🍂緒方洪庵のお墓は、本郷駒込高林寺(遺骨)と大阪龍海寺(遺髪)の2か所にあります。本稿では、本郷駒込高林寺の洪庵のお墓を紹介します。
航空写真
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場 所:東京都文京区向丘2丁目37-5(高林寺)
交 通:地下鉄・南北線(本駒込下車)
♪図書館情報サービス研究大会(現・医学情報サービス研究大会)の第2回大会(大阪・1985)(会場:大阪歯科大学 )で野村謙さん(当時・神奈川歯科大学)が、シソーラス研究会(代表・板橋瑞夫氏)を代表して発表された折り、その帰りに皆で適塾に寄った記憶があります。もう17年も前のことになります。
♪その時のわたしの演題は、「明治30年代各地における「医学図書館」設立の動き」でした。
♪当時、わたしは日本医学図書館協会の歴史に興味があり研究大会が全国で開催される折りに、各地の医学図書館を訪ねて古い写真などをお借りしたり、医史跡を探訪したりしていました。倉敷で研究会が開催された時には、足守にある緒方洪庵の生誕地を取材し、長崎の大村市にまで足をのばして、長與専斎の史跡を回ったりしたこともありました。今思うと、重いビデオカメラなどを担いで、よく歩いたものだと思います。
参考文献:「緒方洪庵誕生地」(堀江幸司 文・写真 『医学図書館』33(2):204-205, 1986)
♪先日のシソーラス研究会の懇親会の席で、野村さんから、シソーラス研究会のHP「医学用語を歩く」のコンテンツのひとつとして「堀江さんの医史学のエッセイも面白いのではないか」という言葉を本気にして、自宅の近くの医史跡を探訪して、少しずつ文章にまとめていこうと思いました。「江戸東京医史学散歩」のはじまりです。
その第1回として、緒方洪庵の墓を取り上げます。
♪わたしの自宅は、駒込にあります。六義園の近くです。高林寺には自転車で行くことにしました。本郷通りを東京大学本郷キャンパス方面へ向かうと左側に駒込吉祥寺があります。ここには、佐藤進(東京大学医学部講師兼院長 順天堂医院長 大正10年7月25日没)の墓があります。吉祥寺には、ほかにも著名人の墓がありますので、別の機会に取り上げます。
♪吉祥寺を過ぎ、しばらく行くと本駒込1丁目の交差点(駒本小学校前)にでます。この交差点を左折して、すぐ右側に高林寺はあります。駒本小学校の隣になります。高林寺は数年前に建て替えられ、木造で趣のある昔の面影はなくなりました。墓地は昔のままですが、一部整備されて新規墓地として売り出していました。緒方洪庵と同じお寺にお墓があったらどんな気持ちだろうと思ったりしました。
♪緒方洪庵の墓は、すこし奥まったところにあります。さすがによく整備されています。墓域の配置などについては次回、少し詳しく述べます。
♪高林寺をでて、本駒込1丁目交差点(駒本小学校前)の交番横の路地を白山上に抜け、右折すると東洋大学前です。この通りには、以前は都電が走っていました。子供の頃、この都電に乗って神田神保町方面へ、また、駒込駅前を通る都電で日本橋の三越に行ったりしました。しばらくこないうちに東洋大学は、立派な校舎になっていてアプローチの木立の若葉が素敵でした。
♪東洋大学前から路地を通って、旧理化学研究所跡に建つ「文京グリーンコート」にでました。日本医師会館の隣です。この辺りには買い物でよくくるのですが、一部昔の木立が残されていて、可憐なランが咲いているのにはじめて気付きました。ところで、緒方富雄先生の発案で日本医学図書館協会の総会の毎に各地の医学図書館に移植された適塾蘭はどうなっているのでしょうか。もう適塾蘭のことなど知る人も少なくなっているのかもしれません。
緒方洪庵 医学者 蘭学者 教育者
奥医師 法眼 医学所頭取
文化七年七月十四日(1810)備中足守に生る
天保九年(1838)より文久二年(1862)まで
大阪に適々斎塾を開く
文久三年六月十日(1863)江戸にて没五十四才
花陰院殿前法眼公哉文粛大居士
文久三年六月十二日(1863)髙林寺に埋葬
明治四十五年七月十日(1912)追賁碑建立
大正十三年二月五日(1924)東京府史蹟指定
昭和十一年六月二十二日(1936)
道路拡張のため現在位置へ移転
昭和四十三年六月十日(1968)
追賁碑移転整備
昭和四十三年 建之
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(平成14年4月29日[初稿日] 記す)
