓が向い合っていて,お互いにじゃれあって悪態ついていたのが懐かしい。」
「登山も好きだった。山岳部に入っていて,五万分の一の地図を数枚ケースに入れ,飯盒や水筒,米,塩,味噌などの入った大きなリュックをしょって,ゲートルをまいて出かけて行った姿が,目に浮かぶ」
♪木下實氏に提供していただいた森川町の木下邸の平面図によると,一階の中廊下で母屋と離れの部屋が,繋がっていました。
♪お庭には,四季折々の花々が咲き乱れ,蝶が舞い,鶯が鳴く。蛍が飛び,夏の夕暮れには蜩(ひぐらし)の蝉の声。満天の星。天の川。秋のはじまりを知らせる赤とんぼの群れ。本郷台地を吹き抜ける風。冬が来ると,庭木は雪化粧。そして霜柱。周辺には,枳殻の垣根を持った家もあったかもしれません。そんな,自然豊かな,森川町のお邸で,兄弟姉妹は,楽しい,青春のひとときを,過ごしたことでしょう。
♪天上の人となった謹三は,富岡鐡齋画伯による「先徳遺芳(傳家寶墨)」の題字を,北海道の空の上から,どのように見ているのでしょうか。兄や妹の夫となった方たちの努力によって,家宝が安全な場所に移され,後世に遺されたことを喜でいるのではないでしょうか。
♪木下家墓所は,青山霊園 12) の1種イ21号16側13番にあります13)14) 。杉田家第六代目にあたる杉田玄端の墓(1種イ1号22側1番)も,この青山霊園にあります15) 。杉田家の墓域には,慶應義塾大学に『解體新書』を寄贈した杉田つる(玄端の孫)も眠っています16) 。
♪霊園内の外人墓地には,スクリバ(Julius K. Scriba)(東京帝国大学名誉教師)(北2種イ1側),シモンズ(Duane B. Simmons)(南1種イ4側)などの外国人医師たちのお墓もあります。
♪青山霊園は,桜の名所としても知られています。ちょうど,桜の季節を迎えます。園内を散策しながら,木下三兄弟に思いを馳せ,日本古来の山桜を探してみたいと思います。
参 考 文 献
1)「木下家三代電子版(私家版)」(木下實氏作成)
2)「木下凞翁懐旧談」:『京都醫事衛生誌』第163号 pp.28-30. (明治40年10月発行)
3)「木下凞翁懐旧談」:『京都醫事衛生誌』第164号 pp.32-35. (明治40年11月発行)
4)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第159号 pp.39-41.(明治40年6月発行)
5)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第160号 pp.33-35.(明治40年6月発行)
6)「杉田家と木下家」:『京都醫事衛生誌』第161号 pp.30-33.(明治40年8月発行)
7)安西安周:蘭醫杉田家代々の遺墨について―所謂「木下文書」の譯註.『日本医師会雑誌』35(11):631-637(昭和31年6月1日)
8)「医家先哲祭」『日本医事新報』 No.1661. p.60.(昭和31年2月25日発行)
9)「医家先哲祭―先哲を偲び決意新にす 今後,日医の年中行事に―」『日本医事新報』 No.1663. p.58.(昭和31年3月10日発行)
10)「蘭医杉田家・木下家代々遺墨,いわゆる「木下文書」当資料館に寄贈さる」『科学医学資料研究』第75号:pp.1-3. (昭和55年7月15日発行)
11)『野間文庫目録』巻頭序:山折哲雄.国際日本文化研究センター(2005)
12)『青山霊園』(田中 きよし著)郷学舎,1981.(東京公園文庫33)
13)『東京掃苔録』(藤浪和子著)八木書店,1973.
14)「東都掃苔記(77)木下家の墓」 『日本医事新報』 No.1659.p.60.(昭和31.2.11)
15) 「東都掃苔記(84)杉田家の墓」 『日本医事新報』 No.1666.p.64.(昭和31.3.31)
16)『杉田つる博士小傳』石原兵永編.杉田追悼文集刊行会,1958.
(平成22年3月13日 しるす)(平成22年8月26日 訂正)(平成30年6月21日 訂正追記)