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♪昨日、平成20年6月14日(土)の朝、午前8時43分に「岩手・宮城内陸地震」が発生。東京でも、船酔いを起こしたような揺れを感じました。どこかで、地震があったのではないか。テレビをつけてみると、すでに、大地震の発生が、速報で、流されていました。
♪宮城県栗原市周辺の山々(くりこま高原)では、広範囲に斜面崩壊や土石流が起こり、山が動き、割れた様子は、地球内部の地殻変動の激しさを現しているようです。
♪墓地の墓石が倒れている様子も報じられていました。もうすぐ、お盆の季節ですが、倒壊した墓石の前で、先祖を思い、泣き崩れている婦人の姿が印象的でした。
♪久しぶりに、緒方洪庵のお墓のある髙林寺を詣でてみようと思い、「駒込駅」から南北線に乗りました。南北線は、いつも、通勤に利用しているので、通勤定期券を使い「本駒込駅」で下車。地上へのエレベータに乗ると、そこが、本郷通りの駒本小学校前交差点で、髙林寺のすぐ傍にでました。
♪今回、髙林寺にきたのは、平成5年3月28日に撮影した髙林寺の門前の様子が、現在、どうのように変化しているか、記録しておきたいと思ったからです。
♪本堂とともに、門の周辺も改築され、墓地の敷地内も、一部、区画整備がされており、新規墓地売り出しの案内が置いてあります。
♪緒方洪庵のお墓、節齋岡先生碑、岡麓のお墓は、昔の位置にあり、ちょっと、ほっとしました。
♪緒方洪庵の墓前には、花が供えられ、空には、梅雨の晴れ間の青空も見えて、天空とのつながりを感じる時間を過ごすことができました。
(平成20年6月15日 本文・写真追加)
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♪平成21年(2009)1月10日(土)(午後7時30分)よりNHK土曜時代劇「浪花の華~緒方洪庵事件帳」の放送が開始されています。(全9回)(緒方章[のちの洪庵]:窪田正孝、 男装の麗人・左近:栗山千明)
♪この時代劇に合せるように、NHK番組「その時歴史が動いた」(1月21日(水) 午後10:00)で、平成19年(2007)11月28日(水)に放送された「緒方洪庵・天然痘との闘い」の再放送がありました。
♪この番組の最後で、大阪の龍海寺(大阪府大阪市北区)にある「緒方洪庵の墓」が紹介されていました。墓石(「洪庵緒方先生之墓」)の映像とともに、松平定知キャスターのナレーションが流れます。
(ナレーションの一部)
「大阪の繁華街の一角にある寺。緒方洪庵の墓は、彼が愛したこの町で、彼を慕った人々の手で建てられました。」
♪洪庵は、文久3年(1863)6月10日、江戸下谷御徒町医学所頭取屋敷で突然の大喀血により急逝。(享年五十四)。伊東玄朴(1800-1871)らの勧めで、奥醫師・西洋醫學所頭取となるため、大坂から江戸へ出てから、10カ月後のことでした1)2)。
♪伊東玄朴、福沢諭吉、村田蔵六(のちの大村益次郎)ら先輩、門人30-50名によって通夜が営まれ3)、遺体は、6月12日の早朝より甕に納められて、本郷駒込高林寺(東京都文京区向丘2丁目37-5)に埋葬されることになります。そして、遺髪が、大坂の龍海寺(大阪市北区同心1-3-1)に葬られたのでした。
♪司馬遼太郎氏も著書『本郷界隈』(街道をゆく)4)のなかで、洪庵の墓についてふれ、次ぎのように書かれています。
「洪庵の主題は大坂でおわっていて、江戸ゆきはむだだった。ただ奥御医師としての墓碑だけが残った。」
♪大阪大学医学部の源流である「適塾」を創設した洪庵が、あまり丈夫でない身体をおして、江戸に出てくれたお陰で、西洋醫學所(現在の東京大学医学部のはじまり)も実現できたのではないのか。江戸と大坂に「緒方洪庵の墓」があることが、蘭学者・医学者・教育者としての偉大さを示しているのではないか。本郷駒込高林寺の「侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓」の墓碑の前に立つと、そんな思いが、身体のなかに湧いてくるのを感じます。
参考文献:
1)『緒方洪庵伝 第2版』 緒方富雄著 岩波書店 1963.
2)『伊東玄朴傳』(伊東 榮著 玄文社 大正5年発行の復刻版) 八潮書店 1978.
3)『福翁自伝』(新訂) 福沢諭吉著 富田正文校訂 岩波書店 2008(第58刷改版発行)(岩波文庫33-102-2)
4)『本郷界隈』(街道をゆく 37) 司馬遼太郎著 朝日新聞社 1992.
(平成21年1月26日 追記)(平成29年3月4日 訂正・追記)(令和3年2月13日 写真追加)